TOP > 連載コラム > 日本トライアスロン物語 > Vol.36:雷神の巻 第4章その5:アイアンマン大会を日本でも開こう

Vol.36:雷神の巻 第4章その5:アイアンマン大会を日本でも開こう

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第4章その5

アイアンマン大会を日本でも開こうく

【この記事の要点】

このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」

 
名実共にJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)がトライアスロン・クラブの代表的な地位を確立するのに伴い、会長の矢後潔省(きよみ)の存在も自ずと大きくなっていった。それは我が国トライアスロン組織の前身として結成された「全国トライアスロン協議会=清水仲治代表幹事」の会議の場においてもそうだったが、他方、トライアスロン大会の開催と運営に関しても、矢後は主導的な役割を担った。
 1984年10月、JTRCのメンバー40名余と共にアイアンマン・ハワイを終えて帰国した矢後は、静岡県小山町の自宅の部屋で日本地図を広げていた。ハワイで大会会長のバレリー・シルクから託されたことを思い起こしていたのだ。シルクが託したこととは、

「矢後さん、あなたの力でアイアンマン大会を日本で開いてくれませんか」

 この時、シルクはアイアンマン・トライアスロン大会の開催権を巡って日本企業と譲渡交渉を進めていた。その企業とは、大手広告代理店である株式会社電通と、大阪に本社を置く共栄精工株式会社である。共栄精工㈱の社長である高木省三は本業のベアリング製造販売の外、アメリカを拠点にブランド(商標権)ビジネスを展開しており、日本での”アイアンマン・レース”の開催に強い関心を持っていた。しかし、開催権は最終的に㈱電通が取得した為、翌85年に日本トライアスロン連盟(JTF)を結成し、10月には熊本県天草でショート・タイプのトライアスロン・シリーズを立ち上げたのである。
 シルクは84年11月に来日し、㈱電通の責任者であるスポーツ文化事業局次長スポーツ1部長の西郷隆美(1990年没)らと会ったが、その際、電通を選んだ理由について、「本社ビルが大きかったので譲渡した」と言う。日本を代表する広告代理店としてテレビなどマス・メディアに通じ、またイギリスのウィンブルドン・テニスの日本での放映権を取得する等、スポーツ・イベント・ビジネスを展開してきた西郷の力量を買ったのだ。

85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。

85年10月、矢後潔省はバレリー・シルクの証人により、JTRC会員の吉田三千代とハワイの教会で結婚式を挙げた。シルクの浴衣は、矢後が贈ったものだ。

  こうした日本におけるアイアンマン・トライアスロン開催権を巡る動きをバックに、矢後は大会開催地を模索する。そして、日本地図の中央位置「滋賀県」に目を据えて、そこが日本最大の湖「琵琶湖」を擁し、バイク距離180Kmのコースづくりがし易く道路交通事情が良好な適地であることに注目したのだ。

「そう! 風光明媚な琵琶湖を舞台に、アイアンマン・レースの壮大なロケーションをセットしよう」

 矢後は早速、JTRC滋賀支部長の上村光男に応援を頼みつつ、自ら滋賀県庁へアプローチを開始した。当時、県の担当部署だった企画部企画調整課へトライアスロンのビデオテープを50本ほど送り、トライアスロンへの理解を求めたが、しかし反応は一つもなかった。そこで矢後は西郷と相談の上、㈱電通京都支局の営業担当者と共に彦根市を中心に現地探訪に出向いたのである。
 ところが、初めて訪問した滋賀県庁では、門前払いに遭った。「そんな面倒なイベントに協力できない」とのことだ。そこで矢後達一行は彦根市のホテルに泊まり込み、トライアスロン3種目のコース設定を行いつつ、県庁へ乗り込むチャンスを伺った。そんなある日、彦根市のプールに後の大蔵大臣であり第5代滋賀県知事の武村正義が居ると聞いた矢後は、早速、そのプールに駆け付け武村に協力を求めた。すると武村知事は、現下に、
 
「よし、やろう」

と、快諾したのである。矢後は、

「なんて物分かりの良い人なのだろう」

と、すっかり驚いた。目から鱗が落ちる思いだった。

当時の武村正義滋賀県知事

当時の武村正義滋賀県知事

 一方、びわ湖大会と同じく85年に開催を予定している沖縄県宮古島大会へアイアンマン・トライアスロン開催の話も持ち上がっていた。この為、同じJTRCメンバーであり株式会社日本航空(JAL)の社員だった猪川三一生(みちお)を通じて、矢後はJAL幹部と話し合う機会を持った。だが条件が合わず、断わったと言う。このようにJTRC会長の矢後は、日本のトライアスロンが本格的に幕開けした1985年を前後に、我が国トライアスロン界の先導者として精力的な活動を展開したのである。後に西郷は、矢後本人にこう語った。

「トライアスロンを日本に持ち込んだ第一人者は熊本の永谷誠一さんだが、トライアスロンを日本で広めた第一人者は君だ」

 

びわ湖トライアスロン第1回大会当時の西郷隆美氏

びわ湖トライアスロン第1回大会当時の西郷隆美氏

《次回予告》84年12月にJTRCから分離、独立したATC(全日本トライアスロン・クラブ)の結成について記すと共に、《トライアスロン談義》としてATC発足初期からクラブ会報作りを通じてATCのクラブ活動の中枢として活躍した青木忠成氏の談話を紹介します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>男のロマンは女の迷惑 【佐藤 文昭】

