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Vol.38:雷神の巻 第4章その7:プロ・チームの誕生

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

雷神の巻 第4章その7

プロ・チームの誕生

【この記事の要点】

日本のプロ・トライアスリートのJTS並びにUSTSへの参戦を目的に、中山を始めとする我が国エリート選手によって構成するトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成することにした。その名も“チーム・エトナ”である。

 
1984年12月にJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)が核分裂してATC(全日本トライアスロンクラブ)が結成される等、トライアスロンを愛好するアマチュアのアスリートによる活動の動きが盛んになる傍ら、同じトライアスリートながらアマチュアではなくプロフェッショナルとしてトライアスロンに取り組んでいこうという動きも高まってきた。その先頭に立っていたのは、JTRC神奈川支部長の役を務めていた中山俊行である。
 明治大学4年生だった中山は、翌年85年4月から自転車メーカーであるブリヂストンサイクル株式会社の正社員として就職することが内定していた。中山が同社を選んだのは、自転車ロード選手として同社のレーシング・チームへの参加機会が得られると共に、トライアスロンの選手活動を続けていくことを願っていたからだ。しかし、そんな中山の気持に冷水が浴びせられた。

「普通の正社員として働いてください。我が社の自転車チームの選手は皆、高卒者の若者達で、大卒者はおりません」

 会社側からそう言われた中山は苦悶した。

「サラリーマンになってしまったら、練習時間も少なくなりトライアスロンの選手として活動していくことは難しい」

84年のハワイ大会で総合17位となった中山選手(写真右、中央が梅澤選手、左が飯島選手)

84年のハワイ大会で総合17位となった中山選手(写真右、中央が梅澤選手、左が飯島選手)

 トライアスロンを始めた当初は「大学を卒業したら就職する」との方針だったが、気持が変わったのだ。84年のアイアンマン・ハワイで総合17位、世界の舞台で戦える力を証明すると共に、同じ年の12月にカウワイ・トライアスロン大会で8位入賞し賞金300ドルを獲得する等、押しも押されもせぬ我が国トライアスリートの第一人者となった中山にとって、最早、トライアスロンを見放すことが出来なかった。当時、アメリカで盛んになっていたUSTS(アメリカ合衆国トライアスロン・シリーズ))と呼ぶ賞金付きショート・トライアスロン・レースのプロとして活躍していたスコット・モリーナや、ハワイ大会に連続優勝しロング・トライアスロンの王者に君臨していたデイブ・スコットのように、自分もなりたいという気持が日々、増幅していった。挙げ句、中山はブリヂストンサイクル㈱の就職を蹴ったのだ。

「何とかなるさ。日本が駄目ならアメリカで暮らそう」

 トライアスロンのプロフェッショナルとしてアスリート修行を続けようと決意した中山は85年3月、大学卒業旅行にニュージーランド・アイアンマン大会へ単独、遠征した。そして見事、6位入勝を果たしたのだ。この時、もう中山にとって恐いものはなかった。85年4月、春爛漫の桜が咲く頃、中山は無職のプータローに過ぎなかったが、胸には漲るものがあった。

「今月、初めて沖縄の宮古島で開かれるトライアスロン大会では、優勝を目指そう。この大会でトップになるのは自分しかいない筈」

 そんな中山に声を掛けたのが、83年の皆生大会やハワイ大会で知り合い、同じJTRCの仲間でもあった東京支部長の猪川三一生(みちお)である。猪川は84年12月にJTRCを辞めて市川と共にATCを結成、副会長に就任した現役のアマチュア・アスリートだったが、一方でUSTSのようなショート・トライアスロン大会の開催と運営に関心を持った。それは大阪のベアリング製造販売会社である共栄精工株式会社社長・高木省三の依頼によるものだった。

猪川氏とは83年ハワイ大会で知り合った(写真中央が中山選手、右端が猪川氏)

猪川氏とは83年ハワイ大会で知り合った(写真中央が中山選手、右端が猪川氏)

 当時、高木は本業とは別にユニインセンティブ株式会社という子会社を設立し、ベアリングのパテントを海外へ供与したり、逆に海外から商標権を輸入するライセンス・ビジネスを展開していた。そのユニインセンティブ㈱のニューヨーク支社長としてアメリカ国内の商標権獲得に奔走していたのが、ベン・マツモトである。このマツモトを通じてアメリカの先進的なエンターテインメントが日本国内にもたらされたが、それが正義の味方“エイトマン”であった。

