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	<title>TRI-X &#187; 日本トライアスロン物語</title>
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		<title>Vol.54：火神の巻 第6章 その7：中山がチャンピオンに輝く</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/19907</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/19907#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 01 Jun 2015 06:28:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

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		<description><![CDATA[日本トライアスロン物語 ※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。 第６ [&#8230;] <span class="excerpt_more"><a href="https://www.tri-x.jp/19907" class="more-link">»続きを読む</a></span>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">第６章その７</p>
<h3 style="font-size: 34px; margin-top: -10px;">中山がチャンピオンに輝く</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/4926bbfc7502fb7b5915d811ffe5fc0f.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/4926bbfc7502fb7b5915d811ffe5fc0f.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">中山俊行選手はラスト500ｍ当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった！」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。</p>
</div>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/ce43e275ab8b59b5b8d6738a1602bc47.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/ce43e275ab8b59b5b8d6738a1602bc47.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">スイム・スタート風景</span></p>
<p class="text">　曇天の下、朝９時30分、長嶋JTF会長のスタートの合図で、総勢335名の選手が茂木根海水浴場の海へ次々と飛び込んでいった。総競技距離51.5Kmのうち、最初のスイム1.5Kmのスタートである。アイアンマン・レースのような長い競技距離ではないので、さすがに招待選手を始めとするエリート達は最初からスピードをあげて泳ぎ出す。<br />
 　この頃のスイム競技レベルは、日本選手と比べ欧米やオセアニアの選手達が圧倒的に強く、その例にもれなく外国招待選手４名がスタート当初から先頭集団を形成、そのままゴールインした。これに対し日本人選手は大分、遅れてスイムをフィニッシュ、中山を始めチーム・エトナのメンバーも出遅れた。また、一般参加選手として出場した宮塚や鈴木夫妻も強い潮の流れと戦い、やっと思いで苦手なスイムを終了させたのである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/ddfacf623241f4c9870f4810826c0213.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/ddfacf623241f4c9870f4810826c0213.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">日本人選手達を大きく離してスイムを上がるモリーナ選手</span></p>
<p class="text">　中山は出遅れた分、得意のバイクで先頭集団を追ったが、トップを走るモリーナとの差がなかなか詰められず、内心、焦ってもいた。ただ一方で殊更、根拠があった訳ではないが「ランで抜ける」と信じ、ひたすらペダルを回したのである。同じく宮塚も前を走る選手達を次々と追い抜いて行ったが、中間点へ向かう途中でトップ選手達が続々と折り返してくるのを見て、<span style="color: green;">「さすがに招待選手は速いな」</span>などと感心した。矢張り彼にとって、スイムの出遅れは致命的であった。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/c640dffbfd54446ba3569ad2784503d4.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/c640dffbfd54446ba3569ad2784503d4.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">バイクの途中では雨も降り出し、雷も鳴った</span></p>
<p class="text">　また、中高校生の頃からサイクリング好き、大人になってからは市民サイクル・ロードレースではトップクラスの鈴木　進も、スイムの遅れを取り戻そうと懸命にペダルを漕いだ。そして途中、雨が降り雷の音を聞きながら、</p>
<p class="text"><span style="color: olive;">「今やっているのは自転車レースではなく、スイムを終えた後のトライアスロンのバイクだ。泳いだ次に自転車を漕ぐ。これがトライアスロンなのだ」</span></p>
<p class="text">　競技中、そんな想いを噛み締めながら、初めて体験するトライアスロンに気持は燃えた。一方、妻の鈴木令子はスイムもバイクも夫に遅れたが、得意のランで挽回しようと、諦めることなく先を見詰めてバイクを終了した。</p>
<p class="text">　ランに入っても外国選手達のリードは揺るがない。何がなんでも勝たねばならない中山はラン中間付近のキリシタン会館のアップダウンをこなしながら、ひたすら先頭を追った。そしてラスト500ｍ当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で<span style="color: navy;">「やった！」</span>と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、彼は日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/fc05a8996725a181124caaf7e7405c82.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/fc05a8996725a181124caaf7e7405c82.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
 <span class="cap">中山俊行選手は日本の第一人者として、何とか面目を保ち優勝した</span></p>
<p class="text">　中山の優勝タイムは２時間８分27秒、２位のモリーナとは９秒差だった。３位にはカールソン、４位に山本、５位に梅澤、６位に横井の順となり、ほぼ実力通りの結果となった。山本はスイムで遅れたがバイクとランで上位に迫り、飯島は力及ばず11位に甘んじた。</p>
<p class="text">　次いで７位には宮塚が入った。フル・マラソンで２時間32分のタイムを持つ彼はランでも次々と選手を追い抜き、２時間17分12秒でフィニッシュした。その年に始めたばかりのトライアスロンだが、宮塚は上位に食い込めたことに、</p>
<p class="text"><span style="color: green;">「やっとこ泳いだスイムでも、俺がここまでやれたのだから、本気でトライアスロンをやっているアスリートはまだ数少ないのだろう。ならば、もっと練習して上位を狙うことも出来そうだ」</span></p>
<p class="text">　そんな感想を抱いた。ゴール後、しばらくして宮塚はトーマスに呼ばれた。</p>
<p class="text"><span style="color: fuchsia;">「あなたはトライアスロンの才能がある。大変、素晴らしい。これからも頑張ってください」</span></p>
<p class="text">と、トーマスは褒め称えた。この時、関係者達は宮塚をチーム・エトナのメンバーに加えることも考慮したかも知れないが、本人はトライアスロンを続けるにしても、来年は就職し社会人となったうえで、可能ならば企業の所属する実業団選手としてアスリート生活を送りたいと希望していた。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/1c808178c7698c0819fb9a91e8feddac.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/1c808178c7698c0819fb9a91e8feddac.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap">女子トップでゴール・テープを切るマクドネル選手</span></p>
<p class="text">　一方、女子はマクドネルがトップで２時間23分47秒、２位がビタイ、３位が福岡の柿本小百合、そして４位にランが得意の鈴木令子が２時間55分16秒でトライアスロンのデビュー戦を飾った。夫の鈴木　進のフィニッシュ・タイム２時間42分56秒より遅れること、わずか約12分だった。二人共、トライアスロンの本命はロング・ディスタンスだが、兎にも角にも腕試しで初出場したショートでまずまずの成績をあげることが出来た。</p>
<p class="text"><span style="color: olive;">「短かったけれど、手応えはあった。これからもトライアスロンを続けていこう。そしてハワイのアイアンマンを目指そう」</span></p>
<p class="text">　鈴木　進は、しっかりと気持を固め、トライアスロン人生をスタートさせたのである。</p>
<p class="text">　さて、この大会のゴール関門はスイム・スタートから５時間後の14時30分である。今から考えると随分と余裕のある関門だが、当時は我が国でトライアスロンが始まって間もない時期だけにトライアスロンの経験者が少なく、それだけ競技時間も長く設けられたのだ。実際、325番目の最終走者となってゴール・テープを切った堀田　昭の総合タイムは４時間49分27秒であった。</p>
<p class="text">　我が国で初めて行われ、今日のオリンピック種目の競技距離51.5Kmのトライアスロン大会は、天候にはいまひとつ恵まれなかったものの無事にその幕を閉じた。以後JTF は、JTS（ジャパン・トライアスロン・シリーズ）として競技運営を展開、翌86年には仙台（宮城県）、長良川（岐阜県）、そして天草の３大会を開催、多くのアスリート達にトライアスロンの入門ルートを拓いた。これに伴いチーム・エトナはその後もメンバーを増やしながら、88年１月の解散までの３年間、国内外の大会に出場参加し、エリート・トライアスリートとして活躍していく。<br />
 　こうして1985年は、南海の島興しで始まった４月の宮古島大会、６月のアイアンマン・レースのびわ湖大会、そして10月のショート・ディスタンスの天草大会と、それぞれタイプの異なるイベントが開催され、その後の我が国トライアスロン大会の典型モデルとして普及、発展の基盤を築いていった。81年に日本海を臨む鳥取県皆生温泉で発祥した日本のトライアスロンが、85年の３大会の開催で弾みを付けて、以後、普及、拡大の道を歩み始めてから今日まで30年の歳月が流れている。この間、51.5Kmのトライアスロンは2000年のシドニー・オリンピックで正式種目となった。</p>
<p></p>
<div id="columnKougi">
<h2 class="w_02">トライアスロン談義</h2>
<h3>座談会パート２</h3>
<h4 style="text-align: center; font-size: 27px; color: #8c0001;">将来を賭けた挑戦だった</h4>
<p></p>
<p class="text">座談会出席者（発言順）<br />
 司会・進行　島田　文武（しまだ　ふみたけ）<br />
 　<span style="color: purple;">猪川　三一生（いのかわ　みちお）</span><br />
 <span style="color: purple;">　中山　俊行（なかやま　としゆき）</span><br />
 <span style="color: purple;">　山本　光宏（やまもと　みつひろ）</span><br />
 <span style="color: purple;">　山下　光富（やました　みつとみ）</span><br />
 ＜座談会＞2015年２月28日（土曜日）、横浜中華街「東園」にて</p>
<p></p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/02c0110d9d98cf8043544aeb54635590.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/02c0110d9d98cf8043544aeb54635590.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">座談会の風景</span></p>
<p class="text"><b>島田</b>　座談会パート1では皆さんが、未知の世界だったトライアスロンを目指した頃のお話と、大会や練習会を通じて寄り集い、また良きライバルとして共に切磋琢磨していく過程について、お話をお聞きしました。そして、この座談会パート２では、51.5Kmのトライアスロンを展開するUSTSの日本への導入と、その第一戦として85年10月のJTS天草大会に向け結成された「チーム・エトナ」について、その経緯や皆さんの想い出をお聞きしたいと思います。まず、チーム・エトナの構想を描き提案された猪川さんから、その経緯をお聞かせください。</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>パート1でお話があったように、私達はJTRCというトライアスロン・クラブのメンバーであり、それは年齢が違っていようが、或いは私のような社会人であろうと山本君のような学生であろうと分け隔てなく、1980年代に始まったトライアスロンというニュー・スポーツに取り組んでいこうという友達であり仲間でした。だから練習のことはもちろん、生活のことや仕事のことでもお互いに相談し、トライアスロンとどう向き合っていくか、そんなことを話し合いました。<br />
 　その点で私が特に心配というか、気掛かりだったのは当時、大学生だった中山君と山本君です。二人とも大学を卒業して就職するという、社会へ第一歩を踏み出そうとしている時期ですが、ではこれからトライアスロンとどのように取り組んでいけば良いか？　USTSの選手のようにプロとして賞金を稼いで暮らしていくことも考えられるけど、まだ日本では難しい面もあります。そこで、日本を代表する優秀な選手達による「チーム・エトナ」結成を、トライアスロンに関心を持つ企業オーナーに提案したのです。当時、私は日本航空の社員だったので、会社を通じてトライアスロンに関わるビジネス・コンタクトが得られたことが、チーム編成の発想に繋がったのかも知れません。</p>
<p class="text"><b>島田</b>　なかでも、大学卒業を来年に控えた中山さんは、前年の84年の段階で就職活動をしておりました。そして社会人として就業しながら、トップ・トライアスリートの道を模索していたと思いますが、まさに切羽詰まった選択が迫られていた訳ですね。</p>
<p class="text"><b>中山　</b>84年の皆生大会で優勝し、その年の10月のアイアンマン・ハワイ大会で総合17位の成績を修めることができ、さてこれから日本のナンバーワンはもちろんのこと、一歩でも世界のトップに近付きたいという気持で一杯でした。でも、トライアスロンで食べていけるかというと、必ずしもイエスとは断言できません。矢張り企業へ就職して、なおかつトライアスロンと取り組んでいける生活環境が望ましいと考えていました。<br />
 　それで猪川さんの紹介もあって日本航空の就職試験を受けましたが、最終面接で落とされました。次いで自転車メーカーのブリヂストンへの就職活動を行い、就職試験に合格はしたものの勤務が優先でスポーツ選手活動を認めて戴くことができませんでした。仕方がないので就職を辞退し、バイトをしながらトライアスロンの練習をしていこうと思っていたところ、猪川さんのご提案もあって新会社エトナ・ライセンシング株式会社への就職と共にチーム・エトナのメンバーとして活動する機会を与えて戴いたのです。</p>
<p class="text"><b>島田</b>　中山さんの実家は運送会社を経営されていましたが、親としては息子に後を継いで欲しかったのではないですか？</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>その通りです。しかし、中山君の意志は強かったですね。私も中山家に呼ばれ親御さんとお話しましたが、結局、トライアスロンで生きていくのだという中山君の決意に親御さんの気持も折れたようです。</p>
<p class="text"><b>山本　</b>中山さんより一年遅れの私でしたが、いよいよ大学を卒業し社会人として巣立っていく85年の段階で、自分はトライアスロンとどう取り組んでいけば良いか？　思案しました。この時は中山さんに次ぐ成績をあげていたし、中山さんという私にとって道標のような先輩が存在したので、トライアスロンを続けたい気持で一杯でした。実家が商売を営んでいたこともあり、ゆくゆくはその後を継ぐつもりでしたが、あの時はまだ暫くの間、トライアスロンへの挑戦を続けていく気持に変りがありませんでした。<br />
 　そんな折り、大学の就職部から私と空手部の選手が呼び出されました。同じ４年生の空手部の選手は「空手で食べていく」などと話していましたが、同じように私も「トライアスロンが続けられる環境を探っています」などというような事を話しました。しかし、逆に「未だ就職先が決っていないとは何事だ」と怒鳴り付けられました。</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>中山君と同様、山本君のご両親ともお会いしましたが、理解というか、納得して戴くのは容易ではありませんでした。無理もないことだと思います。二人ともちゃんと大学を卒業したのに、これからどうなるか分からない未知のスポーツに打ち込んでいくなんて、親御さんが心配するのは至極、当然のことでした。それだけに私としてもチーム・エトナを編成し、二人がトライアスロンのスペシャリストとして選手生活を続けていけるような環境を整えてあげたいと考えたのです。今、思うと、それで良かったのかどうか？　判りませんが、難しい選択であったことは事実です。</p>
<p class="text"><b>中山　</b>猪川さんのサポートがあったからこそ、トライアスロンへの道が拓けたと、感謝しています。思い通りの就職ができなかったこともありますが、就職に失敗したからトライアスロンを選んだのではなく、トライアスロンを選んで就職を後回しにしたとも言えます。私も山本君もトライアスロンに将来を賭けたのです。</p>
<p class="text"><b>山本　</b>私か若かった分、猪川さんのサポートが頼りでした。そして中山さんがプロ選手として一歩、前へ出たからこそ、私も躊躇することなくトライアスロンへの道を踏み出すことができたのだと思います。また私と同じタイミングでチーム・エトナのメンバーとなった飯島健二郎さんも高校の教師を辞められプロへ転向されましたが、それを聞いて私も気持が高まる思いがしました。</p>
<p class="text"><b>島田</b>　世界の頂点を目指すトライアスリートのプロフェッショナルとして、その道へ最初に踏み出した中山さん、次いで山本さんと飯島さんは各々、将来を賭けたチャレンジだったと思います。その点、山下さんは郵便局の職員として独立されており、生活に対する心配りという点では少なくて済みましたね。</p>
<p class="text"><b>山下　</b>確かに、すでに社会人として暮らしていましたから、むしろ問題は公務員という条件下で、どのように練習の時間をつくるか？　大会遠征のための休暇を如何に確保できるか？　で、それなりに結構、大変でした。もとより中山さんや山本さんには勝てないと思っていましたから、その分、気は楽ですが、社会人として働きながら自分なりに納得のいく成果を出したいという気持を持っていました。いずれにしても、当時はバブル経済の絶頂期でしたから、仕事もスポーツも結構、思い存分に取り組めましたので、その点は有難かったですね。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/ee3c5e12f9c00a01d42a22a33c920874.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/ee3c5e12f9c00a01d42a22a33c920874.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">USTSシカゴ大会に居並ぶチーム・エトナの５名（左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手）</span></p>
<p class="text"><b>島田　</b>山下さんと同じエトナのメンバーの横井信之さんも、社会人として独立していました。その横井さんを加えてチーム・エトナは当初５名の選手で発足した訳ですが、彼らをチーム・メンバーに選んだのは、どんな理由からですか？</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>85年の第１回宮古島大会の上位選手、１位中山、２位山本、３位飯島、４位山下という順で選びました。また、横井君はスイムのスペシャリストとして抜擢し，当初、この５名が、その年の８月にUSTSシカゴ大会へ遠征、帰国後にチーム・エトナの結成を記者発表したのです。</p>
<p class="text"><b>島田　</b>そしてUSTSの日本版として85年10月の開催に漕ぎ着けた第１回天草大会では、山下さんを除いて４名のチーム・メンバーが参戦しましたが、皆さんそれぞれに活躍されたこともあり、JTSもエトナも一躍、脚光を浴びましたね。</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>それというのもJTFの会長として招請された野球の長嶋茂雄さんの力が大きかったと思います。トライアスロンはまだ始まったばかりで、多くの方々がこのニュー・スポーツを知らなかった訳ですが、長嶋さんは日本国中、誰もがその名を知っていただけに、自ずとトライアスロンの知名度も上がりました。また、長嶋さんはトライアスロンを知らなくても、スポーツのエッセンスを良く理解されていたから、上手にトライアスロンを説明、宣伝されていました。</p>
<p class="text"><b>中山　</b>長嶋さんのお陰で、トライアスロンも私達、選手の知名度も上昇していきました。まさしくトライアスロン・ブームの切掛けを長嶋さんがつくったといっても過言ではありません。第1回天草大会で私が優勝のゴール・テープを切った時、長嶋さんから花束を戴いたことが、今でも印象に強く残っています。</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>JTF会長として長嶋さんが51.5Kmのショート・ディスタンスを日本でも普及させていく原動力となりました。また、選手を始め大会主催者や役員・ボランティアなど皆のパーツが良く揃って、トライアスロンがブームに終わらずに普及、発展していったと思います。それと何よりもハワイのアイアンマン・レースが、世界的なレベルでトライアスロンの成長に強いインパクトを与えてきたことが、大きな底流にありました。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/47b8463f0f22ddc42b6696d587a11b80.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/47b8463f0f22ddc42b6696d587a11b80.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap">座談会の風景</span></p>
<p class="text"><b>島田　</b>1978年に始まったハワイ大会の模様は『日本トライアスロン物語』序章で５回にわたって書き記されていますが、そのニュー・スポーツが2000年にオーストラリアのシドニー市で正式なオリンピック種目として開催される運びとなりました。ハワイの第１回大会の参加選手はわずか12名でしたが、それから22年という短期間でワールド・スポーツにまで発展したトライアスロンを、今日現在、改め振り返り、また選手として自分自身を顧みた時、どのような感想をお持ちですか？　</p>
<p class="text"><b>山下　</b>私がトライアスリートとして活動していた頃は、仕事との兼ね合いも考慮しながら時間の許す限り、やるべきことは総てやったと思います。それにしても、トライアスロンの将来展望がまだ拓けない時に、無我夢中で情熱を注いだことに、感慨深いものを覚えます。そして、トライアスロンが後にオリンピック種目になり、今では中山さんや山本さんほかエトナの仲間達がトライアスロンを先導する指導者となっていて、私としても誇らしい思いです。ちなみに現在の私は、ウルトラ・マラソンやバイクのヒルクライムを妻と共に楽しんでいます。トライアスロンを引退して随分と時間が経ちましたが、本日、こうして久し振りに皆さんとお会いして大変、嬉しいですね。</p>
<p class="text"><b>山本　</b>パート１でお話したように、山下さんとはバイクの練習パートナーとして切磋琢磨するなど、トライアスロンの道を突っ走ってこられたのは皆さん、先輩方のお陰だと感謝しています。トライアスロンを始めてもう32年になりますが、この間、エトナを始め多くのトライアスリートの皆さんと知り合うことができ、この巡り合わせを有り難く思っています。トライアスロンが始まった80年代のワクワクした思い出が今、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡っていますが、今日、こうして皆さんと一緒にテープルを囲みながら、トライアスロン黎明期の事を振り返ることができ、有り難く思います。</p>
<p class="text"><b>中山　</b>80年前半の日本は、言わば焼け野原的な情況だったと思いますが、そんな中、楽しさも苦しみも皆で共有しながらトライアスロンのフィールドを創りあげてきたと思います。その後、私は選手としてピークアウトし、96年には引退宣言をして、オリンピックへの挑戦を諦めました。引退後は初代の日本ナショナルチームの監督としてトライアスリートを育成、強化する指導者として携わり、その後、ナショナルコーチとして日本の選手がオリンピックで活躍できるよう後方支援してきました。今後とも自分がその一助になれば幸せです。今日、ここにおられる方々とは大変、長いお付き合いになりますが、そのほか強化チーム・リーダーの飯島さんを始め、一緒に汗を流した方々とこれからも力を合せ、トライアスロンで培った知恵と力を生かしていきたいと思います。</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>あっという間に30数年が経ってしまいましたが、今、ここにいる中山君や山本君を見ていると、矢張り意志のあるところに道は拓けたのだ、という思いを強くしています。私もハワイ大会の審判を20年間、続けてきたのを始め、日本ではびわ湖や宮古島大会のお手伝いをし、またかつて勤めていた日本航空との関わりからサッカーのワールドカップに随行するなどJOCの活動に参画した経験を踏まえ申し上げると、特に両君にはトライアスロンの指導者として、選手の気持が解るより良い競技づくりを心掛けていって欲しいと思います。サッカーが今日ここまで発展してきたのは、単に大会を開催するとか、選手が活躍するだけの、言わば表向きのプロモーションだけでなく、ゲームを取り巻く裏方の人々のことも考えて競技運営を図ってきたからです。その意味で、ここにいる皆さんが今まで以上に、日本のトライアスロンを引っ張っていって欲しいと心から願っています。</p>
<p class="text"><b>島田　</b>猪川さんが言われるように、次世代のトライアスロン界を担っていくのは皆さん方です。その意味で、これからは現場の指導に留まらず、大会開催に伴う環境整備や競技運営などについてトライアスロンをどのようにデザインしていくか、またJTUの組織を含め日本のトライアスロン界をどうマネジメントしていくか、将来を見据え取り組んで戴きたいと思います。</p>
<p class="text">　さて、本日は皆さんのトライアスロンに対する熱い想いを沢山、語って戴き、同じ草創期に携わった者同士、心温まる思いが致しました。ここに集まった皆さんはトライアスリートとして日本の第一線で活躍された方であり、なお今もトライアスロンの指導者として精力的に取り組んでおられますが、どうぞこれからもトライアスロンをより拡大、発展させるべく、更なる健闘と活躍をお祈りし、座談会を終えることにします。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/31a290330cef8cb04aa4c416a868b2a5.jpg"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/06/31a290330cef8cb04aa4c416a868b2a5.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">座談会後に記念撮影。左から中山氏、中山氏の子息、山本氏、猪川氏、山下氏、島田氏</span></p>
<p></p>
<div class="profile">
<p class="name">【出席者プロフィール】順不同</p>
