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Vol.45:火神の巻 第5章その7:祭りが始まった

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第5章その7

祭りが始まった

【この記事の要点】

1981年に鳥取県米子市の皆生温泉で始まった「皆生大会」に次いで、日本のトライアスロン史上に残る「宮古島大会」が、NHKの衛星放送を交え今、火蓋を切った。老いも若きも、男も女も、誰もが挑戦できる、誰もが等しく楽しめるトライアスロンというスポーツ・イベントが、遥か南海の美ぎ島(かぎすま)で朝の7時から夜の11時まで丸一日を費やし、繰り広げられたのである。その日、宮古島の人々は、新しい祭りの誕生を喜び、クイチャーを踊り続けた。

 

1985年(昭和50年)4月28日(日曜日)、祭りの日がやって来た。宮古島はサトウキビの収穫を終え、夏の季節を迎えていた。東急イン事業部・販売促進課長(当時)の田中清司が宮古島でのトライアスロン大会の開催を提案、次いで琉球新報社が乗り出し、遂に地元の宮古市町村圏協議会が開催への取り組みを開始した84年夏から、早くも9箇月が経った。短い準備期間だったが、島は一丸となって国内外のトライアスリートを迎える態勢を整えたのだ。
参加選手は全部で241名。応募総数310名から選ばれた選手達で、男子が224名、女子が17名、うちイギリス(香港)、アメリカの2カ国から合計11名の選手がエントリーした。選手の年齢は沖縄県から参加の19歳が最年少、最高齢がゼッケン1番の複合耐久種目全国連絡協議会・代表幹事の清水仲治(63歳=当時、以下同)である。
同じくゼッケン2番には日本で初めてアイアンマン・ハワイに出場、完走した熊本の永谷誠一(58歳)、同3番には宮古島大会のテーマ曲「永い道」を作詞、作曲したシンガーソング・アスリートの高石ともや(43歳)、同11番には国会議員の小杉 隆(49歳)、そして3月のリハーサル大会で優勝した山本光宏(21歳)はゼッケン10番、同じく出場、完走した肥後照一(48歳)はゼッケン51番、また地元・宮古からはゼッケン112番の狩俣直司(26歳)ら計17名が出場する。
大会は、スイムが与那覇前浜ビーチ前の海を3Km泳ぎ、バイクが宮古島をほぼ2周回する136Kmを疾走し、ランが日本陸上競技連盟公認の国内最南端のマラソン・コース42.195Kmを駆け抜ける。スタートが午前7時で、制限時間は16時間後の午後11時である。

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<写真>選手達に配られた第1回大会のパンフレット(表紙)とコース図

スイムとバイクのスタート地点となった東急リゾートの庭には幾つものテントが張られ、そこに医師団や救急隊、ボランティアが配置され、まだ夜の明けぬうちから準備に追われた。そして医療部の2つのテントには5つほどのベッドを備えられたほか、傍らには補助救急車も配置されるなど、緊急事態に対応する体勢も整えられた。医療班を統括する宮古地区医師会の下地常之副会長は「万全を期した」との自信を深め、夜の明けるのを待った。
しかし、まだ夜が明けない朝の空気は寒い。とりわけ、この日は北東の風が吹き、例年になく寒かった。そんな中、別のテントでは午前5時から選手登録・受け付けが始まる。ところが、肝心の照明器具が用意されていない。仕方なく、クルマの前照灯でテントの周囲を照らした。照明の問題は、それだけではなかった。
選手の受け付けが終了し、NHKの衛星放送が開始されようとする頃、突然、東急リゾートの電源ヒューズが飛んだのだ。停電である。

「停電だぁ! 本部の放送が切れてしまった。NHKの放送も出来なくなる。どうしよう」

本部周辺に居る実行委員会の役員や事務局の面々は慌てた。否、うろたえた。停電の原因は大会本部の放送とNHKの電源が一緒だった為、オーバーヒートしたのである。そこで競技運営委員会・副委員長並びに総務部長として競技全体を統括する宮国 猛が指示した。

「NHKの電源は切れないから、本部放送を切れ。代わりに電源コードを持ってこい」

結局、下地町役場(当時)から電源コードを持ち出し、事無きを得たのである。

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<写真>スイム会場となった東急リゾート前の与那覇前浜ビーチ

