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Vol.44:火神の巻 第5章その6:長距離同好会が決起した

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第5章その6

長距離同好会が決起した

【この記事の要点】

「我々でやろうじゃないか。本番のトライアスロン大会に出場する2人の選手を励ます為に、我々、同好会がミニ大会を主催し、選手としても出場しよう。全く泳げない者は別として、それ以外の者は全員が出場する。参加しない者は、罰金として1万円を払うべし」長距離同好会のメンバーは皆、頷いた。否、頷かざるを得なかった。

 

 
宮古島での第1回トライアスロン大会の開催に向け、地元住民や医師団の協力を取り付け、それに警察の道路使用許可の内諾を受けるなど、ひとつづつお膳立てを整えてきた大会実行委員会は、次の段階として国内外への宣伝と参加選手の募集活動へと駒を進めた。その第一弾が1985年1月8日、東京プレスセンターを始め那覇市・平良市の3個所で大会開催を告知する記者発表であった。
 もうこうなっては、誰も後には引けない。あと4箇月足らずとなった大会開催に向けて突っ走るだけだ。地元住民に対する協力要請はもちろん、ボランティアとしての参加協力も取り付けつつ、競技運営に係わる委員会の構成や役割分担を検討したり、競技役員に対する講習会を開催するなど、全島一丸となって取り組む体制作りが進んだ。
 競技運営については宮古体育協会の豊岡静致会長を中心に何度も協議が重ねられた訳だが、1月30日の第6回競技運営委員会では役員の配置や各部門ごとの運営マニュアルなど大会実施要項が定まり、次いで2月10日には市民会館に約350名ものボランティア並びに競技役員らが集まり講習会が開かれた。この講習会には当時、トライアスロンの中央団体の前身である「複合耐久種目全国連絡協議会」から代表幹事の清水仲治(故人)、幹事の岩根久夫(故人)、専門委員の猪川三一生が招かれ、大会運営、競技内容、医療サポート等について説明がなされた。

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<写真>宮古島を訪れた清水仲治氏(写真右)と猪川三一生氏

 こうした競技運営の一連の取り組みの中で提案されたのが、本番の大会のリハーサルとして行う「ミニ大会の開催」である。運営マニュアルは出来上がったが、実際にやってみないと分からないというのが本当のところだ。国内でも参考とする大会は唯一、鳥取県皆生温泉で毎年開かれている「皆生トライアスロン大会」だけなのだから、果たしてマニュアル通り運営出来るかどうか、大会の役員達は皆、疑心暗鬼であった。
 しかし、このミニ大会の開催に関しては、NHKが強く主張していた。離島で行う初めての衛星生中継なので、自分達も失敗してはならないという思いが働いたのだろう。機材やスタッフをどのように使い動かすか? 衛星放送のテクニックを事前に掌握しておきたかった。とはいえ、日程的にも選手の募集でも算段もつかず、ミニ大会の開催は一時、ペンディングとなってしまった。

 そんな折、島内の陸上・長距離ランナー達の集まりである「宮古長距離同好会」が立ち上った。同好会の会長であり、平良市の職員として昨年11月に大会事務局へ出向した長濱博文は、同好会メンバーに対し次のように激を飛ばした。

「我々でやろうじゃないか。本番のトライアスロン大会に出場する2人の選手を励ます為に、我々、同好会がミニ大会を主催し、選手としても出場しよう。全く泳げない者は別として、それ以外の者は全員が出場する。参加しない者は、罰金として1万円を払うべし」

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<写真>長濱博文氏(宮古島市役所内にて、10年2月撮影)

 2人の選手とは、同好会生え抜きアスリートの狩俣直司と本村邦彦である。同好会のメンバーは皆、頷いた。否、頷かざるを得なかった。今更、反対するとか、どうのこうの言う情況ではない。本番の大会まで、あと1箇月と差し迫っている。メンバーの誰もが「やるしかない」という気持になっていた。この同好会の決意によってミニ大会の日程、距離も決った。
開催日は1985年3月30日(土曜日)、競技距離は水泳600m、自転車50Km、マラソン12Kmが設定された。参加選手は同好会の長濱会長、事務局長の長間尅宏、それに連絡協議会から猪川、エリート選手として山本光宏、ベテランのトライアスリートとして東京から肥後照一が参加することになった。

 間もなく、ミニ大会の日がやってきた。天候は晴れ、4月の本番大会と同じ東急リゾート前の与那覇前浜ビーチの海は、波穏やかだった。スタート・ラインには長距離同好会のメンバーを中心に全部で34名が並んだ。それら選手を見守るのは、大会開催に向け諸準備を進めてきた医療部を始めとした大会実行委員会並びに競技運営委員会、事務局の面々、それにボランティアとして参加する地元住民、警察、消防、日本電信電話公社(現NTT)、琉球新報社や東急グループの関係者である。大勢の観衆の目が、選手達に注がれた。