<p class="text"><b>猪川　三一生　</b>1955年北海道旭川市出身。会社員。<br />
 81年第１回皆生大会17位、83年アイアンマンハワイ日本人３位、85年第１回びわ湖大会47位。<br />
 「チーム・エトナ」監督、宮古島大会アドバイザー、びわ湖大会マーシャル・リーダー、アイアンマンハワイ大会マーシャル。<br />
 現在は妻と子供３人の父親として静岡県熱海市で暮らす。<br />
 趣味・スポーツはゴルフ、クラシック音楽、旅行。</p>
<p> &nbsp;<br />
 　<b>山下　光富　</b>1958年香川県出身。郵便局員。<br />
 84年第４回皆生大会15位、85年第１回宮古島大会４位、87年第１回オロロンライン大会２位。<br />
 現在は妻と２人で千葉県松戸市に暮らす。<br />
 スポーツはバスケットボール、テニス。</p>
<p> &nbsp;<br />
 　<b>中山　俊行</b>　1962年神奈川県出身。三和運輸㈱代表<br />
 84年第４回皆生大会優勝・アイアンマンハワイ大会17位、85年ニュージーランドアイアンマン大会６位・第1回宮古島大会・第1回天草大会優勝、86年第２回宮古島大会・第２回天草大会優勝、89～96年ITU世界選手権日本代表。<br />
 JTU強化チーム・次世代強化リーダー。<br />
 現在は妻子と共に横浜市で暮らす。<br />
 スポーツはトライアスロン、格闘伎。</p>
<p> &nbsp;<br />
 　<b>山本　光宏</b>　1963年東京都出身。㈲Ｊ-BEAT代表。<br />
 85年～87年・95年アイアンマンハワイ大会で日本人トップ、88年第４回宮古島大会優勝。<br />
 JTU事業広報チーム・コーリーダー、TOTO陸上競技部コーチ。<br />
 現在は妻と子供２人と共に東京都多摩市で暮らす。<br />
 趣味は魚釣り、デザート作り。</p>
<p> &nbsp;<br />
 　<b>島田　文武</b>　1946年東京都出身。作家。<br />
 86年第１回JTS仙台大会・87年第３回宮古島大会・88年ワールドカップ・ゴールドコースト大会・90年第10回皆生大会（いずれも下位で完走）。<br />
 元JTU副理事長（競技本部長）、西伊豆トライアスロン実行委員長。<br />
 現在は妻と共に千葉県東金市で農業を営み暮らす。<br />
 趣味・スポーツは、野菜作り、サイクリング。</p>
</div>
<p></p>
<h3 style="text-align: center !important;">【エピローグ】</h3>
<h4 style="font-size: 23px; color: olive; text-align: center !important;">『日本トライアスロン物語』完結の御礼</h4>
<p class="text"><span style="color: olive;">　日本のトライアスロンの歴史をヒューマン・ドキュメンタリー・ドラマとして、出来る限り史実に基づいて解き明かしていこうという趣旨で書き始めた『日本トライアスロン物語』の連載が始まったのは<span>2003</span>年春でしたが、それから早くも<span>12</span>年の歳月が経ち、連載は<span>54</span>回を数え、そのボリュウムは単行本にして２冊分に相当すると思われます。</span><br />
 　<span style="color: olive;">この間に取材した人々は、＜トライアスロン談義＞で登場した諸氏を始め選手や大会役員・ボランティア、トライアスロンのクラブやチーム、組織等およそ<span>100</span>名余にのぼり、例えば日本人として初めてハワイのアイアンマン大会に参戦した熊本の永谷誠一氏とは正式取材だけで３回、インタビュ時間にして<span>10</span>時間以上、或いは日本のトライアスリート第一人者として活躍された中山俊行氏とは今回の座談会を含めインタビュ取材３回、同８時間以上にも及んでいます。</span><br />
 　<span style="color: olive;">そしてこの『日本トライアスロン物語』は、トライアスロンがハワイで発祥した序章（４回連載）の部分を除くと、日本人８名が<span>1981</span>年２月に参戦したハワイ大会から<span>85</span>年<span>10</span>月の天草大会までの、わずか５年間の歴史を記しただけに過ぎませんが、実はこの期間こそ大会・組織・競技形態の全てを含め、我が国トライアスロンのエスキスが凝縮されていた黎明・興隆期の時代だったのです。今日ある日本のトライアスロンの姿は、この５年間に培われたものといって過言ではありません。</span><br />
 　<span style="color: olive;">この歴史のコアの部分を日本のトライアスロンの大きな流れとして書き記すことが出来、ここに完結し得たことに筆者としてささやかな喜びを感じております。そしてまた、この間に我が国トライアスリートや大会関係者を始めジャーナリストや<span>JTU</span>（日本トライアスロン連合）など組織や企業の多くの方々にご協力とご援助を戴いたことに、感謝の念と心からの御礼を申し上げたく存じます。</span><br />
 <span style="color: olive;">　当初は編集委員会メンバーが調査、研究を重ねつつ、交代で取材、執筆していく積りでしたが、結局、私こと桜井が単独で書き続けることになり、今日に及びました。しかし、この間、編集委員会メンバーの方々には様々な情報の提供やアドバイスを戴き、そのお陰で史実を歪めることなく歴史の奥深いディテールを感得したことは、この物語を執筆する上で大きな指針となりました。</span><br />
 <span style="color: olive;">　また取材に際しては、この連載記事の＜トライアスロン談義＞で採り上げた方々はもちろんのこと、それ以外のトライアスリートやボランティア、大会主催者、ジャーナリスト、<span>JTU</span>など、あまねくトライアスロン関係者の皆様に貴重なお時間を割いて戴き、かつ有益なお話を賜りましたこと、何よりも有り難く、ここに慎んで御礼を申し上げます。これら沢山のインタビュー・ゲストの有意義な証言が得られなかったならば、日本の重要な史実が明るみにされることなく、そのまま埋もれてしまっていたかも知れません。</span><br />
 <span style="color: olive;">　そして何よりも、この永きに亘る連載記事を丁寧に編集制作され、記事掲載に惜しまぬ努力を傾注されたマルチスポーツ・マガジン誌『ＴＲＩ―Ｘ』を主宰されるネオ・システム㈱代表取締役社長の清本　直氏、並びに代々の編集スタッフの皆様には甚大なるご協力とご理解を賜りましたこと、改め心から感謝の念を表する次第です。<span>12</span>年間に及ぶ清本氏の後援があったればこそ、私も勇気づけられ執筆活動を続けて参りました。</span><br />
 <span style="color: olive;">　しかしながら、私の勉強不足や時間的制約もあって、満足すべき取材、執筆がすべて出来た訳ではありません。よりもっと多くのトライアスリートやトライアスロン関係者のお話を採り上げたかったし、さらに突っ込んだ歴史の内奥に踏み込みたいとの気持も残されております。しかし、それは今後の課題として、ひとまずこれで一旦、筆を置くことと致します。長い間のご購読、誠に有り難う御座いました。</span></p>
<p style="text-align: center!important; color: olive; margin: 0 0 30px 0;">2015年５月</p>
<p style="text-align: right!important;">『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹、スポーツ・ジャーナリスト　　桜井　晋</p>
</div>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.53：火神の巻 第6章 その6：将来を担う選手が勢揃い</title>
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		<pubDate>Sun, 29 Mar 2015 06:38:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

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		<description><![CDATA[日本トライアスロン物語 ※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。 火神 [&#8230;] <span class="excerpt_more"><a href="https://www.tri-x.jp/17936" class="more-link">»続きを読む</a></span>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第６章その６</p>
<h3>将来を担う選手が勢揃い</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/1e923711a2fde5afdec9c46b3ad9afbe.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/1e923711a2fde5afdec9c46b3ad9afbe.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">1985年10月13日（日曜日）、総数335名の出場選手は、それぞれ思い思いの気持を抱いて、我が国で初めて行われるインターナショナル・スタンダード（IS）タイプと称する「第１回天草国際トライアスロン大会」の当日を迎えた。そして、スターターを務めたJTFの長嶋会長は、「51.5Kmという、この競技距離こそ文字通りスタンダードなトライアスロンであり、いずれはオリンピック競技種目になるに相応しい」旨のスピーチを行った。</p>
</div>
<p class="text">模擬（リハーサル）レースをトップでフィニッシュした中山俊行（当時22歳）は、２週間後に控えた本番のレースでも「勝てる！」との感触を得ることが出来たものの、我ながら目に見えないプレッシャーを感じない訳にはいかなかった。それというのも、プロトライアスリートとしてエトナ・ライセンシンズ株式会社の社員となった彼は、その会社のオーナーである高木省三社長が立ち上げた天草トライアスロン大会というスポーツ・イベントに、チーム・エトナのリーダー格として主役を演じ切ることが絶対の使命であったからだ。実際、高木社長からは、</p>
<p class="text" style="padding: 30px 0;"><span style="color: maroon;">これは君が勝たなければならないレースだ。必ず勝て！」</span></p>
<p>と言われていた。プロとしてスタートした中山にとって当然の責務であったかも知れないが、しかし、レースは水物である。いつ、どうなるかは判らない。でも彼は、高木に対し躊躇することなく応えた。</p>
<p class="text" style="padding: 30px 0;"><span style="color: navy;">「私が勝ちます」</span></p>
<p>中山はまだ大学を出たばかり22歳の若者だが、プレッシャーを撥ね退け、むしろプレッシャーをバネに取り組んできた今までのスポーツ人生を糧に、天草大会の本番では<span style="color: navy;">「存分に戦い抜こう」</span>と決意を固めた。そして、この一戦に51.5Kmのショート・ディスタンス・トライアスロンの命運がかかっていると、中山は強い思いで大会本番の日を待った。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/1e923711a2fde5afdec9c46b3ad9afbe.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/1e923711a2fde5afdec9c46b3ad9afbe.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">模擬レース時の中山俊行選手（天草国際トライアスロン大会10回大会記念写真集より＝以下同）</span></p>
<p class="text">一方、熊本で大学生活を送っていた宮塚英也（21歳）は、その年の８月に宮崎で行われたハーフ・トライアスロンでトライアスロンを体験しているものの、正式かつ本格的なレースとして出場するのは天草大会が初めてのことなので、一体、どこまで自分がやれるのか？　完走の挙げ句、自分のタイムや順位がどうなるのか？　まったく想像すらつかなかった。だから、スイムだけ参加した模擬レースの後も、</p>
<p class="text" style="padding: 30px 0;"><span style="color: green;">「まあ、やるだけのことはやってみよう」</span></p>
<p style="margin-bottom: 35px;">と半分、気楽な思いで過ごしていた。</p>
<p>また、一般参加選手として天草大会が初めてのトライアスロン挑戦となった鈴木　進と令子夫妻は、大会の前日に東京を飛び立ち熊本経由で、同じ大会参加のトライアスリート達と共に現地入りした。本来はアイアンマン・ハワイなどロング・ディスタンスのトライアスロンへの挑戦が夢だったが、兎に角、まずは距離が短いショート大会でトライアスロンを経験することが大切との先輩のアドバイスに従いエントリーしたのだ。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/a68a6c6f2fc0d84be7fce48cc103c666.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/a68a6c6f2fc0d84be7fce48cc103c666.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">大会ロケーション</span></p>
<p class="text">こうして総数335名の出場選手は、それぞれ思い思いの気持を抱いて、我が国で初めて行われるインターナショナル・スタンダード（IS）タイプと称する「第１回天草国際トライアスロン大会」の当日を迎えた。スイムのスタート会場は熊本県本渡市（現天草市）の中心街から約３Kmほど離れた茂木根（現本渡）海水浴場である。この大会の誘致案内をした熊本CTC（クレージー・トライアスロン・クラブ）の会長である永谷誠一が、クラブの合宿地として訪れていたトライアスロン・ロケーションだ。<br />
妻を伴って来日したアメリカのUSTS会長のカール・トーマスは、遥か島原半島中央部に聳える雲仙岳を望みつつ、海水浴場の海を砂浜がぐるりと取り巻く景観を見て、</p>
<p class="text" style="padding: 30px 0;"><span style="color: #993366;">「まるでアリーナのようだね。実に素晴らしいスイム・コースだ」</span></p>
<p>と、感嘆の声を挙げた。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/6a433bed09d29cebbc8a889ce437bd83.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/6a433bed09d29cebbc8a889ce437bd83.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">雲仙岳を仰ぎ見ることができる風光明媚なスイム会場</span></p>
<p class="text" style="margin-bottom: 35px;">そしてバイクは、同じく永谷ら熊本CTCメンバーが使っていた明瀬海岸道路から国道324号線を有明海に沿って市北端のイルカ生息地・通詞島（つうじしま）を折り返す40Kmの往復コースで、適度なアップダウンもあり海岸線の景色も楽しめる。バイクを終えた選手がラン・シューズに<span style="color: #454545; font-family: Arial;">履き替え</span>、本渡市の中心街に向かって走り出し、天草ゆかりのキリシタン遺蹟などを巡り再び茂木根海水浴場に隣接する天草国際ホテル（現ホテル・アレグリア・ガーデンズ天草）へ戻る10Kmのコースである。これら会場やコースの沿道には主催団体のJTF（日本トライアスロン連盟）や大会スポンサーとなった（旧）九州石油株式会社の幟が風にはためき、終日、アメリカン・ミュージックが大きな野外スピーカーから鳴り響いた。</p>
<p>1985年10月13日（日曜日）。朝の８時半現在、天候は曇、気温22℃、水温25.4℃、風は海から陸側へと吹いている。雲は厚く、いつ雨が降っておかしくない空模様であった。９時30分のスイム・スタート前に大会会長である久々山義人本渡市長（故人）は壇上に上り、</p>
<p class="text" style="padding: 30px 0;"><span style="color: #ff9900;">「世界最先端のスポーツとも言えるトライアスロンが、当地で開催されることを誇りに思う」</span></p>
<p>と挨拶した。また「ミスター」ことJTFの長嶋会長は、「51.5Kmという、この競技距離こそ文字通りスタンダードなトライアスロンであり、いずれはオリンピック競技種目になるに相応しい」旨のスピーチを行った。その後、会場に集まった人々を前に大会招待選手が紹介された。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/5c88f445732016038ec9e82c2cde4cf6.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/5c88f445732016038ec9e82c2cde4cf6.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">スタートを待つ左から長嶋JTF会長、トーマスUSTS会長、久々山本渡市長</span></p>
<p class="text">　海外から招待された選手はアメリカの男女各２名の合計４名で、男子がUSTSチャンピオンのスコット・モリーナの実弟・フィル・モリーナ（19歳）とビル・カールソン（24歳）、女子がアン・マクドネル（24歳）とリズ・ビタイ（21歳）である。いずれもUSTSで活躍している新鋭トライアスリートであった。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/52de25c0d14d9ad5dd33eea6aaebe082.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/52de25c0d14d9ad5dd33eea6aaebe082.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">サインの求めに応じるモリーナ選手</span></p>
<p class="text" style="margin-bottom: 35px;">これに対し日本からは“チーム・エトナ”のメンバーである中山を始め山本光宏（22歳）、飯島健二郎（26歳）、横井信之（26歳）の４名のほか、その年４月の宮古島大会でトライアスロン・デビューし、次いで６月のびわ湖アイアンマンで日本人第１位と大活躍した城本徳満（32歳）が招待選手に選ばれた。<br />
また、一般参加選手は地元・天草を始めとする熊本県及び九州地域のアスリート達のほか、関東や関西地域から総計326名が出場、新人の宮塚や83年皆生大会で中山を下し優勝した梅澤智久（故人）、鈴木夫妻、それに大会誘致に尽力した永谷も選手として参加している。ちなみに、大会参加費はカーボ・パーティをはじめ飲食代、記念品、保険料などを含み１万円だった。</p>
<p>招待選手として紹介されたものの、中山はその晴れがましさとは裏腹に、やや緊張した面持ちでスイム・コース折り返し点の彼方を見詰めていた。トップでゴールしなければならないという、重苦しい気分を覚えながらも、一方でこれから存分に戦いゴールを一番で駆け抜けようという意識が沸沸と湧き上がっていた。でも、スタートするまで誰とも口を利きたくはなかった。今の自分の総てを、これから始まるレースに集中しようとした。</p>
<blockquote style="margin-top: 20px; margin-bottom: 60px;"><p><span style="color: olive;">《次回予告》引き続き天草大会のレースの模様と結果、またトライアスロン談義では「座談会パート２」を記事掲載いたします。2003年春から連載してきた『日本トライアスロン物語』は、次回をもって最終回となります。</span></p></blockquote>
<div id="columnKougi">
<h2 class="w_02">トライアスロン談義</h2>
<h3>座談会パート１</h3>
<h3>あの頃はみんな燃えていた</h3>
<p class="text">座談会出席者（五十言順）</p>
<p>猪川　三一生（いのかわ　みちお）</p>
<p>中山　俊行（なかやま　としゆき）</p>
<p>山下　光富（やました　みつとみ）</p>
<p>山本　光宏（やまもと　みつひろ）</p>
<p>司会・進行　島田　文武（しまだ　ふみたけ）</p>
<p>＜座談会＞2015年２月28日（土曜日）、横浜中華街「東園」にて</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 25px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/62697f388f5a895a7b6194a81067f021.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/62697f388f5a895a7b6194a81067f021.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">左から中山、山本、猪川、山下の各氏</span></p>
<p class="text"><b>島田</b>　本日はお忙しいところをお集まり戴き有り難う御座います。2003年春から連載されてきた『日本トライアスロン物語』も、今回の1985年10月に熊本県本渡市で開催された第１回天草国際トライアスロン大会の話をもって終了いたしますが、その最後を飾るに相応しく、当時、結成された日本のエリート・トライアスリート集団「チーム・エトナ」の皆さんのお話を採り上げることになりました。当時のエピソードはもちろんのこと、皆さんがトライアスロンに傾けた情熱の様々を、ざっくばらんにお話くだされば幸いです。では最初に、皆さんがトライアスロンを始めた切掛けや「チーム・エトナ」の結成へ至る道筋、その出会いなどについて、まずは猪川さんから口火を切ってください。</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>私がトライアスロンを知ったのは、確か1978年の頃でした。ハワイで３種目の競技を連続して行うニュー・スポーツが始まったとの記事を、日本のスポーツ紙で見たのです。詳しいことが書かれていた訳ではなく、そのような競技がハワイで行われたという程度の内容でした。それまで野球やマラソンに親しむなどスポーツ好きだった私は、その新聞記事を見て「水泳は得意ではないけれど、面白そうだからやってみようか」などと思いました。でも、当時はハワイ以外でトライアスロン大会が行われているところはなく、もちろん日本にもありません。結局、私がトライアスロン大会に出場したのは、27歳の時の82年に神奈川県で開かれた湘南ハーフ大会です。私は総合７位となりましたが、この時、優勝したのが、ここに居る中山君です。そして翌年の83年に行われた皆生大会では山本君と一緒にゴールインしたのです。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 25px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/385f1ac0404842d55a62b524f60292a3.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/385f1ac0404842d55a62b524f60292a3.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">猪川三一生氏</span></p>
<p class="text"><b>山本　</b>そうでしたね。あの第３回大会は海が大変、荒れて、水泳が苦手だった自分もそうですが、多くの選手達は三角波が立つ海にてこずっていました。私も何とかスイムとバイクを終え、いよいよランで走り出した時、猪川さんが「旅は道連れ世は情け、一緒に走りましょう」と声を掛けてきたのです。私は「いやです」とも言えず、何となくその流れに乗って一緒に走っていきました。この大会が私のトライアスロン・デビュー戦ですが、まだ19歳の大学２年生の時のことでレースの駆け引きも自分の実力も良く解らなかったので、猪川さんの言われるがまま走ったという感じです。それでも徐々に調子があがってきたので、少し先に行かせてもらうことにしました。でも、レース終盤になって再び猪川さんに追い着かれ、最終的に二人で手を繋ぎ９時間57分45秒でフィニッシュしたのです。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/e1ab4d5eeb08b7837434edefa4b77eb3.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/e1ab4d5eeb08b7837434edefa4b77eb3.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">山本光宏氏</span></p>
<p class="text"><b>猪川　</b>後にも先にも山本選手よりスイムを先に上がったのはこの時だけでした。一緒にゴールして友達になったというか、同じトライアスリートとして心を分かち合えた気がします。その後、山本君の良きライバルというか、同じトライアスリート仲間だった山下君とも知り合うことになり、最終的にJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）という全国的なトライアスロン・クラブのメンバーとして、共に練習を行うようになったのです。</p>
<p class="text"><b>島田</b>　当時のトライアスロン・クラブといえば、日本のアイアンマン第１号の永谷誠一さんが率いる熊本CTCと、次いで結成された関東・中部圏を中心メンバーとしたJTRCだけでした。そのJTRCの会長は、８年前に『日本トライアスロン物語・トライアスロン談義』に登場した矢後潔省（きよみ）さんで、東京支部長として猪川さん、神奈川支部長として中山さんの名があがっていたと記憶しています。JTRCが当時のトライアスリートを集約しつつ、その過程で猪川さんや中山さんが中心的役割を担い、トライアスロンの練習会を実践していったのですね。</p>
<p class="text"><b>中山</b>　そのような流れに間違いはないと思います。トライアスロンの大会に出場し、顔見知りになり、たびたび出会うようになって仲良くなり、実力が近いもの同士が共に練習を行い切磋琢磨していきました。徐々にトライアスロンの友達の輪を広げていった、という感じでしょうか。</p>
<p class="text"><b>猪川</b>　兎に角、トライアスロンに関して私達は右も左も判らない子羊のような状態で、どのような練習をしてよいのやら、そのデータや知見がありませんでした。それだけに同じトライアスロンを目指す仲間の必要性が求められたのです。言わば、無から有を生み出すような手探りの作業でした。ましてやアスリート達の多くは日常のビジネスに携わりながら、アイアンマン・トライアスロンを完走する為に莫大な練習量をこなしていかねばならないという課題を抱えていたのです。</p>
<p class="text"><b>島田</b>　その点、中山さんは早い時期からトライアスロンの世界に入ったし、83年にはハワイ大会に出場、総合59位になるなど海外の経験もあったので、練習も自分なりに組み立て易かったのではないですか？　トライアスロン・トレーニングでも先駆者といってよいでしょう。</p>
<p class="text"><b>中山</b>　そのようなおこがましい立場ではありませんが、確かに私がトライアスロンの世界に入っていったのは早かったと思います。高等学校を卒業する間近に永谷さんがハワイ大会を完走された記事が一般紙に掲載され、それを読んで自分も大学性になったらトライアスロンに挑戦しようという決意を固めました。それで大学に入ってからは同好会の自転車部へ入部し、アルバイトと練習を積み重ねながらアイアンマン・ハワイへの道を探っていました。そして手始めに出場したのが82年の湘南ハーフ大会で、台風が迫り来る大荒れの天候の下でしたが、先頭でゴールラインを踏みました。そして翌83年の皆生大会で４位、次いで同じ年のハワイで59位となり、大学性でしたがトライアスロンの道を本格的に歩み出していったのです。今思えば、当時は誰にも負けない、誰にも負けたくないという気持でした。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 25px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/326eb2116f060603d6cd1622a8529224.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/326eb2116f060603d6cd1622a8529224.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">中山俊行氏</span></p>
<p class="text"><b>山下</b>　そうそう、83年に中山さんがハワイへ向かう時です。同じJTRCのメンバーとして私は羽田空港で彼を見送りました。この時、私はトライアスロンを始めたばかりでしたが、来年は自分が見送られるようなると密かに思ったものです。</p>
<p class="text"><b>島田</b>　JTRCは83年春に発足し、その年の暮れには全国12支部、135名のトライアスリートが集結したと聞いております。そのうち関東では東京、神奈川、千葉の地域のアスリートが積極的に活動していたようですが、山下さんは千葉の仲間との付き合いからトライアスロンの世界に入ったのですね。</p>
