日本トライアスロン物語
Vol.48:火神の巻 第6章 その2:水温は低かったが大会を挙行

日本で初めて開催されるアイアンマン・レースの舞台は総て整ったが、大型の台風6号が接近するとの報せが、大会関係者や選手達の胸に一抹の不安を過ぎらせていた。でも大会当日の朝、風は無く、琵琶湖の水面は鏡のように真平に静まり返っている。問題は水温だ。計測した湖水3層の平均水温は19℃だった。シルクらの提言を受け入れれば、スイム距離を短縮しなければならない。しかし、大会実行委員会はその後、上昇した水温を加味し、午前6時の水温は21℃と公式発表、大会開催に踏み切ったのである。
1978年2月にトライアスロンの歴史の窓を開けたハワイのアイアンマン・レースはニュージーランドに次いで、ついに日本列島の中央部である滋賀県の琵琶湖に到来、ハワイ大会の予選レースとして開催されることになった。
大会日は1985年6月30日(日曜日)、競技距離はスイムが3.9Km、バイクが180.2Km、ランが42.195Kmという、アイアンマン・ハワイとまったく同距離の、いわゆる鉄人レースである。それまでの日本の大規模なトライアスロン大会は81年8月に始まった皆生大会と85年4月の宮古島大会があるが、今回の琵琶湖でのアイアンマン・レースは、過去の大会を上回る規模で行われる。
それだけに主催者である滋賀県知事の武村正義はもとより、来日したバドライト・アイアンマン・トライアスロン・ワールドチャンピオンシップ会長のバレリー・シルクや同国際競技部長のアール・ヤマグチなどハワイ大会関係者、そして日本でのアイアンマン・レースの開催権を取得した株式会社電通の西郷隆美、さらにはメイン・スポンサーとして特別協賛する農機具メーカーのヤンマーディーゼル株式会社、大会の模様を全国にテレビ中継する日本テレビ放送網株式会社ら関係者の期待と意気込みは、ただならぬものがあった。
これら大会を支える関係者により組織委員会が結成されたのは2月20日のこと、大会の概要や執行・運営体制、スケジュール等について素案が提起された。そして5日後の25日に大会運営の為の実行委員会が開かれ、次いで4月にはスポンサーや競技コース、選手の募集状況、ボランティア体制等について協議、検討がなされ、大会開催へと具体的な準備が進められていったのである。
選手の募集については、同じく4月に滋賀県内3箇所並びに東京と大阪において記者発表を行う等して、全国的な規模で参加者を募った。また国際レースに相応しく海外選手としてエントリーしてきたのは、ミスター・アイアンマンの名を持つ世界最強の鉄人デイブ・スコット(アメリカ・カリフォルニア在住31歳)、ショート・トライアスロンで賞金獲得ラインキング1位のスコット・モリーナ(同24歳)、そして82年2月のハワイ大会でフィニッシュ直前に倒れながらも這いずりながらゴールゲートを潜り一躍、世界にその名を轟かせたアイアン・ウーマンことジュリー・モス(同27歳)等、世界最強レベルの選手の参加が決まった。
一方、国内の主な選手としては、4月の宮古島大会で2位に入った山本光宏(東京、21歳)、同じく4月の宮古島でトライアスロン・デビューし総合5位となった城本徳満(大阪、31歳)を始め、常に安定した力を発揮して入賞ラインを確保する横井信之(愛知、26歳)、今やベテラン・トライアスリートともいえる歌手の高石ともや(京都、43歳)、新進気鋭の女性トライアスリート萬處(まんどころ)雅子(京都、20歳)らが名を連ねた。
これらエリート選手の蒼々たる顔ぶれを含め国内外から集まった参加選手は427名(うち海外選手61名)に及んだ。加えて大会を支えるボランティアは総勢5,000人を数え、総距離226.3kmという日本国内では初めての競技距離という、どれもこれもが従来の国内トライアスロン大会の規模を上回る一大イベントとなった。
この為、大会経費も嵩み、滋賀県が3,500万円を拠出したほか、メイン・スポンサーであるヤンマーディーゼルが特別協賛した。知事の武村は大会開催には大いに賛成だが、スポンサーが前面に出る冠大会になることを嫌った。しかし、この一大イベントを敢行するには民間のサポートもやむを得なかったし、ハワイのアイアンマン大会がビール会社のバドライト(BUD LIGHT)をスポンサーとする商業的色彩の強いイベントを展開していることも配慮せざるを得なかった。
それだけに大会の舞台装置もハワイ並みに大掛かりなものなっていて、特にスイム会場については、水温が低い湖水での競技だし、多くの選手が一斉スタートすることによるトラブル発生も考慮され、完璧と言ってよいほどの安全対策が施された。特に医療班はスタート地点の彦根市・松原水泳場と彦根プリンスホテルの2箇所にメディカル・ステーションを配置、医師や看護士による救急態勢を充実させたほか、会場では漁船や警備艇、モータボート、ゴムボートを多数、用意し、緊急時の対応に万全を期したのである。