朝6時48分30秒、NHKの衛星放送が開始され、与那覇前浜ビーチの白い砂浜と青い海がテレビ画面一杯に映し出された。

「水泳、自転車、マラソンの距離181.195Kmを一人でこなそうという、とてつもない新しいスポーツ種目、第1回全日本トライアスロン宮古島大会の模様を、今日は朝7時から夜の11時まで放送衛星を使って皆様のお茶の間にお届けします」

NHKアナウンサーの宮本隆治が片手にマイクを持って発声した。そして、清水仲治や長野県から参加した林 貞治、敦子夫妻などにマイクを向け、大会に臨む意気込みを聞いて回った。

空は鉛色の雲に覆われ、やや北よりの風が吹いている。気温は20.7℃と、例年よりも寒い。大会本部の発表で水温は24℃、波もなく視界は良好、昨日まで強かった潮流も緩やかになっていた。宮古地区医師会の会長で大会の医療部長を務める宮里不二雄もゴーサインを出した。

「バーン」

スタートの合図のピストル音がビーチに広がった。色とりどりのスイム・キャップを被った241名の選手達が青い海に向かって泳ぎ出す。続いて、花火の爆竹音が空に響いた。

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<写真>一斉に泳ぎ出す241名の選手達

1981年に鳥取県米子市の皆生温泉で始まった「皆生大会」に次いで、日本のトライアスロン史上に残る「宮古島大会」が、NHKの衛星放送を交え今、火蓋を切った。老いも若きも、男も女も、誰もが挑戦できる、誰もが等しく楽しめるトライアスロンというスポーツ・イベントが、遥か南海の美ぎ島(かぎすま)で朝の7時から夜の11時まで丸一日を費やし、繰り広げられたのである。その日、宮古島の人々は、新しい祭りの誕生を喜び、クイチャーを踊り続けた。

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<写真>クイチャーを踊る地元の人々

《次回予告》
今回に引き続き全日本トライアスロン宮古島大会の第1回大会のレース模様と、選手、役員達の活躍をレポートします。また<トライアスロン談義>では、実行委員会事務局の第一線で活動し、大会の成功に奔走した長濱博文氏の苦心談を掲載する予定です。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>

宮古島は第二の故郷

肥後 照一

私がトライアスロンの世界に入った切っ掛けは、体重が10Kgほど増えてしまい、健康に留意しなければならないと思った43歳の時でした。中高校生時代、陸上長距離走が得意だったこともあって、私は自宅からすぐ近くの多摩川の土手をトレーニング場にジョギングを始めました。そして翌年の1981年、熊本の天草で行われた第9回パール・マラソン大会に出場、10Kmを約41分で完走しました。生まれて初めてのスポーツ大会でしたが、完走して私はこう思いました。

「これは面白い。ならば次はフル・マラソンに挑戦してみよう」

初めてのマラソン大会の完走で、すっかり気を良くした私は、同じ年に静岡県の磐田市で行われていた42.195Kmのマラソン大会に出場し、3時間43分で走り切りました。それで、またまた気分を良くした私は、

「水泳は子供の時代から郷里の河川で泳いでいて、自己流ながら結構、得意だし、フル・マラソンも走れた。ならば、あと自転車さえ乗れるようになれば、トライアスロンも出来るのではないか!」

まったくもって怖さを知らないというか、無謀にも私は翌82年7月の第2回皆生トライアスロン大会への出場を決めました。そして多摩川の土手のサイクリング・ロードで、マラソンと自転車の練習に励みました。兎に角、何もかにも初めてのことなので、雑誌を読んだり、人の話を聞いたり、いろいろなことを学びながら、何とか皆生トライアスロンを総合43位で完走することが出来ました。

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<写真>アイアンマン・ハワイのランでラスト・スパートを駆ける肥後氏(写真右)

こうなると、次の目標はハワイで行われているアイアンマン・レースです。すでにエントリーを済ませていた私は、さらにトレーニングを積み重ね、82年10月の大会に出場、トータル13時間58分18秒、総合519位で完走しました。呑気にトライアスロンを楽しむことが身上の私は、バイクでは2時間走るごとに休憩を入れながら、当初想定した通りのタイム(14時間)でフィニッシュしたのです。
アイアンマン・ハワイへは参加は、これ一回限りですが、それからというもの私はトライアスロンにのめり込み、82年~84年まで皆生大会に連続出場しました。そんな折、私の耳に「宮古島トライアスロン」という言葉が入ってきたのです。