<p class="text"><b>山下</b>　ええ、そうです。私は郵便局に勤めるかたわらランナーとしてマラソンなど長距離競技を楽しんでいて、市川市を中心に集まっていた同じランナーの方々の仲間に入れてもらいました。確か81年頃と記憶していますが、毎月、読んでいるランニング雑誌にトライアスロンの記事が載っていて、同僚と話題にした覚えがあります。そのうち、ランナーの仲間達がトライアスロンをやろうということでJTRCに入会したのを機に、私も「ランニングより目立ちそうなニュー・スポーツだし、一度、試してみよう」という気になったのです。そしてJTRCへ入会した翌年の84年の皆生大会で総合15位となり、またその年のハワイ大会は252位といまひとつ奮いませんでしたが、「これならばトライアスロンを続けていけそうだ」との感触を得ることが出来ました。以来、JTRCを通じて山本さんや中山さんとも知り合い、一緒に練習をやるようになったのです。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 25px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/2e858d2d36a80cfd562c1fbfd085abe5.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2015/03/2e858d2d36a80cfd562c1fbfd085abe5.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">山下光富氏</span></p>
<p class="text"><b>山本</b>　山下さんとはバイクの練習で、よく千葉の勝浦まで往復約180Kmのロング・ライドをやりました。ハワイや宮古島、アイアンマン・ジャパン・インのバイク距離を意識して練習をしたのです。山下さんと共にバイク練習したお陰で、私も大分、強くなれたと思います。私にとって山下さんは、素晴らしい練習パートナーでした。</p>
<p class="text"><b>島田</b>　そしてバイクが得意だった中山さんも加わり、また83年の湘南ハーフ大会で優勝しトライアスロン・デビューした飯島健二郎さんなど首都圏のトライアスリート達が、品川の大井埠頭に集まり練習をしていましたね。84年頃のことです。大井埠頭は今も昔も船貨物の倉庫が建ち並んでいますが、休日となると貨物を運ぶ大型トラックなどの走行がないので、ちょうど格好のバイク練習場として利用できました。この頃、大井埠頭の近辺に住んでおられた猪川さんが皆さんを招き呼びかけたのでしょう。</p>
<p class="text"><b>猪川</b>　サラリーマンの私は休日でないとバイクの練習が出来ませんが、大井埠頭の近くの団地に住んでいたので、日曜日ともなると埠頭の幅広い道路を周回する練習をしていました。それでJTRCの仲間にも声を掛けて一緒に練習を行うようになった訳で、近くの室内プールで泳いだ後に埠頭へ赴き、バイクとランのデュアスロンをやったのです。練習会は毎回、参加者が増えていって盛況でした。でも、バイクもランも、中山、山本、山下、飯島といった、後にチーム・エトナのメンバーとなった彼らに誰も着いていく者はなく、本当に速かったですね。</p>
<p class="text"><b>山下</b>　大井埠頭の練習会にも参加しましたが、中山さん達には及びませんでした。私は公務員なので休日が限られていましたから、その分、どうしても十分な練習時間を取ることが出来ませんでした。それでも月に７日間の休日と年休を利用して、それこそ朝から晩まで一日中、練習をしました。山本さんとやったバイクのロング・ライドで結構、鍛えられたと思います。</p>
<p class="text"><b>山本</b>　その頃の私はトライアスロンを始めたばかりの駆け出しで、ホイールが何本組みとか、ギアが何枚でどうだとか、バイクのことはさっぱり分かりませんでした。そのギアも大学の自転車部で余っていたギアをはめて走っていたレベルで、それこそ初めの頃は猪川さんにも着いていけなかったくらいです。その点、中山さんは大学の自転車部で練習されたから、強かったですね。</p>
<p class="text"><b>中山</b>　確かに、当時はバイクに長けているトライアスリートは少なかったようです。とは言っても、トライアスロンの練習はどのようにやればよいか？　どのくらいやればよいか？　など、まだ取り組み始めたばかりなので、みんな試行錯誤の状態だったと思います。自分もあれこれ試しながら、自分に合った練習方法を組み立てていきました。</p>
<p class="text"><b>山本</b>　今でも覚えていますが、中山さんは83年の皆生大会の競技説明会で「接着走行」などという言葉を使って、その是非を問われていました。つまり「ドラフティング」のことですが、ほとんどの参加者はドラフティング走行の意味を知らなかったので、訳の分からない質問をしているなあ、などと思ったのです。それがなんと、レースが終わって総合４位で表彰台に上がったのが中山さんだったので、すっかり驚いてしまいました。</p>
<p class="text"><b>猪川　</b>今、考えると笑ってしまうことが沢山ありましたけど、それだけトライアスロンが日本の私達にとって未知なものであった証しです。だから年齢や性別を超えて、お互いに教え合い、学び合い切磋琢磨していったのだと思います。トライアスロンもゴルフと同じで年齢のギャップを超えて誰もが友達になれる世界でしたから楽しかったし、人間的な結び付きも深めたと思います。なんといっても、みんなトライアスロンに燃えていましたよ。</p>
<p class="text"><b>島田　</b>1980年代前半の当時は、アスリート達が全国的なレベルで地域ごとに寄り集まり、お互いに協力し競い合いながら、トライアスロンに挑戦していった時代だと思います。そうした集約の典型が日本のトライアスリートのエリート集団「チーム・エトナ」だったと思いますが、そのチーム結成の経緯と、その後、我が国のトライアスロンが発展し今日に至る過程については、次回の＜座談会パート２＞で皆さんのご意見や感想をお聞きしたいと思います。</p>
<div class="profile" style="border: solid 1px #ccc; margin-top: 10px; padding: 15px;">
<p class="name">【出席者プロフィール】順不同</p>
<p class="text" style="margin-bottom: 25px;"><b>猪川　三一生</b>（いのかわ　みちお）1955年北海道旭川市出身。会社員。<br />
81年第１回皆生大会17位、83年アイアンマン・ハワイ日本人５位、85年第１回びわ湖大会47位。<br />
「チーム・エトナ」監督、宮古島大会アドバイザー、びわ湖大会マーシャル・リーダー、アイアンマン・ハワイ大会マーシャル。<br />
現在は妻と子供３人の父親として静岡県熱海市で暮らす。<br />
趣味・スポーツはゴルフ、クラシック音楽、旅行。</p>
<p class="text" style="margin-bottom: 25px;"><b>山下　光富</b>（やました　みつとみ）郵便局員<br />
1958年香川県出身。84年第４回皆生大会15位、85年第１回宮古島大会４位、87年第１回オロロンライン大会２位。<br />
現在は妻と２人で千葉県松戸市で暮らす。<br />
趣味・スポーツはバスケットボール、テニス。</p>
<p class="text" style="margin-bottom: 25px;"><b>中山　俊行</b>（なかやま　としゆき）1962年神奈川県出身。三和運輸㈱代表<br />
84年第４回皆生大会優勝・アイアンマンハワイ大会17位、85年ニュージーランドアイアンマン大会６位・第１回宮古島大会・第１回天草大会優勝、86年第２回宮古島大会・第２回天草大会優勝、89～96年ITU世界選手権日本代表。<br />
JTU強化チーム・次世代強化リーダー。<br />
現在は妻子と共に横浜市で暮らす。<br />
趣味・スポーツはトライアスロン、格闘伎。</p>
<p class="text" style="margin-bottom: 25px;"><b>山本　光宏</b>（やまもと　みつひろ）1963年東京都出身。㈲Ｊ-BEAT代表。<br />
85年～87年・95年アイアンマン・ハワイ大会で日本人トップ、88年第４回宮古島大会優勝。<br />
JTU事業広報チーム・コーリーダー、TOTO陸上競技部コーチ。<br />
現在は妻と子供２人と共に東京都多摩市で暮らす。<br />
趣味・スポーツは魚釣り、デザート作り。</p>
<p class="text"><b>島田　文武</b>（しまだ　ふみたけ）1946年東京都出身。作家。<br />
86年第１回JTS仙台大会完走、87年第３回宮古島大会完走、88年ワールドカップ・ゴールドコースト大会完走、90年第10回皆生大会完走。<br />
JTU初代理事（競技本部長）、西伊豆トライアスロン実行委員長。<br />
現在は妻と共に千葉県東金市で農業を営み暮らす。<br />
趣味・スポーツは飲酒、囲碁、腰痛体操。</p>
</div>
</div>
</div>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>Vol.52：火神の巻 第6章 その5：エリート達は天草へ向かった</title>
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		<pubDate>Fri, 12 Dec 2014 06:36:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

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		<description><![CDATA[日本トライアスロン物語 火神の巻 第６章その５ エリート達は天草へ向かった ※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません [&#8230;] <span class="excerpt_more"><a href="https://www.tri-x.jp/17934" class="more-link">»続きを読む</a></span>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第６章その５</p>
<h3>エリート達は天草へ向かった</h3>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<div class="bassui clearfix" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<img class="fl bdr" style="float: left; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/4b6525211993171d2a6e1b9f16e4e23b.jpg" alt="大会シンボル・マーク" width="100" /></p>
<p style="margin-left: 120px;">中山俊行を始めとしたエリート選手達はプロの道を目指すと共に、JTS並びにUSTSへの参戦を目的に、４月にはトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成した。“チーム・エトナ”の誕生である。そして、チームを支える監督役として猪川三一生が就任した。猪川や中山は、JTSのショート・トライアスロン大会を開催する為、開催候補地についてトライアスリートの先駆者である永谷誠一に相談を持ち掛け、その結果、天草半島でのトライアスロン大会の開催が決ったのだ。</p>
</div>
<p class="text">　天草大会が開催される前年の1984年後半から85年前半に掛けて、我が国トライアスロン界は、その底辺で大きなうねりを携え始動していた。トライアスロンを愛好するアマチュア・アスリートによるクラブ活動を始め、トライアスロン・ブームに乗じた全国各地での大会開催計画、それに全国トライアスロン協議会の結成など組織化の動きが盛んになっていたのである。その一方、海外遠征の体験を踏まえ世界と戦えるとの自信を得た我が国エリート選手の中には、トライアスロン大会の賞金獲得をも視野に入れたプロフェッショナルとして、トライアスロンに取り組む機運も高まっていた。<br />
その時代の中心的な役割を担っていたのが、明治大学の学生であり我が国トライアスリートの先頭を切っていた中山俊行である。中山は84年のアイアンマン・ハワイで総合17位、世界の舞台で戦える力を内外に知らしめると共に、同年12月のカウワイ・トライアスロン大会で８位入賞し賞金300ドルを獲得する等、押しも押されもせぬ日本を代表するトップ・トライアスリートとして君臨した。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/fd1016c8e26f501f2d4907f56c78ba27.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/fd1016c8e26f501f2d4907f56c78ba27.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">85年の第1回宮古島大会で優勝した中山俊行選手</span></p>
<p class="text" style="margin-bottom: 35px;">　しかし、中山は翌年の春には企業へ就職し一般の社会人となる。すでに就職先も決っていて、そうなればトライアスロンの選手として引き続き活躍していけるかどうかは保証の限りではない。カウワイで賞金を獲ったように、もっと修行すれば世界のトップ・トライアスリート達と肩を並べ、トライアスロンで生活していけるかも知れない。トライアスロンを始めた頃、大学卒業後は就職する積もりだったが、その気持が今は変わった。1985年３月、トライアスロンのプロフェッショナルとしてアスリート修行を続けようと決意した中山は、大学卒業旅行にニュージーランド・アイアンマン大会へ単独、遠征し、そして見事、６位入勝を果たしたのである。</p>
<p class="text">　そんな中山に声を掛けたのが、83年の皆生大会やハワイ大会で知り合い、同じJTRC（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ）の仲間でもあった東京支部長の猪川三一生（みちお）である。猪川は84年12月にJTRCを脱会しATC（全日本トライアスロン・クラブ）を結成、副会長に就任した現役のアマチュア・トライアスリートだが、勤務先のJAL（日本航空株式会社）との関係からショート・トライアスロン大会の開催と運営を計画しているJTF（日本トライアスロン連盟＝長嶋茂雄会長）の協力要請に応じた。すなわち、USTS（米国トライアスロン・シリーズ）の日本版JTS（ジャパン・トライアスロン・シリーズ）を展開する為の主導的な役割を要請され、JTFの運営メンバーに加わったのである。<br />
猪川は、85年２月に東京・品川区の区立勤労福祉会館にエリート選手だけで構成する「トライアスロン選手会」の会合を開いた。猪川が纏め役となり、発起人として中山を始め梅澤智久、山本光宏らが名を連ねた。そして、集まったトライアスリート達はプロの道を目指すと共に、JTS並びにUSTSへの参戦を目的に、４月にはトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成することとした。“チーム・エトナ”の誕生である。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/db63a9c9efda2f4c77b04b6041471e41.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/db63a9c9efda2f4c77b04b6041471e41.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">83年アイアンマン・ハワイの猪川三一生氏（写真右）と中山選手（写真中央）</span></p>
<p class="text">　また、チームを運営サポートするのが、エトナ・ライセンシング株式会社であり、東京・渋谷の代官山のマンションに本部を置くJTFと所帯を共にする。エトナとは、後援するマーケティング企業の社名で、その正社員として中山は事務作業や普及・宣伝活動に従事した。給料も大卒並みの報酬が得られ、社会人として何とか独立することが出来た。<br />
こうした経緯を経て結成された“チーム・エトナ”の最初のメンバーは、中山俊行、飯島健二郎、横井信之、山下光富、山本光宏の５名である。彼らにはJTS やUSTSの大会遠征費用が拠出されたほか、レースウェアやバイク、シューズ等、チーム・カラーのグッズが支給された。そして、チームを支える監督役として猪川が就任したのである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/54ac67167b27f03e73201b53b7902686.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/54ac67167b27f03e73201b53b7902686.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">85年USTSシカゴ大会に参戦した“チーム・エトナ”５名のメンバー（写真左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手）</span></p>
<p class="text">　85年３月、猪川はJTSのショート・トライアスロン大会を開催する為、来日したUSTSを展開する米国トライアスロン連盟会長のカール・トーマスと現地視察に赴いた。その現地とは、かねてから開催を計画していた沖縄県国頭郡本部（もとぶ）町である。沖縄本島北部の伊江島と海を挟んだ小さな町で、85年６月の開催を目標に町側と交渉が続けられていたのだ。しかし、最終的に本部町の住民の同意、協力を得ることは出来ず、計画は白紙に戻った。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/0432bf731f53dfac2be35ed2494a536a.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 150px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/0432bf731f53dfac2be35ed2494a536a.jpg?width=150" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">久々山会長と握手するカール・トーマス氏</span></p>
<p class="text">　そこで、エトナ社員となって事務局入りした中山が全国トライアスロン協議会の幹事である永谷誠一に直接、電話をかけ、開催候補地について相談を持ち掛けたのである。言うまでもなく永谷は1981年のハワイ大会でアイアンマンの称号を得た我が国トライアスリートの先駆者であり、トライアスロン・クラブの先駆けである熊本CTC（クレイジー・トライアスロン・クラブ）の会長として活動し、また全国的なレベルでトライアスロンの普及、発展に尽力していた。中山の依頼を受けた永谷は、即座に応えた。</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #8d38c9;">「ばってん、わしらがトライアスロンの合宿練習をやっている天草がよかと。本渡市の茂木根海水浴場を中心にバイクもランも出来るっと」</span></p>
<p class="text">　この永谷のアドバイスを受けて猪川や中山、それにトーマスと同じUSTSのテクニカル・メンバーであるジム・カールらは現地へ飛び、地元・本渡市の久々山義人市長と面会する。これに対し久々山市長は教育委員会など関係部署の幹部と共に応じ、大会開催を即断即決したのである。市長を始めとする本渡市の積極的な対応とあいまって、10月の大会開催へ向け準備はスムーズに進展、また永谷の良きサポートもあってトライアスロン３種目の総競技距離51.5Kmのコースづくりも整った。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/0ce51e44a54ddf94c2d4a56c5bbfe3ca.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/0ce51e44a54ddf94c2d4a56c5bbfe3ca.jpg" alt="" width="100%" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">模擬レースのスイム・スタート風景</span></p>
<p class="text">　こうして開催されたのが大会本番を２週間前に控えた模擬（リハーサル）レースである。選手は熊本CTCのトライアスリートを中心に編成され、そのクラブ・メンバーだった宮塚英也はスイム競技だけに参戦した。宮塚は夜中まで大学の「長距離同好会」の仲間と熊本市内で飲酒していたが、会合が終わるとＧパン姿のまま30Kmほど走って阿蘇・長陽村の下宿へ戻り、すぐさま父親が買ってくれた200ccのオートバイにまたがった。</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #469246;">「トライアスロンをタダやれる絶好のチャンスだ！」</span></p>
<p class="text">とばかり、夜の夜中に天草まで海岸線の道を100Kmほど突っ走った。そして９月29日、模擬レースは予定通り開催された。スイムを中位で海から上がった宮塚は、その後は観戦に回り、バイクもランも群を抜いてトップで疾走する中山の姿を見た。宮塚は中山とは同年齢だが、その姿や容貌は田舎者の自分とは明らかに違うものを感じていた。同じスポーツを目指しながらも、中山とは生きている世界が違うとも思った。</p>
<blockquote style="margin-top: 20px; margin-bottom: 60px;"><p>《次回予告》85年10月に開催された「第１回天草国際トライアスロン大会」のレース模様と、その結果について詳述すると共に、＜トライアスロン談義＞では、当時の関係者による座談会を予定しています。</p></blockquote>
<div id="columnKougi">
<h2 class="w_02">トライアスロン談義</h2>
<h3>妻と二人三脚のアイアンマン人生</h3>
<p class="name">鈴木　進</p>
<p class="text">　私がトライアスロンと出会えたのは33歳の時ですが、それ以前のスポーツはというと、中高校生時代にサイクリングが好きで、休日ともなれば友達と誘い合って自宅の府中から青梅や奥多摩の方へ出かけて行きました。機械エンジニアだった父親の血を引いたのかも知れませんが、自分もメカ好きになっていて、外装３段・ドロップハンドルの自転車を組み立てて、サイクリングを楽しんでいました。<br />
そして大人になってからもサイクリングは続けていましたが、だからといって大会やレースに出場するということでもなく、20歳台のほとんどは自営で立ち上げた機械工具の商売に精を出す生活を送っていたのです。それも仕事の良きパートナーであった妻の令子と共に、朝から晩まで働いていました。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/7.CIMG9593.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/7.CIMG9593.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">機械工具の販売会社「府中商工」事務所にて（2014年11月撮影）</span></p>
<p class="text" style="margin-bottom: 30px;">　そんな私達夫婦にスポーツへの道を踏み出すきっかけをつくってくれたのが、長年、飼っていた愛犬の「BEN＝ベン」でした。「BEN」は年と共にメタボになっていったので、ある時、動物病院に連れていったところ、運動不足が原因であると判定されたのです。医者は、犬を散歩がてら運動をさせなさいと言うのです。そこで私達は毎日、「BEN」を散歩に連れ出し、綱を携えながら一緒に走り出したのです。<br />
もとより令子は小学性の頃からランニングが得意で、校内マラソン大会では1位か２位の成績を収めています。ですから犬と散歩といっても、家を出てから帰るまで終始、走り通しなので、さすがの「BEN」も令子が手綱を握ると怯えていました。一方、私はそれほどランニングが速かった訳ではないので、「BEN」も安心して散歩を楽しんでいるようでした。こうして毎日のように「BEN」と走っていくうちに私も結構、馴れてきたというか、それなりにランニングが身に付いていったようです。そんなある日、令子が私に言いました。</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #ff6600;">「マラソンをやってみない」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #0000ff;">「マラソンって、42kmのマラソン？」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #ff6600;">「そうそう！　練習して、大会に出てみましょう」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #0000ff;">「面白そうだね。やってみようか」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;">　私も頷いて、42.195Kmへの挑戦を決意しました。私達が32歳の時のことした。そして、その年の春、千葉で毎年開かれている「佐倉マラソン大会」に出場、令子は３時間20分を切って、私は３時間40分ほどで完走しました。令子の記録は、当時としては「東京国際女子マラソン大会」への出場を可能とするタイムでしたので、ならばとばかり次はメジャー・マラソンへのステップを踏み出すことになりました。生憎、佐倉マラソンは日本陸連の公認コースではなかったので、後に中央大学のグランドで１万mを走り東京国際女子への出場権利を獲得し、以来、令子は女子マラソンの選手としての道を歩み出したのです。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/reiko.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/reiko.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">びわ湖トライアスロンでゴールへ向かって疾走する令子さん</span></p>
<p class="text" style="margin-bottom: 30px;">　こうして私達夫婦はラン・トレーニングに血道をあげていたのですが、その折、トライアスロンという３種目の競技を連続して行うスポーツがあるのを知りました。確か朝日新聞に掲載された記事に、ハワイの鉄人レースが紹介されていたのを記憶しています。</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #0000ff;">「これは面白い！　サイクリングは好きだし、マラソンも走れるようになったので、あと水泳さえ出来ればやれそうだ」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #ff6600;">「でも私達、泳げない。大丈夫かしら」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;">　令子も私も水泳はまるで駄目、カナヅチ同然でしたが、地元・府中のプール一に通い始め、そこでシンクロ女子選手の指導を受けながら、懸命に練習をしました。そして何とか泳げるようになった頃、なんのことはない、宮古島大会へのエントリーが締め切られていました。でも、トライアスロンへのチャレンジは諦めず、私達は一日の仕事を終えた後、夜の７～８時頃から10時までアップダウンのある多摩丘陵でバイクやランのトレーニングを続けました。</p>
<p class="text" style="margin-bottom: 30px;">　そして第1回宮古島大会が終わった後、所属するトライアスロン・クラブのリーダーから10月に行われる第1回天草トライアスロン大会への出場を薦められたのです。本当の私達の気持は、宮古島大会のようにロング・トライアスロンへの出場と完走でしたので、いささか気が引けたというか、余り乗る気にはなれませんでした。「でも、トライアスロンを体験していない初心者にはお薦めですよ」とリーダーのアドバイスもあって、</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #0000ff;">「あんなに遠くまで行くのは大変だけど、一度やってみようか」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #ff6600;">「そうね。旅費と時間も勿体無いけど、試してみましょう」</span></p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;">そう決めて、私達は大会前日の10月12日に熊本空港から長い時間、バスに揺られて現地に入りました。そして大会では、令子が２時間55分で女子総合４位（日本人２位）、私が２時間42分で総合77位となりました。小手試しのトライアスロンでしたが、これで私達もトライアスリートの仲間入りを果たし、いよいよハワイを頂点としたアイアンマンへの挑戦が始まったのです。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/9.CIMG9597.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/9.CIMG9597.jpg?width=150" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">天草大会の出場記念（ゼッケン99が進氏、同100が令子さん）</span></p>
