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Vol.42:火神の巻 第5章その3:ハワイと宮古島は条件が似ている

 

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第5章その3

ハワイと宮古島は条件が似ている

【この記事の要点】

「我々でやろうじゃないか。本番のトライアスロン大会に出場する2人の選手を励ます為に、我々、同好会がミニ大会を主催し、選手としても出場しよう。全く泳げない者は別として、それ以外の者は全員が出場する。参加しない者は、罰金として1万円を払うべし」長距離同好会のメンバーは皆、頷いた。否、頷かざるを得なかった。

 

 
  東急の田中清司の提案から始まった宮古島でのトライアスロン大会の開催は、琉球新報社を通じて宮古広域圏の行政サイドへと伝わり、1984年9月の段階では島内関係者を交え実施へ向けた協議が本格化していった。
 それにしても、トライアスロン大会をどのように行えばよいのか? 否、そもそもトライアスロンとは何か? それすら宮古島の人々には解らない。拠り所は、琉球新報社・宮古支局長の照屋 直が持参したハワイ大会のビデオ・テープ1本だけである。しかも、そのテープには当時の女性ナンバー・ワンのトライアスリートと称されるジュリー・モスがゴール寸前、倒れ伏し、四つん這いに這いつくばりながらフィニッシュした壮絶なゴールシーンが映されており、トライアスロンを初めて観る者には驚異と畏怖の念を与えるのに十分だった。

ジュリー・モスのゴールシーン

ジュリー・モスのゴールシーン

 下地町の生活改善センターに集まった宮古郡体育協会(以下、宮古体協という)や宮古陸上競技協会の役員は、ビデオを観て言い放った。

「これを宮古でもやろうというのか? 余りにも過酷過ぎやしないか。無謀だ! 第一、経験のない我々に出来る筈がない」

 体協の役員の多くが疑問符を投げ掛けた。「自分たちには、とても出来ない」との意見がほとんどだった。何しろ初めて観るスポーツである。トライアスロンの3種目の競技のうちマラソンは理解できても、海で泳いで、それからまた自転車で走る等とは、彼らにとって想像にも及ばないスポーツだった。宮古体協の役員だけでなく、地元のライオンズクラブを始めとするボランティア団体の多くが、ハワイ大会のビデオを観て腰が退けてしまったのだ。
 片や説明に回る側の照屋だって、実際にトライアスロンを観たわけではない。本社の真喜屋事業局長と嶋袋 浩企画局長の2人の命に従い、ひたすら宮古の関係者への説得、理解を求め続けた。その一方で嶋袋と宮古広域市町村圏協議会の長濱幸男事務局長は大会運営の具体的な方策を話し合い、実現への道をあれこれ模索していた。そのキーワードは“地域経済の活性化”である。沖縄本島に対し生活経済や産業面で後れをとる宮古島を浮上させるには、民間活力を積極的に導入しつつ、宮古島の自然風土や文化遺産を全国にアピールする必要を感じていた。言わば“島興し”である。
 この“島興し”のプログラムをどのように進展させていくか? 琉球新報社と同協議会の話し合いは精力的に進められた。その結果、9月10日(月曜日)に宮古島の行政、競技団体、ボランティア団体の幹部らを集めて「トライアスロン競技説明会」を開くことになったのだ。そして、この説明会に招かれたのが、東急の田中を始め、2箇月後の11月にトライアスロンの全国的な競技組織として立ち上げる複合耐久種目全国連絡協議会の前身「トライアスロン複合種目連絡会」の主要メンバー達である。
 メンバーは財団法人日本水泳連盟の松林 肇の他、日本人として初めてハワイのトライアスロンを制覇した永谷誠一とその娘の美加、それに日本を代表するトライアスリートの中山俊行である。同連絡会の一行は東京や熊本からそれぞれ宮古島へ入り、トライアスロンの専門家の立場から競技の普及、啓蒙を努める役割を担い赴いた。
 競技説明会では、伊波会長の挨拶の後、田中からトライアスロンとは何か? といった説明と宮古島での大会開催の意義が提唱された。次いで説明で立ち上がった松林は、それまでの現地ロケを踏まえ、次のような趣旨を述べた。

「与那覇前浜での水泳は安全対策を施すことによって可能だし、自転車もマラソンも問題無く行うことが出来ると思います。総じて宮古島でのロケーションは最適で、トライアスロンの実施に問題はないと考えています」

 

東平安崎へ向かうバイク・コースとマラソン・コースの折り返し点

東平安崎へ向かうバイク・コースとマラソン・コースの折り返し点

 こうした外部からの意見を踏まえ、琉球新報社からはトライアスロン大会の開催について「共催する」旨の趣旨説明が行われた。さらに同競技説明会の翌日、琉球新報社の真喜屋と嶋袋は伊波会長に対し、ハワイで行われているトライアスロン大会の視察調査を提案したのである。

「百聞は一見に如かず、です。実際にハワイの大会を見に行きましょう。そのハワイの大会が丁度、来月に行われます」

 その結果、9月中には20数名の視察団が結成され、10月2日~10日の9日間、一行はハワイへと向かったのである。視察団の団長には嶋袋が務め、以下、団員に関係市町村の首長と市議会議員、広域圏協議会の長濱事務局長、それに大会競技運営を掌る宮古体協の豊岡静致会長、宮国 猛理事長等、全部で20名余の規模に及んだ。
 ハワイの視察は、10月7日の大会本番の模様を観戦した他、競技運営のあり方や競技規則等についても現地・ボランティア役員から説明を受ける等、トライアスロンの基本を学ぶ機会を得た。また、大会が開かれるハワイ島の環境、その諸条件が宮古島と多いに似通っていることも知り、視察団一行は意を強くした。
 すなわち、溶岩と牧草地で占められるハワイ島の主産業はサトウキビである。それと、観光産業を育てようとする施策が次々と打ち出されている。この二つの点で宮古島とハワイ島は一致するとの認識が持てた。また、エリート競技者だけではなく高齢者や女性等の一般アスリート達も、ペースさえ守れば安全に完走できるという点も確認することが出来た。実際に自分たちがトライアスロン大会を開催、運営するとなれば多くの疑問や問題点、或いは障害もあろうけど、一行の多くの者が帰国後、「やってやれない訳ではない」、自ら「このニュースポーツ・イベントを手掛けてみたい」気持が生まれていた。

