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Vol.48:火神の巻 第6章 その1:アイアンマン・レースが日本に上陸

日本トライアスロン物語

Vol.48:火神の巻 第6章 その1:アイアンマン・レースが日本に上陸

【この記事の要点】

シルクは、この両社との交渉を続ける一方で1984年11月に来日、日本でアイアンマン大会を開催する候補地として上った滋賀県琵琶湖周辺と千葉県館山市を中心とした南房総地域を矢後や市川と共に視察した。その結果、高木が誘致を狙っていた南房総での開催は館山市当局との条件が整わず、またシルク側も日本の契約相手として電通を選び、最終的に日本列島の中央部に位置する滋賀県・琵琶湖での開催となったのである。

 今から30年前の1980年代は、日本の産業経済が興隆期の真っ只中にあった時代である。その時代にトライアスロンは発祥し、成長の過程を歩み出した。日本で初めてのトライアスロン大会が、鳥取県の皆生温泉で1981年に開かれた「皆生大会」であることはすでに記したが、それから3年間は言わば黎明の時期を過ごした。それが普及、発展へと大きな一歩を踏み出したのは1985年のことである。
 その年の4月には、南海の孤島・宮古島において「全日本トライアスロン宮古島大会」が開催された。この大会では完走したアスリートに“ストロングマン”の称号が与えられたが、次いで6月にはハワイのトライアスロン大会と同じく“アイアンマン”の称号が得られる世界レベルの大会が、日本最大の湖・琵琶湖北東部で開催されたのである。その名も「アイアンマン・ジャパン・インびわ湖」である。

 そもそも、このアイアンマン・レースを日本へ持ち込もうと考えていたのは、ハワイのトライアスロン大会を主催・運営する「ハワイアン・トライアスロン・コーポレーション」のバレリー・シルク(バドライト・アイアンマン・トライアスロン・ワールドチャンピオンシップ会長)である。シルクは、ハワイ島コナ市で開催しているトライアスロン大会に参加してきた日本人選手の矢後潔省(きよみ)や市川祥宏(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ=JTRC会長・副会長)に対し日本での開催を促すと共に、かねてから日本の広告代理店との間で、大会開催権に係わる契約交渉を進めていた。


<写真>85年10月、ハワイで結婚式を挙げた矢後潔省氏(写真右)。
写真左のシルク氏に浴衣を贈った

 その広告代理店とは、株式会社電通とパテント・ビジネスを展開するユニ・インセンティブ株式会社である。電通は、ウィンブルドン・テニスのテレビ放映権を持つスポーツ文化事業部スポーツ部長である西郷隆美(故人)が先頭に立って、アイアンマン・レースの開催権の獲得でシルク側と交渉を重ねていた。一方、ユニは大坂のベアリング製造会社「共栄精工」を親会社の社長である高木省三が“アイアンマン”ブランドに強い関心を抱き、日本での大会誘致活動を展開していたのだ。
 シルクは、この両社との交渉を続ける一方で1984年11月に来日、日本でアイアンマン大会を開催する候補地として上った滋賀県琵琶湖周辺と千葉県館山市を中心とした南房総地域を矢後や市川と共に視察した。その結果、高木が誘致を狙っていた南房総での開催は館山市当局との条件が整わず、またシルク側も日本の契約相手として電通を選び、最終的に日本列島の中央部に位置する滋賀県・琵琶湖での開催となったのである。


<写真>電通の西郷隆美氏(当時)

 アイアンマン大会に係わる一連の契約交渉を経てシルクと西郷は滋賀県の武村正義知事とも合意、85年6月の開催を目指し日本でのアイアンマン・レースの実現へと取り組みを開始した。かたやシルクとのビジネス交渉に破れた高木は矛先を替え、オリンピック・ディスタンス(総距離51.5Km)タイプのトライアスロン大会開催に向け国際トライアスロン連盟(略称FIT=カール・トーマス会長)と連携、日本トライアスロン連盟(略称JTF=長島茂雄会長)の発足と中山俊行を始めとした日本人エリート選手で構成する「チーム・エトナ」の編成を経て、85年10月に熊本県の天草市でショート・トライアスロン・シリーズ第1回大会を開くのである。

 こうした国内外のアイアンマン・レースの開催要請に対し滋賀県が前向きに受け入れたのも、かねてから同県は琵琶湖の恵まれた自然環境と豊かな文化遺産を活用したプロジェクトを推進する「国民休養県構想」の実現に取り組んでおり、その一環として湖上スポーツをアピールしたイベントの開催も検討していたからである。だから、世界的に人気が高まっているトライアスロン、それもトライアスロン発祥の地のハワイで行われているアイアンマン・レースと同規模の大会を導入することに、県は躊躇することがなかった。

<写真>武村正義知事(当時) 武村知事の命を受けて早速、県庁はもちろんのこと大会の拠点となる彦根市を始めとした関係市町村は開催へ向け行動を開始した。その第一弾として、中央官庁から派遣され同県の企画部長を勤めていた成瀬信孝を筆頭とする大会開催の為の大会準備室が県庁内に設置される。スタッフは企画部にあって専門委員の竹脇義成をリーダーに、同じく県の職員1名と、電通から西郷の部下の吉田と山内の2名、イベント・プロデュースを手掛ける電通・京都支局から永井と長沼の2名、合計6名によって、大会開催へ向け準備作業が始まったのだ。
 準備室の竹脇らがまず初めに手掛けたのは、スイム・バイク・ラン3種目のトライアスロン・ロケーションづくり、その為のコース探索である。大きな琵琶湖の周辺で、3種目の競技を何処でどのようにやれば良いか? 何しろ滋賀県も電通も初めてのこと、解らないことばかりである。そこでハワイ大会に出場、アイアンマンの経験がある矢後や市川も電通側のスタッフとしてコース探索に加わった。
 その結果、大会は彦根市と長浜市を中心とした琵琶湖の東岸並びに北岸を一帯とした地域で行い、琵琶湖周辺の美しい景観を生かしたロケーションを取り入れることとした。スイムの会場は彦根城を望む松原水泳場を利用し湖水を泳ぐ3.9Km、バイクは賎ヶ岳(しずがたけ)の麓に抱かれた余呉湖のほか横山岳や伊吹山の山麓を巡るアップダウンを盛り込んだ180.2Km、ランが奥びわスポーツの森や長浜市街を通る湖岸道路を利用する42.195Kmというアイアンマン・ディスタンスを完成させたのである。

