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Vol.44:火神の巻 第5章その5:宮古島を知らしめるチャンスだ

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第5章その5

宮古島を知らしめるチャンスだ

【この記事の要点】

結局、宮里は肯首せざるを得なかった。島の発展の起爆剤となり、地域経済の活性化になるならば、地元の医療界として反対する訳にはいかない。宮里は、止むを得ないと判断した。それに大会が実施されて万が一、参加者に生命の危機が生じたり、怪我人が発生したならば、誰よりも自分達が対応しなければならないのは明らかだ。

 

 
「決まってから、協力しろと言われても困ります」

 宮古地区医師会会長の宮里不二雄は、伊波幸夫平良市長の命を受けて自宅に訪れた大会事務局の二人を前に、憮然として声を発した。10月23日に大会実行委員会の準備会が開かれ、トライアスロンの開催が実質的にゴーサインとなった後の地元医師会への協力要請だった。誰でも怒りたくなる。トライアスロン大会の話は知ってはいたけれど、約20名で構成された医師会の大多数は、

「あんな危ない、危険極まりないスポーツに協力するなんて、御免こうむりたい。それでなくても時間外や夜間の医療勤務に疲れているのに、これ以上の救急医療は負担したくない」

 との主張だった。最もである。訪れた二人も宮里会長の前で、ただただ平身低頭するより外になかった。事の次第はどうであれ、トライアスロン大会の開催に当たって、救急救護の為の専門家の参画、協力は必須である。何としても医師会に承諾してもらわなくてはならない。

「大会を誘致する事前の段階で、なぜ相談に来られなかったのですか」

 宮里は、また言い放った。それに対し二人は、ひたすら理解と協力を懇願するばかりである。

「地域活性化の為です。宮古島を日本全国に知ってもらうチャンスでもあります。地元の体育協会も乗り出してくれましたし、新聞社も応援してくれます。お願いします」

 結局、宮里は肯首せざるを得なかった。島の発展の起爆剤となり、地域経済の活性化になるならば、地元の医療界として反対する訳にはいかない。宮里は、止むを得ないと判断した。それに大会が実施されて万が一、参加者に生命の危機が生じたり、怪我人が発生したならば、誰よりも自分達が対応しなければならないのは明らかだ。
 宮里は副会長の下地常之と共に医師会のメンバーや宮古島での中核的な医療機関・沖縄県立宮古病院の医師達への説得に当たった。その結果、大会本番では沖縄本島からの応援部隊を含め医師30名、看護師60名の医療救護体制を固めたのである。

宮里不二雄氏(10年2月、平良市の医院にて撮影)

宮里不二雄氏(10年2月、平良市の医院にて撮影)

 医療救護部門の協力が得られた一方、大会の資金を賄う為の協議も本格的に始まった。
即ち、大会の運営費等を出資してくれるスポンサーを捜さなければならない。事務局並びに大会の財政を担当する琉球新報社では、総額2,700万円~3,000万円の経費が必要と試算していた。しかし、夏から秋にかけて突然、持ち上がった話なので、誰もがそうそうお金を出してくれる訳ではない。
 取り敢えず、同協議会を構成する1市3町2村が拠出する分担金500万円と琉球新報社が緊急貸し出しする500万円、それに沖縄本島に在住する宮古島出身者が構成メンバーの在沖宮古郷友連合会「三水会=真喜屋恵義会長」からの寄付金の外、募金集めのパーティ開催等で300万円は見込めた。これで合計1,300万円。しかし、あとの不足分をどうするかだ。
 大会関係者は東京並びに関西の財界に対しアプローチを始め、その結果、メイン・スポンサーには宮古島への直行便の運航を図っていたJAL(日本航空株式会社)と、当時、JALの系列会社で沖縄諸島の空路を飛び交う南西航空株式会社の特別協賛が決った。具体的には、JALグループとして協賛金1,500万円のほか、大会用ゼッケンを始め完走Tシャツやタオル等、現物支給分が1,000万円の合計2,500万円を提供してもらうことになり、大会名も“JALカップ”と謳うことにした。

