TOP > 連載コラム > 日本トライアスロン物語 > Vol.51:火神の巻 第6章 その4:ショート・タイプの登場

Vol.51:火神の巻 第6章 その4:ショート・タイプの登場

日本トライアスロン物語

火神の巻 第6章 その4

ショート・タイプの登場

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

【この記事の要点】

85年10月、我が国で初めてショート・タイプのトライアスロンが熊本県本渡市で開催された。その名も「天草国際大会」と称する総競技距離51.5Kmのオリンピック種目の原型ともなったトライアスロンである。全米で繰り広げられている賞金レースのコンセプトを日本にも導入したもので、その運営母体として発足したのがJTF(日本トライアスロン連盟)だった。

 日本のトライアスロンは1981年に始まった皆生トライアスロンが魁となったが、本格的な幕開けは、そのから4年後の宮古島、びわ湖、天草の3大会が開かれた1985年である。これら3大会の開催によって多くのアスリート達がトライアスロンの世界に足を踏み入れ、我が国トライアスロンの普及、拡大への道を歩み出した。
本稿ではすでに、沖縄の美ぎ島(かぎすま=宮古諸島の方言)で開かれた「ストロングマン宮古島大会」と、日本列島の臍の部分とも言うべき琵琶湖周域で行われた鉄人レース「アイアンマンびわ湖大会」について、その成り立ちと大会関係者の取り組み並びに活動、そして参加選手達の奮闘振り等を記してきたが、最後に九州・熊本の本渡市(現天草市)で開催されたショート・タイプのトライアスロン「天草国際大会」について、その開催経緯と関係者の動静や同大会にトライアスロン・デビューしたアスリートの群像を紹介しよう。

ショート・タイプとは、スイムが1.5Km、バイクが40Km、ランが10Km、トータルで51.5Kmという、宮古島大会のロング・タイプやびわ湖大会のアイアンマン・ディスタンスよりも競技距離が大幅に短縮された、オリンピック公式競技距離を意識したISタイプ(インターナショナル・スタンダード・タイプ)トライアスロンのことである。この競技距離を提案したのはアメリカのTRI-FED USA(米国トライアスロン連盟)で、1982年6月のサンディエゴ大会からUSTS(アメリカ合衆国トライアスロン・シリーズ、当初は総競技距離57Kmで実施)と称し、主としてトライアスリートのプロフェッショナル勢を対象に賞金レースを展開してきている。
天草大会は、そのUSTSのコンセプトを導入し,賞金レースではなかったが国際大会と銘打ち、海外のエリート選手を招請すると共に、中山俊行を始めとする我が国トップ・トライアスリート集団“チーム・エトナ”を結成、参戦させるなど、華々しいスポーツ・イベントが演出された。皆生大会から始まった我が国トライアスロン大会が地方自治体や民間スポーツ団体などによる町興し、村興し的な様相を呈していたのに対し、天草大会はアメリカ流の商業的色彩を帯びたビジネス・モデルとして日本へも上陸したのである。


JTFメンバ-ズ・カード

 そして、この天草大会を企画、運営したのが国際トライアスロン連盟(略称FIT)日本支部として設立されたJTFである。
ちなみにFIT は、トライアスロンが1984年8月のロサンゼルス・オリンピックにデモンストレーション競技として紹介されたのを期に、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンをオリンピック競技種目にしようと、TRI-FED USAが中核的な国際組織として翌9月に設立したものだ。会長にはアメリカ水泳連盟の役員だったカール・トーマスが就任し、TRI-FED USAの同胞であるジム・カールと共にUSTSをアジア大陸・地域でも展開すべく、日本の関係者への働きかけが開始された。
そのアメリカ側の要請を受け入れたのが、大阪に本社を置くベアリング製造販売会社「共栄精工株式会社」の高木省三社長である。高木は本業のベアリング製造販売とは別にユニインセンティブ株式会社という子会社を設立し、ベアリングのパテントを海外へ供与したり逆に海外から商標権を輸入するライセンス・ビジネスを進める過程で、トーマスらとコンタクトを持ちUSTSの日本での展開を期すこととなった。その運営母体として85年春に発足させたのがJTFで、86年以降にはUSTSの日本版とも言うべきJTS(ジャパン・トライアスロン・シリーズ)を開催、運営する。
発足したJTFは東京・渋谷の代官山に事務局を開設すると共に、我が国スポーツ界の看板スターだった野球人の長嶋茂雄を会長として迎え入れることにした。折りしも長嶋は野球の監督業から一旦、離れてフリーな身であったことから、広告代理店やスポーツ新聞社の担当者の仲介もあって、JTFの要請を快く引き受けたという。


