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Vol.50:火神の巻 第6章 その3:世界の強さが際立ったアイアンマン・レース

日本トライアスロン物語

Vol.50:火神の巻 第6章 その3:世界の強さが際立ったアイアンマン・レース

【この記事の要点】

 午前0時の制限時間まであと10分というところで、ゴール会場にアナウンスの声が響いた。最終ランナーがゴールまであと200m、間もなくフィニッシュするというのだ。居るのは大会関係者・役員だけという人気の無くなったゴール会場に現れたのは、地元・滋賀県出身の横田俊彦である。しっかり両腕を振ってゴールインする横田の傍らには、傘を差して出迎える妻の姿があった。総合タイムは23時59分13秒、なんと今日一日、約17時間を泳ぎ、漕ぎ、走り続けたのである。

 風速35mが予測される台風6号が接近している。やがて紀伊半島に上陸し、大会会場となる琵琶湖一帯を直撃するのは確実の情勢だ。すでに「大雨洪水強風波浪注意報」も出されている。当日の朝の気温は20℃とまずまず。けれど、水温は公式発表されている21℃よりも低く、実際は19℃以下だった。そんな悪コンデションの下でトライアスロンを、それも世界のトライアスロンの中で最も距離が長く過酷と言われる大会を開催して良いものか? 大会関係者達は内心、戸惑いを感じながらも、この日この時まで準備した我が国最大規模の“鉄人レース”をキャンセルすることが出来なかった。


<写真>いよいよスタート、琵琶湖の水は冷たい!

 1985年6月30日(日曜日)、ハワイ、ニュージーランドに次いで開催される“アイアンマン・ジャパン85インびわ湖”は、ついに挙行された。朝6時頃、スタート地点である彦根市・松原水泳場には出場選手をはじめ大会役員並びにボランティア、選手の付き添いや仲間達、それに地元の観衆ら約5,000人が集まっている。
その多くの人々は、湖上に浮かぶ消防艇から吹き上げる噴水の様子や曇天の空を寒々しく見詰めている。また、出場選手達は緊張感が張り詰めているのか、多くの者が無言のまま、湖岸の浜辺から沖に見える折り返し点の船の姿を眺めていたり、或いは黙々と準備運動を繰り返えすなどして、スタートの合図を待っていた。

「打て!」

 朝7時丁度、大会会長・武村正義滋賀県知事の号令と共に、鎧兜に身を包んだ彦根城の「彦根鉄砲隊」が火縄銃を放った。まさしく今、アイアンマン・ハワイの姉妹レース、第1回びわ湖大会の火蓋が切って落とされたのだ。


<写真>鉄砲隊による号砲でアイアンマン・レースが始まった

 琵琶湖の冷水をものともせず、432名の選手達が水飛沫を揚げて泳ぎ出した。琵琶湖の水温の低いことが予想されていたので、アイアンマン・レースにも拘らずウェット・スーツの着用が事前に許可されていたが、それでも余りの水の冷たさに泳ぐのを躊躇して、しばらく浜辺に佇み身を震わせる者もいた。また、いざ泳ぎ出した選手の中にも低水温に耐え切れず、スタートから1kmを過ぎた辺りから救助用モーターボートに収容される者が続出、最終的に47名がスイム競技をリタイアする羽目になった。

 さて、スイム競技のトップ争いは予想通り、アイアンマン・ハワイ3連勝のデイブ・スコットとU.Sトライアスロン・シリーズで圧倒的な強さを誇るスコット・モリーナの2人。この2人が終始、トップ争いを展開しながら、3.9kmのスイム・ゴール地点である彦根プリンスホテル前の浜辺へ、ほぼ同時に上がった。次いで3位に入ったのは水泳が得意の今田善仁(香川県、25歳)で、ここまでが1時間を切るタイムでゴールした。
また、女子のトップはニュージーランドのロビン・ブラック(ニュージーランド、29歳)で総合5位、タイムは1時間01分01秒、女子2位はアイアン・ウーマンことジュリー・モスで総合9位、1時間03分06秒と、ブラックとの差は約2分だ。