ベン・マツモト氏

ベン・マツモト氏

 こうした商標権ビジネスの俎上に上ってきたのが、ハワイ・トライアスロン大会の日本での“アイアンマン・レース”の開催であった。ところが、開催権は最終的に株式会社電通が獲得した為、高木やマツモトは国際トライアスロン連盟(FIT)が主催するショート・タイプのトライアスロン大会の日本への導入を考えた。いわゆるUSTSの日本での展開である。このショート・タイプは当初、総距離57Kmのトライアスロンだったが、USTS会長のカール・トーマス(アメリカ水泳連盟役員、ミズノの水着ブランドであるスピードのセールスマン)の提案により、今日のオリンピック競技種目となった総距離51.5Kmとなったものである。

大会で来日したカール・トーマス会長

大会で来日したカール・トーマス会長

 高木はショート・タイプのトライアスロン大会を日本国内で展開する受け皿として85年にJTF(日本トライアスロン連盟)を結成し、10月には熊本県の天草でスイム1.5Km、バイク40Km、ラン10Km、トータル51.5Kmの“オリンピック・ディスタンス”と称するJTS(ジャパン・トライアスロン・シリーズ)の第1戦を開催した。その前段として、日本のプロ・トライアスリートのJTS並びにUSTSへの参戦を目的に、中山を始めとする我が国エリート選手によって構成するトライアスロンのプロフェッショナル・チームを結成することにした。その名も“チーム・エトナ”である。
 この“チーム・エトナ”を運営サポートするのが、高木の資本出資により設立されたエトナ・ライセンシング株式会社だった。東京・渋谷の代官山のマンションに本社を置いていたユニインセンティブ㈱内に併設され、後にはJTFと所帯を共にする。因みに“チーム・エトナ”のエトナとは、イタリア南部シチリア島の東部にある活火山の名、或いは当時の外国保険会社の固有名詞だが、その命名の由来は明らかではない。

 こうした高木らの動きをバックに猪川は、それまでのJTRCやATCにおけるアマチュア・トライアスリートとしての活動とは別に、トライアスロンのプロ化への活動に着手する。85年2月、猪川はまず自分が住む東京・品川区の区立勤労福祉会館にエリート選手だけで構成する「トライアスリート会」の結成会合を行うと共に、翌3月には沖縄においてJTSのショート・トライアスロン大会を開催する為、来日したカール・トーマスと現地視察に赴いた。
 こうしたプロセスを経て結成されたのが“チーム・エトナ”であり、その最初のチーム・メンバーとして中山俊行、飯島健二郎、横井信之、山下光富、山本光宏の5名が選ばれた。その後、井口太郎、梅澤智久、田中宏昭、そして同チームが解散する88年にはサラエボ冬季オリンピックのクロカン選手だった中沢祐政が加わった。また、チームを支える監督として猪川が就任した。

85年USTSシカゴ大会に参戦した“チーム・エトナ”5名のメンバー(写真左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手)

85年USTSシカゴ大会に参戦した“チーム・エトナ”5名のメンバー(写真左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手)

 これら“チーム・エトナ”のメンバー達は、JTS やUSTSの大会遠征費用を賄ってもらうほか、レースウェアやバイク、シューズ等、トライアスロン・グッズが支給された。また、チームの中にあって唯一、エトナ・ライセンシング㈱の社員となった中山は、同社の事務やスポンサーに対する宣伝活動を行う等、プロとして従事する。給料も大卒並みの報酬が得られ、社会人として何とか独立することが出来た。

「これで、ご飯も食べられるし、レースにも出れる。だから。もっともっと練習しよう」

 その練習は当時、高校の教師だった飯島を始め郵便局員の山下、それに学生の山本らと一緒に行った。日曜日となるとトラック交通量が皆無となる東京・品川の大井埠頭に集まって、一周14㎞のコースを先頭交代しながらバイクで疾走した。同じ大井埠頭にはATCのトライアスリート達も集合しバイク&ランのトレーニングを行っていたが、無論、中山達の走りに着いていける者はいなかった。

「たった数人のチームだけど、皆で頑張ろうや」

 若きエリート達は、世界へ羽ばたく夢を持って、お互いに励まし合いながら日々の練習に打ち込んでいったのである。

《次回予告》
日本人が初めてトライアスロンに関わり、その発展と拡大に奔走した1980年代前半の動静を大会開催、愛好者によるクラブ活動、組織づくり等に関し総括すると共に、宮古島大会・びわ湖アイアンマン大会、天草ショート大会など85年から始まった我が国トライアスロンの動静について、『トライアスロン・ジャパン』誌の元編集長・勅使河原義一氏と対談インタビューし、その内容を紹介します。

 