USTSの参加案内パンフに掲載された長嶋茂雄会長とカール・トーマス会長

 こうしたUSTSに関わるアメリカと日本の連携を軸に、JTFはショート・タイプ・トライアスロンの開催候補地の調査、選定を進めていた。当初は85年6月を目途に沖縄県本部町での開催を計画していたが、残念ながら地元住民の理解と協力が得られなかった。そこで我が国トライアスロン・クラブの先駆けである熊本CTC(クレイジー・トライアスロン・クラブ)の会長であり、当時、全国トライアスロン協議会幹事としてトライアスロンの普及、発展を願っていた永谷誠一に対し協力を要請したところ、同クラブがかつてトレーニング・キャンプ地として合宿を行った熊本県本渡市の茂木根海水浴場を紹介されたのである。


山岳用品などアウトドア・ショップを経営していた頃の熊本CTC会長の永谷誠一氏

 この時点で6月の開催は無理であったが、地元・本渡市の久々山義人市長の賛同を踏まえ、永谷とレース・デュレクターとなったジム・カールの適切なアドバイスを得て、85年10月13日(日曜日)に我が国で初めてショート・タイプのトライアスロンが開催される運びとなった。そしてこの時から「トライアスロンをオリンピック種目に」という合い言葉が発せられた。今から29年前のことであり、その15年後の2000年に競技距離51.5Kmのトライアスロンはシドニー・オリンピックで正式種目となった。

トライアスロン談義

トライアスロンは神様からのプレゼント

宮塚英也

 私は物心がついた頃からスポーツ大好き少年で、常日頃、野球をはじめ様々なスポーツをテレビ観戦していました。スポーツが持つゲームの面白さはもちろんのこと、選手達の身体の動きや姿に強く惹かれるものがあって、後に母親は「英也はいつもスポーツ番組を観ていた」と言うほど、飽きることなくテレビの前に座っていました。もちろん私は、スポーツ観戦だけでなく実際に運動をすることも大好きで、小学校の校内マラソン大会はいつも一番だったし、ドッジボールやソフトボールなどの球技も得意中の得意でした。
しかし、私に遊びやスポーツを存分に楽しむ時間は与えられていませんでした。学校の授業が終わると一目散に家へ戻り、家業の手伝いをしなければならなかったからです。小学校の同級生らは同じ農家の子供であっても家業の手伝いを免れていたというのに、私達兄弟はそれはもう毎日、学校が休みとなる土日となれば朝から晩まで、草刈りや家畜の世話に至るまで馬車馬の如く働かされました。ですから、朝から雨が降った日曜日は、兄と共に涙を流して喜び合ったものです。
その子供にとって過酷な労働を強いたのは、父親でした。ですから、学校よりも家の仕事が大事と言わんばかりの非常に手厳しい父親に、私は強い嫌悪感を抱いていました。かといって父親の命令に逆らうことは出来ず、じっと我慢する少年時代が続いたのです。そんな辛い日々の労働で養われたことがあったとしたら、ちょっとやそっとのことでは挫けない根性と忍耐心であったかも知れません。

 こんな少年時代を過ごして、やっと家業の手伝いから開放され、厳格な父親の元を離れたのは、大学生として熊本の阿蘇で生活を送るようになってからです。その大学では「陸上同好会」のメンバーとして中長距離を走り、一時は実業団の選手として活躍したいという夢を持ちましたが、5,000mのタイムが15分台後半だし、4年生の時に出場した別大マラソンでは2時間32分が最高というレベルですから、福岡国際マラソンへの出場など夢のまた夢、残念ながらエリート選手としての道を歩むことは諦めていました。
そんな折り、1985年の時ですが、4月の宮古島大会で同年代の中山俊行さんや山本光宏さんが活躍しているのを知ったのです。実は、トライアスロンという言葉を聞いたのは、それより3年前の大学1年生の時ですが、その時は「いずれ社会人になって、趣味程度でやってみよう」などと思っていたのです。しかし、同じ年代の若者がトライアスロンに挑戦し好成績をあげているのを目の当たりにして、私の心は傾き始めました。その気持が溢れ出て「トライアスロンへの挑戦」を決定付けたのは6月のびわ湖大会です。テレビで観戦して、もう居ても立ってもいられない気持になったのです。