<p class="text">　しかし、令子はハワイへの出場権利を常に獲得していたものの、マラソンに打ち込んでいた為、結局、アイアンマン・ハワイは未経験で終わりました。私は89年にびわ湖トライアスロン大会で年代別６位に入りハワイ大会の出場資格を獲得して以来、92年まで４年連続で出場しました。だが、94年のびわ湖大会ではハワイ行きの切符が得られず、トライアスロンから身を引くことにしました。実はもうこの時、私の膝や腰は故障だらけでした。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/10.CCF20141115_000011.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/10.CCF20141115_000011.jpg" alt=""/></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">89年アイアンマン・ハワイ完走後に記念撮影</span></p>
<p class="text">　そんな訳で、私のトライアスロン人生はわずか10年で閉じましたが、その間に出会った沢山のトライアスリートの方々との交流を通じて、本当に楽しい充実した時節が送れたと思っています。また、何よりも妻の令子がいたからこそ、ハワイの夢が叶えられたし、もしも彼女がいなかったなら、私はそこまで戦い抜くことは出来なかったでしょう。妻よ、有り難う！</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/11.CIMG9601.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/11.CIMG9601.jpg?width=250" alt="" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">鈴木　進氏近影（東京・府中市の自宅にて）</span></p>
<div class="profile" style="border: solid 1px #ccc; margin-top: 10px; padding: 15px;">
<p class="name">【鈴木　進氏プロフィール】</p>
<p class="text">1951年、東京・府中市に生まれ育つ。大学に在学中、アルバイトで務めた機械商社で抜群の営業成績を修め自営に転進、21歳で「府中商工」を設立する。以来、現在に至るまで中小企業向け機械工具の販売に携わる。23歳の時、小中学校時代の同級生だった令子さんと結婚、良きビジネス・パートナーとして、またマラソンやトライアスロンのスポーツ・パートナーとして、共に二人三脚でスポーツ人生を歩む。1985年10月の天草トライアスロン大会でトライアスロン初デビュー、89年にはアイアンマン・ハワイを完走、以来、４年連続出場し、名実ともに“鉄人”となる。また、全日本トライアスロン・クラブ（ATC）多摩支部長としてトライアスロンの普及・啓発活動並びに後進の指導に当たる。趣味はモダンジャズ鑑賞とヨットの舟遊び。毎週末は西伊豆の海でヨットを浮かべる。</p>
</div>
</div>
</div>
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		<title>Vol.51：火神の巻 第6章 その4：ショート・タイプの登場</title>
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		<pubDate>Mon, 12 May 2014 06:04:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

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		<description><![CDATA[日本トライアスロン物語 火神の巻 第6章 その4 ショート・タイプの登場 ※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。 [&#8230;] <span class="excerpt_more"><a href="https://www.tri-x.jp/17701" class="more-link">»続きを読む</a></span>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第6章 その4</p>
<h3>ショート・タイプの登場</h3>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a style="float: left; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/3fafa840dcd7e04bb581d629ff37dffa.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/3fafa840dcd7e04bb581d629ff37dffa.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix">85年10月、我が国で初めてショート・タイプのトライアスロンが熊本県本渡市で開催された。その名も「天草国際大会」と称する総競技距離51.5Ｋｍのオリンピック種目の原型ともなったトライアスロンである。全米で繰り広げられている賞金レースのコンセプトを日本にも導入したもので、その運営母体として発足したのがJTF（日本トライアスロン連盟）だった。</p>
</div>
<p class="text">　日本のトライアスロンは1981年に始まった皆生トライアスロンが魁となったが、本格的な幕開けは、そのから４年後の宮古島、びわ湖、天草の３大会が開かれた1985年である。これら３大会の開催によって多くのアスリート達がトライアスロンの世界に足を踏み入れ、我が国トライアスロンの普及、拡大への道を歩み出した。<br />
本稿ではすでに、沖縄の美ぎ島（かぎすま＝宮古諸島の方言）で開かれた「ストロングマン宮古島大会」と、日本列島の臍の部分とも言うべき琵琶湖周域で行われた鉄人レース「アイアンマンびわ湖大会」について、その成り立ちと大会関係者の取り組み並びに活動、そして参加選手達の奮闘振り等を記してきたが、最後に九州・熊本の本渡市（現天草市）で開催されたショート・タイプのトライアスロン「天草国際大会」について、その開催経緯と関係者の動静や同大会にトライアスロン・デビューしたアスリートの群像を紹介しよう。</p>
<p>ショート・タイプとは、スイムが1.5Km、バイクが40Km、ランが10Km、トータルで51.5Kmという、宮古島大会のロング・タイプやびわ湖大会のアイアンマン・ディスタンスよりも競技距離が大幅に短縮された、オリンピック公式競技距離を意識したISタイプ（インターナショナル・スタンダード・タイプ）トライアスロンのことである。この競技距離を提案したのはアメリカのTRI-FED　USA（米国トライアスロン連盟）で、1982年６月のサンディエゴ大会からUSTS（アメリカ合衆国トライアスロン・シリーズ、当初は総競技距離57Kmで実施）と称し、主としてトライアスリートのプロフェッショナル勢を対象に賞金レースを展開してきている。<br />
天草大会は、そのUSTSのコンセプトを導入し，賞金レースではなかったが国際大会と銘打ち、海外のエリート選手を招請すると共に、中山俊行を始めとする我が国トップ・トライアスリート集団“チーム・エトナ”を結成、参戦させるなど、華々しいスポーツ・イベントが演出された。皆生大会から始まった我が国トライアスロン大会が地方自治体や民間スポーツ団体などによる町興し、村興し的な様相を呈していたのに対し、天草大会はアメリカ流の商業的色彩を帯びたビジネス・モデルとして日本へも上陸したのである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/aa59cd0bf21549963c7088570a2e0e87.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/aa59cd0bf21549963c7088570a2e0e87.jpg?width=250" alt="" width="250" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">JTFメンバ－ズ・カード</span></p>
<p class="text">　そして、この天草大会を企画、運営したのが国際トライアスロン連盟（略称FIT）日本支部として設立されたJTFである。<br />
ちなみにFIT は、トライアスロンが1984年８月のロサンゼルス・オリンピックにデモンストレーション競技として紹介されたのを期に、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンをオリンピック競技種目にしようと、TRI-FED　USAが中核的な国際組織として翌９月に設立したものだ。会長にはアメリカ水泳連盟の役員だったカール・トーマスが就任し、TRI-FED　USAの同胞であるジム・カールと共にUSTSをアジア大陸・地域でも展開すべく、日本の関係者への働きかけが開始された。<br />
そのアメリカ側の要請を受け入れたのが、大阪に本社を置くベアリング製造販売会社「共栄精工株式会社」の高木省三社長である。高木は本業のベアリング製造販売とは別にユニインセンティブ株式会社という子会社を設立し、ベアリングのパテントを海外へ供与したり逆に海外から商標権を輸入するライセンス・ビジネスを進める過程で、トーマスらとコンタクトを持ちUSTSの日本での展開を期すこととなった。その運営母体として85年春に発足させたのがJTFで、86年以降にはUSTSの日本版とも言うべきJTS（ジャパン・トライアスロン・シリーズ）を開催、運営する。<br />
発足したJTFは東京・渋谷の代官山に事務局を開設すると共に、我が国スポーツ界の看板スターだった野球人の長嶋茂雄を会長として迎え入れることにした。折りしも長嶋は野球の監督業から一旦、離れてフリーな身であったことから、広告代理店やスポーツ新聞社の担当者の仲介もあって、JTFの要請を快く引き受けたという。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/86ebda4461fd95095c36ea8fbbc97663.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/86ebda4461fd95095c36ea8fbbc97663.jpg?width=250" alt="" width="250" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">USTSの参加案内パンフに掲載された長嶋茂雄会長とカール・トーマス会長</span></p>
<p class="text">　こうしたUSTSに関わるアメリカと日本の連携を軸に、JTFはショート・タイプ・トライアスロンの開催候補地の調査、選定を進めていた。当初は85年６月を目途に沖縄県本部町での開催を計画していたが、残念ながら地元住民の理解と協力が得られなかった。そこで我が国トライアスロン・クラブの先駆けである熊本CTC（クレイジー・トライアスロン・クラブ）の会長であり、当時、全国トライアスロン協議会幹事としてトライアスロンの普及、発展を願っていた永谷誠一に対し協力を要請したところ、同クラブがかつてトレーニング・キャンプ地として合宿を行った熊本県本渡市の茂木根海水浴場を紹介されたのである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/8e4dbbdf035bf01ebac2443af3c3f388.jpg" target="_self"><img class="align-center" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/8e4dbbdf035bf01ebac2443af3c3f388.jpg?width=250" alt="" width="250" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">山岳用品などアウトドア・ショップを経営していた頃の熊本CTC会長の永谷誠一氏</span></p>
<p class="text">　この時点で６月の開催は無理であったが、地元・本渡市の久々山義人市長の賛同を踏まえ、永谷とレース・デュレクターとなったジム・カールの適切なアドバイスを得て、85年10月13日（日曜日）に我が国で初めてショート・タイプのトライアスロンが開催される運びとなった。そしてこの時から「トライアスロンをオリンピック種目に」という合い言葉が発せられた。今から29年前のことであり、その15年後の2000年に競技距離51.5Kmのトライアスロンはシドニー・オリンピックで正式種目となった。</p>
<div id="columnKougi">
<h2 class="w_02">トライアスロン談義</h2>
<h3>トライアスロンは神様からのプレゼント</h3>
<p class="name" style="text-align: center;">宮塚英也</p>
<p class="text">　私は物心がついた頃からスポーツ大好き少年で、常日頃、野球をはじめ様々なスポーツをテレビ観戦していました。スポーツが持つゲームの面白さはもちろんのこと、選手達の身体の動きや姿に強く惹かれるものがあって、後に母親は「英也はいつもスポーツ番組を観ていた」と言うほど、飽きることなくテレビの前に座っていました。もちろん私は、スポーツ観戦だけでなく実際に運動をすることも大好きで、小学校の校内マラソン大会はいつも一番だったし、ドッジボールやソフトボールなどの球技も得意中の得意でした。<br />
しかし、私に遊びやスポーツを存分に楽しむ時間は与えられていませんでした。学校の授業が終わると一目散に家へ戻り、家業の手伝いをしなければならなかったからです。小学校の同級生らは同じ農家の子供であっても家業の手伝いを免れていたというのに、私達兄弟はそれはもう毎日、学校が休みとなる土日となれば朝から晩まで、草刈りや家畜の世話に至るまで馬車馬の如く働かされました。ですから、朝から雨が降った日曜日は、兄と共に涙を流して喜び合ったものです。<br />
その子供にとって過酷な労働を強いたのは、父親でした。ですから、学校よりも家の仕事が大事と言わんばかりの非常に手厳しい父親に、私は強い嫌悪感を抱いていました。かといって父親の命令に逆らうことは出来ず、じっと我慢する少年時代が続いたのです。そんな辛い日々の労働で養われたことがあったとしたら、ちょっとやそっとのことでは挫けない根性と忍耐心であったかも知れません。</p>
<p>　こんな少年時代を過ごして、やっと家業の手伝いから開放され、厳格な父親の元を離れたのは、大学生として熊本の阿蘇で生活を送るようになってからです。その大学では「陸上同好会」のメンバーとして中長距離を走り、一時は実業団の選手として活躍したいという夢を持ちましたが、5,000ｍのタイムが15分台後半だし、４年生の時に出場した別大マラソンでは２時間32分が最高というレベルですから、福岡国際マラソンへの出場など夢のまた夢、残念ながらエリート選手としての道を歩むことは諦めていました。<br />
そんな折り、1985年の時ですが、４月の宮古島大会で同年代の中山俊行さんや山本光宏さんが活躍しているのを知ったのです。実は、トライアスロンという言葉を聞いたのは、それより３年前の大学１年生の時ですが、その時は「いずれ社会人になって、趣味程度でやってみよう」などと思っていたのです。しかし、同じ年代の若者がトライアスロンに挑戦し好成績をあげているのを目の当たりにして、私の心は傾き始めました。その気持が溢れ出て「トライアスロンへの挑戦」を決定付けたのは６月のびわ湖大会です。テレビで観戦して、もう居ても立ってもいられない気持になったのです。</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: blue;">「トライアスロンをやろう。スイムは100ｍほどしか泳げないけれど、やってやれないことはない。完走ぐらいは出来る筈だ」</span></p>
<p class="text">　そこで早速、私は熊本市内にあるバイク・ショップを訪ね、学生にしては大金でしたが10万円の新品ロードレーサーを購入しました。また、日本で最初のトライアスロン・クラブ「熊本CTC」の永谷誠一さんとお会いし、クラブ員に加えてもらいました。<br />
そして迎えたのが、宮崎県の観光地・青島で８月に開かれるハーフ・トライアスロンです。大会というよりも記録会として行われるとのことですが、兎に角、トライアスロンをやってみたいという気持が一杯で、参加を決めたのです。それで大会の前日、下宿先の阿蘇・長陽村から宮崎市内にある友人宅まで約200Kmほどの距離がありましたが、買ったばかりのレーサーに乗って行きました。<br />
大会参加者は私を含めわずか15人。およそローカルな大会という感じだし、バイク・コースも良く判らないので、それで他の選手と一緒に走らざるを得なかったり、ランも何時の間にかコースから外れてしまい、挙げ句に防波堤に突き当たったので、それを乗り越えて走りましたが、どうも様子が可笑しいので再び戻ると、ようやく他の選手と出会うなど、行ったり来たりの連続でしたが、それでも１位でゴールすることが出来ました。<br />
こうして私にとって初めてのトライアスロンは無事、終わりましたが、また宮崎市内の友人宅までバイクで走って、その翌日は大学の研究室の行事が控えていたので、朝４時に起きて再び阿蘇まで自転車を漕ぎ出しました。ですから３日間でバイクを440Kmほど走ったことになります。貧しい学生の身ですから、お金の代わりにその分、自分の身体をフルに使ったという訳です。でも、家業の手伝いをした少年時代のことを思えば、身体面での努力はそれほど苦になりませんでした。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/e3cea2cfab3fd32917d9f4ff30445672.jpg" target="_self"><img class="align-full" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/e3cea2cfab3fd32917d9f4ff30445672.jpg?width=250" alt="" width="250" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">宮塚英也氏（那須塩原市の宮塚英也スポーツ研究所にて2014年３月撮影）</span></p>
<p class="text">　さて、次の大会は10月に本渡市で開かれる天草大会ですが、その前月に模擬レースが行われることを知りました。その模擬レースのうちスイム競技は誰でもタダで参加出来ると聞いて、これは絶好のチャンスとばかり本渡市まで行くことを決めました。しかし、この時もスケジュールがタイトで、今思うと我ながら実に無茶なことをしました。というのも、その前日は陸上同好会の仲間と熊本市内で夜中の12時まで酒を飲んでいて、その後、Ｇパンスタイルのままランニングで30Kmほど阿蘇の下宿まで戻り、すぐさま父親が買ってくれた200ccのオートバイで100Kmを走って模擬レースの会場まで駆け着けたのです。<br />
若さ故か、こんな非常識で無謀な行動を重ねながら翌10月、私はトライアスロンという本舞台に上がることが出来ました。天草大会のスタート・ラインに立った時、不安や恐怖心は微塵もなく、トライアスロンをやりたいという気持が胸に溢れ、本当に嬉しい気持で一杯でした。結果は総合７位、中山さんや山本さんには負けましたが、一般参加選手としては一番でゴールしました。<br />
以上が、私がトライアスロン・デビューした経緯です。それからというもの国内外の大きな大会に参加、出場し、選手として引退するまでの17年間、切磋琢磨して数々のタイトルを獲得してきました。その戦いの記録と成果は、自分自身が築いてきたことに違いありませんが、でも本当に自分なのか？　引退した今、不思議な思いに駆られます。ともあれ、トライアスロンと出会い、トライアスロンの世界で沢山に汗を流し楽しめたのは、時代にも恵まれたと思いますが、何よりも神様が私に与えてくれたプレゼントだと思っています</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;"><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/0fff26537358cf97428b4bca8aa035bb.jpg" target="_self"><img class="align-full" style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/05/0fff26537358cf97428b4bca8aa035bb.jpg?width=250" alt="" width="250" /></a><br />
<span class="cap" style="font-size: 90%;">宮塚英也氏近影</span></p>
<div class="profile" style="border: solid 1px #ccc; margin-top: 10px; padding: 15px;">
<p class="name">【宮塚英也氏プロフィール】</p>
<p class="text">1964年、長崎県北有馬町（現・南島原市）で生れる。畜産農家の次男として育ち、1986年に九州東海大学農学部畜産学科を卒業。大学性の時代は「陸上同好会」に所属し中長距離競技に専念していたが、一方でトライアスロン競技を知り密かにチャレンジする機会を伺っていた。トライアスロン・デビューは1985年８月に行われた宮崎記録会（スイム２Km、バイク90Km、ラン21Km）、わずか15名がエントリーしたハーフ大会だったが、１位でフィニッシュした。次いで同年10月の天草大会で総合７位に入賞（一般参加選手としてはトップ）、新人選手として脚光を浴びる。以後、宮古島大会では２連覇を含め４回優勝するなど国内のトライアスロン大会で数々の優勝、入賞を繰り返し、日本人選手としてロング・ディスタンスでは向かうところ敵なしと言われた。特筆すべきは、アイアンマン・ハワイで日本人として２度、トップ・テン入り（88年＆94年）を果たすなど、世界の強豪に名を連ねたほか、92年にはアイアンマン・ワールド・シリーズの全７戦中４戦に出場し、ポイント・ランキングで世界第３位を獲得した。2002年のシーズンを最後に現役を引退した後、「宮塚英也スポーツ研究所」を主宰し、トライアスロンのパーソナル・クリニックやトレーニング・プログラム・サービスを行っている。<br />
当年50歳、妻と２人の息子と共に栃木県那須塩原市に在住。</p>
</div>
</div>
</div>
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		<title>Vol.50：火神の巻 第6章 その3：世界の強さが際立ったアイアンマン・レース</title>
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		<pubDate>Wed, 05 Feb 2014 06:00:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

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		<description><![CDATA[日本トライアスロン物語 Vol.50：火神の巻 第6章 その3：世界の強さが際立ったアイアンマン・レース 【この記事の要点】 　午前0時の制限時間まであと10分というところで、ゴール会場にアナウンスの声が響いた。最終ラン [&#8230;] <span class="excerpt_more"><a href="https://www.tri-x.jp/17694" class="more-link">»続きを読む</a></span>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<h3>Vol.50：火神の巻 第6章 その3：<span style="color: #800080;">世界の強さが際立ったアイアンマン・レース</span></h3>
<div class="bassui clearfix" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;">
    <strong>【この記事の要点】</strong><br />
    <a style="float: left; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" target="_self" rel="lightbox" href="http://api.ning.com:80/files/YBFp7QfmCZdldWIZPgOfoQlHBnwHQpSU-68hMelIcSfr1Zao93Rt8e4iVAM*PRL3Ruy-2nOW9m66-O5Bsry1icR4a3t5HLsf/file.jpg"><img class="fl bdr" src="https://api.ning.com:80/files/YBFp7QfmCZdldWIZPgOfoQlHBnwHQpSU-68hMelIcSfr1Zao93Rt8e4iVAM*PRL3Ruy-2nOW9m66-O5Bsry1icR4a3t5HLsf/file.jpg" width="100" /></a>
<p style="margin-left: 120px">　午前0時の制限時間まであと10分というところで、ゴール会場にアナウンスの声が響いた。最終ランナーがゴールまであと200ｍ、間もなくフィニッシュするというのだ。居るのは大会関係者・役員だけという人気の無くなったゴール会場に現れたのは、地元・滋賀県出身の横田俊彦である。しっかり両腕を振ってゴールインする横田の傍らには、傘を差して出迎える妻の姿があった。総合タイムは23時59分13秒、なんと今日一日、約17時間を泳ぎ、漕ぎ、走り続けたのである。</p>
</p></div>
<p class="text">　風速35mが予測される台風6号が接近している。やがて紀伊半島に上陸し、大会会場となる琵琶湖一帯を直撃するのは確実の情勢だ。すでに「大雨洪水強風波浪注意報」も出されている。当日の朝の気温は20℃とまずまず。けれど、水温は公式発表されている21℃よりも低く、実際は19℃以下だった。そんな悪コンデションの下でトライアスロンを、それも世界のトライアスロンの中で最も距離が長く過酷と言われる大会を開催して良いものか？ 大会関係者達は内心、戸惑いを感じながらも、この日この時まで準備した我が国最大規模の“鉄人レース”をキャンセルすることが出来なかった。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/02/1a0c301b01a205b4a94fe623fa45b9e4.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/02/1a0c301b01a205b4a94fe623fa45b9e4.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap">＜写真＞いよいよスタート、琵琶湖の水は冷たい！</span>
  </p>
<p class="text">　1985年6月30日（日曜日）、ハワイ、ニュージーランドに次いで開催される“アイアンマン・ジャパン85インびわ湖”は、ついに挙行された。朝6時頃、スタート地点である彦根市・松原水泳場には出場選手をはじめ大会役員並びにボランティア、選手の付き添いや仲間達、それに地元の観衆ら約5,000人が集まっている。<br />その多くの人々は、湖上に浮かぶ消防艇から吹き上げる噴水の様子や曇天の空を寒々しく見詰めている。また、出場選手達は緊張感が張り詰めているのか、多くの者が無言のまま、湖岸の浜辺から沖に見える折り返し点の船の姿を眺めていたり、或いは黙々と準備運動を繰り返えすなどして、スタートの合図を待っていた。</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #ff0000;">「打て！」</span></p>
<p>　朝7時丁度、大会会長・武村正義滋賀県知事の号令と共に、鎧兜に身を包んだ彦根城の「彦根鉄砲隊」が火縄銃を放った。まさしく今、アイアンマン・ハワイの姉妹レース、第1回びわ湖大会の火蓋が切って落とされたのだ。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/02/6178680a3fd418549256be7f12ade411.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/02/6178680a3fd418549256be7f12ade411.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞鉄砲隊による号砲でアイアンマン・レースが始まった</span>
  </p>
<p class="text">　琵琶湖の冷水をものともせず、432名の選手達が水飛沫を揚げて泳ぎ出した。琵琶湖の水温の低いことが予想されていたので、アイアンマン・レースにも拘らずウェット・スーツの着用が事前に許可されていたが、それでも余りの水の冷たさに泳ぐのを躊躇して、しばらく浜辺に佇み身を震わせる者もいた。また、いざ泳ぎ出した選手の中にも低水温に耐え切れず、スタートから1kmを過ぎた辺りから救助用モーターボートに収容される者が続出、最終的に47名がスイム競技をリタイアする羽目になった。</p>
<p class="text">　さて、スイム競技のトップ争いは予想通り、アイアンマン・ハワイ3連勝のデイブ・スコットとU.Sトライアスロン・シリーズで圧倒的な強さを誇るスコット・モリーナの2人。この2人が終始、トップ争いを展開しながら、3.9kmのスイム・ゴール地点である彦根プリンスホテル前の浜辺へ、ほぼ同時に上がった。次いで3位に入ったのは水泳が得意の今田善仁（香川県、25歳）で、ここまでが1時間を切るタイムでゴールした。<br />また、女子のトップはニュージーランドのロビン・ブラック（ニュージーランド、29歳）で総合5位、タイムは1時間01分01秒、女子2位はアイアン・ウーマンことジュリー・モスで総合9位、1時間03分06秒と、ブラックとの差は約2分だ。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/02/f727378588796172f68aec0c196b9cac.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/02/f727378588796172f68aec0c196b9cac.jpg?width=250" width="250" /></a><a target="_self" rel="lightbox" style="margin-left: 5px;" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/ee821f2bee080c51a298555f78243c2a.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/ee821f2bee080c51a298555f78243c2a.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞ボランティアから差し出されるスポーツ・ドリンクやバナナを受け取るスコット（写真左）とモリーナ</span>