こうして日本で初めて開催されるアイアンマン・レースの舞台は総て整った。だが、大会前日に大型の台風6号が接近するとの報せが、大会関係者や選手達の胸に一抹の不安を過ぎらせてもいた。大会実行委員会では大会当日の水温の状態や悪天候になった場合の取るべき措置を検討すると共に、アドバイザーとして来日していたバレリー・シルクとアール・ヤマグチにも意見を求めた。アメリカからやってきた二人は、
「水温が低い場合は、スイムの距離を短縮してはどうですか」
これに対し実行委員長でありレース・ディレクターである成瀬信孝(滋賀県企画部長)を始めとする実行委員会の面々は、
「そうなるとアイアンマン大会の公式距離と異なってしまう。
いずれにしても明日の朝の水温を計ってから決めましょう」
およそ、こんな話が交わされたとのことだが、結論は翌日、すなわち大会当時の早朝まで持ち越された。
そして大会当日の朝、厚い雲に覆われた空からは時折、小雨がぱらついていた。しかし、風はまったく無い。琵琶湖の水面は鏡のように真平に静まり返っている。問題は水温だ。朝5時、実行委員会では、すでに表層、中間層、深層の3層で計測されたデータを基に、スイム競技の実施について協議していた。シルクらの提言を受け入れて、3層の平均水温が20℃を下回ればスイム距離を短縮することも決断しなければならない。また、台風が接近していることを考えれば、大会そのものを中止することも有り得る。
実際、3層の平均水温は19℃だった。この低い温度で選手達に3.9kmもの長い距離を泳がせてよいものか? そうかといって、スイム距離を短縮することで折角、日本で初めて開くアイアンマン・レースのステータスを自ら捨て去ってよいものか? 関係各方面の協力、協賛を得ながら、準備万端、整った本番を今更、キャンセルする訳にはいかない。大会実行委員会はその後、上昇した水温を加味し、午前6時の水温は21℃と公式発表、大会開催に踏み切ったのである。
《次回予告》
国内外のトップ・トライアスリートを始めとする選手達の活躍振りと、レースの模様及び結果を記します。また<トライアスロン談義>では、日本人選手としてトップ、総合4位になった城本徳満氏の奮闘劇を紹介します。
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。
トライアスロン談義
好奇心で胸が一杯だった
熊谷敏博
私がマラソンやトライアスロンに関心を持ち始めたのは、今から30年前の27歳の時でした。東京・高田馬場にあるスポーツ・ジムに通い始めた頃、同じビル内の本屋さんでトライアスロンの特集記事を掲載した雑誌が目に留まったのです。でも、その時は「やってみよう」という気にはならなかったし、第一、すぐに自分が出来る訳もありません。
「いつの日かトライアスロンをやってみよう。だから、まずはフル・マラソンを走ってみよう」
という訳で、スポーツ・ジム内に設けられた一周100mのランニング・コースを走り始めたのです。わずか2Kmを走っただけでしたが、これが初めての中距離ランニングでした。
そして徐々に練習を積み重ねるうちに、実際にレースに出てみたいという気持も高まり、最初のレースとして翌年の2月に行われる関東では名高い30kmの「青梅マラソン」を選びました。しかし、何のことはありません。人気のある大会でしたので、初応募の私は抽選に洩れてしまいました。そこで急きょ、矛先を向けたのが世界的に名が知られたハワイの「ホノルル・マラソン」です。
4時間以内の完走を目指してトレーニングに励み、本番の2箇月前には東京・代々木公園のトリム・コースで42.195Kmを走ってみました。お陰で本番では、目標通り3時間37分30秒で初のフル・マラソン完走を果たしたのです。
ホノルル・マラソンの完走で、私はそれまで頭の中にしまっていたことを思い起こしました。トライアスロンへの挑戦です。夏頃から同じスポーツ・ジム内のプールで一週間に1回の割で始めたスイミングも、はなはだ自己流のクロールながら何とか身に付いていました。ですから、あとは自転車さえ乗りこなせば、トライアスロンも夢ではありません。そしてこの夢を実現しようと決意したのは、84年12月に創刊されたトライアスロン専門誌『トライアスロンJAPAN』を見た時でした。
「もう、やるしかない」
まだ自転車には乗っていないし、スイムもマラソンも中途半端なレベルだけど、何ら臆することなくトライしたい気持に駆り立てられたのです。それまでの私は給料のほとんどをスキーに注ぎ込むほどの“スキー狂”でしたが、実は今までの在り来りのスポーツではない、もっと新鮮味のある特異的なスポーツを、きっと心の中で探していたのかも知れません。その答えがトライアスロンだったのです。
翌85年のハワイ大会への挑戦を期した私は、春になってロードレーサーをオーダーすると共に、ハワイの予選大会として6月に日本で開催することになった「びわ湖大会」への参加申し込みを行いました。でも、バイクが組み上がったのは5月の中旬、大会まで1箇月ほどしかありません。でも、シューズもヘルメットも取り揃え、初心者らしく比較的安全な皇居の周回道路をグルグル走り回りました。兎に角、仕事以外の残されたわずかな時間を裂いて、バイクもスイムもランも出来る限り練習したのです。
