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Vol.43:火神の巻 第5章その4:でも僕はやりますよ

 

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第5章その4

でも僕はやりますよ

【この記事の要点】

いろいろな意見が体協の役員達から出された。そうしたトライアスロン大会開催に否定的な意見に対し豊岡は言い放った。「これは島興しです。皆さんがやらないというのであれば、それでもいいです。でも僕はやりますよ」 この豊岡の一声には、さすがに誰もが肯首せざるを得なかった。もう賛否を問う次元ではない。体協の御大が言ったのだから、従わざるを得なかった。

 

 

 琉球新報社の呼び掛けで結成されたハワイ・トライアスロン大会の視察団が帰国した後、宮古島の島内はトライアスロン大会の開催ムードが一気に高まった。宮古陸上競技協会の幹部の中には、大会開催に依然として消極的な意見もくすぶっていたが、貧しい宮古島の経済を底上げする為にも、また宮古島の知名度を向上させ観光振興を図る為にも、全島を挙げた国際的にスケールの大きなイベントを立ち上げようとの動きが、島内のあちこちから湧き上がってきたのである。
 そのキーワードが“地域経済の活性化”であり、この言葉こそトライアスロン大会開催に協力、参加を要請する御旗の錦となった。こうした機運を背景に、ハワイ視察団の要として現地視察をした宮古郡体育協会の豊岡静致会長と宮国 猛理事長の2人は、元琉米文化会館に集まった体協所属団体の幹部達を前に、次のように話した。

「ハワイ島の自然環境や経済状況は、私らの宮古と大変、似ていました。だから私らにもトライアスロン大会をやれる条件は揃っていると思います。このニュー・スポーツを全住民が一体となって取り組むことで、地域活性化を図っていきたいというのが、私らの願いです。ここに集まった皆さんも一致団結して、参加協力して戴きたい」

 これに対し若手幹部から疑問視する向きや、中には協力不可の意見も出された。

「トライアスロンの経験のない私達が本当に出来るかどうか疑問です。第一、どうやれば良いか、私達にはまったく解りません。しかも、危険極まりないスポーツで、私達の手には及ばないと思います」

 いろいろな意見が体協の役員達から出された。そうしたトライアスロン大会開催に否定的な意見に対し豊岡は言い放った。

「これは島興しです。皆さんがやらないというのであれば、それでもいいです。でも僕はやりますよ」

豊岡静致氏(那覇市内にて、10年2月撮影)

豊岡静致氏(那覇市内にて、10年2月撮影)

  この豊岡の一声には、さすがに誰もが肯首せざるを得なかった。もう賛否を問う次元ではない。体協の御大が言ったのだから、従わざるを得なかった。それに誰もが“地域経済の活性化”の言葉に弱かった。こうして宮体協を核とする大会の競技運営を担う部門が旗揚げをしたのである。因みに、豊岡はこの時、宮古工業高等学校の校長職を務めながら体協の会長として組織強化、建て直しに取り組んでいる最中だった。
 とは言え、トライアスロンというスポーツ競技を、ほとんどの者が知るよしもない。誰もが一本のビデオテープを観て知ったに過ぎないのである。豊岡だって宮国だって、どのようにやるか? まるで判らない。豊岡は言った。

「君達も分からなければ、僕も分からない。だから皆で考え一緒にやりましょう」

 そこで、まずは人選ありきで始まった。トライアスロン大会に必要と思われる競技運営部門として7部門を想定したうえ、それぞれ担当責任者を割り当てていった。その人選は、宮古陸上競技協会の役員を中心に行われた。というのも、体協の中核を構成していたのが陸協であり、島内で行われるスポーツ大会に常に携わり競技に熟知している者が多かったからだ。実際、豊岡と宮国も陸協の出身者として宮古島のスポーツ振興の要として活躍してきている。
 まず競技運営委員長には豊岡、副委員長兼総務部長に宮国が選ばれ、次に適材適所の原則に基づき競技運営スタッフが決められていった。その結果、水泳部長には豊岡が水産高等学校の教員時代の先輩で、海洋に熟知している仲間成長を当てた。自転車部長は同じく教員で自宅の下地町から自転車通勤をしている上地國夫が、マラソン部長は陸協会長の美里泰雄、安全部長に仲宗根玄淳、記録部長に池村盛良、通信連絡部長に狩俣寛次がそれぞれ任命された。
 このうち池村は、美里と同じく日本最南端の公認マラソン・コースを完成させた立て役者であり、陸協にあっては企画部門を担当する重鎮である。豊岡は池村の緻密で統率力のある才能をかねてから高く評価しており、デリケートなトライアスロンの計測・記録を依頼したのだ。またトライアスロンへの参加、協力を渋っていた狩俣だが、NTT(宮古電報電話局)の技師でありアマチュア無線のベテランとしての腕を買われ選ばれた。豊岡は、またもや言い放った。