  </p>
<p class="text">　いよいよバイク競技。競技距離180.2kmという長丁場のバイク・コースは、前半が琵琶湖の湖岸道路と田園地帯を走る平坦地だが、後半は幾つもの山道を上り下りする厳しいコースだ。スイム競技から上がったスコットとモリーナはテントに入ったものの、わずか30秒ほどで着替えを済ませ、バイクをスタートさせた。また、日本勢は今田、ホープの梅澤智久（埼玉県、23歳）の順でバイク競技に入ったが、今大会で「日本人1位を目指す」と宣言した城本徳満（大阪府、31歳）はスイムの遅れで、バイク・スタート時にはすでに今田と20分以上の差がつけられていた。ちなみに城本は、レース前にテレビのインタビューに、こう答えている。</p>
<p class="text" style="margin: 30px 0;"><span style="color: #008080;">「スイムは1時間10分で上がり、バイクは6時間、ランは3時間30分、トータル10時間40分が目標です。宮古島大会では5位やったけど、今度は日本人トップを狙います」</span></p>
<p class="text">　しかし、城本のスイム・タイムは1時間17分06秒と目標より7分も遅れた。その遅れを取り戻そうと、城本はバイクにまたがると猛然とペダルを回し始め、次々と前を行く選手たちを追い抜いていくのだった。</p>
<p class="text">　一方、トップを行く2人は、前半はスコットがリードしていたが、120km辺りの伊吹山の上り坂で、モリーナがスコットを抜いてトップに立った。もうこの時には断続的に激しい雨が降り注ぎ、スコットが雨に濡れた路面にタイヤをスリップさせ転倒するアクシデントも発生。かたや次々とバイク・コースに入った一般参加選手達も雨に打たれて思うように走れず、辛い走りが続いている。また、スポークが折れたりチェーンが切れたりと、初期的なメカ・トラブルによって思わぬ時間ロスを招く者もいた。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/751bd4e58cb9faf3fb77fa087da1da59.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/751bd4e58cb9faf3fb77fa087da1da59.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞雨の中を淡々と走り続けるジュリー・モス</span>
  </p>
<p class="text">　結局、長浜市・奥びわスポーツの森のバイク・ゴールでは、スコットがモリーナに2分ほどの差で到着した。しかし、スコットはレース前に「その差が10分以内ならば追い抜ける」と話していた通り、ランに入ってじりじりと差を詰め17km地点でモリーナをかわすと、その後は独走態勢に入った。<br />　アメリカ勢2人のデッドヒートの決着を待つゴール会場の彦根市金亀（こんき）公園・野球場は、台風によってもたらされる雨によって一面が泥でぬかるんでいる。そんな中、午後3時半過ぎにフィニッシュ・ラインの入り口に設けられた銀色の風船アーチを潜ったのは、やはりデイブ・スコットだった。<br />　スコットは前年のハワイ大会で自らつくった大会最高記録8時間54分20秒を約14分余り上回る8時間39分56秒の記録でフィニッシュしたのである。続いて12分余り後、ランの途中、トイレ・タイムなどで時間を要したスコット・モリーナも8時間52分23秒の好記録で2位、3位には雨降りしきる中、蹴り上げる足元に水飛沫を飛ばしながらジュリー・モスが10時間04分53秒でゴールテープを切り、結局、上位3名をアメリカ勢が占めた。こうして上位陣が好記録でフィニッシュした大きな理由は、ラン・コースの起伏がほとんど無く平坦であったことと、レース中、雨という自然のシャワーを浴びて体温の上昇が抑えられ、発汗を少なくして競技が行えたことがあげられよう。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/62a5c164cfecb836d9eff194555c9927.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/62a5c164cfecb836d9eff194555c9927.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞ゴール後、フィアンセと抱き合うスコット</span>
  </p>
<p class="text">　そしてトップから2時間遅れたものの総合4位でゴールテープを切ったのは城本徳満、レース前に自ら決意したように見事、日本人トップでフィニッシュした。スイムの出遅れをものともせず、バイクで前を行く選手をことごとく追い抜き、ランではバイクの疲れからやや失速したものの、総合タイムは10時間30分13秒の記録をつくった。左手をグイと突き上げテープを切ると疲れの為か、すぐさまベンチに座り込んだが、顔の表情は喜びに溢れていた。<br />　また、日本人女子では若手のホープ、萬處雅子が総合101位、遠藤栄子（埼玉県、35歳）が118位、山中千恵子（神奈川県、36歳）が137位に入り、それぞれ健闘した。この3名の女子選手は、当時の日本を代表するトライアスリートである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/3ef29f37b84e731d10c717de67ba3366.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/3ef29f37b84e731d10c717de67ba3366.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞日本人トップ、左手を突き上げゴールインする城本選手</span>
  </p>
<p class="text">　さて、この日のアイアンマン・レースは時間が経つにつれ、選手達にとって厳しい過酷なコンデションが待っていた。夕刻から風雨は激しさを増し、夜が更けるに従って琵琶湖沿岸一帯は土砂降りの雨の闇に包まれた。そんな中、真っ暗になった湖岸道路を全身、ずぶ濡れになりながら、片手にペンライトやシューズに着けた反射板を光らせ、選手達は懸命にゴールを目指している。<br />　スイム・スタート後17時間以内、即ち午前0時の制限時間まであと10分というところで、ゴール会場にアナウンスの声が響いた。最終ランナーがゴールまであと200ｍ、間もなくフィニッシュするというのだ。待つのは大会関係者・役員だけという人気の無くなったゴール会場に現れたのは、ゼッケン・ナンバー469番、地元・滋賀県出身の横田俊彦（26歳）である。しっかり両腕を振ってゴールする横田の傍らには、傘を差し出迎える妻の姿があった。総合タイムは23時59分13秒、なんと今日一日、約17時間を泳ぎ、漕ぎ、走り続けたのである。<br />　こうして悪天候にもめげず366人の選手が完走し、びわ湖大会は無事、その幕が降り、以後、同大会は1997年の13回まで続くことになる。</p>
<p>  <em>《次回予告》</em><br />
  <span style="color: #808000; text-align: center; margin: 30px 0;">びわ湖大会と同じ年の1985年10月、熊本県本渡市（現・天草市）においてスタンダード・ディスタンスと称するトライアスロンの3種目を合わせた総距離51.5kmのショート・タイプの「天草トライアスロン大会」が開催されました。すでにアメリカで盛んになっていた“U.Sトライアスロン・シリーズ”の日本版とも言うべき大会です。次回は、この大会の開催に至る経緯や関係者の動静を述べると共に、＜トライアスロン談義＞では同大会でトライアスロン・デビューし、その後、日本を代表するアイアンマンとして活躍した宮塚英也氏のデビュー当時の思い出を語ってもらいます。</span></p>
<blockquote style="margin-top: 20px; margin-bottom: 60px;">
<p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p>
</blockquote>
<div id="columnKougi">
<h2 class="w_02">トライアスロン談義</h2>
<h3 style="color: #ff6600;">今度こそ、日本人トップや</h3>
<p class="name">城本 徳満</p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #008000;">「ええ！ あの汚いドブ川で泳ぐ!?」</span></p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;">　思わず私は叫んでしまいました。だって、大阪の中心街を流れる都島（みやこじま）の大川といったら工場廃水や何やらで、人間がとても泳げる川ではないことは誰でも知っていたからです。すると当時、勤めていた自転車部品メーカーの会社の上司だった開発部長が、</p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #993300;">「いやいや、そやない。沖縄や。沖縄の南の島に宮古島という島があるんや。そこでな、トライアスロンという新しいスポーツが始まるんや。それに城本君、あんたが選手として出たらどうかと思うてな」</span></p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #008000;">「それは業務命令ですか」</span></p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #993300;">「まあ、そうや。昨日、チームのメンバーに聞いたら、皆あかんと言うおった。けど、あんたは泳ぎもマラソンも出来ると言うてはる。沖縄に行ってみたいやろ。その代わり大会に出て、総合10位以内になったら、大会参加費用も交通費もぜんーぶ会社で出してやるしな」</span></p>
<p class="text">　しかも、宮古島トライアスロン大会出場のためのトレーニングの時間を自由に与えられると聞いて、私は、</p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #008000;">「よおし！ やりまっせ」</span></p>
<p class="text">　即断即決とは、このことでした。時は1985年2月6日、火曜日。この日こそ、私は自転車の選手からトライアスロンの選手へと自らの運命を変える日となったのです。私が31歳の時のことでした。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
      <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/8a1f5913fd6b18145a8b89e16b032a34.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/8a1f5913fd6b18145a8b89e16b032a34.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
      <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞ショップ内に並ぶカップやトロフィーなど城本選手の戦績の数々</span>
    </p>
<p class="text">　早速、私はその日のうちにスイミング・プールの会員手続きを済ませ、トレーニングを開始しました。そして始めて10日目には1,500ｍを25分45秒で泳ぎましたが、これは近畿圏の通信記録会ではエイジ6番目に相当したそうです。また、ランは10年前の記録ですが、ブリヂストンサイクルの時代に鳥栖市で2.8kmを8分47秒で走ったことがありましたので、距離が短いとはいえランニングのコツは心得ている積りでした。もちろんバイクは、現に自転車競技の選手ですので、少なくともトライアスロンの選手達には誰にも負けないという気持でした。<br /> 　でもまあ、そうは言っても、宮古島大会に向けてトレーニングを開始したのは2月初旬ですから、大会まで2箇月余りの間に満足のいく練習が出来た訳ではありません。毎日、10時間ほどの時間をかけてトレーニングを重ねましたが、あとは運を天に任せるといった思いで4月28日、私は沖縄の宮古島・前浜ビーチの海へ飛び込みました。<br />　結果は総合5位。スイムでは立ち遅れたものの、バイクでは途中、2位まで追い上げました。しかし、後半に飯島選手に抜かれて3位でゴール、さらにランでは山本、山下の若い2人の選手にも抜かれ5位となりました。カンカン照りの暑さの中でのマラソンは生まれて初めての経験なので、さすがにきつく、走っている最中は何度も何度も、</p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #008000;">「こんなレース、もう二度とやりたくない」</span></p>
<p class="text">　などと思っていましたが、観衆の声援に応え帽子を頭上に振りかざしながらゴールテープを切った瞬間に、次にチャレンジするレースのことが頭を過ぎっていました。</p>
<p class="text">　ともあれ、これで上司との約束を果たしたので、それまで掛かったスイミング・クラブの加入料やトライアスロン用のウェア等、すべての費用、締めて15万円ほどの領収書を会社側へ提出しました。15万円は当時の私の給料相当の金額ですから、本当に胸を撫で降ろす思いでした。また、会社側も「城本がトライアスロンで名を挙げた」と言って喜んでくれて、以後は休日も出勤扱いにしてもらうなど、待遇が大いに改善されました。もうこうなると、本業の自転車競技どころではありません。自ずと私はトライアスロンの道にのめり込んでいくことになりました。</p>
<p class="text">　さて、宮古島大会の次の参戦レースは、同じ年の6月に琵琶湖で行われる国内初のアイアンマン・レースでした。早くも2個月後に迫っていたのですが、私は何ら怖じけることなく、</p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #008000;">「今度こそ、日本人トップや」</span></p>
<p class="text">という気持で臨みました。<br />　最初の競技のスイムでも、出来るだけ遅れをとらないようにと十分な練習を積んだし、琵琶湖の水は冷たいというので自転車用のワンピースを2枚も重ね着して泳ぎました。それでもメチャ寒くて辛かったですが、3.9kmを1時間17分でゴールすることが出来ました。だからバイクのスタートはまずまずの順位、これならば「行ける」とばかり、先を走る選手達を猛然と追いかけました。<br />　とにかく日本人選手には負けたくない、という思いでペダルを漕ぎまくり、先を行くデイブ＆スコットに次いで3番手の位置でバイク・パートを終えました。しかし、バイクで相当、脚を使ったこともあって、さすがに疲れたのでしょう。ランの後半、ゴールまであと10kmほどの地点でジュリー・モスに抜かれたのです。</p>
<p class="text" style="center; margin: 30px 0;"><span style="color: #008000;">「でも、まあいいか。日本人ではないし…」</span></p>
<p class="text">　それに台風の雨でラン・シューズがずぶ濡れになって、足が重くて思うように走れません。苦しみに耐えながら、トータル・タイム10時間30分13秒でフィニッシュ、総合4位、日本人1位で当初の目的を達成することが出来ました。</p>
<p class="text">　こうして1985年の春から夏にかけ、31歳の私は宮古島とびわ湖という2つの大会を経験しトライアスロン・デビューしたのです。正にこの年が、この季節が、私の人生の転機となったことは言うまでもありません。以来、びわ湖は13回大会まで連続出場し、うち3回は日本人のトップの座を獲得しました。その後、2000年には本場ハワイのアイアンマン・レースで年齢別でトップになるなど、エイジならば誰にも負けないという気持で頑張りました。<br />　今振り返りますと、あの頃は妻子を抱え生活に不安がなかった訳ではありませんが、だからこそトライアスロンのプロ選手として、また専門ショップのオーナーとして頑張れたのだと思います。そして、トライアスロンというスポーツに出会えて本当に良かった！ 苦しいけれど楽しさに溢れ、魅力的なニュー・スポーツに取り組めてことを、心の底から有り難く感謝しています。改めて、人間は努力さえすれば自ずと道が開けるし、成りたいと思う人間に誰もが成れるのだと思います。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
      <a target="_self" rel="lightbox" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/293907f3cbcd11c4d9a0f74971526583.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/293907f3cbcd11c4d9a0f74971526583.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
      <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞城本徳満氏（13年3月、大阪狭山市のショップにて撮影）</span>
    </p>
<div class="profile" style="border:solid 1px #ccc; margin-top: 10px; padding: 15px;">
<p class="name">【城本徳満氏プロフィール】</p>
<p class="text">1953年9月、福岡県行橋市出身。幼少時代は大阪市内で過ごすが、73年にブリヂストンサイクル株式会社・九州旭工場に就職、自転車の組み立てラインで従事するかたわら自転車競技に取り組む。1977年に同じく自転車競技選手だった実兄に誘われ、自転車部品メーカーのマエダ工業株式会社へ転社し「サンツア・レーシングチーム」に所属、トップレベルの自転車競技選手として活躍する。1985年4月、宮古島トライアスロン大会に出場、総合5位となったのをきっかけにトライアスロン競技選手に転向、以後、国内外の著名な大会で数多くの戦績を残す。87年1月、プロ・トライアスリートとして独立、3月には「トライアスロンショップ・シロモト」を設立、選手並びにショップの経営者として、我が国トライアスロン界のリーダー的役割を担い、今日に至る。当年60歳。</p>
</p></div>
</p></div>
</div>
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		<title>Vol.49：火神の巻 第6章 その2：水温は低かったが大会を挙行</title>
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		<pubDate>Tue, 08 Oct 2013 05:51:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/wordpress/?p=17691</guid>
		<description><![CDATA[日本トライアスロン物語 Vol.48：火神の巻　第6章 その2：水温は低かったが大会を挙行 【この記事の要点】 日本で初めて開催されるアイアンマン・レースの舞台は総て整ったが、大型の台風6号が接近するとの報せが、大会関係 [&#8230;] <span class="excerpt_more"><a href="https://www.tri-x.jp/17691" class="more-link">»続きを読む</a></span>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<h3>Vol.48：火神の巻　第6章 その2：水温は低かったが大会を挙行</h3>
<div class="bassui clearfix" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;">
    <strong>【この記事の要点】</strong><br />
    <a style="float: left; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/cb78989acb64d1f5d3af9b3b5ed0f8ac.jpg"><img class="fl bdr" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/cb78989acb64d1f5d3af9b3b5ed0f8ac.jpg" width="100" /></a>
<p style="margin-left: 120px">日本で初めて開催されるアイアンマン・レースの舞台は総て整ったが、大型の台風6号が接近するとの報せが、大会関係者や選手達の胸に一抹の不安を過ぎらせていた。でも大会当日の朝、風は無く、琵琶湖の水面は鏡のように真平に静まり返っている。問題は水温だ。計測した湖水3層の平均水温は19℃だった。シルクらの提言を受け入れれば、スイム距離を短縮しなければならない。しかし、大会実行委員会はその後、上昇した水温を加味し、午前6時の水温は21℃と公式発表、大会開催に踏み切ったのである。</p>
</p></div>
<p class="text">　1978年2月にトライアスロンの歴史の窓を開けたハワイのアイアンマン・レースはニュージーランドに次いで、ついに日本列島の中央部である滋賀県の琵琶湖に到来、ハワイ大会の予選レースとして開催されることになった。<br />大会日は1985年6月30日（日曜日）、競技距離はスイムが3.9Km、バイクが180.2Km、ランが42.195Kmという、アイアンマン・ハワイとまったく同距離の、いわゆる鉄人レースである。それまでの日本の大規模なトライアスロン大会は81年8月に始まった皆生大会と85年4月の宮古島大会があるが、今回の琵琶湖でのアイアンマン・レースは、過去の大会を上回る規模で行われる。<br />　それだけに主催者である滋賀県知事の武村正義はもとより、来日したバドライト・アイアンマン・トライアスロン・ワールドチャンピオンシップ会長のバレリー・シルクや同国際競技部長のアール・ヤマグチなどハワイ大会関係者、そして日本でのアイアンマン・レースの開催権を取得した株式会社電通の西郷隆美、さらにはメイン・スポンサーとして特別協賛する農機具メーカーのヤンマーディーゼル株式会社、大会の模様を全国にテレビ中継する日本テレビ放送網株式会社ら関係者の期待と意気込みは、ただならぬものがあった。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/3f665b1f869937226c52be630636a4d7.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/3f665b1f869937226c52be630636a4d7.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞第1回大会パンフ（表紙絵）</span>
  </p>
<p class="text">　これら大会を支える関係者により組織委員会が結成されたのは2月20日のこと、大会の概要や執行・運営体制、スケジュール等について素案が提起された。そして5日後の25日に大会運営の為の実行委員会が開かれ、次いで4月にはスポンサーや競技コース、選手の募集状況、ボランティア体制等について協議、検討がなされ、大会開催へと具体的な準備が進められていったのである。<br />　選手の募集については、同じく4月に滋賀県内3箇所並びに東京と大阪において記者発表を行う等して、全国的な規模で参加者を募った。また国際レースに相応しく海外選手としてエントリーしてきたのは、ミスター・アイアンマンの名を持つ世界最強の鉄人デイブ・スコット（アメリカ・カリフォルニア在住31歳）、ショート・トライアスロンで賞金獲得ラインキング1位のスコット・モリーナ（同24歳）、そして82年2月のハワイ大会でフィニッシュ直前に倒れながらも這いずりながらゴールゲートを潜り一躍、世界にその名を轟かせたアイアン・ウーマンことジュリー・モス（同27歳）等、世界最強レベルの選手の参加が決まった。<br />　一方、国内の主な選手としては、4月の宮古島大会で2位に入った山本光宏（東京、21歳）、同じく4月の宮古島でトライアスロン・デビューし総合5位となった城本徳満（大阪、31歳）を始め、常に安定した力を発揮して入賞ラインを確保する横井信之（愛知、26歳）、今やベテラン・トライアスリートともいえる歌手の高石ともや（京都、43歳）、新進気鋭の女性トライアスリート萬處（まんどころ）雅子（京都、20歳）らが名を連ねた。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/583b77d331679203b806e7dee49dc9c3.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/583b77d331679203b806e7dee49dc9c3.jpg?width=250" width="250" /></a>　　<a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/03.jpg"><img style="width: 250px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/03.jpg?width=250" width="250" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞大会スケジュールとコース図</span>
  </p>
<p class="text">　これらエリート選手の蒼々たる顔ぶれを含め国内外から集まった参加選手は427名（うち海外選手61名）に及んだ。加えて大会を支えるボランティアは総勢5,000人を数え、総距離226.3kmという日本国内では初めての競技距離という、どれもこれもが従来の国内トライアスロン大会の規模を上回る一大イベントとなった。<br />　この為、大会経費も嵩み、滋賀県が3,500万円を拠出したほか、メイン・スポンサーであるヤンマーディーゼルが特別協賛した。知事の武村は大会開催には大いに賛成だが、スポンサーが前面に出る冠大会になることを嫌った。しかし、この一大イベントを敢行するには民間のサポートもやむを得なかったし、ハワイのアイアンマン大会がビール会社のバドライト（BUD LIGHT）をスポンサーとする商業的色彩の強いイベントを展開していることも配慮せざるを得なかった。<br />　それだけに大会の舞台装置もハワイ並みに大掛かりなものなっていて、特にスイム会場については、水温が低い湖水での競技だし、多くの選手が一斉スタートすることによるトラブル発生も考慮され、完璧と言ってよいほどの安全対策が施された。特に医療班はスタート地点の彦根市・松原水泳場と彦根プリンスホテルの2箇所にメディカル・ステーションを配置、医師や看護士による救急態勢を充実させたほか、会場では漁船や警備艇、モータボート、ゴムボートを多数、用意し、緊急時の対応に万全を期したのである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/de24aff38fa8ec652a11136630fd6bc2.jpg"><img style="width: 350px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/de24aff38fa8ec652a11136630fd6bc2.jpg?width=350" width="350" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞万全の態勢を整えたスイム会場</span>
  </p>
<p class="text">　こうして日本で初めて開催されるアイアンマン・レースの舞台は総て整った。だが、大会前日に大型の台風6号が接近するとの報せが、大会関係者や選手達の胸に一抹の不安を過ぎらせてもいた。大会実行委員会では大会当日の水温の状態や悪天候になった場合の取るべき措置を検討すると共に、アドバイザーとして来日していたバレリー・シルクとアール・ヤマグチにも意見を求めた。アメリカからやってきた二人は、</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/cd5922749503047f3ed04564bfdab1af.jpg"><img style="width: 350px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2009/08/cd5922749503047f3ed04564bfdab1af.jpg?width=350" width="350" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞国際競技部長のアール・ヤマグチ氏</span>
  </p>
<p class="cap_serif" style="color: #f63; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「水温が低い場合は、スイムの距離を短縮してはどうですか」</p>
<p class="text">これに対し実行委員長でありレース・ディレクターである成瀬信孝（滋賀県企画部長）を始めとする実行委員会の面々は、</p>
<p class="cap_serif" style="color: #03c; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「そうなるとアイアンマン大会の公式距離と異なってしまう。<br />いずれにしても明日の朝の水温を計ってから決めましょう」</p>
<p class="text">　およそ、こんな話が交わされたとのことだが、結論は翌日、すなわち大会当時の早朝まで持ち越された。</p>
<p class="text">　そして大会当日の朝、厚い雲に覆われた空からは時折、小雨がぱらついていた。しかし、風はまったく無い。琵琶湖の水面は鏡のように真平に静まり返っている。問題は水温だ。朝5時、実行委員会では、すでに表層、中間層、深層の3層で計測されたデータを基に、スイム競技の実施について協議していた。シルクらの提言を受け入れて、3層の平均水温が20℃を下回ればスイム距離を短縮することも決断しなければならない。また、台風が接近していることを考えれば、大会そのものを中止することも有り得る。<br />　実際、3層の平均水温は19℃だった。この低い温度で選手達に3.9kmもの長い距離を泳がせてよいものか? そうかといって、スイム距離を短縮することで折角、日本で初めて開くアイアンマン・レースのステータスを自ら捨て去ってよいものか? 関係各方面の協力、協賛を得ながら、準備万端、整った本番を今更、キャンセルする訳にはいかない。大会実行委員会はその後、上昇した水温を加味し、午前6時の水温は21℃と公式発表、大会開催に踏み切ったのである。</p>
