TOP > 連載コラム > 日本トライアスロン物語 > Vol.52:火神の巻 第6章 その5:エリート達は天草へ向かった

Vol.52:火神の巻 第6章 その5:エリート達は天草へ向かった

日本トライアスロン物語

火神の巻 第6章その5

エリート達は天草へ向かった

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

【この記事の要点】
大会シンボル・マーク

中山俊行を始めとしたエリート選手達はプロの道を目指すと共に、JTS並びにUSTSへの参戦を目的に、4月にはトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成した。“チーム・エトナ”の誕生である。そして、チームを支える監督役として猪川三一生が就任した。猪川や中山は、JTSのショート・トライアスロン大会を開催する為、開催候補地についてトライアスリートの先駆者である永谷誠一に相談を持ち掛け、その結果、天草半島でのトライアスロン大会の開催が決ったのだ。

 天草大会が開催される前年の1984年後半から85年前半に掛けて、我が国トライアスロン界は、その底辺で大きなうねりを携え始動していた。トライアスロンを愛好するアマチュア・アスリートによるクラブ活動を始め、トライアスロン・ブームに乗じた全国各地での大会開催計画、それに全国トライアスロン協議会の結成など組織化の動きが盛んになっていたのである。その一方、海外遠征の体験を踏まえ世界と戦えるとの自信を得た我が国エリート選手の中には、トライアスロン大会の賞金獲得をも視野に入れたプロフェッショナルとして、トライアスロンに取り組む機運も高まっていた。
その時代の中心的な役割を担っていたのが、明治大学の学生であり我が国トライアスリートの先頭を切っていた中山俊行である。中山は84年のアイアンマン・ハワイで総合17位、世界の舞台で戦える力を内外に知らしめると共に、同年12月のカウワイ・トライアスロン大会で8位入賞し賞金300ドルを獲得する等、押しも押されもせぬ日本を代表するトップ・トライアスリートとして君臨した。


85年の第1回宮古島大会で優勝した中山俊行選手

 しかし、中山は翌年の春には企業へ就職し一般の社会人となる。すでに就職先も決っていて、そうなればトライアスロンの選手として引き続き活躍していけるかどうかは保証の限りではない。カウワイで賞金を獲ったように、もっと修行すれば世界のトップ・トライアスリート達と肩を並べ、トライアスロンで生活していけるかも知れない。トライアスロンを始めた頃、大学卒業後は就職する積もりだったが、その気持が今は変わった。1985年3月、トライアスロンのプロフェッショナルとしてアスリート修行を続けようと決意した中山は、大学卒業旅行にニュージーランド・アイアンマン大会へ単独、遠征し、そして見事、6位入勝を果たしたのである。

 そんな中山に声を掛けたのが、83年の皆生大会やハワイ大会で知り合い、同じJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)の仲間でもあった東京支部長の猪川三一生(みちお)である。猪川は84年12月にJTRCを脱会しATC(全日本トライアスロン・クラブ)を結成、副会長に就任した現役のアマチュア・トライアスリートだが、勤務先のJAL(日本航空株式会社)との関係からショート・トライアスロン大会の開催と運営を計画しているJTF(日本トライアスロン連盟=長嶋茂雄会長)の協力要請に応じた。すなわち、USTS(米国トライアスロン・シリーズ)の日本版JTS(ジャパン・トライアスロン・シリーズ)を展開する為の主導的な役割を要請され、JTFの運営メンバーに加わったのである。
猪川は、85年2月に東京・品川区の区立勤労福祉会館にエリート選手だけで構成する「トライアスロン選手会」の会合を開いた。猪川が纏め役となり、発起人として中山を始め梅澤智久、山本光宏らが名を連ねた。そして、集まったトライアスリート達はプロの道を目指すと共に、JTS並びにUSTSへの参戦を目的に、4月にはトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成することとした。“チーム・エトナ”の誕生である。


83年アイアンマン・ハワイの猪川三一生氏(写真右)と中山選手(写真中央)

 また、チームを運営サポートするのが、エトナ・ライセンシング株式会社であり、東京・渋谷の代官山のマンションに本部を置くJTFと所帯を共にする。エトナとは、後援するマーケティング企業の社名で、その正社員として中山は事務作業や普及・宣伝活動に従事した。給料も大卒並みの報酬が得られ、社会人として何とか独立することが出来た。
こうした経緯を経て結成された“チーム・エトナ”の最初のメンバーは、中山俊行、飯島健二郎、横井信之、山下光富、山本光宏の5名である。彼らにはJTS やUSTSの大会遠征費用が拠出されたほか、レースウェアやバイク、シューズ等、チーム・カラーのグッズが支給された。そして、チームを支える監督役として猪川が就任したのである。


85年USTSシカゴ大会に参戦した“チーム・エトナ”5名のメンバー(写真左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手)

