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Vol.35:雷神の巻 第4章その4:アイアンマンを目指して、燃えよう!

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第4章その4

アイアンマンを目指して、燃えよう!

【この記事の要点】

こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。

 

1984年11月、トライアスロン愛好者を中心とするアマチュア競技団体の前身とも言うべき「複合耐久種目全国連絡協議会」が結成されたのに伴い、トライアスロン人口は日増しに膨れ上がり、それはやがてトライアスロン・クラブの結成へと繋がっていった。その先駆けとなったのが同協議会幹事となった永谷誠一が会長を務める熊本CTC(クレイジー・トライアスロン・クラブ)や、同じく矢後潔省(きよみ)が会長のJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)であった。
 そのほか福岡県久留米市を舞台にローカルなトライアスロン大会を開催する「スーパーマン・クラブ・イワイ」や、茨城県では82年2月のアイアンマン・ハワイを完走したマラソン・ランナーの松田 泉、千枝夫妻がコーチ役を務める「筑波学園都市トライアスロンクラブ」が、その年の4月に設立された。
 同じ82年に「岡山アイアンマン・トライアスロンクラブ」がクラブ員7名で活動を開始したのを始め、翌83年4月には「福井トライアスロン協会」と名乗り福井県内のアスリート達10名がクラブ活動をスタートさせた。さらに84年春に発足し真砂嘉晴会長以下30名余の会員を擁する「兵庫トライアスロン・クラブ」は、先輩の「熊本CTC」とも連携を図りながらトライアスリートの養成に力を入れていった。

 こうしたトライアスロン・クラブ結成の全国的な広がりの中核となっていたが、会員数で圧倒的な数を擁するJTRCであったことは間違いない。82年暮れに「JTRC」と命名しクラブ活動を開始、翌83年春にランニング雑誌『ランナーズ』誌上で会員を募った会長の矢後は、自宅の在る静岡県駿東郡小山町に本部を置きながら、自ら出場、完走を果たした82年の皆生トライアスロン大会と82年10月のアイアンマン・ハワイ大会で知り合った白川春雄や鈴木将弘、市川祥宏、脇田重男、横井信之らと連絡を取り合い、全国各地域に支部を設置していったのである。

JTRCのクラブ旗(写真提供;佐藤文昭氏、以下同)

JTRCのクラブ旗(写真提供;佐藤文昭氏、以下同)

 JTRCの会員は当初、地元の静岡県内を中心に構成されていたが、”アイアンマン”の名が世に知られ、次第にアスリートの間でトライアスロンへの憧れと期待が膨らむにつれ、会員は全国的な規模で増えていった。矢後はトライアスロンを広めたい一心で毎日、全国各支部へ電話をしたり手紙を書いたり、スポーツ・グッズの梱包作業を行ったり、夜を徹してクラブ発展の為に活動した。
 また、その情報ツールとして作られたのが、B4版サイズの『トロピカーナ』と称するJTRCの会報で、当初は神奈川県会員だった清水仲治が中心となって編集作業が行われた。しかし、間もなく会報作りは矢後の補佐役となりクラブの会計を担当することになった「トロピカル・ケイ」こと小林恵子が当たる。

役員リストが載った『トロピカーナ』第11号

役員リストが載った『トロピカーナ』 第11号

 「トライアスロン 何と魅力のあるスポーツなんだ 俺達の心を奪うなんて!!」とのタイトルで巻頭を飾る83年12月発行の『トロピカーナ』第10号では、小林がクラブ創立1周年の記念パーティが盛況理に開催されたことについて記している。その中で小林は、「これもひとえに165名のメンバー各位様のご協力のたまものと、スタッフ一同心から御礼申し上げます」と述べ、すでにこの時点でJTRC会員が全国に165名登録されていることを明らかにした。因みに、小林は83年のハワイ大会に日本人女性4名のうちの一人として出場し、15時間台のタイムで完走を果たしている。女性トライアスリートとして活躍する傍ら、JTRCの主要メンバーとしてクラブ運営に当っていたのである。
 そして、年が明けた84年1月の『トロピカーナ』第11号では、「サアー! 本年も燃えようぜ!!」のタイトルを付して、15支部局長などクラブ役員の名を掲載している。それによると矢後会長ほか、副会長にはクラブ活動の取り纏め役として埼玉県の白川、大会・行事の開催を司る役割として千葉県の市川の2名が専任された。
 その他、新たに設置された支部長として滋賀県の上村光男、長野県の林 貞治、兵庫県の下島克巳が選ばれた。また、当初からJTRCに関わった愛知県の横井信之は愛知支部の補佐役に回り支部長には藤田勝啓が、神奈川支部の補佐役には後に小林から『トロピカーナ』の編集を引き継いだ成宮芳子が、千葉支部の補佐役に田中義巳が指名されている。

83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から2番目が市川副会長、7番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。

83年夏に行われた東伊豆海岸の合宿に集まったJTRCメンバー達。前列左から後にエリート選手として活躍する山本光宏氏と山下光富氏、中央が矢後会長、後列左から2番目が市川副会長、7番目の赤のスイム・キャップが佐藤文昭氏。

 こうして全国的なクラブ活動を支える陣容を固めつつ、JTRCは日本を代表するトライアスロン・クラブとして拡大、成長していった。実際、84年のアイアンマン・ハワイに出場したJTRCのメンバーは42名に上るなど、ハワイ大会へ出場する権利を持つ程までになったのである。
 この間、JTRCに入会したトライアスリートは約1,000名近くに達するといわれ、後にトライアスロンの世界で活躍した会員として、エリート選手に中山俊行や横井信之、JTRCと袂を分かち新たなクラブATC(全日本トライアスロンクラブ)を立ち上げ会長に就任する清水仲治と理事長の市川祥宏、JTRC並びにATCを離脱してプロ・トライアスリートによる”チーム・エトナ”監督に就任する猪川三一生、猪川と同じ東京出身でJTRC東京支部長となった佐藤文昭、JTA(日本トライアスロン協会)の初代理事長となる永田 峻らの名があげられよう。

