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Vol.39:雷神の巻 対談インタビュー 燃え上がった炎は消えない

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

雷神の巻

対談インタビュー 燃え上がった炎は消えない

【この記事の要点】

トライアスリート達を取材する過程でも、彼らの無鉄砲さや無邪気さは、私にとってやや異人種とさえ映りました。どんどん直感的に突き進みながらも、それでいて慎重に事を構え取り組んでいくトライアスリートの気質が、従来のスポーツでは見られないトライアスロン独自の文化を築いていったのではないかと思います。

ゲスト 元『トライアスロンJapan』編集長・勅使河原 義一
インタビュア 『日本トライアスロン物語』編集主幹 桜井 晋

ハワイ渡航直前にカメラ捜し

桜 井 「日本で唯一のトライアスロン情報マガジン」と謳った『トライアスロンJapan』(以下、TJ誌と略す)が今年1月に廃刊されましたが、そのTJ誌の創刊以来、15年間にわたり我が国トライアスロンの現場を取材し続けてこられた元TJ誌編集長の勅使河原義一さんに、1980年代のトライアスロン界のお話をお聞きし、この「雷神の巻」の締め括りにしたいと思います。
勅使河原 今日、トライアスロンはオリンピック競技にもなりましたが、自分にとって今でも面白く興味深いのは草創期のことです。その点で『日本トライアスロン物語』の「風神の巻」、そして「雷神の巻」は、正にトライアスロンの激動期のことがつぶさに書かれていて大変、興味深く読ませて戴いております。それも登場する人々がプロやトップ・アスリートだけでなく、多くの一般のトライアスロン愛好者によって歴史が創り出されていく過程を記していて、歴史のうねりの大きさを感じます。物語に登場する人物や出来事など、当時を思い起こし懐かしむと共に、改めてトライアスロンの成長の歴史を知ることが出来ます。
桜 井 『日本トライアスロン物語』を読んでくださり、有り難う御座います。それでは始めに、勅使河原さんのトライアスロンとの出会い、関わり等からお話をお聞きしたいと思いますが、矢張り㈱ランナーズ(09年11月より株式会社アールビーズと社名変更。以下、ここではラ社と呼ぶ)へ入社したことが切掛けとなったのですね。
勅使河原 大学を卒業した私はジャーナリズムとは全く無縁の旅行会社に勤務していましたが、高校や大学時代から長距離走が好きで、毎年2月に開かれる青梅マラソン大会を目標に走っていました。それでラ社発行のランニング雑誌『ランナーズ』を創刊号から購読していましたのですが、ある時、その雑誌の中でラ社の社員募集広告が目に留まり応募したのです。そして採用され、ラ社へは翌82年1月に入社しました。私が27歳の時です。
桜 井 その年には、アメリカで「Tri-Fed USA=アメリカトライアスロン連盟」が設立され、またトライアスロン大会はアイアンマン・ハワイが2月と10月に2回開催されたほか、サンディエゴでは“USTSシリーズ”というショート・タイプの賞金レースが6月に開かれました。さらにヨーロッパでは、11月にフランスでニース・トライアスロン大会が行われる等、トライアスロンが国際的なブームを巻き起こしていました。しかし、日本ではトライアスロンは始まったばかり、トライアスロン大会は皆生、湘南、それに小松の3大会が開催されていましたが、トライアスロンの総人口は全国で1,000人余りだったと思います。

ハワイ島コナの空港にて、84年ハワイランナーズツアーのアスリートとショット撮影(写真中央が勅使河原氏)

ハワイ島コナの空港にて、84年ハワイランナーズツアーのアスリートとショット撮影(写真中央が勅使河原氏)