「トライアスロンをやろう。スイムは100mほどしか泳げないけれど、やってやれないことはない。完走ぐらいは出来る筈だ」

 そこで早速、私は熊本市内にあるバイク・ショップを訪ね、学生にしては大金でしたが10万円の新品ロードレーサーを購入しました。また、日本で最初のトライアスロン・クラブ「熊本CTC」の永谷誠一さんとお会いし、クラブ員に加えてもらいました。
そして迎えたのが、宮崎県の観光地・青島で8月に開かれるハーフ・トライアスロンです。大会というよりも記録会として行われるとのことですが、兎に角、トライアスロンをやってみたいという気持が一杯で、参加を決めたのです。それで大会の前日、下宿先の阿蘇・長陽村から宮崎市内にある友人宅まで約200Kmほどの距離がありましたが、買ったばかりのレーサーに乗って行きました。
大会参加者は私を含めわずか15人。およそローカルな大会という感じだし、バイク・コースも良く判らないので、それで他の選手と一緒に走らざるを得なかったり、ランも何時の間にかコースから外れてしまい、挙げ句に防波堤に突き当たったので、それを乗り越えて走りましたが、どうも様子が可笑しいので再び戻ると、ようやく他の選手と出会うなど、行ったり来たりの連続でしたが、それでも1位でゴールすることが出来ました。
こうして私にとって初めてのトライアスロンは無事、終わりましたが、また宮崎市内の友人宅までバイクで走って、その翌日は大学の研究室の行事が控えていたので、朝4時に起きて再び阿蘇まで自転車を漕ぎ出しました。ですから3日間でバイクを440Kmほど走ったことになります。貧しい学生の身ですから、お金の代わりにその分、自分の身体をフルに使ったという訳です。でも、家業の手伝いをした少年時代のことを思えば、身体面での努力はそれほど苦になりませんでした。


宮塚英也氏(那須塩原市の宮塚英也スポーツ研究所にて2014年3月撮影)

 さて、次の大会は10月に本渡市で開かれる天草大会ですが、その前月に模擬レースが行われることを知りました。その模擬レースのうちスイム競技は誰でもタダで参加出来ると聞いて、これは絶好のチャンスとばかり本渡市まで行くことを決めました。しかし、この時もスケジュールがタイトで、今思うと我ながら実に無茶なことをしました。というのも、その前日は陸上同好会の仲間と熊本市内で夜中の12時まで酒を飲んでいて、その後、Gパンスタイルのままランニングで30Kmほど阿蘇の下宿まで戻り、すぐさま父親が買ってくれた200ccのオートバイで100Kmを走って模擬レースの会場まで駆け着けたのです。
若さ故か、こんな非常識で無謀な行動を重ねながら翌10月、私はトライアスロンという本舞台に上がることが出来ました。天草大会のスタート・ラインに立った時、不安や恐怖心は微塵もなく、トライアスロンをやりたいという気持が胸に溢れ、本当に嬉しい気持で一杯でした。結果は総合7位、中山さんや山本さんには負けましたが、一般参加選手としては一番でゴールしました。
以上が、私がトライアスロン・デビューした経緯です。それからというもの国内外の大きな大会に参加、出場し、選手として引退するまでの17年間、切磋琢磨して数々のタイトルを獲得してきました。その戦いの記録と成果は、自分自身が築いてきたことに違いありませんが、でも本当に自分なのか? 引退した今、不思議な思いに駆られます。ともあれ、トライアスロンと出会い、トライアスロンの世界で沢山に汗を流し楽しめたのは、時代にも恵まれたと思いますが、何よりも神様が私に与えてくれたプレゼントだと思っています


宮塚英也氏近影

【宮塚英也氏プロフィール】

1964年、長崎県北有馬町(現・南島原市)で生れる。畜産農家の次男として育ち、1986年に九州東海大学農学部畜産学科を卒業。大学性の時代は「陸上同好会」に所属し中長距離競技に専念していたが、一方でトライアスロン競技を知り密かにチャレンジする機会を伺っていた。トライアスロン・デビューは1985年8月に行われた宮崎記録会(スイム2Km、バイク90Km、ラン21Km)、わずか15名がエントリーしたハーフ大会だったが、1位でフィニッシュした。次いで同年10月の天草大会で総合7位に入賞(一般参加選手としてはトップ)、新人選手として脚光を浴びる。以後、宮古島大会では2連覇を含め4回優勝するなど国内のトライアスロン大会で数々の優勝、入賞を繰り返し、日本人選手としてロング・ディスタンスでは向かうところ敵なしと言われた。特筆すべきは、アイアンマン・ハワイで日本人として2度、トップ・テン入り(88年&94年)を果たすなど、世界の強豪に名を連ねたほか、92年にはアイアンマン・ワールド・シリーズの全7戦中4戦に出場し、ポイント・ランキングで世界第3位を獲得した。2002年のシーズンを最後に現役を引退した後、「宮塚英也スポーツ研究所」を主宰し、トライアスロンのパーソナル・クリニックやトレーニング・プログラム・サービスを行っている。
当年50歳、妻と2人の息子と共に栃木県那須塩原市に在住。

Copyright © 2015 Neo System Co., LTD. All Rights Reserved.