 85年3月、猪川はJTSのショート・トライアスロン大会を開催する為、来日したUSTSを展開する米国トライアスロン連盟会長のカール・トーマスと現地視察に赴いた。その現地とは、かねてから開催を計画していた沖縄県国頭郡本部(もとぶ)町である。沖縄本島北部の伊江島と海を挟んだ小さな町で、85年6月の開催を目標に町側と交渉が続けられていたのだ。しかし、最終的に本部町の住民の同意、協力を得ることは出来ず、計画は白紙に戻った。


久々山会長と握手するカール・トーマス氏

 そこで、エトナ社員となって事務局入りした中山が全国トライアスロン協議会の幹事である永谷誠一に直接、電話をかけ、開催候補地について相談を持ち掛けたのである。言うまでもなく永谷は1981年のハワイ大会でアイアンマンの称号を得た我が国トライアスリートの先駆者であり、トライアスロン・クラブの先駆けである熊本CTC(クレイジー・トライアスロン・クラブ)の会長として活動し、また全国的なレベルでトライアスロンの普及、発展に尽力していた。中山の依頼を受けた永谷は、即座に応えた。

「ばってん、わしらがトライアスロンの合宿練習をやっている天草がよかと。本渡市の茂木根海水浴場を中心にバイクもランも出来るっと」

 この永谷のアドバイスを受けて猪川や中山、それにトーマスと同じUSTSのテクニカル・メンバーであるジム・カールらは現地へ飛び、地元・本渡市の久々山義人市長と面会する。これに対し久々山市長は教育委員会など関係部署の幹部と共に応じ、大会開催を即断即決したのである。市長を始めとする本渡市の積極的な対応とあいまって、10月の大会開催へ向け準備はスムーズに進展、また永谷の良きサポートもあってトライアスロン3種目の総競技距離51.5Kmのコースづくりも整った。


模擬レースのスイム・スタート風景

 こうして開催されたのが大会本番を2週間前に控えた模擬(リハーサル)レースである。選手は熊本CTCのトライアスリートを中心に編成され、そのクラブ・メンバーだった宮塚英也はスイム競技だけに参戦した。宮塚は夜中まで大学の「長距離同好会」の仲間と熊本市内で飲酒していたが、会合が終わるとGパン姿のまま30Kmほど走って阿蘇・長陽村の下宿へ戻り、すぐさま父親が買ってくれた200ccのオートバイにまたがった。

「トライアスロンをタダやれる絶好のチャンスだ!」

とばかり、夜の夜中に天草まで海岸線の道を100Kmほど突っ走った。そして9月29日、模擬レースは予定通り開催された。スイムを中位で海から上がった宮塚は、その後は観戦に回り、バイクもランも群を抜いてトップで疾走する中山の姿を見た。宮塚は中山とは同年齢だが、その姿や容貌は田舎者の自分とは明らかに違うものを感じていた。同じスポーツを目指しながらも、中山とは生きている世界が違うとも思った。

《次回予告》85年10月に開催された「第1回天草国際トライアスロン大会」のレース模様と、その結果について詳述すると共に、<トライアスロン談義>では、当時の関係者による座談会を予定しています。

トライアスロン談義

妻と二人三脚のアイアンマン人生

鈴木 進

 私がトライアスロンと出会えたのは33歳の時ですが、それ以前のスポーツはというと、中高校生時代にサイクリングが好きで、休日ともなれば友達と誘い合って自宅の府中から青梅や奥多摩の方へ出かけて行きました。機械エンジニアだった父親の血を引いたのかも知れませんが、自分もメカ好きになっていて、外装3段・ドロップハンドルの自転車を組み立てて、サイクリングを楽しんでいました。
そして大人になってからもサイクリングは続けていましたが、だからといって大会やレースに出場するということでもなく、20歳台のほとんどは自営で立ち上げた機械工具の商売に精を出す生活を送っていたのです。それも仕事の良きパートナーであった妻の令子と共に、朝から晩まで働いていました。


機械工具の販売会社「府中商工」事務所にて(2014年11月撮影)

 そんな私達夫婦にスポーツへの道を踏み出すきっかけをつくってくれたのが、長年、飼っていた愛犬の「BEN=ベン」でした。「BEN」は年と共にメタボになっていったので、ある時、動物病院に連れていったところ、運動不足が原因であると判定されたのです。医者は、犬を散歩がてら運動をさせなさいと言うのです。そこで私達は毎日、「BEN」を散歩に連れ出し、綱を携えながら一緒に走り出したのです。
もとより令子は小学性の頃からランニングが得意で、校内マラソン大会では1位か2位の成績を収めています。ですから犬と散歩といっても、家を出てから帰るまで終始、走り通しなので、さすがの「BEN」も令子が手綱を握ると怯えていました。一方、私はそれほどランニングが速かった訳ではないので、「BEN」も安心して散歩を楽しんでいるようでした。こうして毎日のように「BEN」と走っていくうちに私も結構、馴れてきたというか、それなりにランニングが身に付いていったようです。そんなある日、令子が私に言いました。