  「あえて困難を求めたい」

 私が高校・大学と山岳部に所属したのは、あえて「困難なことに立ち向かう」格好の良さに憧れたのかもしれない。しかし、そんな私の夢は、山岳の為に行う厳しい練習や山行の度に、何度も挫けそうになった。先を歩む友に遅れまいと激しい息遣いを繰り返しつつ懸命に追う山行に、どんなに苦しくても頑張る決意は度々、崩れ去る屈辱を味わった。
 山岳部においては他の運動部と同様に、上層部コーチ陣の「人事」によって山行パーティーのメンバーが決定される。この「人事」に文句を言わずに無難にやり遂げることが必要で、失敗すれば次に面白いことはさせてもらえない。私は「人事」においてしばしば員数外で、思うように活躍することが出来なかった。だから、大学を卒業した私が将来性のない零細な家業を継いだのは、自分の思うように生きたかったからだ。それからは「人事のない世界」でひたすら商売一筋、仕事に打ち込む傍ら、たまにスキーを楽しむ生活を20年ほど送った。

2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る(写真提供;佐藤文昭氏、以下同)

2000年11月にエヴェレスト・マラソンを走る(写真提供;佐藤文昭氏、以下同)

  そんな平凡な暮らしの中で40歳を過ぎた頃、私の目が留めたのは、「ジョギングをすると特殊な脳内物質が発生し、禅僧が禅を組み瞑想しているような思いが得られる」という記事だった。折りしも日本はジョギング・ブームに湧き、そのブームに乗って出版されたジョギングを奨める一冊の本の中の話であった。

 「ほほう。瞑想ね。面白そうだから、やってみるか」

 息も絶え絶えにもがき苦しんだ山岳部時代のランニング練習とは全く異なり、今は自ら与えた新たな課題に対し、私の心は軽かった。人に命令されて走るのではない。自分自身で決めて、自分なりにやれば好いのだ。そう思うと、気持は爽やかだった。涙の過去をかなぐり捨て一から始めた私は、2年後に初めて出場した河口湖のフル・マラソン大会で3時間40分のタイムで走り切った。
 そして、その過程でマラソン・トレーニングの手法の一つとして知ったのがトライアスロンだった。”自然流ランニング”を提唱する群馬大学教授の山西哲郎氏の著作に触発され、トライアスロンへの挑戦を思い立ったのである。早速、JTRCの矢後会長に手紙を送り、トライアスロンの仲間に入れてもらった。1983年夏、私が43歳の時である。

JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。

JTRCのクラブ旗。84年からJTRC東京支部長となった。

 トライアスロン・デビューはその年の9月、第3回湘南ハーフ・トライアスロン大会だった。出場選手101名中、32位の総合7時間01分40秒の記録で完走した。以後、私はすっかりトライアスロンに嵌まって、翌年の湘南ハーフは総合タイム5時間47分02秒と大幅にタイムを縮め40歳台で4位に入賞したのを皮切りに、皆生トライアスロン大会を経てアイアンマン・ハワイにも出場、いずれも完走を果たした。最初は5Kmのジョギングが精一杯だった私だが、それからおよそ25年間、数々の大会を経験し、今もなお現役としてトライアスロンを楽しんでいる。
 こうしてトライアスロンを続けてこられたのも、トライアスロンが他人からの強要や、過度な根性を必要としないからだ。よく人は「鉄人ですね。そんな長い距離を走り切るなんて、すごい体力、精神力が必要なのでしょうね」などと感心するが、実はそうではない。トライアスロンは自分自身の判断でエントリーして、その大会に合わせたトレーニングをゆっくり積み上げていけば、余程のアクシデントが無い限り完走できる。その点でトライアスロンは老人にも相応しいスポーツだと言える。
 それは登山でも同じことだ。今でもテレマークによる山岳スキーを国内だけでなくカナダ・ヨーロッパでも楽しんでいる。

05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。

05年11月、フロリダ・アイアンマン大会をフィニッシュする。

 しかし、である。65歳から参加、出場した佐渡トライアスロン大会(Aタイプ)では、これまで4回、チャレンジしたが、すべてランで時間切れとなり、完走を果たしていない。だから、何としても完走をしたい! それが今の私の夢、男のロマンでもある。でも、この私のロマンに、きっと女房は迷惑していることだろう。男のロマンは女にとって、否、人類にとって迷惑千万かも知れない。

佐藤文昭氏近影(東京・市ヶ谷にて、08年12月撮影)

佐藤文昭氏近影(東京・市ヶ谷にて、 08年12月撮影)

【佐藤 文昭氏プロフィール】
1940年、東京・九段で生まれ育つ。慶應義塾大学を卒業後、家業の書店「政文堂」を継ぐ。青年時代は山岳やスキーを楽しんだが、40歳を過ぎてマラソンを始め、次いでJTRCメンバーとなりトライアスロンに挑戦する。44歳の時、皆生トライアスロン大会やアイアンマン・ハワイを完走、以後、四半世紀に及びトライアスロン人生を送る。ハワイを始めびわ湖・フロリダ・海南島等のアイアンマン・レースに出場し、すべて完走を果たす。2000年11月にはネパールの「エヴェレスト・マラソン」にも参加、完走する。

Copyright © 2015 Neo System Co., LTD. All Rights Reserved.