<写真>ボランティアから差し出されるスポーツ・ドリンクやバナナを受け取るスコット(写真左)とモリーナ

 いよいよバイク競技。競技距離180.2kmという長丁場のバイク・コースは、前半が琵琶湖の湖岸道路と田園地帯を走る平坦地だが、後半は幾つもの山道を上り下りする厳しいコースだ。スイム競技から上がったスコットとモリーナはテントに入ったものの、わずか30秒ほどで着替えを済ませ、バイクをスタートさせた。また、日本勢は今田、ホープの梅澤智久(埼玉県、23歳)の順でバイク競技に入ったが、今大会で「日本人1位を目指す」と宣言した城本徳満(大阪府、31歳)はスイムの遅れで、バイク・スタート時にはすでに今田と20分以上の差がつけられていた。ちなみに城本は、レース前にテレビのインタビューに、こう答えている。

「スイムは1時間10分で上がり、バイクは6時間、ランは3時間30分、トータル10時間40分が目標です。宮古島大会では5位やったけど、今度は日本人トップを狙います」

 しかし、城本のスイム・タイムは1時間17分06秒と目標より7分も遅れた。その遅れを取り戻そうと、城本はバイクにまたがると猛然とペダルを回し始め、次々と前を行く選手たちを追い抜いていくのだった。

 一方、トップを行く2人は、前半はスコットがリードしていたが、120km辺りの伊吹山の上り坂で、モリーナがスコットを抜いてトップに立った。もうこの時には断続的に激しい雨が降り注ぎ、スコットが雨に濡れた路面にタイヤをスリップさせ転倒するアクシデントも発生。かたや次々とバイク・コースに入った一般参加選手達も雨に打たれて思うように走れず、辛い走りが続いている。また、スポークが折れたりチェーンが切れたりと、初期的なメカ・トラブルによって思わぬ時間ロスを招く者もいた。


<写真>雨の中を淡々と走り続けるジュリー・モス

 結局、長浜市・奥びわスポーツの森のバイク・ゴールでは、スコットがモリーナに2分ほどの差で到着した。しかし、スコットはレース前に「その差が10分以内ならば追い抜ける」と話していた通り、ランに入ってじりじりと差を詰め17km地点でモリーナをかわすと、その後は独走態勢に入った。
 アメリカ勢2人のデッドヒートの決着を待つゴール会場の彦根市金亀(こんき)公園・野球場は、台風によってもたらされる雨によって一面が泥でぬかるんでいる。そんな中、午後3時半過ぎにフィニッシュ・ラインの入り口に設けられた銀色の風船アーチを潜ったのは、やはりデイブ・スコットだった。
 スコットは前年のハワイ大会で自らつくった大会最高記録8時間54分20秒を約14分余り上回る8時間39分56秒の記録でフィニッシュしたのである。続いて12分余り後、ランの途中、トイレ・タイムなどで時間を要したスコット・モリーナも8時間52分23秒の好記録で2位、3位には雨降りしきる中、蹴り上げる足元に水飛沫を飛ばしながらジュリー・モスが10時間04分53秒でゴールテープを切り、結局、上位3名をアメリカ勢が占めた。こうして上位陣が好記録でフィニッシュした大きな理由は、ラン・コースの起伏がほとんど無く平坦であったことと、レース中、雨という自然のシャワーを浴びて体温の上昇が抑えられ、発汗を少なくして競技が行えたことがあげられよう。


<写真>ゴール後、フィアンセと抱き合うスコット

 そしてトップから2時間遅れたものの総合4位でゴールテープを切ったのは城本徳満、レース前に自ら決意したように見事、日本人トップでフィニッシュした。スイムの出遅れをものともせず、バイクで前を行く選手をことごとく追い抜き、ランではバイクの疲れからやや失速したものの、総合タイムは10時間30分13秒の記録をつくった。左手をグイと突き上げテープを切ると疲れの為か、すぐさまベンチに座り込んだが、顔の表情は喜びに溢れていた。
 また、日本人女子では若手のホープ、萬處雅子が総合101位、遠藤栄子(埼玉県、35歳)が118位、山中千恵子(神奈川県、36歳)が137位に入り、それぞれ健闘した。この3名の女子選手は、当時の日本を代表するトライアスリートである。