 コースづくりの一方で県を中心とした大会運営の為の組織化も進んだ。85年2月20日には組織委員会が結成され、大会要綱やスケジュールについて素案が提示、その5日後には成瀬を委員長とする実行委員会も開かれた。実行委員会には県の行政所轄窓口の担当者、それに彦根市・長浜市・山東町・伊吹町・米原町・近江町・浅井町・虎姫町・湖北町・びわ町・高月町・木之本町・余呉町の2市11町の担当課長、そのほか警察、消防、医師会、体育協会等の代表、電通の西郷やトライアスリートの矢後も名を連ねた。
 こうして滋賀県を始め多くの人々の参加、協力を得て、我が国では競技距離が最も長く、参加選手数も過去最大となるトライアスロン大会の概要が整ったのは、大会日から2箇月余り前の4月のことだった。その名も「IRONMAN JAPAN IN LAKE BIWA」。毎年10月にハワイ島コナ市で行われているアイアンマン・レースの出場権を賭けた姉妹大会として、来る6月30日(日曜日)に開催されることになったのである。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

トライアスロン談義

バイキンみたいに敬遠された

竹脇義成

 私がびわ湖のアイアンマン・ジャパンと関わるようになったのは、大会が開催された前年の1984年11月頃でした。大会の日本における開催権を握った大手広告代理店の電通から話があった訳ですが、その頃、滋賀県では「国民休養県構想」を基に琵琶湖の自然環境を生かした活用プロジェクトを推進していたこともあって、当時の武村正義県知事も我が国最大規模のトライアスロン・イベントに大きな関心を持たれたのです。そこで知事直属の企画部門で専門員として同構想に携わっていた私に白羽の矢が立ち、大会開催の為のコーディネーションを行う準備室のリーダー役を仰せつかりました。

「それにしても、この一大イベントを何処でどうやるのか?」

 初めての経験に私はいささか戸惑いを感じながらも、まずはトライアスロンの3種目のコース選定から始めることにしました。即ち、ロケーションづくりです。スイムについては、もちろん琵琶湖を舞台とすることで全く問題はありません。大会本部並びに国内外の来賓が宿泊する彦根プリンスホテルをゴールとした松原水泳場をスイム・コースに選びました。そしてマラソンは、彦根から長浜城を経由して琵琶湖の美しい景観が望める湖岸道路を走るコースが最適と判断しました。
 しかし、最大の懸案はバイク・コースです。180Kmという長い道程をどのように設定するか苦心しました。それで私達スタッフは来る日も来る日も琵琶湖東北部の集落を巡り、まずは景色が美しく、テレビ映りも良い、適度なアップダウンがあるコースで、しかもエイドステーションの設置で地元市町村の協力が得られるルートの策定に取り組みました。この為、私達はコースづくりで延べ3,000Kmもクルマで走り回ったのです。


<写真>ニュージーランドの選手と写真に納まる85年当時の竹脇氏(写真左)

 さて、もう一つの懸案事項は、それら地元の市町村の方々を始めとする多くの関係者で構成する組織委員会並びに実行委員会の設置と会議の運営です。それら会議で交わされる意見は様々で、賛成もあれば反対もあるし、またいろいろな注文や課題が提起されます。誰もが初めからウェルカムではありません。ですから、そうした意見に応えつつ、関係者の意向を取りまとめ、大会開催に向け皆をその気にさせなければなりません。この為、私は関係者間を何度もお訪ねし、時には執拗に説得工作も行いながら、最終的に皆様には一定の理解と協力を得ることができました。
 その所為か、私は時に“バイキン”みたいに敬遠されたり、“タケワキ軍団”等とはやされたこともありました。でも県の為、県民の為、そして日本最大の湖「琵琶湖」を愛する多くの国民の為に、我が国で始めて行うアイアンマン・レースを何としても成功させたい一心で、いささかも臆することなく関係者と組織を動かすことに全力を捧げました。今考えれば、当時、私は40歳前半とまだ若く、もとより力量不足でしたが、関係者の皆様方に私の熱意を感じ取って戴くことができ、皆さんが一致協力して事に当たって下さったものと感謝しています。また、公務員の枠を超えて電通やスポンサーのヤンマーディーゼルといった民間企業とタイアップしたイベントを成し遂げたことが、大変、勉強になったし、後の仕事の自信にも繋がりました。

有り難う、アイアンマン!


<写真>竹脇義成氏近影(滋賀県高島市にて、13年3月撮影)

【竹脇義成氏プロフィール】

1943年、滋賀県安曇川町で生まれる。同志社大学商学部を卒業後、滋賀県庁入り。以来、主として企画並びに教育畑を歩く。1984年、企画調整課専門員の時、「びわ湖トライアスロン大会」を担当する。2003年、企画県民部長で定年退職した後は、「びわ湖ビジターズビューロー」の専務理事として、滋賀県の観光物産を振興するビジネスを展開し、その後、出身地の高島市において副市長を務める。現在は「滋賀県小型船協会」会長として、琵琶湖の観光並びに環境保全事業で活動中。

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