 
勅使河原 トライアスロンというよりも、当時はランニングの方が流行っていましたね。ですから私は、ラ社が行うホノルル・マラソン・ツアーの担当者として日本から参加する選手の募集を始め、参加ウェアの調達、旅行会社との交渉など、もっぱらツアー・コンダクターとして働いていたのです。もちろん好きなランニングに関わる仕事でしたから、それはそれで楽しく仕事をしました。
桜 井 そうすると、トライアスロンに関わったのは何時からですか? ラ社の『トライアスロンJapan』は84年12月に隔月間で創刊しましが…。
勅使河原 そうです。その創刊号を発刊する為、橋本社長の命令で84年10月のアイアンマン・ハワイの取材に出掛けたのです。と同時に、ラ社では大会参加ツアーも企画しましたが、その結果、20名余りの選手が集まりましたので、私はそれら選手達を現地へ連れて行く仕事にも携わることになったのです。そして、いよいよハワイへ出掛ける日のことです。今晩の飛行機で旅立つその夕方、私は会社の棚や引き出しを開け閉めしながらカメラ等、写真撮影機材を探し回っていました。橋本社長はカメラマンでしたから写真の機材類は沢山、有ったのですが、ではどのカメラを、どのレンズを、どのストロボや三脚を、またどんなフィルムを用意したら良いか、正直、素人の私には判りませんでした。そんな私の様子を見ていた橋本は会議を中断して、写真機材をアセンブリした上、フィルムの感度に応じて撮影する方法などのテクニックを教えてくれたのです。橋本は「撮影出来ないと創刊号が出ない」とばかり焦った様子でしたし、私自身も今晩、成田からフライトするというのに、実に冷や冷やものでした。

トライアスリートは自己中心型

桜 井 初めて目の当たりにしたアイアンマン・レースの印象は如何でしたか?
勅使河原 大会の取材には、ドーバー海峡を横断した後、84年春にラ社に入社した大貫映子さんを伴って出掛けたのですが、兎に角、2人ともトライアスロンを観るのは初めてなので、無我夢中でレースを追い駈け、バンバン写真を撮りまくることに専念しました。スイムのスタート模様は壮観で、誰が撮っても好い写真になるなと思いました。選手達が一斉に海に飛び込み、水飛沫を上げながら大きな腕をブン回す様は、トライアスロンを初めて観る私達を圧倒しました。そしてバイク競技ですが、当時は撮影取材もラフに行えましたので、クルマを併走させながら撮ることが出来ました。この時はバイクでマーク・アレンが先行しましたが、ランに入ってデイブ・スコットが追い抜き優勝、そのデイブがフィニッシュする勇姿を撮ることが出来て良かったと思っています。また、日本人では明治大学の学生だった中山俊行選手が日本人トップの総合17位となり、日本人選手の活躍も目の当たりにしました。そして夜になり、ゴールゲートを取り巻く大勢の観衆に囲まれ、暗闇の中からライトを浴びて続々と帰ってくる選手の姿は、正に感動的です。私がコーディネートしたラ社のツアーに参加された方々の多くが無事、フィニッシュしたのですが、中でも永田 峻さんはゴールした後、盛んに「気持が好い、気持が好い」を連発していたのが印象的でした。

TJ誌創刊号に掲載されたデイブ・スコットのゴール・シーン

TJ誌創刊号に掲載されたデイブ・スコットのゴール・シーン

桜 井 それで、ハワイから戻りTJ誌創刊号の編集制作に携わりました。その創刊号の記事のほとんどを84年アイアンマン・レースの話で埋めた訳ですね。
勅使河原 それこそハワイ大会でバンバン撮った写真を満載した上、トライアスロンに取り組むアスリートの声を沢山、採り上げました。ハワイでは、参加選手の多くが取材に協力的で、積極的にインタビューに応じてくれたこともあって、トライアスロンの現場の生の声を反映させる内容になったと思っています。彼らトライアスリートは実にポジティブかつエネルギッシュで、インタビューにモジモジ応えたりする人はいません。皆、明るく陽気でハキハキしていたことを、今でも思い出します。
桜 井 本当にトライアスリートは、それまでにないスポーツ精神を持った人々が多かったですね。それはトライアスロンが運動競技というよりも、長い未知的な距離を、それも3種目の運動をこなしてゴールすることの苦しさと喜びを同時に味わい、「ゴールすれば、皆、鉄人」という自分との戦いに趣が置かれたスポーツだったからでしょう。この戦いに勝つ為には、常日頃のトレーニングから日常生活に至るまで自分自身をコントロールすることが課せられたという意味で、言わば自己実現型スポーツの誕生だったと思います。それはこれまで、『日本トライアスロン物語』に登場した多くのアスリート達の話を聞いてみても頷けます。
勅使河原 後にTJ誌で「トライアスリートは、どんな人間か?」という企画記事を掲載したことがあります。その中でトライアスリートは実に自己顕示欲が強い、ある意味で露出症的な性格を持つ者が多く、また休日のほとんどの時間をトレーニングに割いて家族を顧みない、結構、自己中心型の身勝手な人間というイメージが定着していたことにも触れました。兎に角、当時のトライアスロンは今日のようなショート・タイプではなく、いきなりロング・ディスタンスのアイアンマン・レースでしたから、それなりのモチベーションを持って挑戦する必要があったのかと思われます。