<写真>日本人トップ、左手を突き上げゴールインする城本選手

 さて、この日のアイアンマン・レースは時間が経つにつれ、選手達にとって厳しい過酷なコンデションが待っていた。夕刻から風雨は激しさを増し、夜が更けるに従って琵琶湖沿岸一帯は土砂降りの雨の闇に包まれた。そんな中、真っ暗になった湖岸道路を全身、ずぶ濡れになりながら、片手にペンライトやシューズに着けた反射板を光らせ、選手達は懸命にゴールを目指している。
 スイム・スタート後17時間以内、即ち午前0時の制限時間まであと10分というところで、ゴール会場にアナウンスの声が響いた。最終ランナーがゴールまであと200m、間もなくフィニッシュするというのだ。待つのは大会関係者・役員だけという人気の無くなったゴール会場に現れたのは、ゼッケン・ナンバー469番、地元・滋賀県出身の横田俊彦(26歳)である。しっかり両腕を振ってゴールする横田の傍らには、傘を差し出迎える妻の姿があった。総合タイムは23時59分13秒、なんと今日一日、約17時間を泳ぎ、漕ぎ、走り続けたのである。
 こうして悪天候にもめげず366人の選手が完走し、びわ湖大会は無事、その幕が降り、以後、同大会は1997年の13回まで続くことになる。

《次回予告》
びわ湖大会と同じ年の1985年10月、熊本県本渡市(現・天草市)においてスタンダード・ディスタンスと称するトライアスロンの3種目を合わせた総距離51.5kmのショート・タイプの「天草トライアスロン大会」が開催されました。すでにアメリカで盛んになっていた“U.Sトライアスロン・シリーズ”の日本版とも言うべき大会です。次回は、この大会の開催に至る経緯や関係者の動静を述べると共に、<トライアスロン談義>では同大会でトライアスロン・デビューし、その後、日本を代表するアイアンマンとして活躍した宮塚英也氏のデビュー当時の思い出を語ってもらいます。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

トライアスロン談義

今度こそ、日本人トップや

城本 徳満

「ええ! あの汚いドブ川で泳ぐ!?」

 思わず私は叫んでしまいました。だって、大阪の中心街を流れる都島(みやこじま)の大川といったら工場廃水や何やらで、人間がとても泳げる川ではないことは誰でも知っていたからです。すると当時、勤めていた自転車部品メーカーの会社の上司だった開発部長が、

「いやいや、そやない。沖縄や。沖縄の南の島に宮古島という島があるんや。そこでな、トライアスロンという新しいスポーツが始まるんや。それに城本君、あんたが選手として出たらどうかと思うてな」

「それは業務命令ですか」

「まあ、そうや。昨日、チームのメンバーに聞いたら、皆あかんと言うおった。けど、あんたは泳ぎもマラソンも出来ると言うてはる。沖縄に行ってみたいやろ。その代わり大会に出て、総合10位以内になったら、大会参加費用も交通費もぜんーぶ会社で出してやるしな」

 しかも、宮古島トライアスロン大会出場のためのトレーニングの時間を自由に与えられると聞いて、私は、

「よおし! やりまっせ」

 即断即決とは、このことでした。時は1985年2月6日、火曜日。この日こそ、私は自転車の選手からトライアスロンの選手へと自らの運命を変える日となったのです。私が31歳の時のことでした。


<写真>ショップ内に並ぶカップやトロフィーなど城本選手の戦績の数々

 早速、私はその日のうちにスイミング・プールの会員手続きを済ませ、トレーニングを開始しました。そして始めて10日目には1,500mを25分45秒で泳ぎましたが、これは近畿圏の通信記録会ではエイジ6番目に相当したそうです。また、ランは10年前の記録ですが、ブリヂストンサイクルの時代に鳥栖市で2.8kmを8分47秒で走ったことがありましたので、距離が短いとはいえランニングのコツは心得ている積りでした。もちろんバイクは、現に自転車競技の選手ですので、少なくともトライアスロンの選手達には誰にも負けないという気持でした。
 でもまあ、そうは言っても、宮古島大会に向けてトレーニングを開始したのは2月初旬ですから、大会まで2箇月余りの間に満足のいく練習が出来た訳ではありません。毎日、10時間ほどの時間をかけてトレーニングを重ねましたが、あとは運を天に任せるといった思いで4月28日、私は沖縄の宮古島・前浜ビーチの海へ飛び込みました。
 結果は総合5位。スイムでは立ち遅れたものの、バイクでは途中、2位まで追い上げました。しかし、後半に飯島選手に抜かれて3位でゴール、さらにランでは山本、山下の若い2人の選手にも抜かれ5位となりました。カンカン照りの暑さの中でのマラソンは生まれて初めての経験なので、さすがにきつく、走っている最中は何度も何度も、

