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Vol.40:火神の巻 第5章その1:美ぎ島に華咲くトライアスロン

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

火神の巻 第5章その1

美ぎ島に華咲くトライアスロン

【この記事の要点】

この南海の美ぎ島(かぎすま=宮古諸島の方言)で初めて開かれたトライアスロン大会は、NHKの電波によって夜の11時まで、日本全国に放映され、トライアスロン・スポーツと宮古島の存在を知らしめたのである。その名も、「ストロングマン 全日本トライアスロン宮古島大会」である。

沖縄本島・那覇市から南西約300㎞の南海に浮かぶ宮古島で、トライアスロン大会が開催されたのは今から25年前、1985年4月28日のことである。しかし、この宮古島でのロング・ディスタンス・タイプのトライアスロン大会が国内外から選手を集め、皆生トライアスロン大会に次ぐメジャーな大会として行われたことを知る者は、ごく少数であった。否、それよりも何も、トライアスロンとは一体どんなスポーツなのか? 或いは宮古島が日本の何処に浮かぶ島なのか? それすら知らない者が多かった筈だ。それを知らしめたのが、このトライアスロン競技の模様をほぼ丸一日中、衛星放送を使って初めて全国に放映したNHKテレビだった。
朝6時48分30秒、衛星放送の電波によって映し出されたのは、エメラルド・グリーンに染まった与那覇前浜ビーチの景色である。ビーチから広がる海上には小波が囁き、その揺らぎの下には真っ白な砂に敷き詰められた海底が透けて見えた。放送の声は、やがてこのビーチから241名の選手が泳ぎ出し、泳ぎ終えたなら自転車に乗って島内をほぼ一周した後、マラソンを行うトライアスロンを演じるのだと説明した。

「トライアスロン」 それは何?

「宮古島」 それは何処?

朝のニュースを見ようとテレビのスイッチを入れたばかりの家庭の茶の間から、そんな声と共に、余りにも美しい海の色と景色に感嘆の声が漏れた。これまで日本では鳥取県の皆生温泉で始まった「皆生トライアスロン大会」や石川県小松市で登山競技を加えた「小松トライアスロン大会」等が開催されているが、いずれもメディアの報道は当該地域に限られていた。しかし、この南海の美ぎ島(かぎすま=宮古諸島の方言)で初めて開かれたトライアスロン大会は、NHKの電波によって夜の11時まで、日本全国に放映され、トライアスロン・スポーツと宮古島の存在を知らしめたのである。その名も、「ストロングマン 全日本トライアスロン宮古島大会」である。

日本トライアスロン物語

トライアスロンのスイム・スタート会場となった与那覇前浜は、東西に4~5Kmの白い砂浜が続く東洋一のビーチと称されている。そして、このビーチの一角に建てられたのが、東京・渋谷に本社を置く東京急行電鉄株式会社(以下、東急と呼ぶ)が開発した高級リゾート・ホテル「宮古島 東急リゾート」である。
実は当初、宮古島トライアスロン大会は、このリゾート・ホテルを売り出そうとする東急が仕掛けた宮古島への集客誘致の一環として企画されたのである。その仕掛け人とも言うべき者が、元東急イン事業部・販売促進課長(当時)の田中清司であった。
だが、田中の企画は、現地へはそう簡単に受け入られなかった。田中は息詰まった末、早稲田大学競走部の先輩、沖縄テレビ放送株式会社・福永俊郎専務の紹介を得て、琉球新報社の伊豆見元一社長に相談を持ち掛けた。しかし、伊豆見は会議の最中だったこともあって詳しい話は事業局長の真喜屋 明とするよう促した。でも、伊豆見はその時、「飛んでもない話だ。そんな危険極まりないスポーツをやるなんて…」

との思いを抱いた。だから、真喜屋に取り次いだものの、

「今そちらに東急の田中という者が行くけれど、話を聞くだけにして断われ」

と、電話で指示した。ところが真喜屋は、田中の説明を聞くうちに、ふつふつとトライアスロンに対する興味と関心が湧いてきたのだ。新聞社の事業ビジネスを掌る真喜屋としては、伊豆見社長の意向とは反対に開催への検討を試みてもよいのではないか、と思った。

真喜屋 明氏近影(10年2月、琉球新報社本社前で撮影)

