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Vol.47:火神の巻 第5章その9:全島が完全燃焼した

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第5章その9

全島が完全燃焼した

【この記事の要点】

勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の4月、南海の美ぎ島(かぎすま)で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。
大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第1回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。

そして、いよいよラン、最後の決戦の場である。バイク・ゴールの平良市陸上競技場東側に設置されたエイド・ステーションをスタートして、東平安名崎方面の城辺町保良地区を折り返す日本陸上競技連盟公認の国内最南端マラソン・コースを駆け抜ける42.195Kmである。昼の12時頃には太陽が中天に達し、南の島らしい蒸し暑さが戻っていた。
バイクをトップでフィニッシュした中山は素早く着替えを済まし、暑さ対策も兼ね白のサン・バイザーを深く被り、同じく白の短く切り詰めたラン・シャツという出で立ちで走り出した。その年の春に明治大学を卒業したが、トライアスロンに専念する為、一旦、決った就職先を断り、この宮古島大会での優勝、そして同年10月のアイアンマン・ハワイで好成績を残すべくトレーニングに励んできた。その答えを出す時がきたのだ。中山は2番手以下をかなり離し、5Kmをほぼ22分のペースで淡々と、県道78号線をひた走る。

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<写真>マラソン・コースの県道78号線

 保良の折り返し点では、中山に続いて飯島、山本、城本、山下の順で折り返し、山本が好調に追い上げていた。だが中山は決して慌てることなく、エイド・ステーションでは歩きつつ水分補給をしながらも、独走のまま15時過ぎ、ゴール会場の陸上競技場にその姿を現わした。するとスタンドの観客は総立ちとなり、競技場内は「ワイドーワイド」の掛け声が響き渡ったのだ。中山は場内に入ってもスピードを緩めることなく、フィニッシュ・ラインでは右人指し指を挙げてゴール・テープを切った。トータル・タイム8時間8分52秒。8時間以内という自身の目標は達成できなかったが、見事な優勝レースであった。

<写真>首位でフィニッシュする中山選手

 第2位には中山を兄貴のように慕い、東京・大井埠頭で共に練習に励んできた山本が、スイムの出遅れを物ともせずバイク、ランともに素晴らしい追走劇を見せ、中山とは約8分差で゙フィニッシュ、第3位には山本に遅れること約13分差で飯島が入った。次いで山下がランで城本を抜き4位、5位が城本という順になったが、城本は初めてのトライアスロンで若手選手に混じってのゴールを自ら喜ぶかのように、走りながら帽子を何度も振って観客の声援に応えた。

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<写真>表彰台の選手達(写真右から中山、山本、飯島、山下、城本、高石、高山)

 歌手の高石ともや(43歳)は健闘して6位、ランのスプリットでトップ・タイムの3時間9分46秒を記録した高山信行(38歳)が7位、8位に若手のホープ井口太郎(22歳)、そして地元・城辺町の出身でミニ大会2位だった狩俣直司(26歳)が9位と大健闘し、ランナーに相応しい軽い足取りでゴールを駆け抜けた。女子では香港在籍のイギリス人、キム・イシャーウッド(26歳)が10時間5分28秒の総合42位でトップとなった。ちなみに日本人女子1位は、ランナー出身の後藤 翠(42歳)で総合順位は136位だった。

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<写真>香港から来たキム・イシャーウッド

 こうした上位の選手達が夕方にかけて続々とフィニッシュした後、やがて陸上競技場が暗闇に包まれるようになると、ゴールを目指す選手の姿はまばらとなり、周囲も静まり返っていく。それでも何人もの選手達が一斉に手を繋ぎ合ってゴール・テープを切る時は、競技場内にさざめきが漂った。その際、競技運営委員会にあって記録部長を務めた池村盛良ら記録スタッフ達は、手を繋ぎ合い同時にゴールする何人もの選手達のコールと順位の確認に追われた。

トライアスロンが朝7時にスタートしてから、制限時間である16時間後の23時が刻一刻、迫ろうとする頃である。ゴール地点に控える大会役員達に、最終走者の名前が伝えられた。制限時間に間に合うかどうかは判らない。でも頑張って走り続ければ、ゴール・テープを切ることが出来そうであった。そんな事情を知ったのか、ゴール手前2Km地点辺りから地元の人々が、そのランナーを囲い込むかのように、声援を送りながら一緒に走り出したのだ。
その最終走者は、兵庫県宝塚市からやってきたゼッケン186番、榊原良明(31歳)である。真っ暗闇となった平良市の道路を重い足取りで、息も絶え絶えに、ひたすらゴールへと向かっていた。いつ、その場に倒れ伏してもおかしくはなかったが、一緒に走りながら応援する地元の人々に引き連られるかのように進む。そして22時40分を過ぎた頃、榊原を取り囲む20名余の集団が、ついにゴール会場へ辿り着いた。

「ワイドーワイド、ワイドーワイド」

榊原を応援する掛け声が場内に鳴り響いた。その声援の響きは、暗闇の天を突き抜けるほどの気迫に満ちていた。

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<写真>最終走者のゴール・シーン

 勝者を称える一方で、最終走者とはいえ最後まで走り続け完走した者に、勝者と等しい称号が与えられるトライアスロンというニュー・スポーツが、今から27年余り前の4月、南海の美ぎ島(かぎすま)で花開き、我が国トライアスロン史上に記念すべき足跡を残した。大会の役員ボランティア、選手、観衆が一体となって完全燃焼したこの第1回大会を、宮古島の人々が全島を挙げて支えたのである。