「こんなレース、もう二度とやりたくない」

 などと思っていましたが、観衆の声援に応え帽子を頭上に振りかざしながらゴールテープを切った瞬間に、次にチャレンジするレースのことが頭を過ぎっていました。

 ともあれ、これで上司との約束を果たしたので、それまで掛かったスイミング・クラブの加入料やトライアスロン用のウェア等、すべての費用、締めて15万円ほどの領収書を会社側へ提出しました。15万円は当時の私の給料相当の金額ですから、本当に胸を撫で降ろす思いでした。また、会社側も「城本がトライアスロンで名を挙げた」と言って喜んでくれて、以後は休日も出勤扱いにしてもらうなど、待遇が大いに改善されました。もうこうなると、本業の自転車競技どころではありません。自ずと私はトライアスロンの道にのめり込んでいくことになりました。

 さて、宮古島大会の次の参戦レースは、同じ年の6月に琵琶湖で行われる国内初のアイアンマン・レースでした。早くも2個月後に迫っていたのですが、私は何ら怖じけることなく、

「今度こそ、日本人トップや」

という気持で臨みました。
 最初の競技のスイムでも、出来るだけ遅れをとらないようにと十分な練習を積んだし、琵琶湖の水は冷たいというので自転車用のワンピースを2枚も重ね着して泳ぎました。それでもメチャ寒くて辛かったですが、3.9kmを1時間17分でゴールすることが出来ました。だからバイクのスタートはまずまずの順位、これならば「行ける」とばかり、先を走る選手達を猛然と追いかけました。
 とにかく日本人選手には負けたくない、という思いでペダルを漕ぎまくり、先を行くデイブ&スコットに次いで3番手の位置でバイク・パートを終えました。しかし、バイクで相当、脚を使ったこともあって、さすがに疲れたのでしょう。ランの後半、ゴールまであと10kmほどの地点でジュリー・モスに抜かれたのです。

「でも、まあいいか。日本人ではないし…」

 それに台風の雨でラン・シューズがずぶ濡れになって、足が重くて思うように走れません。苦しみに耐えながら、トータル・タイム10時間30分13秒でフィニッシュ、総合4位、日本人1位で当初の目的を達成することが出来ました。

 こうして1985年の春から夏にかけ、31歳の私は宮古島とびわ湖という2つの大会を経験しトライアスロン・デビューしたのです。正にこの年が、この季節が、私の人生の転機となったことは言うまでもありません。以来、びわ湖は13回大会まで連続出場し、うち3回は日本人のトップの座を獲得しました。その後、2000年には本場ハワイのアイアンマン・レースで年齢別でトップになるなど、エイジならば誰にも負けないという気持で頑張りました。
 今振り返りますと、あの頃は妻子を抱え生活に不安がなかった訳ではありませんが、だからこそトライアスロンのプロ選手として、また専門ショップのオーナーとして頑張れたのだと思います。そして、トライアスロンというスポーツに出会えて本当に良かった! 苦しいけれど楽しさに溢れ、魅力的なニュー・スポーツに取り組めてことを、心の底から有り難く感謝しています。改めて、人間は努力さえすれば自ずと道が開けるし、成りたいと思う人間に誰もが成れるのだと思います。


<写真>城本徳満氏(13年3月、大阪狭山市のショップにて撮影)

【城本徳満氏プロフィール】

1953年9月、福岡県行橋市出身。幼少時代は大阪市内で過ごすが、73年にブリヂストンサイクル株式会社・九州旭工場に就職、自転車の組み立てラインで従事するかたわら自転車競技に取り組む。1977年に同じく自転車競技選手だった実兄に誘われ、自転車部品メーカーのマエダ工業株式会社へ転社し「サンツア・レーシングチーム」に所属、トップレベルの自転車競技選手として活躍する。1985年4月、宮古島トライアスロン大会に出場、総合5位となったのをきっかけにトライアスロン競技選手に転向、以後、国内外の著名な大会で数多くの戦績を残す。87年1月、プロ・トライアスリートとして独立、3月には「トライアスロンショップ・シロモト」を設立、選手並びにショップの経営者として、我が国トライアスロン界のリーダー的役割を担い、今日に至る。当年60歳。

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