勅使河原氏は海外へも積極的に足を運び取材活動を展開した

勅使河原氏は海外へも積極的に足を運び取材活動を展開した

桜 井 だからスポーツであっても競技ではない。今日ではオリンピック種目の競技となりましたが、昔の鉄人レースは日常生活やレースそのものも含めて自己研鑚を深めていくプロセスが重要でした。だからエリート選手は別として、一般の多くのトライアスリート達は他者に勝つことよりも、自己に勝つことに意義を感じ、またそのような人間同士の輪を求めていったと思います。
勅使河原 確かに、当時のキーワードは「仲間」でした。気の合った者と一緒に練習をする、或いは共に飲食を楽しむ等、運動を通じた仲間づくりが盛んでした。トライアスロンのクラブは全国、津々浦々までつくられたのも、その為でしょう。トライアスロンの初期の頃はインターネットもなかったので、練習方法やクラブ活動、大会開催等、トライアスロン関わる情報を得ることが難しかったと思います。
桜 井 その意味でTJ誌の存在はトライアスリートにとって貴重でした。私もTJ誌には80年代後半から連載記事を沢山、書かせて戴きましたが、毎回、それなりの反響がありました。矢張り啓蒙普及という観点からTJ誌が果たした役割は、大きなものがありましたね。
勅使河原 普及という観点から、TJ誌の編集制作に当たって、特にトライアスロン・クラブの紹介を心掛けた積もりです。クラブが制作している会報記事を紹介することによって、トライアスロンの取り組み方やトライアスリートの群像に照明を当てたのです。地方の小さなクラブ会報も採り上げましたが、その中には大変、興味深い体験談も書かれています。また、昔はトライアスロンの指導者が少なく、それこそトレーニング理論等というものは存在しません。それだけにTJ誌の記事作りも苦労をした覚えがあります。例えば、山本光宏選手が大学生の時代、彼の大学まで赴いてトレーニングの実践現場を取材する等、各現場をいろいろ取材したことが今でも懐かしく思います。それと、当時はトライアスロン大会の数も少なかったこともあって、その分、どんな大会でも取材に出掛けるよう努め、TJ誌に紹介しました。86年に埼玉県長瀞町でたった1回だけ開催された「長瀞トライアスロン大会」というローカル大会へも足を運んだことを覚えています。

85年にトライアスロンが華開く

桜 井 我が国のトライアスロンは81年の皆生大会から始まった訳ですが、振り返ってトライアスロンの本格的な普及、拡大の切掛けとなったのは、85年の時だったと思います。その年の4月に宮古島大会が開催されたのを始め、6月にびわ湖アイアンマン・レース、そして10月にショート・タイプの天草大会が行われ、一気にトライアスロンの炎が燃え上がったのです。この記念すべき85年の3大会について、『日本トライアスロン物語』では次の“火神の巻”で詳述していく予定ですが、その前段として勅使河原さんに、それら3大会を取材された当時の思い出や感想等をお聞かせください。
勅使河原 おっしゃるように85年の宮古島大会がNHKのBS放送の電波に乗って日本全国に紹介されたのが、本格普及の第一歩だったと思います。私は宮古島大会の前日にカメラマンの本多ジェロさんと現地入りし、前夜祭に出席しました。NHKが衛星中継するというので注目が集まり、新聞や雑誌等、かなりの数のマスコミが取材に来ていたようです。中には『少年マガジン』誌もやって来ていて、大会の模様をモノクロ5・6頁で掲載していました。そんな賑わいを見せる一方で、宮古島は本州とは全く違うのんびりムードの別世界、タクシーの走る速度がなんと30Kmという長閑さでした。参加選手は248名(参加許可数)と少なかったので取材もかなりゆったりと出来、島内観光の気分でやれました。
桜 井 大会は、島民の方々、ほぼ全員が「ワイドー・ワイド=頑張れ・粘れ」と言って選手達に応援を送り、大変、盛り上がりました。そんな大会の様子をテレビで観た私達は、改めてトライアスロンの魅力を感じました。
勅使河原 宮古島という、空も海も美しいロケーションが一層、魅力を引き付けたと思います。その美しい島の風景に溶け込みながら選手達は熱い汗を流し、トップの中山俊行選手がフィニッシュした時は、大きな拍手と歓声が起こりました。しかし、それよりも何も、兵庫県の榊原良明さんが最終走者として大勢の島民に囲まれてフィニッシュしたシーンは素晴らしく、私は鳥肌が立つほどの感動を覚えました。いずれにしても、この宮古島大会が開催され、成功を修めたことで、日本でもトライアスロンの人気は一気に加速されたと思います。