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<写真>スポーツアイランド記念碑

《次回予告》
次回からは、宮古島大会から2箇月後の1985年6月に開催されたアイアンマン・シリーズ“アイアンマン・ジャパン・イン・びわ湖”の第1回大会について、その開催経緯や滋賀県など地元関係者の動静、日本人選手の活躍振り等を3回に亘って連載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名は総て敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>

出会いに恵まれ感謝で一杯

池村 盛良

 宮古島でトライアスロン大会を開催する話が持ち上がった頃、私が所属していた宮古陸上競技協会(陸協)の会長だった豊岡静致先生は、同じく宮古体育協会(体協)の会長として体協の組織強化、立て直しに取り組んでおられました。そんな渦中、豊岡先生の命で私達が呼び集められ、陸協を中心に体協全体としてトライアスロンと取り組む意向が提案されたのです。
その提案に私達は大分、戸惑いながらも、陸協として日本最南端の公認マラソン・コースを完成させ、同コースで沖縄県の高校駅伝大会を運営する等、大きなスポーツ・イベントで修練した経験もありましたので、「やってやれないことはない」と思いました。それと豊岡先生の「島興しの為にやるのです」というご意志に背く者は、誰一人としておりませんでした。“地域活性化”という言葉に、私達は弱かったのです。

こうしてトライアスロン大会の競技運営を担う部門として、スポーツ大会に熟知している陸協を核としながら体協全体で取り組む方針が定まり、私はトライアスロン3種目の競技計測と記録データを集計する記録部長を任じられました。そこでまず、信頼すべき陸協の後輩達を始め、同じ高校の教員仲間から出来そうな者を集めて協力を要請、一つの競技に10名づつ割り当てることとして3種目合計で約30名の記録スタッフを確保し、記録部の組織体制を築きました。
しかし、私も含め記録部の誰もがトライアスロンというスポーツを見たことがありません。でも「出来ない。やれない」とは言えません。当時は皆生大会やハワイ大会が行われていましたが、その競技運営を知る由もないので、結局は自分達で試行錯誤するよりほかになかったのです。幸いその頃からプリンター付きのストップウォッチが普及していて、その便利な機械を活用すれば「何とかなるだろう」と思っていました。
トライアスロン大会の参加選手を500名と想定し、その人数規模ならば校内マラソン大会で経験したように、選手がゴールインする度にストップウォッチをどんどん押しながら、ゼッケン番号をテープに録音していけば良いと考えました。実際、その方法で3種目とも計測しましたが、いざ集計の段になると、なかなか数合せが出来ないというか、スタートした選手の数とゴールした数が合わなかったりで、本人確認作業を含め随分と手間取ったことも事実です。

何よりも問題はスイムの記録でした。選手が何人が海へ入り、何人が完泳し、何人がリタイアしたかをその時その場で、出来るだけ早く確認作業を行うことは、競技管理者として最重要課題です。スイム競技が終了した後に、一人でも選手が海に残っていることは許されません。ところが、後々の大会でしたが、コール人数よりもゴール人数が少ないという由々しき事態が起こりました。この時は私達、競技役員も警察や海上保安の関係者も色めき立ったのですが、結局、コールで応えたものの海の荒れ具合を見て泳がずにホテルに戻っていた選手が判明し、胸を撫で下ろしたこともありました。また、初めて経験するバイク競技についても、スピードが速いので選手のゼッケン確認が難しく、相当、気を使いました。
最後のランのゴールでは、複数の選手が手を繋ぎ合い同時にゴールする光景に記録スタッフは「どうしたら良いか?」戸惑いました。でも私は「彼らは着順を競ってはいない」と判断し、「内側から順位をつけるよう」指示したのです。すなわち“同タイム・着順あり”で今までやってきています。また後の大会では、同じアスリート同士、仲間同士、それに恋人やご家族等、応援団と共に一緒にゴールする微笑ましい光景が多く見られましたが、その度に記録スタッフ達は混乱を避けるよう努力しました。

こうして私達はトライアスロンを知らなかった故に競技運営を軽く引き受けてしまった節もありましたが、お陰で後々からいろいろ苦労を強いられることになった訳です。私は記録を第1回から第3回までを担当しその後、転勤先の那覇から戻ってからは総務を、第19回大会から水泳を担当し、第23回大会までトライアスロンの競技運営に携わらせていただきました。しかし、「判断力、決断力に欠けたものは指導者にあらず」との私の信念から、23回大会を最後にトライアスロンの役目を降りることにしました。
その間、気も労力も沢山、使いましたが、トライアスロンを通じいろいろな方との出会いに恵まれ、感謝の気持で一杯です。そして、宮古島はトライアスロン大会のお陰で全国的にも知名度が上がったし、人と人との交流も盛んになりました。しかし、トライアスロン大会を島の大切な財産としていく為には、現状に甘んじることなく更なる創意工夫を重ねていく必要があるでしょう。末永く続けていく為にどうしたら良いか? 行政を始め関係者の方々の知恵と力が求められていると思います。

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<写真>池村盛良氏(10年2月、平良市の自宅にて撮影)

【池村 盛良氏プロフィール】
1939年、平良市出身。琉球大学体育学部卒業。62年、宮古高等学校教員となり、以後、教職を務め、同校校長として定年退職する。スポーツは高校、大学時代は野球部員として活躍。教職の傍ら沖縄県陸上競技協会審判部長を勤める等、陸上競技の競技運営に携わる。第1回宮古島トライアスロン大会では記録部長を担当、以来、同大会競技運営委員会の総務部長、水泳本部長を歴任し、第23回大会を最後に大会役員を降板する。「身体づくりを通して幸福づくり」をモットーとする体育指導並びに普及啓蒙を実践してきた。

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