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Vol.37:雷神の巻 第4章その6:JTRCが核分裂

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第6章その7

JTRCが核分裂

【この記事の要点】

こうしてATCは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。

 
1984年10月のアイアンマン・ハワイに42名のアスリートを送り込んだJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)は、発足してからほぼ2年の歳月を経て、全国に23支部を設けると共に、会員数は総勢300名を超える大所帯となった。その中でクラブ運営の要として活動したのが会長の矢後潔省(きよみ)であり、次いで副会長の白川春雄と市川祥宏(まさひろ)、それに東京支部長の猪川三一生(みちお)や神奈川支部長の中山俊行だった。
 そのほか会員メンバーであり「全国トライアスロン協議会」の代表幹事である清水仲治(なかじ)や新たに事務局を担った吉田三千代らが、JTRCの全国的な活動を支えた。その活動のシンボルが2箇月に1回、発行する『トロピカーナ』と称するB4版サイズのクラブ会報だった。彼らJTRCの幹部達は、この会報を毎月1回、全国各支部の会員に送る為、横浜市磯子区にある清水宅に市川や猪川、中山らが集まり発送作業に携わった。彼らはクラブ活動を通じて多くの人々をトライアスロンへ勧誘し、共に楽しみながら普及、発展させていこうという気持に満ち溢れていた。

 しかし、その『トロピカーナ』の会報作りで、会長の矢後と清水が制作方法等で対立した。その結果、清水は怒ってJTRCを脱会したのだ。また、クラブ運営面で矢後の、やや独裁的な振る舞いが、会員の中から不平不満や批判が出ていたことも事実だった。
 84年10月のハワイ大会が終わった翌11月、JTRC内は激動した。JTRC会員のうち東京・神奈川・千葉を中心とした関東地域の会員は総勢80名ほどだが、このうち猪川を中心とした東京支部のメンバー20余名が、東京駅前の東洋インキ製造株式会社の本社ビル内の酒場に集まった。

 「清水先生の脱会でも分るように、矢後さんのやり方は、独裁的過ぎる」

 「矢後さんの居る静岡がクラブ活動の中心になっているが、これからのことを考えるとJTRCの本部が静岡ではやりにくい」

 「我々、首都圏での練習会を、もっと活発化させたい」

 「その為には矢後さんに会長を降りてもらうか、或いはJTRCを脱会して我々が新しいクラブを創るかどうかだ」

 様々な意見が出た。その結果、JTRCを脱会し、首都圏を中心としたトライアスリートの為の新しいトライアスロン・クラブを結成する方向性が確認された。折りしも、来月9日には東京・有楽町のニュー東京ビルで、JTRCの忘年会パーティが開かれようとしている矢先のことである。
 翌12月、新クラブ結成の為の会合が、東京・品川の大衆酒場で行われた。集まったのは清水、市川、猪川、小野泰正(やすまさ)の4名である。清水は「全国トライアスロン協議会」の代表幹事を務めていたものの、83年の第3回皆生大会を最後にトライアスロンから足を洗い、好きな自転車で海外旅行を楽しんでいる最中だったが、市川の説得でトライアスロンに復帰したのである。

85年2月に刊行したATC会報第1号

85年2月に刊行したATC会報第1号

 
 そして新クラブの名称は、市川が命名した。その名も「全日本トライアスロンクラブ」、英語でAll Japan Triathlon Club(略称ATC)と名乗った。略称は本来ならば「AJTC」だが、この4文字だとJTRCに似通った印象があるとして、敢えて「ATC」の3文字にしたという。 
 こうしてATCは84年12月、東京・品川区の区立勤労福祉会館において有志50名ほどが集まり旗揚げしたのである。クラブの先導役として会長には清水、副会長に猪川、理事長に市川、副理事長に小野が就任した。しかし、エリート選手として活躍中だった東京の中山、飯島健二郎、山本光宏はATCメンバーには加わらなかった。すでにその時、水面下ではエリート選手達による選手会結成構想、そして翌1985年2月に発足したプロ・トライアスリートによる「チーム・エトナ」発足の話が密かに進められていたからである。

85年4月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったATCのメンバー達

85年4月の「第1回宮古島トライアスロン大会」に集まったATCのメンバー達

  JTRCに次ぎ我が国では2番目の大所帯となるトライアスロン・クラブは、こうして発足し、その後、田中宏昭や井口太郎、宮塚英也、遠藤栄子、村上純子といった日本を代表する選手を排出したほか、肥後照一、久保欽司、仙石元則、平井太郎、早川征志、北村文俊、中山嘉太郎、高村公子、後藤 翠、鈴木令子といった数々のアイアンマン、トライアスロンの強者を擁するに至った。85年以降、会員数が減退していったJTRCとは対照的に、ATCの会員数は最盛期には約800名近くに上ったのである。