「カンジ! 君は通信連絡部長だ。君しかいない。やってくれ」

高等学校時代、豊岡の実の教え子だったこともあり、狩俣は恩師の命には背けなかった。そのほか副委員長に豊岡、宮国に続く体協リーダーの川満恵元ほか5名、総務副部長(選手受け付け登録並びに会計担当)に宮古精糖株式会社の社員で会計を担当していた久貝潤市、剣道連盟会長の安谷屋豪一、そしてボランティア部長に比嘉米三平良市議会議員が選ばれた。比嘉は最初、安全部長を希望したが、議員でありボーイスカウトの団長として宮古島の人々との繋がりが深いことから、総勢600名のボランティアの統率に当たることになった。

 

池村盛良氏(宮古島市内の自宅にて、10年2月撮)

池村盛良氏(宮古島市内の自宅にて、10年2月撮)

狩俣寛次氏(宮古島市内の自宅にて、10年2月撮影)

狩俣寛次氏(宮古島市内の自宅にて、10年2月撮影)

 こうして決められた競技運営部門の部長たちは早速、部員の確保と役割分担、それに運営マニュアル作りに入る等、トライアスロン大会を開催する為の準備に入った。また、豊岡など競技運営委員会の代表数名は、研究会と称し毎晩のように各市町村を巡回、地域の人々に対し大会への協力要請や競技運営に関わる説明を続けた。さらに豊岡は、毎土曜・日曜日には上地と共にバイク・コースの道路事情を視察した。コースのあちこちが砂利道だったり狭かったりと、安全面で支障のある個所が多々あったからだ。
 一方、行政面での取り組みも10月の段階では、主催団体を島内6市町村で組織する「宮古広域市町村圏協議会」とすることを決めた上、事務局を同協議会内に置くこととし、全島住民の参加、協力によりトライアスロン大会を地域活性化対策事業の“島興し”として取り組むことで意思統一が図られた。そうして10月23日(火曜日)、平良市の宮古支庁の会議室で大会実行委員会の「結成準備会」が行われる運びとなったのだ。

 この会合では、琉球新報社企画局長の嶋袋 浩がトライアスロン大会開催に至ったそれまでの取り組みについて経過報告を、続いて同協議会事務局長に任命された長濱幸男がハワイ大会の視察報告を行った。その後、実行委員会結成に向け大会の日程、会場、コース、選手参加人数、大会役員等について提案され、大会の骨格がほぼ内定したのである。
 このうち大会役員については、大会会長が同協議会会長並びに平良市市長の伊波幸夫、副会長は城辺町長の森田武雄など5町村長、それに顧問として琉球新報社社長の伊豆見元一が選ばれた。こうして大会開催に向けた具体的な一歩を踏み出されたが、まだこの時点で医療教護部門は固まってはいなかったし、もとより大会に必要な資金やスポンサー、バイクやラン競技コースを確保する為の警察当局の道路使用許可等、トライアスロン大会開催の為の諸条件を満たす具体的な活動は、その後、本格的に始まる。但し、4月の大会本番まで残された日数はあと半年しかなかった。

《次回予告》
トライアスロン大会を開催するには、様々な課題、難問をクリアしなければならない。その第一は地元住民への説明と協力要請、次に資金確保の為のスポンサー捜しや道路使用許可を得る為の警察当局との折衝である。そして宮古島大会に限って言えば、衛星放送を使ってトライアスロン大会を初めてテレビ放送するNHK(日本放送協会)との折衝も、大きな課題であった。次回は、こうした諸問題に対処しつつ、大会開催に向け前進する大会実行委員会の動きを紹介しつつ、<トライアスロン談義>では、NHK総合デュレクターの杉山 茂氏の談話を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

 

 