真喜屋 明氏近影(10年2月、琉球新報社本社前で撮影)

「トライアスロンはリッチなスポーツですが、今や世界的なブームを巻き起こしており、ゆくゆくはオリンピック種目になると思います」

トライアスロンの意義や将来を語る田中に対し、真喜屋は、

「確かにトライアスロンは肉体を酷使し、生命の危険に晒される危ない競技だけれど、豊かで平和なこれからの時代にマッチするスポーツになるかも知れない。新聞社の新事業として取り組み、先駆的な役割を果たしていく意味は大きい」

と思った。そして、

「トライアスロンをやるには、まずは奇麗な海があれば最高ですね。次に起伏が少ない平坦な地形、最後に交通を一切、遮断して、一日中トライアスロンを楽しめる場所が求められます。そのような条件を満たしてくれるのは、沖縄の離島、それも小さな島ではなく、フル・マラソンのコースが取れるロケーションが必要です」

と言う田中に、真喜屋は思わず頷いた。

「ならば宮古島だね」

真喜屋は田中の術中に嵌まったかもしれないと思ったが、でも、それを善しとした。ニュー・スポーツと注目されているトライアスロンを、自分達の手によって開催してみたい思いが心の中で走った。ただ「田中の話は断われ」と伊豆見社長の言葉は、頭の片鱗に残っている。真喜屋は田中にこう言った。

「明日、宮古島有線テレビ株式会社(現・宮古テレビ株式会社)へ弊社のニュースを提供する旨の契約調印式があって、私と企画局長の嶋袋 浩が宮古島へ出張します。ですので、そのハワイ大会のビデオを持参して、現地の方に見てもらいましょう」

翌日、琉球新報社の2人は、那覇から宮古島へと飛んだ。そして宮古島有線テレビ㈱との契約調印が終わった後、同社社長の砂川典昭と琉球新報社宮古支局長の照屋 直との会食の場で、トライアスロンの話になった。話を聞いていた砂川は、しばらくして、

「それは面白いですね。観光資源が乏しい宮古島をトライアスロンで売り出せば、島の活性化にも繋がりますから、是非やりましょう。宮古島をスポーツ・アイランドとしてアピールしましょう」

砂川と呼吸を合せるように照屋も、

「そのビデオを貸してください。丁度、明日に各市町村長が集まる会議がありますので、その時にトライアスロンを紹介しましょう」

こうして宮古島でのトライアスロンの構想は、まるで電波の波動のように田中から琉球新報社を通じ現地へと伝わっていったのである。

トライアスロン・ゴール地点に本社を置く宮古テレビ㈱

トライアスロン・ゴール地点に本社を置く宮古テレビ㈱

ところで、トライアスロン大会の開催が次第に現実味を帯び始めるにつけ、真喜屋にとって何よりも気掛かりなことが一つ残っていた。それは伊豆見社長の意向である。思えば、田中に会う直前、デスクの電話にかかってきた伊豆見の声の調子は、「田中の話は、危ないから断わるよう」強いものだった。しかし、その社長の意向に逆らって今、真喜屋が選択したことは「トライアスロンを宮古島で開催する」ことである。話せば反対するに決っている。否、それどころか、社長の意向に背いたとなれば、自身の進退問題にも及ぶ。真喜屋は改めて苦悶した。だが一方で、伊豆見社長を説得する目算がない訳ではなかった。
それは、昨年11月に琉球新報社の主催事業として、宮古島で初めて「高校駅伝大会」を開催した際、大会会長車に乗って先頭を走った伊豆見は、コース沿道に鐘や太鼓を打ち鳴らし“クイチャー”を踊って応援する熱狂的な島の人々の姿を目の当たりにし、いたく感動したことがある。それで翌日、伊豆見は真喜屋を社長室に呼ぶと、

「真喜屋君、宮古は燃える島だね。島の人達の素晴らしい応援で、大変、盛り上がったよ。感動した。高校駅伝であんなに喜ぶのだから、他にもスポーツ・イベントをやれば、きっと喜んでくれるに違いない。君、宮古の皆さんの熱意に応えるよう、全県的なレベルのイベントを考えなさい。これは宿題だ」

宮古島の伝統舞踊“クイチャー”でトライアスリートにエールを送る(STORONGMAN20年の軌跡より抜粋)

