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Vol.17:風神の巻 第2章その4:息詰まった挙句に妙案が出た

 

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その4

息詰まった挙句に妙案が出た

【この記事の要点】

息詰まった挙句に妙案が出た。というか、それより他に打つ手がなかった。すなわち、スイムゴール地点から約8Kmほどの淀江町西尾原という大山の麓にバイク・スタートのためのトランジション・エリアを設けようというのだ。大会開催の1週間前のことだった。

大会前日、選手達に競技コースを説明する。

大会前日、選手達に競技コースを説明する。

「警察の許可を取らなければ開催できない。どうしたらよいか」

 KT委員会のメンバーたちは頭を抱えた。6月9日、片桐が勤める皆生御苑においてKT委員会を開き、その結果、大会開催に前向きな市役所を通じて警察へ説明書を提出することにした。また、この間、旅館組合専務理事の間瀬が米子警察署の交通課長と同郷の隠岐島の出身であることが判った。だから同郷の誼(よしみ)で間瀬から交通課長へ再度、依頼することにした。
 その5日後の13日、交通課長から署長へ道路使用許可に関わる稟議(りんぎ)が回った。その結果、開催の基本的な了解は得られる見込みとなったのだ。とはいえ、具体的なバイクとランの競技コースの道路使用許可について、警察とは最後まで駆け引きをしなければならなかった。
 特に警察側は、バイクコースで山陰の大動脈・国道9号線を横切ることに強い難色を示した。しかし、国道を一部使用しなければ、スイムからあがってバイク競技へ移ることはできない。加えて警察は、ランコースについて次のような注文を出していた。

「ランの全コース上の信号をトライアスロンのためにストップする訳にはいけません。ですから選手は、すべて歩道を走ってもらいます」

 KT委員会が2市5町にまたがる競技コースの最初の案を警察側に示したのは5月だったが、コース案は変更に次ぐ変更を重ねたものの、いずれもことごとく却下された。間瀬は米子警察へ日参し説明、説得に当たったものの、一向に首を縦に振ってくれない。ちなみに、間瀬の警察通いは延べ100日を超えたという。
 7月7日、KT委員会は競技ルールを作成するとともに、改めて警察に対し道路使用許可申請を正式に提出した。その結果、ランコースは国道の裏道の松林の道や横断歩道橋を使用するなどして、境港までの往復路36.5Kmのコースが出来あがった。だがバイクコースは、大会開催月の8月になっても許可が下りない。

「どうしよう? どうするか?」

「仕方がない。最後の手段だ。選手を運ぶしかない」

「何処へ?」

「バイク・スタート地点を国道を越えた大山側に設置して、スイムを終えた選手をそこまで運ぶのです。輸送は旅館の送迎バスや乗用車を使えば良いでしょう」

 息詰まった挙句に妙案が出た。というか、それより他に打つ手がなかった。すなわち、スイムゴール地点から約8Kmほどの淀江町西尾原という大山の麓にバイク・スタートのためのトランジション・エリアを設けようというのだ。大会開催の1週間前のことだった。早速、その案を警察に提示したところ、大会前日の8月19日、第1回皆生トライアスロン大会の全競技コースの道路使用許可が下りたのである。

第1回大会スイムコース

第1回大会スイムコース

第1回大会スイムコース

第1回大会バイクコース

第1回大会スイムコース

第1回大会ランコース

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>夢があったし、好きだからやれた  【高木 均】

 東京の大学を出てイベント製作会社に勤務していた私が、郷里の米子市に戻ったのは30歳のときでした。そして広告代理店「株式会社山陰事業者=現株式会社エス・アイ・シー」に入社、イベント担当として仕事に従事することになりました。1980年、私が31歳のときです。
 その年の秋、皆生温泉旅館組合の方々が皆生温泉開発60周年記念事業のイベントを検討されていました。「健康なイメージをアピールしたい。日本で初めてのユニークなイベントをやりたい」といった趣旨で、いろいろ協議されていましたが、翌年春にトライアスロン大会を開くことが正式に決まったのです。
 それで私も大会開催に向け準備委員会の一員として参加することになり、何でも屋の通信連絡係として第1回大会開催に向けた作業を開始しました。しかし、トライアスロン大会をどう運営すればよいか? いやそれよりもトライアスロンってどんなスポーツなのか? ろくに知らない者ばかりがやろうというのですから、議論も作業も右往左往の連続です。おまけにバイクとランのコースづくりで警察との交渉は難航を極め、苦しい準備作業を強いられました。

「こんなことで参加選手や地域社会が受け入れてくれるのだろうか」

 準備段階の過程で、一時は疑心暗鬼になったこともあります。でも、私たちには「日本で初めてトライアスロン大会を開く」という夢がありました。何でも初物ずくしで冷や冷やものでしたが、今思うと「好きだからやれた」のだと思います。以来、私は大会運営のサポート役として25年間、皆生トライアスロンに携わってきたのです。

「今日まで続けてきてよかった!」

 改めて四半世紀の時代の流れを感じています。

高木 均氏近影(オフィスにて)

高木 均氏近影(オフィスにて)

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