大会が終わった後に「三水会」の寄付で旧宮古空港に建てられた大会記念碑

大会が終わった後に「三水会」の寄付で旧宮古空港に建てられた大会記念碑

 ところが、大会実施に伴う道路使用許可に当たって警察当局は、「企業の冠大会ならば許可しない」旨を通達してきたのである。警察は基本的に公道を使ったイベントの自粛を求めていたが、許可の条件として道路を使用するイベントが地域住民の取り組みであること、かつ公共的性格が強いこと、しかも安全に行われること、そして民間企業の利害と関わりがないことを必須として挙げていた。この為、JALには主催者の冠を下ろしてもらうより他になかった。だが、メイン・スポンサーとして協賛金を拠出すると共に、宮古島への直行便を運航させ国内外の招待選手の輸送を含めた全面的な協力を得ることになったのである。
 警察に対する道路使用許可の要請は、まず宮古警察署長に対し行われたが、その後、沖縄県警察本部との折衝の過程で冠大会を外すことで内諾が得られた。1984年11月27日に実行委員会の結成総会が開かれてから、ほぼ1箇月後のことである。この間、大会名を“JALカップ”の代わりに“ストロングマン全日本トライアスロン宮古島大会”と命名したのである。

南西航空の広告

南西航空の広告

こうして大会開催へ向け一歩一歩、踏み出し準備が進む中、年が明けた1985年初頭、NHK(日本放送協会)が4月の大会の模様を衛星放送するという話が持ち上がった。そして1月と2月にはNHKの取材班が相次ぎ来島、東京本社からは報道局のスポーツ部チーフ・プロデューサーの島田隆吉やチーフ・ディレクターの杉山 茂が、沖縄局からは野田倫也放送部長や担当の平嶋謙一らが現地入りし、衛星放送の可能性等について検討を開始したのである。
 大会の模様をテレビ中継する話は最初、日本テレビ放送網株式会社が触手を動かしたが、スポンサーが集まらず断念した。これに対しNHKは公共放送という立場から、従来まで電波を送り届けなかった宮古島での放送を、この機会に何としても実現したかった。ただ宮古島の地勢は余りにも平坦なので、現状では電波塔を建てても電波は素通りしてしまう。だから衛星放送しかなかった。
 しかもNHKは、翌年の86年後半からBS(放送衛星)を使った衛星放送を始める計画があった。放送衛星を使って離島から本土への送信を可能とする等、衛星放送の可能性を実験する絶好の機会と考えたのである。このため日本電信電話公社(85年4月に日本電信電話株式会社に改組)の通信衛星「さくら2号」を借り受けたほか、ヘリコプター2機、移動中継車3台等、大掛かりな衛星放送システムを宮古島に導入すると共に、最終的に技術スタッフ等、総勢200人というNHKの地方放送局1局分に相当する要員を現地に派遣したのである。

「我らの島を、本土の人達に知らせるチャンスだ」

 NHKがトライアスロン大会を放送すると聞いて、宮古島の人々は嬉々とした。大会関係者だけでなくボランティアで参加する住民も、大会を成功させようと研修会での予備訓練等に熱心に取り組んだ。また、NHK側から「大会中にもしも大事故や犠牲者が出たなら、放送は即、中止します」と申し渡されていたので、大会関係者は「そのようなことが決して起きないよう、万全な安全対策を施そう」ということで一致団結した。医療部長として大会役員に名を連ねた宮里も、大会に携わる医師達に言った。

「事故が起きないよう、しっかりやりましょう」

《次回予告》
4月に開催する本番大会を控え、地元の長距離同好会のメンバーを中心に行われた3月のミニ・トライアスロン大会(リハーサル大会)の模様を記します。また<トライアスロン談義>では、実行委員会事務局の第一線で活動し、大会の成功に奔走した長濱博文氏の苦心談を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>僕も宮古島に惚れた【杉山 茂】

 沖縄の宮古島でトライアスロン大会の実況中継を行えないか? という提案を聞いた時、「これは大変だ!」と思いました。何故ならば、本土や沖縄本島からかなり離れた宮古島へ中継放送機材を大量に運び込み、しかも通信衛星を使って24時間体制で実況放送をするという、何もかもが初めての試みだったからです。それはスポーツ番組の放送に携わる自分達にとって、新たな挑戦でもありました。
 当時の私はNHK報道局のスポーツ報道センターに所属し、主としてマラソンやフィギュア・スケート等、アマチュア・スポーツ番組の制作、放送に携わっていました。そんな折、宮古島でアイアンマン・ディスタンスのトライアスロンを長時間にわたって衛星放送しようというスポーツ・テレソン(テレビ&マラソンの合成語)の話が舞い込んできたのです。もちろん私達、スポーツ報道センターのデュレクターやカメラマンは、この新しい試みに強い興味と関心を覚えました。と同時に、私達は東京オリンピックから20年間、積み上げてきた放送技術をフルに活用すれば、テレソンは可能だとの自信もありました。