宮古島の伝統舞踊“クイチャー”でトライアスリートにエールを送る(STORONGMAN20年の軌跡より抜粋)

この伊豆見の命令が、真喜屋の頭の中に残っていた。だから、真喜屋は田中の話を聞くうちに、トライアスロンで伊豆見を口説き落とすことも可能だと、密かに思っていたのである。9月初旬のある日、真喜屋は意を決し、社長室のドアを叩いた。

「かねて社長から宿題となっていた宮古でのスポーツ・イベントが、ようやく見付かりました」

「ほほー、それは何?」

「トライアスロンです。宮古の方でも受け入れる機運が高まっています」

真喜屋の顔を窺い話を聞いていた伊豆見だが、暫くしてニヤッと笑い、

「君もなかなかやるな! 僕の心の内を知っていたのかね。宜しい。やり給え。但し、絶対に安全第一で頼むよ。社を挙げて取り組むから、嶋袋君と2人で力を合せてやってくれ」

伊豆見も真喜屋も、心は宮古島へと飛んだ。

第1回大会の模様を見物する伊豆見元一元琉球新報社社長(STORONGMAN20年の軌跡より抜粋)

第1回大会の模様を見物する伊豆見元一元琉球新報社社長(STORONGMAN20年の軌跡より抜粋)

《次回予告》
宮古島トライアスロン大会の開催を巡り揺れ動く地元・市町村関係者らの動静を述べる。また<トライアスロン談義>では、宮古広域市町村圏協議会・事務局長として第1回大会の準備と運営に奔走した長濱幸夫氏に、行政として当時の大会への関わりや考え方を語って戴く。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

 

<トライアスロン談義>惚れて通えば千里も一里 【田中清司】

私が初めて宮古島へ赴いたのは、今から27年前の1983年春のことでした。当時、私が勤務していた東京急行電鉄株式会社は、ホテル事業の一環として「イン事業部」を設置し、リゾート開発を含めた新しいタイプのホテル「東急イン」の全国展開に乗り出していたのです。その事業の一つとして84年4月にオープンさせたのが宮古島の「東急リゾート」でした。
しかし、このリゾート・ホテルは遠隔地の離島の為、航空アクセスの点で何かと不便でしたし、それに何よりも「宮古島」という島の存在そのものが国内で知られていなかったこともあって、オープンしても来客はごく僅か、閑古鳥が鳴く始末でした。

「この状況を打開する為には、単にホテルの宣伝をするだけではなく、宮古島全体を日本中の人々に知ってもらう必要がある」

当時、イン事業部の販売促進課長だった私は、全国35個所のホテル(うちリゾート・ホテルは4個所)の新事業の販売促進に取り組んでいましたが、取り分け総額約50億円をかけ沖縄県下、最高級の宮古島リゾートの集客減については、その抜本策を考えなければなりませんでした。この為、しばしば宮古島へ足を運ぶ等して、島の知名度アップの作戦を検討しました。そして、飛行機の窓から宮古島の平坦な地形を見下ろしながら、

「スポーツ競技の適地として売り込んだらどうだろう。そうだ! この島をスポーツ・アイランドにしよう」

と思ったのです。さらに、宮古島の暖かな気候、起伏が少ない平らな地勢、島を囲む美しい珊瑚礁の海、それら自然の条件をフルに活用した上、離島故に交通量も少ない利点、日本最南端の日本陸上競技連盟公認マラソン・コースがあることが大きなヒントとなり、最終的にトライアスロン大会の開催を思い立ったのです。

 

東急グループがリゾート開発に乗り出し84年春にオープンした「宮古島 東急リゾート」

東急グループがリゾート開発に乗り出し84年春にオープンした「宮古島 東急リゾート」

また、やるからには話題性、将来性があって、マスメディアに乗せられる、日本を代表する魅力的なイベントにしなければならないと考えました。そうでないと2回目以降の大会は、他の地域のスポーツ・イベントに、お客をさらわれ兼ねないと思ったからです。スポーツ・アイランドの宮古島において開催するイベントを、必ずしもトライアスロンに特化した訳ではありませんが、トライアスロン大会を開くのであれば、矢張りハワイ大会の如く42.195Kmのフル・マラソンを採り入れたフル・トライアスロンとしてステータスの高いイベントにする必要がある。その結果、「何がなんでも宮古島」でなければならないステータスを築かなければならない、との確信に至ったのでした。