「マラソンをやってみない」

「マラソンって、42kmのマラソン?」

「そうそう! 練習して、大会に出てみましょう」

「面白そうだね。やってみようか」

 私も頷いて、42.195Kmへの挑戦を決意しました。私達が32歳の時のことした。そして、その年の春、千葉で毎年開かれている「佐倉マラソン大会」に出場、令子は3時間20分を切って、私は3時間40分ほどで完走しました。令子の記録は、当時としては「東京国際女子マラソン大会」への出場を可能とするタイムでしたので、ならばとばかり次はメジャー・マラソンへのステップを踏み出すことになりました。生憎、佐倉マラソンは日本陸連の公認コースではなかったので、後に中央大学のグランドで1万mを走り東京国際女子への出場権利を獲得し、以来、令子は女子マラソンの選手としての道を歩み出したのです。


びわ湖トライアスロンでゴールへ向かって疾走する令子さん

 こうして私達夫婦はラン・トレーニングに血道をあげていたのですが、その折、トライアスロンという3種目の競技を連続して行うスポーツがあるのを知りました。確か朝日新聞に掲載された記事に、ハワイの鉄人レースが紹介されていたのを記憶しています。

「これは面白い! サイクリングは好きだし、マラソンも走れるようになったので、あと水泳さえ出来ればやれそうだ」

「でも私達、泳げない。大丈夫かしら」

 令子も私も水泳はまるで駄目、カナヅチ同然でしたが、地元・府中のプール一に通い始め、そこでシンクロ女子選手の指導を受けながら、懸命に練習をしました。そして何とか泳げるようになった頃、なんのことはない、宮古島大会へのエントリーが締め切られていました。でも、トライアスロンへのチャレンジは諦めず、私達は一日の仕事を終えた後、夜の7~8時頃から10時までアップダウンのある多摩丘陵でバイクやランのトレーニングを続けました。

 そして第1回宮古島大会が終わった後、所属するトライアスロン・クラブのリーダーから10月に行われる第1回天草トライアスロン大会への出場を薦められたのです。本当の私達の気持は、宮古島大会のようにロング・トライアスロンへの出場と完走でしたので、いささか気が引けたというか、余り乗る気にはなれませんでした。「でも、トライアスロンを体験していない初心者にはお薦めですよ」とリーダーのアドバイスもあって、

「あんなに遠くまで行くのは大変だけど、一度やってみようか」

「そうね。旅費と時間も勿体無いけど、試してみましょう」

そう決めて、私達は大会前日の10月12日に熊本空港から長い時間、バスに揺られて現地に入りました。そして大会では、令子が2時間55分で女子総合4位(日本人2位)、私が2時間42分で総合77位となりました。小手試しのトライアスロンでしたが、これで私達もトライアスリートの仲間入りを果たし、いよいよハワイを頂点としたアイアンマンへの挑戦が始まったのです。


天草大会の出場記念(ゼッケン99が進氏、同100が令子さん)

 しかし、令子はハワイへの出場権利を常に獲得していたものの、マラソンに打ち込んでいた為、結局、アイアンマン・ハワイは未経験で終わりました。私は89年にびわ湖トライアスロン大会で年代別6位に入りハワイ大会の出場資格を獲得して以来、92年まで4年連続で出場しました。だが、94年のびわ湖大会ではハワイ行きの切符が得られず、トライアスロンから身を引くことにしました。実はもうこの時、私の膝や腰は故障だらけでした。


89年アイアンマン・ハワイ完走後に記念撮影

 そんな訳で、私のトライアスロン人生はわずか10年で閉じましたが、その間に出会った沢山のトライアスリートの方々との交流を通じて、本当に楽しい充実した時節が送れたと思っています。また、何よりも妻の令子がいたからこそ、ハワイの夢が叶えられたし、もしも彼女がいなかったなら、私はそこまで戦い抜くことは出来なかったでしょう。妻よ、有り難う!


鈴木 進氏近影(東京・府中市の自宅にて)

【鈴木 進氏プロフィール】

1951年、東京・府中市に生まれ育つ。大学に在学中、アルバイトで務めた機械商社で抜群の営業成績を修め自営に転進、21歳で「府中商工」を設立する。以来、現在に至るまで中小企業向け機械工具の販売に携わる。23歳の時、小中学校時代の同級生だった令子さんと結婚、良きビジネス・パートナーとして、またマラソンやトライアスロンのスポーツ・パートナーとして、共に二人三脚でスポーツ人生を歩む。1985年10月の天草トライアスロン大会でトライアスロン初デビュー、89年にはアイアンマン・ハワイを完走、以来、4年連続出場し、名実ともに“鉄人”となる。また、全日本トライアスロン・クラブ(ATC)多摩支部長としてトライアスロンの普及・啓発活動並びに後進の指導に当たる。趣味はモダンジャズ鑑賞とヨットの舟遊び。毎週末は西伊豆の海でヨットを浮かべる。

Copyright © 2015 Neo System Co., LTD. All Rights Reserved.