そうして迎えた大会本番の朝、何もかもが初めての私でしたが、その割には何ら恐れることもなく、
「よし! やってやろう」
という気持で、スイム・スタート地点の浜辺に立っていました。この長丁場のレースとどのように取り組めば良いか? 新たに購入したウェットスーツで旨く泳ぐことが出来るだろうか? 台風が接近しているようだが大丈夫か? いろいろ不安が過ぎりましたが、それよりも何も初めての体験するトライアスロンへの好奇心で胸が一杯でした。
しかし、初めてのトライアスロンとの戦いは決して楽ではありません。スイムの3.8kmという長距離を泳いだのは大会3日前のこと。最初から自信がありません。スタートの号砲が鳴ってからしばらくして、
「しょうがない。いくか」
かなり後方から、やっとの思いで冷たい水の中に入りました。でも、周囲の選手達に囲まれ、時には蹴飛ばされてゴーグルが外れそうになったり、右寄りに泳いでしまう癖があって、結果的にジグザグに泳ぐ羽目になる等、もう必死の思いです。ようやく1時間51分でゴールした時には、自分の身体が自分でないようなフラフラの状態でした。
<写真>新調したベスト(当時のウェットスーツ)だが、腹から水が入ってきて寒かった
バイクも乗っている間中、心配で心配で、不安と同居しながらの長い時間を過ごしました。何しろタイヤのパンク修理も交換も分からない等、バイクのメカ・トラブルの発生に終始、ヒヤヒヤしていたのです。それにコースのあちこちに上り坂があるので、その分、スピード・ダウンによって制限時間に間に合わないのではないか? という恐怖心にも襲われていました。
「間に合わなかったら、どうしよう」
そんな思いで7時間余りペダルを漕ぎ続け、ゴール会場に着いた時は夕方の16時過ぎになっていました
そして3種目の中で最も自信があるランですが、走り始めたところなんと! 足が重くて思うようには動きません。でも頑張って、1kmを約6分ペースくらいで走り続けていたところ、10km地点付近で台風の影響からか、いきなりバケツをひっくり返したような雨がドッと降り始めたのです。その頃はまだ雨だけで、風はそんなに強くはありませんでした。寒さは感じませんが、それまでの比較的快調なペースから一転、脚が急に動かなくなりペースが落ちて時々、歩きが入るようになりました。
湖畔道路から離れ最後の関門を何とかクリア、その時刻には日が沈みかけ、かなり薄暗くなっていました。そして長浜城前を通過し再び湖畔道路に戻りゴールのある彦根城まで残り10km辺りから脚が痛み始め、苦しくて辛さだけを覚える長い時間が経ちました。でも、彦根城の手前で「あと2km」との応援を聞いたら脚の痛みもどこかへ吹っ飛びました。
そろそろ夜の10時を迎えようとする頃、5時間半のランを終え、トータル14時間45分52秒、総合278位で私はアイアンマン・レースのゴールに到達することができました。しかし、完走した感動はありません。それよりも早く宿へ戻って、暖かい風呂に入ることばかりを考えていました。土砂降りの雨の中でゴールゲートの風船が風に煽られ、大きく揺れていたことを、今でも覚えています。
こうして私の最初のトライアスロンは完走を果たしたものの、やっとこさっとこの思いでした。その後、びわ湖大会には8回、連続で出場しましたが、残念ながら本大会のアイアンマン・ハワイへの参加切符は手に入りませんでした。でも8年間、通ったびわ湖大会のロケーションは私にとって生涯、忘れることができない良い思い出となっています。
そして今日まで、一時はトライアスロンに冷めてしまったこともありましたが、それでも止めることなく、中味は薄いけれど人生の四半世紀をトライアスロンと付き合ってきました。これからも私のライフワークとしてトライアスロンと取り組み、目標に向かってチャレンジ精神を沸き立たせつつ、健康で生き生きとした人生を歩んでいきたいと思っています。
【熊谷敏博氏プロフィール】
1956年4月、香川県丸亀市で出生。高等学校時代まで大阪市内で暮らした後、進学のため上京したが中退、海外移住研修所等の紆余曲折を経て25歳の時、東京で航空貨物輸送会社に就職、現在に至る。スポーツは小学生時代から短距離走が得意で、高校生時代は100m、200m、400mで南大坂地域の大会で優勝したこともある。また、社会人となって海外移住の為の研修所において群馬県の山中でのラン・トレーニングで鍛えられ、走ることへの執着心が養われた。1984年12月にホノルル・マラソン大会を完走し、翌年85年に初めてのトライアスロン「びわ湖大会」に出場、完走を果たす。それからは宮古島や西伊豆など主に国内のロング・ディスタンス・トライアスロン大会に参加、今日に至るまで現役トライアスリートとして活躍中。57歳となった今年2013年、春に交通事故で左足を負傷したもののアイアンマン・ディスタンス・レース「五島長崎国際トライアスロン(バラモンキング)」と「アイアンマン・ジャパン北海道」の2大会に出場、完走する。