<p class="text"><em>《次回予告》</em><br />国内外のトップ・トライアスリートを始めとする選手達の活躍振りと、レースの模様及び結果を記します。また&lt;トライアスロン談義&gt;では、日本人選手としてトップ、総合4位になった城本徳満氏の奮闘劇を紹介します。</p>
<blockquote style="margin-top: 20px; margin-bottom: 60px;">
<p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p>
</blockquote>
<div id="columnKougi">
<h2 class="w_02">トライアスロン談義</h2>
<h3>好奇心で胸が一杯だった</h3>
<p class="name">熊谷敏博</p>
<p class="text">　私がマラソンやトライアスロンに関心を持ち始めたのは、今から30年前の27歳の時でした。東京・高田馬場にあるスポーツ・ジムに通い始めた頃、同じビル内の本屋さんでトライアスロンの特集記事を掲載した雑誌が目に留まったのです。でも、その時は「やってみよう」という気にはならなかったし、第一、すぐに自分が出来る訳もありません。</p>
<p class="cap_serif" style="color: #399; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「いつの日かトライアスロンをやってみよう。だから、まずはフル・マラソンを走ってみよう」</p>
<p class="text">　という訳で、スポーツ・ジム内に設けられた一周100mのランニング・コースを走り始めたのです。わずか2Kmを走っただけでしたが、これが初めての中距離ランニングでした。<br />
 　そして徐々に練習を積み重ねるうちに、実際にレースに出てみたいという気持も高まり、最初のレースとして翌年の2月に行われる関東では名高い30kmの「青梅マラソン」を選びました。しかし、何のことはありません。人気のある大会でしたので、初応募の私は抽選に洩れてしまいました。そこで急きょ、矛先を向けたのが世界的に名が知られたハワイの「ホノルル・マラソン」です。<br />
 　4時間以内の完走を目指してトレーニングに励み、本番の2箇月前には東京・代々木公園のトリム・コースで42.195Kmを走ってみました。お陰で本番では、目標通り3時間37分30秒で初のフル・マラソン完走を果たしたのです。</p>
<p class="text">　ホノルル・マラソンの完走で、私はそれまで頭の中にしまっていたことを思い起こしました。トライアスロンへの挑戦です。夏頃から同じスポーツ・ジム内のプールで一週間に1回の割で始めたスイミングも、はなはだ自己流のクロールながら何とか身に付いていました。ですから、あとは自転車さえ乗りこなせば、トライアスロンも夢ではありません。そしてこの夢を実現しようと決意したのは、84年12月に創刊されたトライアスロン専門誌『トライアスロンJAPAN』を見た時でした。</p>
<p class="cap_serif" style="color: #399; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「もう、やるしかない」</p>
<p class="text">　まだ自転車には乗っていないし、スイムもマラソンも中途半端なレベルだけど、何ら臆することなくトライしたい気持に駆り立てられたのです。それまでの私は給料のほとんどをスキーに注ぎ込むほどの“スキー狂&#8221;でしたが、実は今までの在り来りのスポーツではない、もっと新鮮味のある特異的なスポーツを、きっと心の中で探していたのかも知れません。その答えがトライアスロンだったのです。</p>
<p class="text">　翌85年のハワイ大会への挑戦を期した私は、春になってロードレーサーをオーダーすると共に、ハワイの予選大会として6月に日本で開催することになった「びわ湖大会」への参加申し込みを行いました。でも、バイクが組み上がったのは5月の中旬、大会まで1箇月ほどしかありません。でも、シューズもヘルメットも取り揃え、初心者らしく比較的安全な皇居の周回道路をグルグル走り回りました。兎に角、仕事以外の残されたわずかな時間を裂いて、バイクもスイムもランも出来る限り練習したのです。</p>
<p class="text">　そうして迎えた大会本番の朝、何もかもが初めての私でしたが、その割には何ら恐れることもなく、</p>
<p class="cap_serif" style="color: #399; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「よし! やってやろう」</p>
<p class="text">という気持で、スイム・スタート地点の浜辺に立っていました。この長丁場のレースとどのように取り組めば良いか? 新たに購入したウェットスーツで旨く泳ぐことが出来るだろうか? 台風が接近しているようだが大丈夫か? いろいろ不安が過ぎりましたが、それよりも何も初めての体験するトライアスロンへの好奇心で胸が一杯でした。</p>
<p class="text">　しかし、初めてのトライアスロンとの戦いは決して楽ではありません。スイムの3.8kmという長距離を泳いだのは大会3日前のこと。最初から自信がありません。スタートの号砲が鳴ってからしばらくして、</p>
<p class="cap_serif" style="color: #399; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「しょうがない。いくか」</p>
<p class="text">　かなり後方から、やっとの思いで冷たい水の中に入りました。でも、周囲の選手達に囲まれ、時には蹴飛ばされてゴーグルが外れそうになったり、右寄りに泳いでしまう癖があって、結果的にジグザグに泳ぐ羽目になる等、もう必死の思いです。ようやく1時間51分でゴールした時には、自分の身体が自分でないようなフラフラの状態でした。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
      <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/img019.jpg"><img style="width: 350px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/img019.jpg?width=350" width="350" /></a><br />
      <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞新調したベスト（当時のウェットスーツ）だが、腹から水が入ってきて寒かった</span>
    </p>
<p class="text">　バイクも乗っている間中、心配で心配で、不安と同居しながらの長い時間を過ごしました。何しろタイヤのパンク修理も交換も分からない等、バイクのメカ・トラブルの発生に終始、ヒヤヒヤしていたのです。それにコースのあちこちに上り坂があるので、その分、スピード・ダウンによって制限時間に間に合わないのではないか? という恐怖心にも襲われていました。</p>
<p class="cap_serif" style="color: #399; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「間に合わなかったら、どうしよう」</p>
<p class="text">　そんな思いで7時間余りペダルを漕ぎ続け、ゴール会場に着いた時は夕方の16時過ぎになっていました</p>
<p class="text">　そして3種目の中で最も自信があるランですが、走り始めたところなんと! 足が重くて思うようには動きません。でも頑張って、1kmを約6分ペースくらいで走り続けていたところ、10km地点付近で台風の影響からか、いきなりバケツをひっくり返したような雨がドッと降り始めたのです。その頃はまだ雨だけで、風はそんなに強くはありませんでした。寒さは感じませんが、それまでの比較的快調なペースから一転、脚が急に動かなくなりペースが落ちて時々、歩きが入るようになりました。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
      <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/img021.jpg"><img style="width: 350px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/img021.jpg?width=350" width="350" /></a><br />
      <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞雨の中、関門時間を気にしながらゼッケン243は走る</span>
    </p>
<p class="text">　湖畔道路から離れ最後の関門を何とかクリア、その時刻には日が沈みかけ、かなり薄暗くなっていました。そして長浜城前を通過し再び湖畔道路に戻りゴールのある彦根城まで残り10km辺りから脚が痛み始め、苦しくて辛さだけを覚える長い時間が経ちました。でも、彦根城の手前で「あと2km」との応援を聞いたら脚の痛みもどこかへ吹っ飛びました。<br />
 　そろそろ夜の10時を迎えようとする頃、5時間半のランを終え、トータル14時間45分52秒、総合278位で私はアイアンマン・レースのゴールに到達することができました。しかし、完走した感動はありません。それよりも早く宿へ戻って、暖かい風呂に入ることばかりを考えていました。土砂降りの雨の中でゴールゲートの風船が風に煽られ、大きく揺れていたことを、今でも覚えています。</p>
<p class="text">　こうして私の最初のトライアスロンは完走を果たしたものの、やっとこさっとこの思いでした。その後、びわ湖大会には8回、連続で出場しましたが、残念ながら本大会のアイアンマン・ハワイへの参加切符は手に入りませんでした。でも8年間、通ったびわ湖大会のロケーションは私にとって生涯、忘れることができない良い思い出となっています。<br />
 　そして今日まで、一時はトライアスロンに冷めてしまったこともありましたが、それでも止めることなく、中味は薄いけれど人生の四半世紀をトライアスロンと付き合ってきました。これからも私のライフワークとしてトライアスロンと取り組み、目標に向かってチャレンジ精神を沸き立たせつつ、健康で生き生きとした人生を歩んでいきたいと思っています。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
      <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/CIMG8551.jpg"><img style="width: 350px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/12/CIMG8551.jpg?width=350" width="350" /></a><br />
      <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞熊谷敏博氏近影（13年6月撮影）</span>
    </p>
<div class="profile" style="border:solid 1px #ccc; margin-top: 10px; padding: 15px;">
<p class="name">【熊谷敏博氏プロフィール】</p>
<p class="text">1956年4月、香川県丸亀市で出生。高等学校時代まで大阪市内で暮らした後、進学のため上京したが中退、海外移住研修所等の紆余曲折を経て25歳の時、東京で航空貨物輸送会社に就職、現在に至る。スポーツは小学生時代から短距離走が得意で、高校生時代は100m、200m、400mで南大坂地域の大会で優勝したこともある。また、社会人となって海外移住の為の研修所において群馬県の山中でのラン・トレーニングで鍛えられ、走ることへの執着心が養われた。1984年12月にホノルル・マラソン大会を完走し、翌年85年に初めてのトライアスロン「びわ湖大会」に出場、完走を果たす。それからは宮古島や西伊豆など主に国内のロング・ディスタンス・トライアスロン大会に参加、今日に至るまで現役トライアスリートとして活躍中。57歳となった今年2013年、春に交通事故で左足を負傷したもののアイアンマン・ディスタンス・レース「五島長崎国際トライアスロン（バラモンキング）」と「アイアンマン・ジャパン北海道」の2大会に出場、完走する。</p>
</p></div>
</p></div>
</div>
]]></content:encoded>
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		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>Vol.48：火神の巻 第6章 その1：アイアンマン・レースが日本に上陸</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/17688</link>
		<comments>https://www.tri-x.jp/17688#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 01 Jun 2013 05:49:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

		<guid isPermaLink="false">https://www.tri-x.jp/wordpress/?p=17688</guid>
		<description><![CDATA[日本トライアスロン物語 Vol.48：火神の巻　第6章 その1：アイアンマン・レースが日本に上陸 【この記事の要点】 シルクは、この両社との交渉を続ける一方で1984年11月に来日、日本でアイアンマン大会を開催する候補地 [&#8230;] <span class="excerpt_more"><a href="https://www.tri-x.jp/17688" class="more-link">»続きを読む</a></span>]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<h3>Vol.48：火神の巻　第6章 その1：アイアンマン・レースが日本に上陸</h3>
<div class="bassui clearfix" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;">
    <strong>【この記事の要点】</strong><br />
    <a style="float: left; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/a1fbee9d5518d32ade612075a0cf8646.jpg"><img class="fl bdr" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/a1fbee9d5518d32ade612075a0cf8646.jpg?width=100" width="100" /></a>
<p style="margin-left: 120px">シルクは、この両社との交渉を続ける一方で1984年11月に来日、日本でアイアンマン大会を開催する候補地として上った滋賀県琵琶湖周辺と千葉県館山市を中心とした南房総地域を矢後や市川と共に視察した。その結果、高木が誘致を狙っていた南房総での開催は館山市当局との条件が整わず、またシルク側も日本の契約相手として電通を選び、最終的に日本列島の中央部に位置する滋賀県・琵琶湖での開催となったのである。</p>
</p></div>
<p class="text">　今から30年前の1980年代は、日本の産業経済が興隆期の真っ只中にあった時代である。その時代にトライアスロンは発祥し、成長の過程を歩み出した。日本で初めてのトライアスロン大会が、鳥取県の皆生温泉で1981年に開かれた「皆生大会」であることはすでに記したが、それから3年間は言わば黎明の時期を過ごした。それが普及、発展へと大きな一歩を踏み出したのは1985年のことである。<br />　その年の4月には、南海の孤島・宮古島において「全日本トライアスロン宮古島大会」が開催された。この大会では完走したアスリートに“ストロングマン”の称号が与えられたが、次いで6月にはハワイのトライアスロン大会と同じく“アイアンマン”の称号が得られる世界レベルの大会が、日本最大の湖・琵琶湖北東部で開催されたのである。その名も「アイアンマン・ジャパン・インびわ湖」である。</p>
<p class="text">　そもそも、このアイアンマン・レースを日本へ持ち込もうと考えていたのは、ハワイのトライアスロン大会を主催・運営する「ハワイアン・トライアスロン・コーポレーション」のバレリー・シルク（バドライト・アイアンマン・トライアスロン・ワールドチャンピオンシップ会長）である。シルクは、ハワイ島コナ市で開催しているトライアスロン大会に参加してきた日本人選手の矢後潔省（きよみ）や市川祥宏（ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ＝JTRC会長・副会長）に対し日本での開催を促すと共に、かねてから日本の広告代理店との間で、大会開催権に係わる契約交渉を進めていた。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/dd9bea10d15532203ea9885cc0d7403d.jpg"><img style="width: 380px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/dd9bea10d15532203ea9885cc0d7403d.jpg?width=380" width="380" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞85年10月、ハワイで結婚式を挙げた矢後潔省氏（写真右）。<br />写真左のシルク氏に浴衣を贈った</span>
  </p>
<p class="text">　その広告代理店とは、株式会社電通とパテント・ビジネスを展開するユニ・インセンティブ株式会社である。電通は、ウィンブルドン・テニスのテレビ放映権を持つスポーツ文化事業部スポーツ部長である西郷隆美（故人）が先頭に立って、アイアンマン・レースの開催権の獲得でシルク側と交渉を重ねていた。一方、ユニは大坂のベアリング製造会社「共栄精工」を親会社の社長である高木省三が“アイアンマン”ブランドに強い関心を抱き、日本での大会誘致活動を展開していたのだ。<br />　シルクは、この両社との交渉を続ける一方で1984年11月に来日、日本でアイアンマン大会を開催する候補地として上った滋賀県琵琶湖周辺と千葉県館山市を中心とした南房総地域を矢後や市川と共に視察した。その結果、高木が誘致を狙っていた南房総での開催は館山市当局との条件が整わず、またシルク側も日本の契約相手として電通を選び、最終的に日本列島の中央部に位置する滋賀県・琵琶湖での開催となったのである。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
    <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/82f887682e4df0391da6bd75d9d25664.jpg"><img style="width: 240px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/82f887682e4df0391da6bd75d9d25664.jpg?width=240" width="240" /></a><br />
    <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞電通の西郷隆美氏（当時）</span>
  </p>
<p class="text">　アイアンマン大会に係わる一連の契約交渉を経てシルクと西郷は滋賀県の武村正義知事とも合意、85年6月の開催を目指し日本でのアイアンマン・レースの実現へと取り組みを開始した。かたやシルクとのビジネス交渉に破れた高木は矛先を替え、オリンピック・ディスタンス（総距離51．5Km）タイプのトライアスロン大会開催に向け国際トライアスロン連盟（略称FIT＝カール・トーマス会長）と連携、日本トライアスロン連盟（略称JTF＝長島茂雄会長）の発足と中山俊行を始めとした日本人エリート選手で構成する「チーム・エトナ」の編成を経て、85年10月に熊本県の天草市でショート・トライアスロン・シリーズ第1回大会を開くのである。</p>
<p class="text">　こうした国内外のアイアンマン・レースの開催要請に対し滋賀県が前向きに受け入れたのも、かねてから同県は琵琶湖の恵まれた自然環境と豊かな文化遺産を活用したプロジェクトを推進する「国民休養県構想」の実現に取り組んでおり、その一環として湖上スポーツをアピールしたイベントの開催も検討していたからである。だから、世界的に人気が高まっているトライアスロン、それもトライアスロン発祥の地のハワイで行われているアイアンマン・レースと同規模の大会を導入することに、県は躊躇することがなかった。</p>
<p class="text"><span style="float: left; padding-right: 10px;"><img class="fl" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/ba3cf7d802d4b7afd96a6bf967129bf1.jpg" alt="＜写真＞武村正義知事（当時）" height="178" width="158" /></span>　武村知事の命を受けて早速、県庁はもちろんのこと大会の拠点となる彦根市を始めとした関係市町村は開催へ向け行動を開始した。その第一弾として、中央官庁から派遣され同県の企画部長を勤めていた成瀬信孝を筆頭とする大会開催の為の大会準備室が県庁内に設置される。スタッフは企画部にあって専門委員の竹脇義成をリーダーに、同じく県の職員1名と、電通から西郷の部下の吉田と山内の2名、イベント・プロデュースを手掛ける電通・京都支局から永井と長沼の2名、合計6名によって、大会開催へ向け準備作業が始まったのだ。<br />　準備室の竹脇らがまず初めに手掛けたのは、スイム・バイク・ラン3種目のトライアスロン・ロケーションづくり、その為のコース探索である。大きな琵琶湖の周辺で、3種目の競技を何処でどのようにやれば良いか？　何しろ滋賀県も電通も初めてのこと、解らないことばかりである。そこでハワイ大会に出場、アイアンマンの経験がある矢後や市川も電通側のスタッフとしてコース探索に加わった。<br />　その結果、大会は彦根市と長浜市を中心とした琵琶湖の東岸並びに北岸を一帯とした地域で行い、琵琶湖周辺の美しい景観を生かしたロケーションを取り入れることとした。スイムの会場は彦根城を望む松原水泳場を利用し湖水を泳ぐ3.9Km、バイクは賎ヶ岳（しずがたけ）の麓に抱かれた余呉湖のほか横山岳や伊吹山の山麓を巡るアップダウンを盛り込んだ180.2Km、ランが奥びわスポーツの森や長浜市街を通る湖岸道路を利用する42.195Kmというアイアンマン・ディスタンスを完成させたのである。</p>
<p class="text">　コースづくりの一方で県を中心とした大会運営の為の組織化も進んだ。85年2月20日には組織委員会が結成され、大会要綱やスケジュールについて素案が提示、その５日後には成瀬を委員長とする実行委員会も開かれた。実行委員会には県の行政所轄窓口の担当者、それに彦根市・長浜市・山東町・伊吹町・米原町・近江町・浅井町・虎姫町・湖北町・びわ町・高月町・木之本町・余呉町の2市11町の担当課長、そのほか警察、消防、医師会、体育協会等の代表、電通の西郷やトライアスリートの矢後も名を連ねた。<br />　こうして滋賀県を始め多くの人々の参加、協力を得て、我が国では競技距離が最も長く、参加選手数も過去最大となるトライアスロン大会の概要が整ったのは、大会日から2箇月余り前の4月のことだった。その名も「IRONMAN　JAPAN　IN　LAKE　BIWA」。毎年10月にハワイ島コナ市で行われているアイアンマン・レースの出場権を賭けた姉妹大会として、来る6月30日（日曜日）に開催されることになったのである。</p>
<blockquote style="margin-top: 20px; margin-bottom: 60px;">
<p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p>
</blockquote>
<div id="columnKougi">
<h2 class="w_02">トライアスロン談義</h2>
<h3>バイキンみたいに敬遠された</h3>
<p class="name" style="text-align: center">竹脇義成</p>
<p class="text">　私がびわ湖のアイアンマン・ジャパンと関わるようになったのは、大会が開催された前年の1984年11月頃でした。大会の日本における開催権を握った大手広告代理店の電通から話があった訳ですが、その頃、滋賀県では「国民休養県構想」を基に琵琶湖の自然環境を生かした活用プロジェクトを推進していたこともあって、当時の武村正義県知事も我が国最大規模のトライアスロン・イベントに大きな関心を持たれたのです。そこで知事直属の企画部門で専門員として同構想に携わっていた私に白羽の矢が立ち、大会開催の為のコーディネーションを行う準備室のリーダー役を仰せつかりました。</p>
<p class="cap_serif" style="color: #b21111; font-weight: bold; margin: 30px 0;">「それにしても、この一大イベントを何処でどうやるのか？」</p>
<p class="text">　初めての経験に私はいささか戸惑いを感じながらも、まずはトライアスロンの3種目のコース選定から始めることにしました。即ち、ロケーションづくりです。スイムについては、もちろん琵琶湖を舞台とすることで全く問題はありません。大会本部並びに国内外の来賓が宿泊する彦根プリンスホテルをゴールとした松原水泳場をスイム・コースに選びました。そしてマラソンは、彦根から長浜城を経由して琵琶湖の美しい景観が望める湖岸道路を走るコースが最適と判断しました。<br />　しかし、最大の懸案はバイク・コースです。180Kmという長い道程をどのように設定するか苦心しました。それで私達スタッフは来る日も来る日も琵琶湖東北部の集落を巡り、まずは景色が美しく、テレビ映りも良い、適度なアップダウンがあるコースで、しかもエイドステーションの設置で地元市町村の協力が得られるルートの策定に取り組みました。この為、私達はコースづくりで延べ3,000Kmもクルマで走り回ったのです。</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
      <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/bf12c2d254ccd2ad7ad3d4abb1a6161e.jpg"><img style="width: 380px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/bf12c2d254ccd2ad7ad3d4abb1a6161e.jpg?width=380" width="380" /></a><br />
      <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞ニュージーランドの選手と写真に納まる85年当時の竹脇氏（写真左）</span>
    </p>
<p class="text">　さて、もう一つの懸案事項は、それら地元の市町村の方々を始めとする多くの関係者で構成する組織委員会並びに実行委員会の設置と会議の運営です。それら会議で交わされる意見は様々で、賛成もあれば反対もあるし、またいろいろな注文や課題が提起されます。誰もが初めからウェルカムではありません。ですから、そうした意見に応えつつ、関係者の意向を取りまとめ、大会開催に向け皆をその気にさせなければなりません。この為、私は関係者間を何度もお訪ねし、時には執拗に説得工作も行いながら、最終的に皆様には一定の理解と協力を得ることができました。<br />　その所為か、私は時に“バイキン”みたいに敬遠されたり、“タケワキ軍団”等とはやされたこともありました。でも県の為、県民の為、そして日本最大の湖「琵琶湖」を愛する多くの国民の為に、我が国で始めて行うアイアンマン・レースを何としても成功させたい一心で、いささかも臆することなく関係者と組織を動かすことに全力を捧げました。今考えれば、当時、私は40歳前半とまだ若く、もとより力量不足でしたが、関係者の皆様方に私の熱意を感じ取って戴くことができ、皆さんが一致協力して事に当たって下さったものと感謝しています。また、公務員の枠を超えて電通やスポンサーのヤンマーディーゼルといった民間企業とタイアップしたイベントを成し遂げたことが、大変、勉強になったし、後の仕事の自信にも繋がりました。</p>
<p class="cap_serif" style="color: #b21111; font-weight: bold; margin: 30px 0;">有り難う、アイアンマン！</p>
<p class="ph" style="text-align: center; margin: 30px 0;">
      <a target="_self" href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/2d7679a0fa7fa969a97ddf0d5ac1f1c6.jpg"><img style="width: 380px; border: solid 1px #ccc; padding: 4px;" class="align-full" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2013/06/2d7679a0fa7fa969a97ddf0d5ac1f1c6.jpg?width=380" width="380" /></a><br />