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

 <トライアスロン談義>最善の道を選んできたから今も続けられる 【山本 光宏】

―ゴールしたら、誰もが勝利者―

 そんなフレーズが気に入った。しかも、誰の助けも必要とせず、自分一人の力だけでやれる。1981年の第1回皆生トライアスロン大会をテレビで観た私は、トライアスロンというニュー・スポーツの魅力に強く惹かれた。この時、高校3年生だった私は、アメリカン・フットボール(アメフト)に取り組んでいた。チームワークの力で勝利の道を掴むこのスポーツは、それはそれなりに楽しいけれど、自分の力がすべてという自己完結型のトライアスロンをやってみたいと思った。
 でも、私はまだ17歳。19歳にならないとトライアスロンに出場することが出来ない。翌年、大学生になった私はトライアスロンへの挑戦を胸に秘め、ランニングの練習を開始した。ランニングは中学生の時、台東区の陸上競技大会3,000m競争で優勝した経験もあり、自分でも結構、やれるという自信があった。9月から2ヶ月余の練習を経て、82年11月に東京・江東区の夢の島で開かれた第2回江東シーサイド・マラソン大会(20Km)に出場、結果は後方からのスタートだったが約1,000人もの選手を抜いて59位、1時間14分15秒でゴールした。まずまずだと思った。

アメフトに熱中していた高校生時代(写真左端、写真提供;山本氏、以下同じ)

アメフトに熱中していた高校生時代(写真左端、写真提供;山本氏、以下同じ)

 ラン・トレーニングに次いで、スイムは近くの墨田区立体育館のプールで泳ぎ始めた。50mを1分ペースという、今考えたら実に遅い泳ぎだったが、それでも自分なりに泳げることに満足した。そしてバイクは、私が大学2年生の19歳となりトライアスロンへの出場資格が得られた83年、第3回皆生大会へのエントリーが決った5月からロードレーサーに乗り出した。私にとってこの新しいレーサーは、2万5,000円で購入した新品フレームに、同じ大学の友人から提供してもらった中古のパーツを取り付け、組み上げたものである。それで自宅から江ノ島まで往復120Kmを走ったが、当時としては「我ながら凄いことをしている」と思ったものだ。

皆生大会で同じ宿に泊まったアスリート達と記念撮影(写真左から2番目が山本選手)

皆生大会で同じ宿に泊まったアスリート達と記念撮影(写真左から2番目が山本選手)

 そして、いよいよ初めてのトライアスロン。関西出身の西田智彦君と共に19歳で、最年少選手として出場した皆生トライアスロン大会では、総合タイム9時間57分45秒の17位でフィニッシュした。海は波が荒く3Kmのスイムを1時間37分もかかった。それでも約250人の参加者中で55位。バイクもギアの重さを終始、感じながら走ったけれど、何とか頑張り続けることが出来た。ランでは猪川三一生さんと抜きつ抜かれつの道中だったが、最終的に手を繋いで一緒にゴールした。途中、私に追い付いた猪川さんは、

「旅は道連れ…、一緒に走りましょう」

と誘われたものの、私は自分なりに先に走った。しかし、スピードは衰え、再び猪川さんに追い付かれて、結局は同時にフィニッシュしたのである。

結局は猪川氏と手を繋いでフィニッシュした(写真左が山本選手、右が猪川氏)

結局は猪川氏と手を繋いでフィニッシュした(写真左が山本選手、右が猪川氏)

 このように大会では、猪川さんや西田君等、多くのアスリートと知り合うことが出来た。当時、日本のトップ・トライアスリートだった中山俊行さんも、皆生大会で出会った一人だ。中山さんは競技説明会の席上、バイクのドラフティングの可否について質問していたが、 「そんな質問をする奴は、弱いに決っている」等と思った。まだほとんどの選手がドラフティングの意味すら知らない時代だったから、私がそのような思いを抱いたのは無理もないが、何と! その中山さんが総合4位で表彰台に上がっていたのだ。

 こうして念願のトライアスロン・デビューを果たした私は、一緒にゴールした猪川さんに誘われ年末のJTRC忘年会に参加、その席上で中山さんを改め紹介された。自転車ロードレースを得意としていた中山さんからはバイクの走り方やトレーニング法、或いはトライアスロン・レースのノウハウなど、いろいろなことを教わりながら、一緒に練習をさせてもらった。中山さんに遅れまいと歯を食い縛り、東京・品川の大井埠頭周回コースでペダルを懸命に回した。お陰でバイクも速く走れるようになった。
 翌年、84年の第4回皆生大会では6位入賞を果たし、10月にはいよいよハワイのアイアンマン大会に挑戦する運びとなった。でも、大学3年生の私はハワイへの渡航費等、全く持ち合わせがない。そこでツアー代金、約23万円を稼ぐ為、山手線・日暮里駅の立ち食いスタンド蕎麦店でアルバイトを始めた。夜の9時から12時まで、わずか3時間だったが、一生懸命に働いた。アルバイト料は時給1,000円、当時としては結構、高収入だったかもしれない。それに、同じ店で働く先輩には仕事を終えた夜中、よく酒場に連れて行かれ、ご馳走になった。こうして私は、周囲の大人達に可愛がられ、助けられ、励まされた。
 お陰で私は、学生の身分ながらトライアスロンに取り組めたのだと思う。その初めての84年アイアンマン・ハワイでは、バイク走行中に低血糖となって睡魔におそわれたり、ラン・コースを熟知していなかった為、走行距離を勘違いする等、皆生大会では味わったことのない体験もしたが、総合188位でフィニッシュすることが出来た。夜の帳が下りた18時39分にゴール、ゼッケン・ナンバー1139番と同じく11時間39分のフィニッシュだった。私が参加したトライアスロンの中で、後にも先にも暗くなった夜にゴールした大会は唯一、この大会だった。でも、完走しただけで嬉しかった。また、外国の選手達とTシャツを交換し友達になれたことも貴重な経験だった。