<トライアスロン談義>テープが擦り減るほど何度も観た!
【狩俣 寛次】

「果たして、人間が3つの競技を連続して行うことが可能だろうか? しかも、そのトライアスロンという競技を安全に開催、運営することが、自分たちに出来るのだろうか?」

 1984年8月、一本のビデオテープを観終えて、私は嘆息しました。否、私だけでなく、私が所属する陸協の仲間も、体協の先輩たちも、こんな過酷なスポーツは想像だに及ばなかったからです。おそらくビデオを観た宮古のスポーツ関係者には、トライアスロンを無謀な行為と映ったに違いありません。しかし、その一方で、

「自分たちの手でトライアスロンを運営してみたい」

という気持にもなりました。ビデオに映る女性の劇的なゴールシーンを観て、私は感動と共に、強い魅力も感じたのです。では、実際に自分たちの手でトライアスロン大会を開いてみるかというと、話は違います。ビデオを観た殆どの者が躊躇し、尻込みしていたのですから。

 ところが、宮古スポーツ界の御大である宮古体協会長の豊岡先生と同理事長の宮国先生のお二人は、「宮古の活性化の為だ」とし、トライアスロンと取り組む姿勢を示されたのです。この御大の“鶴の一声”で、私達、体協並びに陸協の面々は、渋々、同意せざるを得ませんでした。

 その後、10月にハワイ大会視察の話がありましたが、生憎、私のパスポートが期限切れで随行出来ず、残念な思いをしました。しかし、帰国した視察団の報告を踏まえつつ、ハワイ大会のビデオテープを観て、トライアスロン大会の競技運営という、所謂、裏方の様子を推察しました。体協の仲間と共に毎晩、何度も何度も、テープが擦り切れるのではないかと思うくらい観ました。

 そして、いよいよ大会実行委員会を立ち上げる時がやって来ました。豊岡・宮国の両御大を中心に体協並びに陸協の幹部が集まり、競技運営委員の人選を行いました。そして私は、NTT(宮古電報電話局)に勤務する電気通信技術者でしたので、仕事柄もあって「通信連絡部長」に任命されたのです。周囲を見渡しても、この役目は私より他に見当たりません。だから、もう後には引くことが出来ない。与えられた任務を遂行するばかりです。

 そこで第一に考えたことは、宮古島内の電話回線にアマチュア無線を結び付け、さらには移動無線車を導入することによって大会実況の把握と東平安名崎など遠隔地との連絡通信を図る為の回線等ハードウェアを整備することでした。次に、万が一に発生した通信トラブルにどう対応するか? という重要な課題に即応すべく、通信ネットワークに精通した連絡通信部員を数多く確保しなければなりません。
 その結果、トラブル対策についてはNTTが大会当日、日曜日の休日にも拘わらず保守要員を配置してもらうことになりましたし、加えて宮古ハム・クラブの方々40名の協力参加を得たほか、宮体協を始め海上保安庁、宮古警察署、宮古消防署、NHK宮古放送局からそれぞれ応援部隊が派遣され、連絡通信部は総勢120名の体制を構築することが出来たのです。こうした島内を挙げた多くの協力者のお陰で、第1回大会の本番ではレースのつつがない進行と、いくつかのトラブルにも十全に対処することが出来ました。

 以来、私は競技運営委員会のメンバーとして、宮古島トライアスロン大会の裏方の役目を担ってきました。大会は昨年で26回目を数えましたが、第1回大会から参加している競技役員は久貝さんと私の2人だけとなってしまいました。もしこれからも競技役員として続けていくのであれば、宮古島の大会がグレードの高い、かつ世界一安全なトライアスロン大会として成長、発展していくことを目指していきたいと思っています。

狩俣寛次氏(宮古島市内の自宅にて、10年2月撮影)

狩俣寛次氏(宮古島市内の自宅にて、10年2月撮影)

【狩俣 寛次氏プロフィール】
1934年、平良市生まれ。電気通信エンジニアとして宮古電報電話局に勤務。青少年時代は剣道と野球に取り組んだが、後に宮古陸上競技協会の審判部長を経て会長に就任する。第1回の宮古島トライアスロン大会では連絡通信部長として大会運営の裏方を務め、その後、同大会競技委員会の連絡安全部長、競技総務部長、副委員長兼水泳本部長等を歴任、今年の第27回大会まで競技役員の要として活躍中。

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