視察団が目の当たりに見たアイアンマン・レース

視察団が目の当たりに見たアイアンマン・レース

《次回予告》
トライアスロン大会開催に向け「大会実行委員会」を立ち上げていく模様を、宮古体協の会長だった豊岡静致氏を中心に、その活動を描きます。また<トライアスロン談義>では、第1回大会の記録部長を務めた池村盛良氏と連絡通信部長の狩俣寛次氏の談話を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

 

 

<トライアスロン談義>宮古島はトライアスロンの最適な地 【松林 肇】

 私が宮古島でトライアスロン大会開催の為の現地ロケを始めたのは1983年の頃でした。宮古島でリゾートホテルの事業を始める東急グループの依頼に基づき、(財)日水連・古橋廣之進会長(故人)の命を受け私が派遣されたのです。その主な任務は、現地・海域でのトライアスロン・スイム競技の可能性について実地調査を行うことでした。現地・海域とは、宮古島・東急リゾートの南側前面の与那覇前浜ビーチと、対岸の来間(くりま)島との間に広がるエメラルドグリーンの海です。
 潮の流れはどうか? その海で数百名の選手を泳がせることが出来るかどうか? コースをどう取るか? 泳ぎ終わって、次のバイクに移動するコース誘導を、どのように行うか? そして何よりも、選手の安全を確保する為の競技運営のあり方と、その為の設備機器類をどのように配置するべきか? 等々、その方策を検討しなければなりません。

対岸の栗間島より眺める与那覇前浜ビーチと宮古島・東急リゾート

対岸の栗間島より眺める与那覇前浜ビーチと宮古島・東急リゾート

 それで宮古島へは、トライアスロン大会開催の構想を提案した東急の田中清司さんに同行したりして、全部で10回ほどロケを行いました。しかし、当時は東京から宮古島への直行便がなかった為、すべて本島の那覇市を経由する3泊4日の強行スケジュールでした。金曜日の仕事が終わるとその夜、私は羽田を発って那覇へ飛び、那覇に宿泊して翌土曜日の朝に宮古島に入って丸2日間、打ち合わせや現地調査を行い、翌日曜日の夜に再び那覇で泊まり、月曜の朝一番で羽田へ戻るのです。
 そんな現地ロケを重ねた結果、スイムはスタートしてから2つのコーナーを回る三角形3Kmのコース案をまとめました。しかし、田中さんはやるからにはハワイ・アイアンマン大会のようなフル・トライアスロンを強く希望しています。ですから、スイムの距離をもっと長く、バイクの距離も180Kmのコース取りを希望していました。ただランは、83年に陸連公認のマラソン・コースが認められていたので、42.195Kmのフル・マラソンは可能です。

 こうして実地調査や様々な検討を踏まえ、宮古島でのトライアスロン大会の実施に一応の目処が付いたのですが、いざやるとなると東急リゾートが建つ地元の下地町を始めとした住民の方々は、なかなか首を縦に振りません。開催に疑心暗鬼なのでしょうか? それに開催するとなれば、例えばスイム会場に関して言えば、ビーチの使用を建設省、海の使用は海上保安庁と運輸省、それに地元漁協組合等の許可を得なければがならないし、宮古島全島を回るバイク・コースとなれば、当然のことながら警察の道路使用許可を得る必要がありますが、それも東急という一民間企業の力ではかなり難しいのも事実です。
 しかし、琉球新報社が参画して宮古島の人々との橋渡し役を担い、1984年9月に「競技説明会」を行うことになったのです。この説明会は琉球新報社の要請を受け宮古広域市町村圏協議会が主催して行われたもので、トライアスロン大会開催を前提に現地の行政組織を始め警察、消防、体育協会、青年並びに婦人のボランティア団体等、多くの方々が集まりました。
 但し、この時点で大会開催が是認されていた訳ではありません。あくまでトライアスロン大会の開催を提案、協議する場で、実施の為の検討の場ではありません。でも私は、地元の皆さんに次のように申し上げました。

「宮古島はトライアスロンのロケーションとして最適な地です」

 それからというもの、現地でのトライアスロン大会開催の機運は盛り上がり、翌年の85年4月に本番を迎えることになりました。その間、コース選定で地元関係者の方々と意見が分かれることが何度かありましたが、最終的に皆が心を一つとなって第1回大会の開催へと漕ぎ着けたのです。そして大会後の打ち上げ会では、意見が対立した地元の方々ともしっかり手を握り合い、大会の成功を喜び合いました。

松林 肇氏近影(東京・砧の日本大学商学部正門前にて、10年4月撮影)

松林 肇氏近影(東京・砧の日本大学商学部正門前にて、10年4月撮影)

【松林 肇氏プロフィール】
1955年、大阪府生まれ。日本大学文理学部を卒業。同大学職員として勤務する傍ら、(財)日本水泳連盟の競泳委員、強化統括コーチとして後進の指導に当たる。トライアスロンでは宮古島大会を始め玄海、波崎、広島、名古屋市開港記念、インカレ浜松の大会等において、競技の普及・指導活動に携わる。最近では北京大会からオリンピック種目となったオープン・ウォーター・スイミングの競技役員としても活躍する。

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