      <span class="cap" style="font-size: 90%;">＜写真＞竹脇義成氏近影（滋賀県高島市にて、13年3月撮影）</span>
    </p>
<div class="profile" style="border:solid 1px #ccc; margin-top: 10px; padding: 15px;">
<p class="name">【竹脇義成氏プロフィール】</p>
<p class="text">1943年、滋賀県安曇川町で生まれる。同志社大学商学部を卒業後、滋賀県庁入り。以来、主として企画並びに教育畑を歩く。1984年、企画調整課専門員の時、「びわ湖トライアスロン大会」を担当する。2003年、企画県民部長で定年退職した後は、「びわ湖ビジターズビューロー」の専務理事として、滋賀県の観光物産を振興するビジネスを展開し、その後、出身地の高島市において副市長を務める。現在は「滋賀県小型船協会」会長として、琵琶湖の観光並びに環境保全事業で活動中。</p>
</p></div>
</p></div>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.47：火神の巻　第5章その9：全島が完全燃焼した</title>
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		<pubDate>Tue, 06 Nov 2012 05:16:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[トライアスロン]]></category>
		<category><![CDATA[全日本トライアスロン宮古島]]></category>
		<category><![CDATA[宮古島]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f-1.jpg" alt="" class="fl bdr" />
勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の４月、南海の美ぎ島（かぎすま）で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。
　大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第１回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第5章その9</p>
<h3>全島が完全燃焼した</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f-1.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f-1.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の４月、南海の美ぎ島（かぎすま）で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。<br />
大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第１回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。</p>
</div>
<p>そして、いよいよラン、最後の決戦の場である。バイク・ゴールの平良市陸上競技場東側に設置されたエイド・ステーションをスタートして、東平安名崎方面の城辺町保良地区を折り返す日本陸上競技連盟公認の国内最南端マラソン・コースを駆け抜ける42.195Kmである。昼の12時頃には太陽が中天に達し、南の島らしい蒸し暑さが戻っていた。<br />
バイクをトップでフィニッシュした中山は素早く着替えを済まし、暑さ対策も兼ね白のサン・バイザーを深く被り、同じく白の短く切り詰めたラン・シャツという出で立ちで走り出した。その年の春に明治大学を卒業したが、トライアスロンに専念する為、一旦、決った就職先を断り、この宮古島大会での優勝、そして同年10月のアイアンマン・ハワイで好成績を残すべくトレーニングに励んできた。その答えを出す時がきたのだ。中山は２番手以下をかなり離し、５Kmをほぼ22分のペースで淡々と、県道78号線をひた走る。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/78e58fb7e7b79a1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6580" title="78e58fb7e7b79a1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/78e58fb7e7b79a1.jpg" alt="78e58fb7e7b79a1" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞マラソン・コースの県道78号線</p>
<p>　保良の折り返し点では、中山に続いて飯島、山本、城本、山下の順で折り返し、山本が好調に追い上げていた。だが中山は決して慌てることなく、エイド・ステーションでは歩きつつ水分補給をしながらも、独走のまま15時過ぎ、ゴール会場の陸上競技場にその姿を現わした。するとスタンドの観客は総立ちとなり、競技場内は「ワイドーワイド」の掛け声が響き渡ったのだ。中山は場内に入ってもスピードを緩めることなく、フィニッシュ・ラインでは右人指し指を挙げてゴール・テープを切った。トータル・タイム８時間８分52秒。８時間以内という自身の目標は達成できなかったが、見事な優勝レースであった。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e4b8ade5b1b11.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6585" title="e4b8ade5b1b11" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e4b8ade5b1b11.jpg" width="203" height="300" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞首位でフィニッシュする中山選手</p>
<p>　第２位には中山を兄貴のように慕い、東京・大井埠頭で共に練習に励んできた山本が、スイムの出遅れを物ともせずバイク、ランともに素晴らしい追走劇を見せ、中山とは約８分差でﾞフィニッシュ、第３位には山本に遅れること約13分差で飯島が入った。次いで山下がランで城本を抜き４位、５位が城本という順になったが、城本は初めてのトライアスロンで若手選手に混じってのゴールを自ら喜ぶかのように、走りながら帽子を何度も振って観客の声援に応えた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/10/e8a1a8e5bdb0e58fb01.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6579" title="e8a1a8e5bdb0e58fb01" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/10/e8a1a8e5bdb0e58fb01.jpg" alt="e8a1a8e5bdb0e58fb01" width="300" height="179" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞表彰台の選手達（写真右から中山、山本、飯島、山下、城本、高石、高山）</p>
<p>　歌手の高石ともや（43歳）は健闘して６位、ランのスプリットでトップ・タイムの３時間９分46秒を記録した高山信行（38歳）が７位、８位に若手のホープ井口太郎（22歳）、そして地元・城辺町の出身でミニ大会２位だった狩俣直司（26歳）が９位と大健闘し、ランナーに相応しい軽い足取りでゴールを駆け抜けた。女子では香港在籍のイギリス人、キム・イシャーウッド（26歳）が10時間５分28秒の総合42位でトップとなった。ちなみに日本人女子１位は、ランナー出身の後藤　翠（42歳）で総合順位は136位だった。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/kim1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6581" title="kim1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/kim1.jpg" alt="kim1" width="269" height="300" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞香港から来たキム・イシャーウッド</p>
<p>　こうした上位の選手達が夕方にかけて続々とフィニッシュした後、やがて陸上競技場が暗闇に包まれるようになると、ゴールを目指す選手の姿はまばらとなり、周囲も静まり返っていく。それでも何人もの選手達が一斉に手を繋ぎ合ってゴール・テープを切る時は、競技場内にさざめきが漂った。その際、競技運営委員会にあって記録部長を務めた池村盛良ら記録スタッフ達は、手を繋ぎ合い同時にゴールする何人もの選手達のコールと順位の確認に追われた。</p>
<p>トライアスロンが朝７時にスタートしてから、制限時間である16時間後の23時が刻一刻、迫ろうとする頃である。ゴール地点に控える大会役員達に、最終走者の名前が伝えられた。制限時間に間に合うかどうかは判らない。でも頑張って走り続ければ、ゴール・テープを切ることが出来そうであった。そんな事情を知ったのか、ゴール手前２Km地点辺りから地元の人々が、そのランナーを囲い込むかのように、声援を送りながら一緒に走り出したのだ。<br />
その最終走者は、兵庫県宝塚市からやってきたゼッケン186番、榊原良明（31歳）である。真っ暗闇となった平良市の道路を重い足取りで、息も絶え絶えに、ひたすらゴールへと向かっていた。いつ、その場に倒れ伏してもおかしくはなかったが、一緒に走りながら応援する地元の人々に引き連られるかのように進む。そして22時40分を過ぎた頃、榊原を取り囲む20名余の集団が、ついにゴール会場へ辿り着いた。</p>
<p><span style="color: #03f;">「ワイドーワイド、ワイドーワイド」</span></p>
<p>榊原を応援する掛け声が場内に鳴り響いた。その声援の響きは、暗闇の天を突き抜けるほどの気迫に満ちていた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6583" title="e6a68ae58e9f1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a68ae58e9f1.jpg" alt="e6a68ae58e9f1" width="300" height="141" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞最終走者のゴール・シーン</p>
<p>　勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の４月、南海の美ぎ島（かぎすま）で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第１回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e8a898e5bfb5e7a2911.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6582" title="e8a898e5bfb5e7a2911" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e8a898e5bfb5e7a2911.jpg" alt="e8a898e5bfb5e7a2911" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞スポーツアイランド記念碑</p>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #993300;">次回からは、宮古島大会から２箇月後の1985年６月に開催されたアイアンマン・シリーズ“アイアンマン・ジャパン・イン・びわ湖”の第１回大会について、その開催経緯や滋賀県など地元関係者の動静、日本人選手の活躍振り等を３回に亘って連載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名は総て敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h2>＜トライアスロン談義＞</h2>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #ffa500; font-size: 16px;">出会いに恵まれ感謝で一杯</span></p>
<p style="text-align: center;">池村　盛良</p>
<p>　宮古島でトライアスロン大会を開催する話が持ち上がった頃、私が所属していた宮古陸上競技協会（陸協）の会長だった豊岡静致先生は、同じく宮古体育協会（体協）の会長として体協の組織強化、立て直しに取り組んでおられました。そんな渦中、豊岡先生の命で私達が呼び集められ、陸協を中心に体協全体としてトライアスロンと取り組む意向が提案されたのです。<br />
その提案に私達は大分、戸惑いながらも、陸協として日本最南端の公認マラソン・コースを完成させ、同コースで沖縄県の高校駅伝大会を運営する等、大きなスポーツ・イベントで修練した経験もありましたので、<span style="color: #009933;">「やってやれないことはない」</span>と思いました。それと豊岡先生の<span style="color: #ffa500;">「島興しの為にやるのです」</span>というご意志に背く者は、誰一人としておりませんでした。“地域活性化”という言葉に、私達は弱かったのです。</p>
<p>こうしてトライアスロン大会の競技運営を担う部門として、スポーツ大会に熟知している陸協を核としながら体協全体で取り組む方針が定まり、私はトライアスロン３種目の競技計測と記録データを集計する記録部長を任じられました。そこでまず、信頼すべき陸協の後輩達を始め、同じ高校の教員仲間から出来そうな者を集めて協力を要請、一つの競技に10名づつ割り当てることとして３種目合計で約30名の記録スタッフを確保し、記録部の組織体制を築きました。<br />
しかし、私も含め記録部の誰もがトライアスロンというスポーツを見たことがありません。でも<span style="color: #009933;">「出来ない。やれない」</span>とは言えません。当時は皆生大会やハワイ大会が行われていましたが、その競技運営を知る由もないので、結局は自分達で試行錯誤するよりほかになかったのです。幸いその頃からプリンター付きのストップウォッチが普及していて、その便利な機械を活用すれば<span style="color: #009933;">「何とかなるだろう」</span>と思っていました。<br />
トライアスロン大会の参加選手を500名と想定し、その人数規模ならば校内マラソン大会で経験したように、選手がゴールインする度にストップウォッチをどんどん押しながら、ゼッケン番号をテープに録音していけば良いと考えました。実際、その方法で３種目とも計測しましたが、いざ集計の段になると、なかなか数合せが出来ないというか、スタートした選手の数とゴールした数が合わなかったりで、本人確認作業を含め随分と手間取ったことも事実です。</p>
<p>何よりも問題はスイムの記録でした。選手が何人が海へ入り、何人が完泳し、何人がリタイアしたかをその時その場で、出来るだけ早く確認作業を行うことは、競技管理者として最重要課題です。スイム競技が終了した後に、一人でも選手が海に残っていることは許されません。ところが、後々の大会でしたが、コール人数よりもゴール人数が少ないという由々しき事態が起こりました。この時は私達、競技役員も警察や海上保安の関係者も色めき立ったのですが、結局、コールで応えたものの海の荒れ具合を見て泳がずにホテルに戻っていた選手が判明し、胸を撫で下ろしたこともありました。また、初めて経験するバイク競技についても、スピードが速いので選手のゼッケン確認が難しく、相当、気を使いました。<br />
最後のランのゴールでは、複数の選手が手を繋ぎ合い同時にゴールする光景に記録スタッフは「どうしたら良いか？」戸惑いました。でも私は「彼らは着順を競ってはいない」と判断し、<span style="color: #009933;">「内側から順位をつけるよう」</span>指示したのです。すなわち“同タイム・着順あり”で今までやってきています。また後の大会では、同じアスリート同士、仲間同士、それに恋人やご家族等、応援団と共に一緒にゴールする微笑ましい光景が多く見られましたが、その度に記録スタッフ達は混乱を避けるよう努力しました。</p>
<p>こうして私達はトライアスロンを知らなかった故に競技運営を軽く引き受けてしまった節もありましたが、お陰で後々からいろいろ苦労を強いられることになった訳です。私は記録を第１回から第３回までを担当しその後、転勤先の那覇から戻ってからは総務を、第19回大会から水泳を担当し、第23回大会までトライアスロンの競技運営に携わらせていただきました。しかし、<span style="color: #009933;">「判断力、決断力に欠けたものは指導者にあらず」</span>との私の信念から、23回大会を最後にトライアスロンの役目を降りることにしました。<br />
その間、気も労力も沢山、使いましたが、トライアスロンを通じいろいろな方との出会いに恵まれ、感謝の気持で一杯です。そして、宮古島はトライアスロン大会のお陰で全国的にも知名度が上がったし、人と人との交流も盛んになりました。しかし、トライアスロン大会を島の大切な財産としていく為には、現状に甘んじることなく更なる創意工夫を重ねていく必要があるでしょう。末永く続けていく為にどうしたら良いか？　行政を始め関係者の方々の知恵と力が求められていると思います。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6b1a0e69d91e6b08f1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6584" title="e6b1a0e69d91e6b08f1" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6b1a0e69d91e6b08f1.jpg" alt="e6b1a0e69d91e6b08f1" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞池村盛良氏（10年２月、平良市の自宅にて撮影）</p>
<p>【池村　盛良氏プロフィール】<br />
1939年、平良市出身。琉球大学体育学部卒業。62年、宮古高等学校教員となり、以後、教職を務め、同校校長として定年退職する。スポーツは高校、大学時代は野球部員として活躍。教職の傍ら沖縄県陸上競技協会審判部長を勤める等、陸上競技の競技運営に携わる。第１回宮古島トライアスロン大会では記録部長を担当、以来、同大会競技運営委員会の総務部長、水泳本部長を歴任し、第23回大会を最後に大会役員を降板する。「身体づくりを通して幸福づくり」をモットーとする体育指導並びに普及啓蒙を実践してきた。</p>
</div>
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		</item>
		<item>
		<title>Vol.46：火神の巻　第5章その8：島の人々の声援に感謝</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Oct 2012 08:20:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>
		<category><![CDATA[宮古島トライアスロン]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2012/10/e5bf9ce68fb4-1.jpg" alt="" class="fl bdr" />
コースの沿道で郷土芸能の「クイチャー」を踊ったり獅子舞を舞ったり、法螺貝を鳴らしたり、「ワイドーワイド」の声援を送ったり、或いはエイド・ステーションで慣れない手付きながらバナナやお握り、水分等を手渡しする島の人々の熱い声援に、選手達は皆、感動と満足を味わいながらペダルを回すのだった。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第5章その8</p>
<h3>島の人々の声援に感謝</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/10/e5bf9ce68fb4-1.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/10/e5bf9ce68fb4-1.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">コースの沿道で郷土芸能の「クイチャー」を踊ったり獅子舞を舞ったり、法螺貝を鳴らしたり、「ワイドーワイド」の声援を送ったり、或いはエイド・ステーションで慣れない手付きながらバナナやお握り、水分等を手渡しする島の人々の熱い声援に、選手達は皆、感動と満足を味わいながらペダルを回すのだった。</p>
<p>　</p>
</div>
<p>正面に来間島を望む東急リゾート前の与那覇前浜ビーチから泳ぎ出した241名の選手達は、互いにぶつかり合いながら、時には左手からの潮流に押し流されながらも、限りなく透明な海中の美しさと、海面に閃く波の音に酔いしれながら、２個所の折り返し点を経由する３Kmのスイムに挑んだ。</p>
<p>　スイムがスタートとして15分頃には先頭を泳ぐ選手達の顔触れが定まり、沖縄海兵隊に所属するアメリカの選手、ステファン・チューニー（35歳）が先頭を牽いていた。次いで数メートル離れた位置で、優勝候補の一角と目される梅澤智久（22歳）が遅れまいと、単独２位を確保している。梅澤は埼玉でスイミング・コーチを務める等、水泳を得意としているだけに、さすが力量に相応しい力強いストロークで波を掻き分けていた。<br />
　梅澤から30mほど遅れた位置には、優勝候補ナンバーワンの中山俊行（22歳）ほか４名の選手達が続く。そんなスイム・レースを生中継するNHKの衛星放送には、ゲストとしてドーバー海峡横断を日本人として初めて成し遂げ、自らもトライアスロンに挑戦した経験を持つ大貫映子（てるこ）と、複合耐久種目全国連絡協議会専門委員の猪川三千生が招かれ、レースの流れや選手の紹介などトライアスロンに纏わるあれこれを解説していた。<br />
　スイムのスタートが切られて47分後、終始トップを泳ぎ続けたチューニーと２位の梅澤が共にゴール、次いで約２分遅れで脇　寛（26歳）が第３位で上がった。脇は三重県四日市の出身で、水泳の実業団大会400m自由形で８位の成績を持つスイマーである。優勝候補の中山は、４位の樋口稔浩（24歳）の後、スティーブン・マーチン（32歳）、ジョン・ロッコ（20歳）ら外国勢と共に６番手で上がった。トップとの差は時間にして丁度３分、次のバイクで挽回できる位置だった。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e382b9e382a4e383a0e7abb6e68a80.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="スイム競技" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e382b9e382a4e383a0e7abb6e68a80.jpg" alt="スイム競技" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞スイムで溺れる者も出た</p>
<p>　その後、続々とゴールする選手達を地元のボランティア500名余が、拍手をもって前浜ビーチや東急リゾート内に設置されたトランジション・エリアで迎える。トライアスロンのスイム・ゴールでよく見られる賑やかな景観が繰り広げられた。<br />
　しかし、心配されたスイムの事故が発生、大会役員及びボランティアは懸命な対応に追われる。競技が開始されてから30分も経たないうちに、コース途中で溺れた選手がライフガードらによって救助され、それからというものリタイアした選手が次々と医療テントへ運び込まれた。スイムの関門はスタートしてから１時間半の９時30分、この間、不慣れな海での水泳で海水を何度も呑んだり、水中バトルや低い海水温の影響で溺れてしまったのだ。<br />
　代議士がトライアスロンに挑戦するとの前評判で注目されたゼッケン11番の小杉　隆（49歳）は，何とか完泳したものの長時間のスイムの所為か、海から上がったトランジション・エリアのテントの中で、しばらく全身の震えが止まらず蹲っていたという。結局、スイム・レースで溺れた者、制限時間に間に合わなかった者、或いはゴールしたけれど次のバイク・レースを棄権した者等、失格者は13名に達し、このうち６名は救急車で運ばれた。こうした事態に医療班はもちろん、役員ボランティア達は救急車のサイレンが鳴り響く度に、異常な緊張を強いられた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e382b3e383bce382b9e59bb3e68ba1e5a4a7.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="大会コース図" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e382b3e383bce382b9e59bb3e68ba1e5a4a7.jpg" alt="大会コース図" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞大会コース図</p>
<p>　午前10時、再びNHKの衛星放送が始まり、テレビ・カメラはバイクでトップを走る梅澤を、オートバイと空を飛ぶヘリコプターの両方から捕らえていた。バイク・スタートから80Km付近の映像では、すでに梅澤はチューニーを抜き去り、単独トップでバイク・コース２周回目に入っていたのである。<br />
　だが、梅澤は疲れていた。懸命にペダルを回すもののスピードはいまひとつ上がらず、時折、オレンジ色のバイクがふらついた。その梅澤を５分遅れで中山が迫っている。</p>
<p><span style="color: #03f;">「少しでも中山君との差をつけて、最後まで逃げ切りたい」</span></p>
<p>　きっと梅澤は、そんな思いで必死にペダルを漕ぎ続けたに違いない。大学生時代は中山と同じ自転車競技部で鍛えてきたが、中山には一歩、及ばないことを自ら承知している。「だから得意のスイムで、できる限り中山との差をつけて、さらにバイクも互角で勝負し、最後の最後まで逃げ切ろう」という思いが、必要以上に力みを生んでしまったようだ。疲れは見る見るうちに梅澤の身体を襲い、トップを牽く意欲を失わせていた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e38390e382a4e382afe382b3e383bce382b9e5b9b3e5ae89e5908de5b48e.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="バイクコース&#038;平安名崎" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e38390e382a4e382afe382b3e383bce382b9e5b9b3e5ae89e5908de5b48e.jpg" alt="バイクコース&#038;平安名崎" width="300" height="500" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞東平安名崎を望むバイク・コースと美しい東平安名崎の海</p>
<p>　1983年の第３回皆生トライアスロン大会では中山を退けて総合優勝を飾り、我が国トライアスロン界に名乗りを挙げた梅澤は、その年のアイアンマン・ハワイでは中山に続く日本人第３位となった。すなわち83年が、我が国トライアスロン界において若きエリート選手が登場した年であり、その代表選手として同年齢の梅澤と中山が雌雄を決する戦いを繰り広げたのだ。<br />
　その２年後の宮古島で、スイムで中山より先行しバイク・コースをひた走る梅澤の気合と、それを追う中山の気迫は並々ならぬものがあったに違いない。しかし、この２人のトップ争いは、ついに２周回目の東平安名崎の折り返し手前で中山がへばっている梅澤を追い抜き、そのまま独走態勢を築いたのである。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e4b8ade5b1b1e381aee78bace8b5b0.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="力走する中山選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e4b8ade5b1b1e381aee78bace8b5b0.jpg" alt="力走する中山選手" width="300" height="400" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞力走する中山選手</p>
<p>　宮古島は朝方、雲に覆われ、北よりの風が吹いて寒かったが、梅澤と中山がデッドヒートしていた頃には陽も出始め、気温も30℃へと上昇していた。４月とはいえ南の島の宮古島トライアスロンは暑さとの戦いでもあるが、そんな厳しいバイク・レースが選手達に強いられるコンディションとなった。<br />
　しかし、バイク・コースの沿道で郷土芸能の「クイチャー」を踊ったり、獅子舞を舞ったり、法螺貝を鳴らしたり、「ワイドーワイド」の声援を送ったり、或いはエイド・ステーションで慣れない手付きながら水分やお握り、バナナ等を手渡しする島の人々の熱い声援に、選手達は皆、感動と満足を味わいながらペダルを回すのだった。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e5bf9ce68fb4.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="応援" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e5bf9ce68fb4.jpg" alt="応援" width="400" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞住民の熱い声援に選手達は喜んだ</p>