大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏

大会のパーティー会場で寛ぐ左から清水会長、早川征志氏、遠藤栄子氏、久保田欣司氏

 JTRCもATCも共にアマチュアのトライアスリートが集まったクラブだが、後に両クラブの主要メンバー達は、「全国トライアスロン協議会」から発展し1986年3月に設立された「日本トライアスリート協会」の主導権争いを行うことになる。一方、JTRC会長の矢後は、2年後の87年には日本のトライアスロン界から一切、身を引いた。
 
《次回予告》
日本人トライアスリートのプロフェッショナル集団「チーム・エトナ」の発足と、トライアスロンをイベント・ビジネスとして展開しようと活動していた日本トライアスロン連盟(JTF)のオーナーである高木省三氏らの動静を紹介すると共に、当時、大学生でありながら日本のエリート選手として大活躍した山本光宏氏の当時の思い出を《トライアスリート談義》として掲載します。

 

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

 

<トライアスロン談義>トライアスロン仲間は人生の宝物 【青木 忠茂】

 小学性時代から肥満児だった私はスポーツと縁遠い存在でしたが、それでも高校と大学では軟式テニスとスキーを楽しんでいました。“お遊びスポーツ”のレベルでしたが、それでも少しは運動で汗を流す喜びは味わっていたのです。しかし、学校を卒業して家業の写真の仕事を始めましたら、スポーツどころか休日も無い程、毎日、仕事に追われ、ついに大人の肥満児とも言うべきメタボリック状態になってしまいました。30歳当時の身長は165cm、これに対し体重は、なんと85kgにもなったのです。おまけに煙草も吸っていましたので、

 「これは、やばいぞ。運動をして減量しなければ」

などと思い詰めた挙げ句、始めたのがジョギングでした。しかし、身体が重くて重くて、最初の頃は4Kmを走るのがやっとという有り様。でも頑張って続け、3年後の1984年1月には千葉県館山市で始まった25Kmロードレース(後の館山若潮マラソン大会)に出場、自分なりに納得の成績で完走を果たしました。もうこうなるとマラソンは止められません。次いで同じ年の7月に行われた富士登山競争にもチャレンジ、残念ながら制限時間を5分オーバーしましたが、4時間35分で富士山の頂上まで走り続けることが出来ました。 その一方で、私はトライアスロンと言うニュー・スポーツがアメリカを始め世界各国でブームになっていることを、ランナーズ社が発行する『アスレティック・ブック』で知りました。その雑誌の中で“アイアンマン”と言う言葉に強く惹かれたのです。しかし、私が出来るのはランニングだけです。子供の頃の苦い経験もあって水泳嫌い、もちろんドロップ・ハンドルの自転車に乗ったことは一度もありません。

 「でも、やってみたい! アイアンマンになってみたい」

 そこで8月から船橋駅前にあるスイミング・スクールへ通い始めました。また、千葉県柏市のプロ・ショップとして有名な「シクロウネ」でロードレーサーを注文すると共に、そこに集まるサイクリスト達と日曜日の朝に行う練習会に参加、トライアスロンへの第一歩を踏み出したのです。
 そして、下総の大地が紅葉に染まる11月のことでした。「シクロウネ」でトライアスリートとして活躍中の市川祥宏さんと出会ったのです。市川さんも私とお同じ千葉県人で、お名前の通り市川市に住んでおられました。市川さんは、

 「一緒に練習しましょう。今度、トライアスロンのクラブをつくりますから、入会して下さい」

等と、自宅に電話をかけてきて、盛んに私を誘ってくれます。しかし、私はクラブ加入に消極的でした。何故ならばトライアスロンは本来、独りで取り組むスポーツだと思っていたし、実際、トレーニングも何もかもを自分なりにやりたいと思っていたからです。しかし、親切な市川さんに対する義理も感じて、その年の12月に発足したATCに入会しました。