第1回宮古島大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手

第1回宮古島大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手

桜 井 続いて滋賀県の琵琶湖で行われた日本版アイアンマン・レースが、またもやテレビ中継され、トライアスロンとは全く無縁の人々にもかなり知れ渡ることになりました。この大会を取材して、どんな感想を持たれましたか?
勅使河原 兎に角、ロング・ディスタンスのレースですので、取材はタクシーをチャーターして、ポイントごとに選手の通過するのを見ていました。私に割り当てられた取材命令は、フィニッシャー達のコメントを採ることと、ライバルと目される2人の若い日本人女性アスリートを追跡することでした。しかし、レース当日は台風の接近でコンディションは最悪、寒さに加えて風雨が強まり、ラン競技に入った頃は豪雨となり、本当にこのまま競技が続くのかと思ったほどです。
桜 井 琵琶湖の水はかなり冷たく、本来ならばレースをやれる状況ではなかったと、後に関係者から話を聞いています。おまけに台風は現地をほぼ直撃しつつあり、よくも最後までレースが続けられたなと思いました。
勅使河原 そんな中、アメリカからやって来たデイブ・スコットやスコット・モリーナ、ジェリー・モス等、スター選手を始め、この年からハワイ大会への予選会制度が始まった為、本戦のハワイ大会への出場権を賭けエントリーした海外選手もかなりいて、宮古島大会とは大分、違った競技色の強い雰囲気を感じました。実際、レースでは、84年のアイアンマン・ハワイで9時間を切る驚異的な記録で優勝したデイブ・スコットが、さらに総合タイムを15分も短縮したり、女性のジュリー・モスが総合3位でフィニッシュ、続く総合4位で日本人男子1位の城本徳満選手に25分余も速かったとは、驚くばかりでした。アイアンマンの記録更新の加速化と、世界の競技レベルの高さを目の当たりにした思いです。

震えるような寒さの中で85年びわ湖アイアンマン大会が行われた

震えるような寒さの中で85年びわ湖 アイアンマン大会が行われた

桜 井 トライアスロンの競技化という観点では、熊本県本渡市で行われた天草大会が、我が国トライアスロンの歴史の1頁を飾る大会になったと思います。この大会はアメリカに本部を置く国際トライアスロン連盟の日本支部として、その年に発足した日本トライアスロン連盟がインターナショナル・スタンダード・タイプと称し、3種目の総合距離51.5Kmのスピード・レースを開催しました。如何でしたか? 遠く天草まで出掛けて取材してきた感想は…。
勅使河原 大分、記憶が薄れているので仔細は述べられませんが、雷鳴の中、中山俊行選手がトップでフィニッシュしたことと、アイアンマン大会と比べ競技距離が短い為、レースがよりスピード化したとの印象を持ちました。また、連盟の会長となった野球人の長嶋茂雄さんが大会セレモニーに登場する等、大会運営や会場づくりを華やかに演出し、トライアスロン大会というよりもスポーツ・イベントというイメージを強く抱きました。

第1回天草大会のセレモニーに登場した長嶋茂雄氏(日本トライアスロン連盟会長)と、カール・トーマス氏(国際トライアスロン連盟会長)

第1回天草大会のセレモニーに登場した長嶋茂雄氏(日本トライアスロン連盟会長)と、カール・トーマス氏(国際トライアスロン連盟会長)

 