早速、私はハワイで行われているアイアンマン大会のビデオ・テープを知人に頼んでダビングしてもらい、宮古島へ出張する度に地元の宮古体育協会や学校関係者にそのビデオを見せ、トライアスロン大会の開催をアピールしました。しかし、島民の方々はその場では賛意を表されても、それ以上、一歩前へは進んでくれません。私の発想と提案は結局、空しく終わりました。

「もうこれ以上、宮古島の人々を説得することは出来ない。私の宮古島の発展を願う気持が地元の方々には理解して戴けなかった」

諦めの心境を抱いて那覇経由で東京へ帰る途中、ふっと大学時代の競走部の先輩で沖縄テレビ放送の福永俊郎専務の顔が浮かびました。東京便のフライトまで間があったので、「愚痴の一つでも聞いてもらおう」との思いで福永先輩の会社に立ち寄りました。すると先輩は、

「それはテレビ会社よりも新聞社に適したイベントだ。矢張り私達と同じ早稲田の先輩、伊豆見元一さんが琉球新報社の社長をなさっているから、彼を紹介しよう」

私は、「これは得たり」との思いで、すぐさま沖縄テレビ放送とは目と鼻の先の琉球新報社を訪ね、伊豆見社長に面会を求めたのです。伊豆見社長は取締役会の最中でしたが、会議を中座され面会して戴き、その上で、仔細は真喜屋 明事業局長と相談するよう、案内されました。私は同じ社屋にある3階の事業局長室へ駆け降りました。

与那覇前浜ビーチで記念撮影。写真左より元伊波平良市長、故伊豆見琉球新報社社長、田中清司元東急販促課長(写真提供;田中清司氏)

与那覇前浜ビーチで記念撮影。写真左より元伊波平良市長、故伊豆見琉球新報社社長、田中清司元東急販促課長     (写真提供;田中清司氏)

真喜屋局長は私の話をよく聞いて下さいました。そして真喜屋局長はトライアスロンについて大変、興味を惹かれ、かつ宮古島での大会開催に関心を示されました。その結果、

「丁度よいタイミングでした。明日、私と企画局長の嶋袋が宮古島に出張しますので、そのハワイのビデオを現地の人達に見てもらいましょう」

度々、宮古島を訪れ、講演会の演壇に立つ

度々、宮古島を訪れ、講演会の演壇に立つ

こうして再び、私の宮古島でのトライアスロン大会開催の企画が浮上することになったのです。1984年5月、「全日本トライアスロン宮古島大会」が開催される11箇月前のことです。27年前に発想したトライアスロン大会の開催が実現され、今日に至るまで日本を代表するスポーツ・イベントとして成長、発展したことを、改めて「やって良かった。頑張って良かった」と思わざるを得ません。
それもこれも、私が宮古島という南海の「美ぎ島」に魅せられたからです。当初はホテルの販促ビジネスの一環として取り組み始めたことですが、次第にビジネスの領域を越えて「宮古島全体を売り出す」という気持に至ったからでしょう。何度も何度も宮古島へ足を運び、現地の方々とコミュニケーションを交わし、理解と信頼の上に立って皆で力を合せトライアスロン大会を実現させた原動力は、私自身が一個の人間として宮古島に惚れて惚れ抜いたからだと思います。宮古島へ赴く時、今も私は「惚れて通えば、千里も一里」の気持で胸が一杯になります。

田中清司氏近影(川崎市の自宅にて、10年1月撮影)

田中清司氏近影(川崎市の自宅にて、10年1月撮影)

【田中清司氏プロフィール】
1938年、東京で生まれる。早稲田大学を卒業後、東京急行電鉄株式会社に入社。株式会社ジャパン・エア・システム(JAS)を経て、現在は「Jスポーツ企画」の代表としてスポーツ合宿や試合遠征の手配などスポーツ・イベントの企画、運営を行う傍ら、「奄美観光大使」や「士別ふるさと大使」に任命され、地域活性化のコンサルティング・サポート役を務めている。スポーツとの関わりは深く、高校生時代から陸上競技・中距離選手として活躍、日本のトップ・アスリートとして大学生時代に1,500mで1958~59年、2年連続で日本選手権優勝。早稲田大学「箱根駅伝」監督も務めた。

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