<p>　宮古島をほぼ２周回する136Kmのバイク・レースは、結局、中山が４時間52分で１位、次いで梅澤、３位に高校体育教師の飯島健二郎（25歳）、以下、自転車競技出身でトライアスロン初挑戦の城本徳満（31歳）、法政大学の学生で３月のミニ大会を制した山本光宏（21歳）、郵便局勤務の山下光富（27歳）と続いた。いずれも、この当時の日本を代表するトップ・トライアスリート達である。<br />
　梅澤はバイクまで健闘したものの脱水症状が激しく、救急テントで点滴を受けた状態でリタイアした。1980年代後半の我が国トライアスロン界において活躍した梅澤は、口数も少なく多くを語らない物静かな男だったが、その分、胸の内はいつも激しく燃える闘志を内に秘めた選手だった。今や故人となった梅澤選手の健闘を偲ぶばかりである。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a285e6bea4.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="梅澤選手" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e6a285e6bea4.jpg" alt="梅澤選手" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞今は亡き梅澤選手（写真右から梅澤、村上純子、篠田昌也、宮塚英也の各選手。1988年４月、ゴールドコーストにて撮影）</p>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #993300;">引き続き宮古島大会のラン・レースの模様とトップ選手達の活躍振りを紹介すると共に、＜トライアスロン談義＞では競技運営委員会にあって記録部長を務めた池村盛良氏の苦心談を掲載します。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名は総て敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h2>＜トライアスロン談義＞</h2>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #FFA500; font-size:16px;">「ハラハラ、ドキドキ」の一日だった</span></p>
<p style="text-align: center;">長濱　博文</p>
<p>　トライアスロン大会を開催する話が取り沙汰されていた1984年夏、平良市役所職員の私が、よもやトライアスロン大会に関わることはあるまいと思っていました。しかし、当時の私が陸上・中長距離選手のクラブ「宮古長距離同好会」の会長として島の中長距離競技の育成・強化に携わっていく立場だったからでしょう。トライアスロン大会開催の為の実行委員会の結成総会が開かれた11月27日に、大会事務局員として宮古広域市町村圏協議会へ出向することになったのです。</p>
<p>　事務局においては、大会の競技運営を担当する班長としての役割を任ぜられ、３種目の競技のあり方や運営方法、或いは競技を安全に行う為のマニュアル作りや講習会の開催等に奔走しました。とにかく、私だけでなく実行委員会の誰もがトライアスロンのことは初めてなので、どのようにして行うか？　全く解らず、総て一からの作業でしたし、第一「やる」と決めてから開催日までわずかな日数しか残されていません。<br />
　大会競技役員の配置を始め競技ルールの細則、各種目ごとの安全対策や運営マニュアルについて何度も何度も検討を行い、片や道路使用許可では警察当局との折衝も役員総出で根気強く続けました。大会要項を作る際にも各スポンサーからの要望がいろいろありましたし、警察からは「冠大会はノー」との指示も受ける等で、仕事は遅々として進みませんでした。それでも年末ギリギリになって警察の許可が下り、大会要項を年内中に発送できた時は、ホッと胸を撫で下ろしました。<br />
　その一方、アドバイザーとして来島された複合耐久種目全国連絡協議会の方々からマラソンの競技距離について短縮したい旨の要望が出され、一旦は30Kmとすることで纏まったものの、今度はNHKからクレームが付き、結局は42.195Kmのフルで行うこととなったのです。そんな「ああでもない、こうでもない」の連続で、時として胃が痛む日々が続いたり、夢で魘（うな）されることもありましたが、年を越した85年１月30日の第６回競技運営委員会で最終的な方針が決定された時は、安心の上に“ド”が付くほど精神的に楽になりました。</p>
<p>　そして、私も選手として参加した３月のミニ大会を経て、ようやく本番の大会を迎えることが出来ました。ところが、大会当日の朝、NHKが衛星放送を開始しようとした直前、大会本部の電源がオーバーヒートして切れてしまい、最初から「ハラハラ、ドキドキ」のドラマが始まったのです。</p>
<p><span style="color: #993300;">「これで全国放映はどうなってしまうのか」</span></p>
<p>　大会の役員達は皆、オロオロするばかりです。本部の放送電源を切ることによって急場を凌いだかと思うと、次は大会役員の弁当が足りないとのことで手配に追われてしまい私本来の業務に就けなかったり、スイム競技が始まって間もなく溺れた選手が次々と医療テントに収容され、今度は救護支援に大わらわとなりました。救急車のサイレンが鳴り響く度に、私の胸の動悸は一気に高まりました。結果的に救急車で運ばれた選手は６名だけでしたが、私には何十人も運ばれたような気が致しました。</p>
<p><span style="color: #993300;">「果たして、今日の大会は、どうなってしまうのか。今回限りで終わりかも知れない。来年の開催はないだろう」</span></p>
<p>　鳴りっぱなしのサイレン音を聞きながら、そんなことが頭の中を過ぎりました。でも、医療スタッフの懸命な救護活動により、最後の一人が口から潮水を吐き出した時は、本当に安堵しました。その後、私は最終ゴール地点の陸上競技場との間を大会用のバスで何度か往復しつつ、選手達のサポートや会場内の整理に携わりましたが、スイム競技での疲れがドッと出てしまったのか、バスの中では居眠りをしたり、一時は何もやる気がなくなるほどでした。</p>
<p>　そんな「ハラハラ、ドキドキ」の一日がようやく幕を閉じました。でも、トップでゴール・インする中山選手を競技場の観衆が総立ちとなって迎え入れる様子に胸の高鳴る思いをしましたし、最終走者の榊原さんを島の人達が見守るように一緒に走るシーンを見て、改め島民が一丸となって選手達に熱い声援を送り、かつ大会運営を支えてくれたことに、言い知れぬ感動を覚えました。</p>
<p><span style="color: #993300;">「やって良かった！　島民の皆さんが一つに纏まり一生懸命やったお陰だ」</span></p>
<p>　私は、大会が無事に終了した充実感に満たされていました。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e995b7e6bfb1e6b08f.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="長濱博文氏" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/11/e995b7e6bfb1e6b08f.jpg" alt="長濱博文氏" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞長濱博文氏（10年２月、平良市にて撮影）</p>
<p>【長濱　博文氏プロフィール】<br />
1949年、平良市出身。22歳から陸上・中長距離競技を始める。フル・マラソンでは２時間54分のタイムを持つ。1973年、平良市の職員として採用され、宮古島トライアスロン大会の開催が決定された84年11月に大会事務局員として宮古広域市町村圏協議会へ出向。以来、大会事務局の仕事に携わり、第８回大会から第12回大会及び第22回・23回大会まで事務局長として活躍する。また、第13回大会から第19回大会まで宮古体育協会の理事長として競技運営委員会総務部長の役を担当するなど、宮古島トライアスロン大会を23年間に亘って支えてきた。</p>
</div>
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		<title>Vol.45：火神の巻　第5章その7：祭りが始まった</title>
		<link>https://www.tri-x.jp/6369</link>
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		<pubDate>Wed, 16 May 2012 08:25:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[tri-x_admin]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本トライアスロン物語]]></category>

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		<description><![CDATA[<img src="https://www.tri-x.jp/article/wp-content/uploads/2012/05/e5a4a7e4bc9ae3839de382b9e382bfe383bc-1.jpg" alt="" class="fl bdr" />
1981年に鳥取県米子市の皆生温泉で始まった「皆生大会」に次いで、日本のトライアスロン史上に残る「宮古島大会」が、ＮＨＫの衛星放送を交え今、火蓋を切った。老いも若きも、男も女も、誰もが挑戦できる、誰もが等しく楽しめるトライアスロンというスポーツ・イベントが、遥か南海の美ぎ島（かぎすま）で朝の７時から夜の11時まで丸一日を費やし、繰り広げられたのである。その日、宮古島の人々は、新しい祭りの誕生を喜び、クイチャーを踊り続けた。]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<div id="mainColumn">
<h2 class="w_02">日本トライアスロン物語</h2>
<blockquote style="background-color: #f9f9f9; border: solid 1px #ccc;"><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<p class="top_cap" style="font-size: 0.9em; color: #848484; margin-bottom: 7px; font-weight: bold;">火神の巻 第5章その7</p>
<h3>祭りが始まった</h3>
<div class="bassui" style="background-color: #f6f6f6; padding: 8px 10px; margin-bottom: 30px;"><strong>【この記事の要点】</strong><br />
<a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e5a4a7e4bc9ae3839de382b9e382bfe383bc-1.jpg" target="_self" rel="lightbox"><img class="fl bdr" style="border: solid 1px #ccc; padding: 4px; float: left;" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e5a4a7e4bc9ae3839de382b9e382bfe383bc-1.jpg" alt="" width="100" /></a></p>
<p class="clearfix" style="margin-left: 120px;">1981年に鳥取県米子市の皆生温泉で始まった「皆生大会」に次いで、日本のトライアスロン史上に残る「宮古島大会」が、ＮＨＫの衛星放送を交え今、火蓋を切った。老いも若きも、男も女も、誰もが挑戦できる、誰もが等しく楽しめるトライアスロンというスポーツ・イベントが、遥か南海の美ぎ島（かぎすま）で朝の７時から夜の11時まで丸一日を費やし、繰り広げられたのである。その日、宮古島の人々は、新しい祭りの誕生を喜び、クイチャーを踊り続けた。</p>
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</div>
<p>1985年（昭和50年）４月28日（日曜日）、祭りの日がやって来た。宮古島はサトウキビの収穫を終え、夏の季節を迎えていた。東急イン事業部・販売促進課長（当時）の田中清司が宮古島でのトライアスロン大会の開催を提案、次いで琉球新報社が乗り出し、遂に地元の宮古市町村圏協議会が開催への取り組みを開始した84年夏から、早くも９箇月が経った。短い準備期間だったが、島は一丸となって国内外のトライアスリートを迎える態勢を整えたのだ。<br />
参加選手は全部で241名。応募総数310名から選ばれた選手達で、男子が224名、女子が17名、うちイギリス（香港）、アメリカの２カ国から合計11名の選手がエントリーした。選手の年齢は沖縄県から参加の19歳が最年少、最高齢がゼッケン1番の複合耐久種目全国連絡協議会・代表幹事の清水仲治（63歳＝当時、以下同）である。<br />
同じくゼッケン２番には日本で初めてアイアンマン・ハワイに出場、完走した熊本の永谷誠一（58歳）、同３番には宮古島大会のテーマ曲「永い道」を作詞、作曲したシンガーソング・アスリートの高石ともや（43歳）、同11番には国会議員の小杉　隆（49歳）、そして３月のリハーサル大会で優勝した山本光宏（21歳）はゼッケン10番、同じく出場、完走した肥後照一（48歳）はゼッケン51番、また地元・宮古からはゼッケン112番の狩俣直司（26歳）ら計17名が出場する。<br />
大会は、スイムが与那覇前浜ビーチ前の海を３Km泳ぎ、バイクが宮古島をほぼ２周回する136Kmを疾走し、ランが日本陸上競技連盟公認の国内最南端のマラソン・コース42.195Kmを駆け抜ける。スタートが午前７時で、制限時間は16時間後の午後11時である。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e38391e383b3e38395e383ace38383e383882.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6410" title="e38391e383b3e38395e383ace38383e383882" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e38391e383b3e38395e383ace38383e383882.jpg" alt="e38391e383b3e38395e383ace38383e383882" width="300" height="203" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞選手達に配られた第１回大会のパンフレット（表紙）とコース図</p>
<p>スイムとバイクのスタート地点となった東急リゾートの庭には幾つものテントが張られ、そこに医師団や救急隊、ボランティアが配置され、まだ夜の明けぬうちから準備に追われた。そして医療部の２つのテントには５つほどのベッドを備えられたほか、傍らには補助救急車も配置されるなど、緊急事態に対応する体勢も整えられた。医療班を統括する宮古地区医師会の下地常之副会長は「万全を期した」との自信を深め、夜の明けるのを待った。<br />
しかし、まだ夜が明けない朝の空気は寒い。とりわけ、この日は北東の風が吹き、例年になく寒かった。そんな中、別のテントでは午前５時から選手登録・受け付けが始まる。ところが、肝心の照明器具が用意されていない。仕方なく、クルマの前照灯でテントの周囲を照らした。照明の問題は、それだけではなかった。<br />
選手の受け付けが終了し、ＮＨＫの衛星放送が開始されようとする頃、突然、東急リゾートの電源ヒューズが飛んだのだ。停電である。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「停電だぁ！　本部の放送が切れてしまった。ＮＨＫの放送も出来なくなる。どうしよう」</span></p>
<p>本部周辺に居る実行委員会の役員や事務局の面々は慌てた。否、うろたえた。停電の原因は大会本部の放送とＮＨＫの電源が一緒だった為、オーバーヒートしたのである。そこで競技運営委員会・副委員長並びに総務部長として競技全体を統括する宮国　猛が指示した。</p>
<p><span style="color: #03f;">「ＮＨＫの電源は切れないから、本部放送を切れ。代わりに電源コードを持ってこい」</span></p>
<p>結局、下地町役場（当時）から電源コードを持ち出し、事無きを得たのである。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e5898de6b59ce38393e383bce38381.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6376" title="e5898de6b59ce38393e383bce38381" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e5898de6b59ce38393e383bce38381.jpg" alt="e5898de6b59ce38393e383bce38381" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞スイム会場となった東急リゾート前の与那覇前浜ビーチ</p>
<p>朝６時48分30秒、ＮＨＫの衛星放送が開始され、与那覇前浜ビーチの白い砂浜と青い海がテレビ画面一杯に映し出された。</p>
<p><span style="color: #32CD32">「水泳、自転車、マラソンの距離181.195Kmを一人でこなそうという、とてつもない新しいスポーツ種目、第１回全日本トライアスロン宮古島大会の模様を、今日は朝７時から夜の11時まで放送衛星を使って皆様のお茶の間にお届けします」</span></p>
<p>ＮＨＫアナウンサーの宮本隆治が片手にマイクを持って発声した。そして、清水仲治や長野県から参加した林　貞治、敦子夫妻などにマイクを向け、大会に臨む意気込みを聞いて回った。</p>
<p>空は鉛色の雲に覆われ、やや北よりの風が吹いている。気温は20.７℃と、例年よりも寒い。大会本部の発表で水温は24℃、波もなく視界は良好、昨日まで強かった潮流も緩やかになっていた。宮古地区医師会の会長で大会の医療部長を務める宮里不二雄もゴーサインを出した。</p>
<p><span style="color: #ff6600;">「バーン」</span></p>
<p>スタートの合図のピストル音がビーチに広がった。色とりどりのスイム・キャップを被った241名の選手達が青い海に向かって泳ぎ出す。続いて、花火の爆竹音が空に響いた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e382b9e382a4e383a0e383bbe382b9e382bfe383bce38388.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6374" title="e382b9e382a4e383a0e383bbe382b9e382bfe383bce38388" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e382b9e382a4e383a0e383bbe382b9e382bfe383bce38388.jpg" alt="e382b9e382a4e383a0e383bbe382b9e382bfe383bce38388" width="300" height="253" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞一斉に泳ぎ出す241名の選手達</p>
<p>1981年に鳥取県米子市の皆生温泉で始まった「皆生大会」に次いで、日本のトライアスロン史上に残る「宮古島大会」が、ＮＨＫの衛星放送を交え今、火蓋を切った。老いも若きも、男も女も、誰もが挑戦できる、誰もが等しく楽しめるトライアスロンというスポーツ・イベントが、遥か南海の美ぎ島（かぎすま）で朝の７時から夜の11時まで丸一日を費やし、繰り広げられたのである。その日、宮古島の人々は、新しい祭りの誕生を喜び、クイチャーを踊り続けた。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e382afe382a4e38381e383a3e383bc.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6372" title="e382afe382a4e38381e383a3e383bc" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e382afe382a4e38381e383a3e383bc.jpg" alt="e382afe382a4e38381e383a3e383bc" width="284" height="300" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞クイチャーを踊る地元の人々</p>
<p>《次回予告》<br />
<span style="color: #993300;">今回に引き続き全日本トライアスロン宮古島大会の第１回大会のレース模様と、選手、役員達の活躍をレポートします。また＜トライアスロン談義＞では、実行委員会事務局の第一線で活動し、大会の成功に奔走した長濱博文氏の苦心談を掲載する予定です。</span></p>
<blockquote><p>※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。</p></blockquote>
<h2>＜トライアスロン談義＞</h2>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #FFA500; font-size:16px;">宮古島は第二の故郷</span></p>
<p style="text-align: center;">肥後　照一</p>
<p>私がトライアスロンの世界に入った切っ掛けは、体重が10Kgほど増えてしまい、健康に留意しなければならないと思った43歳の時でした。中高校生時代、陸上長距離走が得意だったこともあって、私は自宅からすぐ近くの多摩川の土手をトレーニング場にジョギングを始めました。そして翌年の1981年、熊本の天草で行われた第９回パール・マラソン大会に出場、10Kmを約41分で完走しました。生まれて初めてのスポーツ大会でしたが、完走して私はこう思いました。</p>
<p><span style="color: #993300;">「これは面白い。ならば次はフル・マラソンに挑戦してみよう」</span></p>
<p>初めてのマラソン大会の完走で、すっかり気を良くした私は、同じ年に静岡県の磐田市で行われていた42.195Kmのマラソン大会に出場し、３時間43分で走り切りました。それで、またまた気分を良くした私は、</p>
<p><span style="color: #993300;">「水泳は子供の時代から郷里の河川で泳いでいて、自己流ながら結構、得意だし、フル・マラソンも走れた。ならば、あと自転車さえ乗れるようになれば、トライアスロンも出来るのではないか！」</span></p>
<p>まったくもって怖さを知らないというか、無謀にも私は翌82年７月の第２回皆生トライアスロン大会への出場を決めました。そして多摩川の土手のサイクリング・ロードで、マラソンと自転車の練習に励みました。兎に角、何もかにも初めてのことなので、雑誌を読んだり、人の話を聞いたり、いろいろなことを学びながら、何とか皆生トライアスロンを総合43位で完走することが出来ました。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e3838fe383afe382a4e383bbe382b4e383bce383ab.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6375" title="e3838fe383afe382a4e383bbe382b4e383bce383ab" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e3838fe383afe382a4e383bbe382b4e383bce383ab.jpg" alt="e3838fe383afe382a4e383bbe382b4e383bce383ab" width="225" height="300" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞アイアンマン・ハワイのランでラスト・スパートを駆ける肥後氏（写真右）</p>
<p>こうなると、次の目標はハワイで行われているアイアンマン・レースです。すでにエントリーを済ませていた私は、さらにトレーニングを積み重ね、82年10月の大会に出場、トータル13時間58分18秒、総合519位で完走しました。呑気にトライアスロンを楽しむことが身上の私は、バイクでは２時間走るごとに休憩を入れながら、当初想定した通りのタイム（14時間）でフィニッシュしたのです。<br />
アイアンマン・ハワイへは参加は、これ一回限りですが、それからというもの私はトライアスロンにのめり込み、82年～84年まで皆生大会に連続出場しました。そんな折、私の耳に「宮古島トライアスロン」という言葉が入ってきたのです。</p>
<p><span style="color: #993300;">「よし！　このトライアスロン大会には、何がなんでも出よう」</span></p>
<p>来年４月に宮古島で初めてトライアスロンが行われると聞いた私は、はったと手を打って喜びました。大袈裟に言えば、このトライアスロン大会は自分の為に開かれるとさえ思ったほどです。だから、なんとしても大会に出場、完走しようと決意したのです。<br />
それというのも、宮古島の人々と私達家族は切っても切れない繋がりを持っていたからです。宮古島は、第1回トライアスロン大会の模様がＮＨＫの衛星中継で放送された為、全国的に知られた訳ですが、私達はもっとそれ以前から宮古島の方々と親しく交流し、まさに友達同士、親戚同士のようなお付き合いを続けていたのです。<br />
と申しますのも、まず妻の叔父さんが宮古島で戦病死した為、折りに振れ墓参りをしていたし、義理の妹（弟の嫁）が宮古出身だったこと、さらに私の息子達が全寮制の中高一貫校時代に宮古出身の男子生徒３人と同窓生だったからです。３人の生徒とは、ひとりは野津商事の息子さん、ひとりは平良市の伊志嶺市長の息子さん、もうひとりが宮古医師会の宮里会長の息子さんです。しかも私は全日空の当時、下地空港でパイロット訓練の査察業務をしていたという、懐かしい思い出を持っています。</p>
<p>ですから、宮古島は私の第二の故郷とさえ言ってもよく、その宮古島でトライアスロンが開催されると聞いて、身体の中から熱い血が沸き上がるような思いに駆られました。それで４月の本番大会前の３月に行われるミニ大会への出場も決めるなど、この年からトライアスロンでの宮古島通いが始まったのです。そして記念すべき第１回大会は、総合46位で完走しましたが、何よりも嬉しかったのは、コース上に私への応援横断幕が古波蔵建設（妻の短大同窓生の実家）から３枚も張り出されていたことです。また、その後の大会でも、９枚もの横断幕が掲げられたこともありました。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e8a1a8e5bdb0e78ab6.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6371" title="e8a1a8e5bdb0e78ab6" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e8a1a8e5bdb0e78ab6.jpg" alt="e8a1a8e5bdb0e78ab6" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞宮古島大会を連続20回出場した記念の表彰状</p>
<p>以後、宮古島へは妻をはじめ家族共々、今日までに39回、足を運びました。選手として大会には20回、連続出場しましたが、そのうち６回はランに入ってリタイアするという不名誉な記録も残しています。体質の所為でしょうか？　飲む水の匂いさえ辛くて吐き出してしまうなど、何故か、ランに入るとエイド・ステーションの給水・給食を受け付けなくなってしまうのです。<br />
最後の出場となった2004年の第20回大会では、ランの５Km地点で足が止まり、妻が用意してくれたソフト・アイスクリームも受け入れることが出来ず、無念のリタイアとなりました。そして、この第20回宮古島大会を最後に、出場の年齢制限もありましたが、自分の体力の衰えも覚え、私のトライアスロン人生は幕を降ろしました。もう二度と宮古島トライアスロンには出場できませんが、でもこれからも、私達家族の第二の故郷として機会あるごとに宮古島を訪れ、宮古の人達の優しく厚い人情に触れながら生きていきたいと思っています。</p>
<p><a href="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e882a5e5be8ce5a4abe5a6bb.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-6379" title="e882a5e5be8ce5a4abe5a6bb" src="https://www.tri-x.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/e882a5e5be8ce5a4abe5a6bb.jpg" alt="e882a5e5be8ce5a4abe5a6bb" width="300" height="225" /></a></p>
<p style="text-align: center;">＜写真＞共にトライアスロン人生を歩んでこられた肥後ご夫妻（12年３月、東京・蒲田の自宅にて撮影）</p>
<p>【肥後　照一氏プロフィール】<br />
1937年、鹿児島県伊佐市出身。県立大口高等学校を卒業後、航空自衛隊に入隊、飛行機の操縦パイロット並びに教官として６年間、勤務した後、全日本空輸株式会社（ＡＮＡ）へ入社する。31歳の時、機長となり、60歳の定年まで国内外の空を飛ぶ。飛行時間は２万1,600時間に及ぶ。現在は妻、子供４人、孫10人に囲まれて元気に暮らす。</p>
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