トライアスロンに関わり幸運だった

桜 井 この天草大会の舞台で、中山選手ら日本のエリート選手達によって結成された「チーム・エトナ」が紹介されました。このチームは同連盟に所属して、チーム・メンバーが活躍することにより、その後の連盟主催の大会のイメージ・アップを図っていこうという狙いが込められていたように思います。つまりトライアスロン大会をショー化することにより、メディアやクライアントに訴え掛けていこうという同連盟のイベント・ビジネスが、この年からスタートした訳です。そして翌年には仙台・中日(岐阜県海津町)・天草の大会が開かれ、アイアンマンとは全く趣向の異なる賞金付きのショート・トライアスロンが展開されていったのです。こうして観てみると、85年という年は日本のトライアスロン絵巻が本格的に華開いた年であり、同時に宮古島・びわ湖・天草という、それぞれ性格が異なるトライアスロンの典型が提案された年でもあったように思えます。その頃からトライアスロンと直に向き合い取材活動をされてきた勅使河原さんにとって、改めてトライアスロンとは何か? また、その文化的な側面についてお話を戴きたいと思います。
勅使河原 TJ誌に携わる前からトライアスロンのことは知っていましたし、ハワイや皆生など初期的なトライアスロンの姿は、話に聞いたりしていましたが、その当時はレースの途中で選手が体重を量るなど特殊な競技だな…と思っていて、当時、ランニング志向だった私は特別な関心を抱くことがありませんでした。また、トライアスリート達を取材する過程でも、彼らの無鉄砲さや無邪気さは、私にとってやや異人種とさえ映りました。どんどん直感的に突き進みながらも、それでいて慎重に事を構え取り組んでいくトライアスリートの気質が、従来のスポーツでは見られないトライアスロン独自の文化を築いていったのではないかと思います。
桜 井 勅使河原さんはTJ誌の創刊から2年後には編集人として実質的な編集長の役割を担い、さらにトライアスロンの取材、編集に磨きをかけていく訳ですが、最後にこれまでの約25年間に及ぶトライアスロンとの関わりを、どのように総括していますか?
勅使河原 日本の歴史のほぼ始まりからトライアスロンに関われたことは、自分にとって財産だと思っています。それだけにトライアスロンというスポーツが誕生し、発展していく様子を間近に触れることができた訳で、トライアスロンに携われたことを幸運だったと思っています。それもこれも数多くのトライアスリートの皆さんや大会関係者の方々のご支援やご協力が私を支えてくれた訳で、本当に感謝しています。25年前に燃え上がったトライアスロンの炎は今後とも消えることはないでしょうが、しかし、決して炎の明かりが弱まることのないよう進化、発展していくことを見守っていきたいと思います。

徳之島トライアスロン大会に参加、完走した勅使河原氏

徳之島トライアスロン大会に参加、完走した勅使河原氏

【勅使河原義一氏プロフィール】
1954年、東京・豊島区で生まれ育つ。慶應義塾大学文学部国文科を卒業後、旅行会社に勤務。82年1月に株式会社ランナーズ入社、スポーツ・イベントのコーディネーターとしてホノルル・マラソン大会ツアーを担当する。84年にはアイアンマン・ハワイのツアー担当者として日本人参加選手と共に現地入りし、大会の模様を撮影取材、帰国後、『トライアスロンJapan』創刊号を編集、制作する。以来、同誌の編集に携わり、88年7月に編集長に就任。90年には徳之島トライアスロン大会にチャレンジ、トライアスリートとなる。99年10月に㈱ランナーズを退社し、スポーツ・ディレクターとして各種スポーツ・イベントの開催に携わる傍ら、日本学生トライアスロン連合(学ト連)の役員として活動を展開。02年4月には㈱ランナーズの傍系子会社㈱ラントップのスポーツ・イベントにレース・ディレクターとして事業参加する。現在、日本学生トライアスロン連合副理事長。

勅使河原義一氏近影(千葉県船橋市にて、09年8月撮影)

勅使河原義一氏近影(千葉県船橋市にて、09年8月撮影)

《次回予告》
1985年から始まる80年代後半の時代は、我が国トライアスロンの本格的な成長、発展の先駆けとなる。その端緒となったのが85年4月の宮古島、6月のびわ湖アイアンマン、10月の天草の3大会だった。そこで次回以降を“火神の巻”と称し、これら3大会を現地取材を踏まえ、かつ当時の大会主催者、ボランティア、参加選手、組織、スポンサー、マスコミ等の関係者の証言を元に、その歴史的展開を詳述していく。次回・物語本編では、宮古島大会を開催する為の様々な関係者の動静を述べる。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

“Vol.39:雷神の巻 対談インタビュー 燃え上がった炎は消えない” への1件のフィードバック

  1.  ’91年の「酒田おしんレース」に初参戦以来、19SEASONを経過したトライアスリートです。
     日本トライアスロン物語、第1回からリアルタイムで楽しませていただいております。
     小生が大学生のころに、水泳部監督のゼミ室で初めてTJ誌をみ、同じ競泳大会で一緒に泳いでいた山倉君がその後、TJ誌に出ていたのをみて一気に興味を高めました。
     本連載を読みながら、トライアスロンが急速に競技人口を増やしつつ、盛り上がりを見せていた頃を思い出して楽しんでいます。
     毎回の取材、記事執筆等大変ご苦労様です。今後も益々内容の濃い、懐かしい写真で頻回掲載されること期待しております!!

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