「よし! このトライアスロン大会には、何がなんでも出よう」

来年4月に宮古島で初めてトライアスロンが行われると聞いた私は、はったと手を打って喜びました。大袈裟に言えば、このトライアスロン大会は自分の為に開かれるとさえ思ったほどです。だから、なんとしても大会に出場、完走しようと決意したのです。
それというのも、宮古島の人々と私達家族は切っても切れない繋がりを持っていたからです。宮古島は、第1回トライアスロン大会の模様がNHKの衛星中継で放送された為、全国的に知られた訳ですが、私達はもっとそれ以前から宮古島の方々と親しく交流し、まさに友達同士、親戚同士のようなお付き合いを続けていたのです。
と申しますのも、まず妻の叔父さんが宮古島で戦病死した為、折りに振れ墓参りをしていたし、義理の妹(弟の嫁)が宮古出身だったこと、さらに私の息子達が全寮制の中高一貫校時代に宮古出身の男子生徒3人と同窓生だったからです。3人の生徒とは、ひとりは野津商事の息子さん、ひとりは平良市の伊志嶺市長の息子さん、もうひとりが宮古医師会の宮里会長の息子さんです。しかも私は全日空の当時、下地空港でパイロット訓練の査察業務をしていたという、懐かしい思い出を持っています。

ですから、宮古島は私の第二の故郷とさえ言ってもよく、その宮古島でトライアスロンが開催されると聞いて、身体の中から熱い血が沸き上がるような思いに駆られました。それで4月の本番大会前の3月に行われるミニ大会への出場も決めるなど、この年からトライアスロンでの宮古島通いが始まったのです。そして記念すべき第1回大会は、総合46位で完走しましたが、何よりも嬉しかったのは、コース上に私への応援横断幕が古波蔵建設(妻の短大同窓生の実家)から3枚も張り出されていたことです。また、その後の大会でも、9枚もの横断幕が掲げられたこともありました。

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<写真>宮古島大会を連続20回出場した記念の表彰状

以後、宮古島へは妻をはじめ家族共々、今日までに39回、足を運びました。選手として大会には20回、連続出場しましたが、そのうち6回はランに入ってリタイアするという不名誉な記録も残しています。体質の所為でしょうか? 飲む水の匂いさえ辛くて吐き出してしまうなど、何故か、ランに入るとエイド・ステーションの給水・給食を受け付けなくなってしまうのです。
最後の出場となった2004年の第20回大会では、ランの5Km地点で足が止まり、妻が用意してくれたソフト・アイスクリームも受け入れることが出来ず、無念のリタイアとなりました。そして、この第20回宮古島大会を最後に、出場の年齢制限もありましたが、自分の体力の衰えも覚え、私のトライアスロン人生は幕を降ろしました。もう二度と宮古島トライアスロンには出場できませんが、でもこれからも、私達家族の第二の故郷として機会あるごとに宮古島を訪れ、宮古の人達の優しく厚い人情に触れながら生きていきたいと思っています。

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<写真>共にトライアスロン人生を歩んでこられた肥後ご夫妻(12年3月、東京・蒲田の自宅にて撮影)

【肥後 照一氏プロフィール】
1937年、鹿児島県伊佐市出身。県立大口高等学校を卒業後、航空自衛隊に入隊、飛行機の操縦パイロット並びに教官として6年間、勤務した後、全日本空輸株式会社(ANA)へ入社する。31歳の時、機長となり、60歳の定年まで国内外の空を飛ぶ。飛行時間は2万1,600時間に及ぶ。現在は妻、子供4人、孫10人に囲まれて元気に暮らす。

“Vol.45:火神の巻 第5章その7:祭りが始まった” への1件のフィードバック

  1. 池村 理子 より:

    記録部長、水泳部本部長を務めさせていただきました、池村盛良の娘です。

    偶然こちらのサイトにたどり着きました。

    大会運営について、家庭では多くを語らない父が、人生後半のすべてを費やしたトライアスロンの
    ドラマを、こちらで垣間見ることができ、感謝しています。

    もしvol.45の続きがあるようでしたら、ぜひ掲載をよろしくお願いいたします。

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