 年が明けた85年1月、私はランナーズ社を訪ね、発刊したばかりの『トライアスロン・ジャパン』誌で当時、取材編集を担当していた勅使河原義一さん(後に同誌編集長)に会い、ハワイ・トライアスロン大会に関わる情報を聞きました。そして、その上でランナーズ社がコーディネートするハワイ・ツアーへの参加を申し込むと共に、85年10月の大会へエントリーしたのです。
 なんと無謀な! 自転車は「シクロウネ」のアサレンに参加する程度、水泳は殆どトンカチ同然の私が、事もあろうにアイアンマンに挑戦するとは…。内心そう思いましたが、何としても私は“アイアンマン”になりたい一心でした。しかし、ハワイ大会の前にクリアしなければならないことが生じました。
 それは、アイアンマン・ハワイの日本における予選会として6月に開催されることが決った第1回びわ湖トライアスロン大会に出場し、完走しなければならなかったからです。でも、その年の春の段階で私が泳げる距離は、たった200mです。別途、ATCの仲間からは4月に開かれた第1回宮古島トライアスロン大会に誘われたのですが、スイムが出来なかったので、出場を断わったほどの私です。 果たして、びわ湖大会を完走することが出来るのか? そして、ハワイ大会出場の切符を得ることが出来るかどうか? 風雨の中、琵琶湖の冷たい水を掻き分けながら、私の心は震えていました。寒さ避けでゴム手袋をはめたものの、手袋の中に水が入ってしまい泳ぐのに苦労しました。それでも、辛うじて制限タイム2時間30分よりも2分30秒早くゴールすることが出来ました。続くバイクもランも何とかこなし、総合15時間11分22秒で人生初めてのトライアスロンを完走したのです。

びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでATCの仲間と記念撮影(写真左から2番目)。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。

びわ湖大会スタート前に、ウェットスーツを着込んでATCの仲間と記念撮影(写真左から2番目)。まだ、この頃も肥満児の面影が残っている。

 びわ湖大会を完走した私は、もう自信たっぷり! おまけに市川さんも、

 「ハワイの海は静かで、宇宙遊泳のように楽しくラクチン。びわ湖を泳いだのだから、ハワイも大丈夫ですよ」

等と、私をその気にさせてくれます。しかし、実際はとんでもハップンでした。折りからのハリケーン到来で海は大荒れ、スイムは大きな波に揺られながら必死の形相で泳ぎました。次いでバイクも約150Km地点で後方からカナダ人に追突され、挙げ句、後輪のリムが振れてしまい、残りの30Km余りの距離をヨレヨレの状態で走りました。まあ、それでもスイム2時間9分、バイク6時間47分、ラン5時間8分、総合14時間5分23秒の811位でフィニッシュ、ついに憧れの“アイアンマン”になったのです。

 

86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。(写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長)

86年1月にATC千葉支部を発足させ、船橋海浜公園で練習会を行った。(写真右から3番目が青木氏、4番目が市川理事長)

  それもこれも皆、市川さんを始めとするATCの方々が私を支えてくれたお陰だと思います。当初は「すべて独力でハワイを完走する、或いはしたい」と思っていた私ですが、実際にやってみて、私独りでハワイ大会を完走することは出来なかったとつくづく感じます。トライアスロン参加の為のツールや情報、そしてトライアスロン仲間の励ましやコミュニティがATCというクラブを舞台にあったからこそ、私はアイアンマンになれたと思います。
 そんな感謝の気持もあって、ハワイ大会以降、私はATCの役員としてクラブ運営に積極的に関わるようになり、後に編集委員長としてクラブ会報づくりを通じトライアスロンの仲間づくりに取り組みました。誰もがトライアスロンに参加出来るように、そして一緒にトライアスロン・スポーツに励み、楽しむ世界を広げたいという強い願いを込めて、会報を創りました。最終的にATCのクラブ員は首都圏と近畿圏を中心に780名余が加盟するトライアスロン・クラブに成長していきましたが、その過程で私は、愉快で心優しい沢山の仲間と交流が出来たことを、本当に嬉しく思っています。その意味で、トライアスロンの仲間は私にとって“人生の宝物”です。

青木忠茂氏近影(千葉・船橋市にて、09年2月撮影)

青木忠茂氏近影(千葉・船橋市にて、 09年2月撮影)

【青木忠茂氏プロフィール】

1951年、千葉県船橋市で生まれ育つ。青山学院大学経営学部を卒業後、家業の写真店を拠点にフォトグラファーとして活動を開始する。30歳の時にダイエットの為、ジョギングを開始、ついには富士登山競争に毎年、挑戦するようになった。33歳の時、トライアスロンを知り、85年アイアンマン・ハワイを完走した。87年の宮古島トライアスロン大会を最後に現役を引退したが、ATCの主要メンバーとして会報制作を通じてトライアスリートの仲間つくりや後進の指導、育成に努める。『日本トライアスロン物語』編集委員会委員。

 

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