第1回宮古島大会で総合2位となり表彰台に上る(写真右より優勝した中山、2位山本、3位飯島、4位山下の各選手)

第1回宮古島大会で総合2位となり表彰台に上る(写真右より優勝した中山、2位山本、3位飯島、4位山下の各選手)

 大学生にしてトライアスロンで好成績を修めることが出来た私は、翌85年から本格的に幕開けした日本のトライアスロン大会で、日本を代表する選手として中山さんや飯島健二郎さんらと肩を並べて競争するようになった。85年4月、中山さんに次いで総合2位になった第1回宮古島トライアスロン大会が終わり、その翌5月には、猪川さんから“チーム・エトナ”への勧誘があった。

「日本のエリートとして、チーム・メンバーに加わりませんか」

「世界の舞台で戦ってみたいし、中山さんとも一緒にやれるので、是非、お願いします」

 そんな経緯で“チーム・エトナ”のメンバーとなった私に付けられたニックネームが「ミッキー・ヤマモト」だった。

 これを機に、私のプロフェッショナルな戦いが始まった。まだ学生だった私は職業やその後の進路について深く考えていた訳ではなかったけれど、トライアスロンが好きになって、だからもっともっと強くなれるよう、続けていこうという気持でトレーニングに打ち込んだ。海外遠征では、自転車ロードレースでオリンピック3回出場のバイクのスペシャリストであるジョン・ハワードからマン・ツー・マンの指導を受ける等、世界のトップ・トライアスリートから多くのことを学ぶことが出来た。また、国内外のレースに参戦する過程で、沢山の成功と失敗の経験を重ね、自分を磨き上げることが出来た。

86年の宮古島大会では“チーム・エトナ”のウェアで最後のランを力走するが、残念ながらリタイアの憂き目にあった(エトナのTシャツを着て応援するのは山本選手の弟)

86年の宮古島大会では“チーム・エトナ”のウェアで最後のランを力走するが、残念ながらリタイアの憂き目にあった(エトナのTシャツを着て応援するのは山本選手の弟)

 23歳の時のアイアンマン・ハワイでは日本人として初めて総合タイム10時間を切る9時間47分17秒でフィニッシュ、或いは25歳の時、“チーム・アクエリアス”を結成直後の宮古島大会での優勝など、様々な体験が今蘇る。しかしまた22歳の時、宮古島大会でドクターストップがかかり救急車で搬送されたり、25歳の夏にバイク・トレーニングの途中でクルマと衝突し生命の危機に立たされる等、いろいろアクシデントにも見舞われた。
 このように自分の身に起きた数多くの体験を積み、それを乗り越えてこれたのは、私がその時、その場の最善の道を選んで、全力を尽くしてきたからだと思う。だから今も、私はトライアスロンと関わり、トライアスロンを続けていられる。

山本光宏氏近影(東京・錦糸町のホテル内にて、09年2月撮影)

山本光宏氏近影(東京・錦糸町のホテル内にて、09年2月撮影)

【山本光宏氏プロフィール】
1963年、東京・浅草で生まれ育つ。未熟児で生まれたが、小学6年生と中学3年生の時には健康優良児として表彰される。高校生時代はアメフトに夢中になるが、法政大学2年生の時に初めて第3回皆生トライアスロン大会に挑戦、好成績を修める。以後、アイアンマン・ハワイを始めとする国内外のトライアスロン大会に出場、日本を代表するエリート選手として活躍する。特に23歳の時、1986年のアイアンマン・ハワイでは日本人として初めて10時間を切る快挙を成した。さらに88年の宮古島大会で優勝、同じ年のハワイ大会では総合17位となり、ラン・スプリットは優勝したマーク・アレンに次いで2位となる。アイアンマンのベストタイムは、1993年アイアンマン・ジャパンの8時間46分22秒。“チーム・エトナ”及び“チーム・アクエリアス”の中心メンバーとして活躍したが、2000年に現役選手を引退、現在は自ら立ち上げた有限会社「J-BEAT」を通じ後進の指導やレース解説者として活躍している。

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