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<写真>慣れないバイクだが、選手たちは必死に走る

 果たして大会は、つつがなく進行するか? スタートの合図に、狩俣も緊張した。大学生の時代、沖縄本島の米軍基地内でトライアスロンを見たが、実際に自分が競技するのは初めてで、一抹の不安も胸中を過ぎった。何しろ水泳が不得手である。美しい海を控える友利で育った狩俣だが、泳ぎそのものは我流である。でも、やるしかない。
 600mの距離を、すべて平泳ぎで泳いだ。矢張り、クロールには敵わない。狩俣は遅れた。しかし、自転車に乗ると猛然とスピード・アップ、バイクを終えた時には、先頭をいく山本に次いで2位となった。あとはランで山本に追い着き追い抜くことが出来るかどうかだ。だが先頭を走る山本も、ランニングが得意。結局、追い着くことが出来ず、狩俣は2位でゴールテープを切った。残念ながらトップにはなれなかったが、本番大会に向け貴重な体験をしたし、自信も持てた。

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<写真>トップでゴールテープを切る山本光宏選手

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<写真>狩俣直司氏(宮古島市役所前にて、10年2月撮影)

 本番大会に向けて良い経験をしたのは狩俣だけではない。大会役員はもとより警察もNHKも多くの反省と教訓を得ることになった。中でも、交差点で起きたバイクと自動車との接触事故に関して、警察が信号機による単純な交通規制方法を見直したことだ。現場の状況を踏まえ交通規制を適時、修正することにより、本番大会での安全対策を期すことになった。
 この警察の見直し、修正を大会実行委員会も歓迎した。また、NHKも本番に向け、衛星放送のリハーサルが出来たことを喜んだ。あとは、1箇月後の本番を待つだけとなった。

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<写真>エイド・ステーションも本番並みの体制で選手達をサポートした

《次回予告》
通称“ストロングマン・レース”と呼ぶ全日本トライアスロン宮古島大会の第1回大会が1985年4月28日に開催されました。そのレースの模様と、選手、役員達の動きをレポートします。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>

とても出来ないと思ったけれど、やれた!

長間 尅宏

 トライアスロン大会を開催する話があった時、私は現役の陸上・中距離競技選手として、また、島内の長距離選手らが寄り集まる「宮古長距離同好会」の事務局長として活動していました。そして平良市の陸上競技協会の理事との立場から、大会開催について説明会に出席した際、東急グループの田中清司さんからハワイで毎年、行われている大会のビデオを見せら、話もお聞きしました。その時、一人のスポーツ選手として私は、

「日本でも馴染みのない新しいスポーツを、この宮古島で始めるのは大変なことだ。それに選手として自分には、とても出来ないだろう」

と思いました。いえ、そう思ったのは私だけでなく、同好会のメンバー誰しもが率直に感じたことです。

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<写真>スイム・ゴール会場には沢山の人々が集まった

 しかし、事態は私達の思いとは異なり、急速に進んでいきました。トライアスロン開催の話は日を追って盛んになり、ついに85年4月に開催することが決定したのです。もうそうなると、宮古島でスポーツに関わる者として後には引けません。しかも、本番の大会前にリハーサルとして“ミニ・トライアスロン大会”を行うことになり、その参加選手として同好会のメンバーに白羽の矢が立ったのです。
 長距離ランナーならばトライアスロンをこなすことも出来るだろうとの判断もあったのでしょう。おまけに、同好会のメンバーがミニ大会出場を拒否するならば、罰金が課せられるという話にまで発展してしまい、水泳が苦手の私でしたが同好会の副会長としてやらない訳にはいかなくなりました。そんな折、新聞記者が私のところへやってきて「本当にやるのか」と聞かれ、

「やるしかないでしょう。我々、同好会のメンバーを除いて、他にやる者はいない筈。でも、自分は泳ぎが全く駄目なので、果たしてどうなるか? 分りません」

と答えました。そうは言ったものの、ミニ大会ではなんとか600mの水泳をこなし、初めてといってもよい自転車を走り切り、得意のランニングで順位を上げ、34人中20位でゴールすることが出来ました。初めから「自分には出来ない」などと思っていたのに、完走してホッとした気持と同時に、楽しく充実した気分に浸ることが出来ました。これならば4月の本番の大会も「やれるのではないか」と思ったのですが、残念ながら参加の申し込みをしていませんでした。

「しまった!」と思いましたが、もう後の祭です。結局、本番の大会では競技役員として車上からマラソン・コースの監察役を務めたのです。そして第1回大会を無事終え、熱気が覚めやらぬ頃、長距離同好会のメンバーを中心に「宮古島トライアスロン・クラブ」を設立することになりました。以後、私は同クラブの会長を勤めつつ、第2回、3回大会は選手として出場しましたが、その後は役員として微力ながら大会の発展に尽くしてきたことを喜び、誇りに思っています。

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<写真>長間尅宏氏(10年2月、那覇市内にて)

【長間尅宏氏プロフィール】1944年、来間(くりま)島出身。高校3年生の時に陸上中距離選手として活動を開始、以後、生涯スポーツとして陸上競技に取り組む。平良市陸上競技協会3代目会長、宮古長距離同好会事務局長などを歴任。第1回宮古島トライアスロン大会開催後、「宮古島トライアスロン・クラブ」が結成され会長に就任、以後17年間、会長職を務めたが、2002年に沖縄本島の那覇市へ移住した際に降任。医療法人・一向会「かず整形外科クリニック」事務長。

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