 しかし、幾つかの解決しなければならない大きな課題があります。一つは放送時間をどう設定するかです。マラソン中継ならば3時間で済みますが、トライアスロンとなると朝から晩まで、実に長い時間を要します。宮古島大会の場合、午前7時のスタートから最終走者がゴールインする午後11時近くまで、ほぼ丸一日もかかるのです。その総てを中継するのは至難で、いかに通常の放送番組の中にトライアスロンの中継放送を割り込ませることが出来るかどうか? が問題になります。
 いつの日か完全中継が果たせるとしても、この時はスイム・スタートの様子、レースの適時ライブ、トップ・ランナーのゴールシーン、そして最終走者のフィニッシュを放映することが時間的にも材料的にも精一杯ということでプランを練りました。その結果、スイム・スタートは午前7時のニュースの枠内で、午後3時半頃と予想されるトップ・ランナーのゴールは、その頃、中継していたプロ野球(パリーグ戦)番組に割り込ませ、最終走者のフィニッシュは「サンデー・スポーツ・スペシャル」の番組の中で扱うことで了解を得ることが出来ました。
 二つ目の課題は、放送機材と技術スタッフの調達でした。放送機材のカメラや中継器等は沖縄局のものだけでは到底、間に合いません。国内の各放送局から借り集めた上、宮古島まで海上輸送しなければなりません。技術スタッフとて同じこと、全部で100人ほど必要となりますが、それらスタッフを全国レベルで動員する必要がありました。その結果、デュレクターや技術スタッフなど総勢200人の人材を確保すると共に、衛星はNTTの通信衛星を借用することとし、放送機材は主に九州各局から調達することになりました。

 こうしてNHKが初の試みとしてチャレンジするスポーツ・テレソンは、予定通り1985年4月28日の日曜日、朝6時48分30秒に衛星生中継のスタートを切ったのです。そして最終ランナーのゴールシーンを撮り終えた後、延々16時間に及ぶ放送を終了しました。
“幸運”もありました。プロ野球中継が予定通り行われ、トップ・ランナーのゴールインをライブで挿入出来たことが一つです。雨などで野球中継が中止されていれば、時間が未確定なだけに録画で放映する計画だったからです。そして最終ランナーのゴールシーンも、「サンデー・スポーツ・スペシャル」でのライブとなったことです。最終ランナーはまるで計ったように、この時間帯にゴール会場に近づき、市民の大歓声の中でフィニッシュしたのです。
 テレソンを無事に終えて、私も放送スタッフ達も安堵感と満足感を抱きながらも、内容的には各現場を撮るのが精一杯で、もっと選手の人間ドラマを中心に制作するべきだったと反省しました。来年の第2回大会以降も実況放送を続け、視聴者に感動を与えるより面白いスポーツ番組を作りたいと願いましたが、離島での長時間に及ぶ生放送は材料の調達面で容易に出来ないとの判断から、残念ながら二度目の挑戦は諦めたのです。
 しかし、中継をしながらトライアスロンの凄まじさ、素晴らしさを肌で感じ取ることが出来たし、宮古島という南海の島の自然の美しさと共に、NHKの放送に対し惜しみない協力をして戴いた島民の方々の心が、今でも忘れることが出来ません。

「宮古島よ、有り難う。僕も宮古島に惚れました」

杉山 茂氏(都内・神宮外苑にて、10年2月撮影)

杉山 茂氏(都内・神宮外苑にて、10年2月撮影)

【杉山 茂 氏プロフィール】
1936年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部を卒業後、NHKのデュレクターとして主にアマチュア・スポーツ番組の制作に取り組む。1995年の長野オリンピックの放送でマネージング・デュレクターを務めた後、NHKを退職。2002年サッカー・ワールドカップの組織委員会放送業務局長として放映に携わる。現在はフリーのスポーツ・プロデューサーとしてテレビ放送のスポーツ番組の制作で活躍中。

 

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