 
《次回予告》1985年6月に開催された日本のアイアンマン大会「アイアンマン・ジャパン・イン・びわ湖」を巡る開催前夜の秘話を、JTRCメンバーの活動を通じて紹介すると共に、《トライアスロン談義》では、今なお現役のトライアスリートとして活躍する東京の佐藤文昭氏の話を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>何事も前向きに考えられた 【永田 峻】

  1984年の春、私は株式会社ランナーズが企画、主催した長野県池の平での”クロカンスキー・キャンプ”に参加しました。その時、偶然にも出会ったのが、熊本CTC会長の永谷誠一さんやJTRC副会長の白川春雄さん達でした。彼らと同じく私も黒のバイク・パンツを履いていたので声を掛けられ、トライアスロンの話題へと話が弾んでいったのです。
 私はその年の2月に千葉県佐倉市で行われたマラソン大会に完走(3時間50分)したばかりのアスリートの駆出しでしたが、トライアスロンのことは前年の7月に日本経済新聞に掲載された熊本の外科医師で日本人最初のアイアンマンの一人である堤貞一郎さんの記事を読んでいて、大きな関心を抱いておりました。小学生の頃から水泳は得意種目だったし、サイクリングが好きで30歳過ぎてからロードレーサーを乗り回していたし、初めてながらフル・マラソンを走り切ることが出来たので、「ならばトライアスリートも同じこと」と、永谷さん達に強く勧められるがまま、JTRCの会員になったのです。

オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問(06年12月、写真提供;永田氏、以下同)

オートバイ旅行の途中、熊本県井無田に永谷誠一・安子さんご夫妻を訪問(06年12月、写真提供;永田氏、以下同)

 そして、その年の8月、第4回湘南ハーフ・トライアスロン大会に出場したところ、なんと! 自分でもビックリする程の好成績を修めました。すっかり気を良くしてしまった私は、またまた、なんと! 我ながら無謀と知りながらも、10月に行われる第8回ハワイ・トライアスロン大会への参加申し込みを行ったのです。大会では、完走出来るか? 心許ない気持ちでスタートしたのですが、14時間後半のタイムで完走し、自分としては上出来の結果に終わりました。
 こうして私は84年の1年間にアイアンマンまで上り詰めてしまったのですが、だからと言って私が特段に優れたアスリートだった訳ではありません。私の経験からすれば、トライアスロンは決して激しい運動ではないし、ある程度のトレーニングは必要ですが、無理をせず自分の身体と対話しながら、ゆっくり楽しめるスポーツだと思います。だから今、思うと、当時41歳でしたが、

「トライアスロンをやっていて良かった。日常生活も仕事も、何事も前向きに考えられる。朝、ランニングをやって、それから会社に出掛ける日々が続いたけれど、眠気が起きるどころか、仕事の能率も上がった」

 そんな充実したサラリーマン生活を続けることが出来ました。

84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン(写真中央、ゼッケン783)

84年アイアンマン・ハワイのゴールシーン(写真中央、ゼッケン783)

 しかし、私のトライアスロン人生は短いものでした。87年秋、オランダのアムステルダム市で開かれた国際トライアスロン連盟(略称TFI)の総会にJTAの副会長として出席し帰国した後、会社から海外渡航の命令が下されたのです。アメリカ・バージニア州での原子力発電所建設プロジェクトの責任者として渡米することになりました。もっとトライアスロンと関わり、トライアスロンの普及、発展の為に尽くしたい気持はありましたが、二足の草鞋は無理と判断し、JTAの役員を辞したのです。

オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え(06年6月)

オートバイによるヨーロッパ・アルプス分水嶺・サンベルナール峠越え(06年6月)

フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降(08年2月)

フランス・モンブラン大氷河でのスキー滑降(08年2月)

 その2年余り後の1990年、私はアメリカでの任務を終え帰国しましたが、再びトライアスロンには携わることはありませんでした。そして定年を過ぎた今の私は、かねてからやりたくて出来なかったことに向き合っています。それはスポーツではなく、リコーダーの演奏や合唱等で、好きなバロック音楽のアンサンブルを楽しんでいます。また、60歳になってからBMW1200ccオートバイを購入、日本全国とヨーロッパ・アルプスの分水嶺を越える峠道を走る旅へと出掛けました。さらに6年前からはゲレンデスキーを再開し、モンブランなど欧州の雪の世界を滑走しています。
 こうして今、振り返ると、トライアスロンは私の人生にとって一つの道標だったのかもしれません。

永田 峻氏近影(08年6月、横浜駅前のホテルにて撮影)

永田 峻氏近影(08年6月、横浜駅前のホテルにて撮影)

【永田 崚氏プロフィール】
1943年、東京で生まれ、4歳の時から大阪府豊中市に在住。大阪大学・原子力工学科卒業後、日本揮発油株式会社(現・日揮株式会社)へ入社、高速増殖炉燃料の研究・開発や核燃料再処理および放射性廃棄物処分プロジェクトのマネジメントに携わる。スポーツは、小学生時代に水泳を始め、クロールでは市内のチャンピオンとなる。大学時代は、全国各地へサイクリング旅行に出掛けた。マラソンは41歳の1984年に初めてフル・マラソンを完走、次いで同じ年の8月に湘南ハーフ・トライアスロン大会、10月にアイアンマン・ハワイ大会に出場、完走する。その後、複合耐久種目全国連絡協議会結成の呼び掛けに応じ、86年3月の日本トライアスロン協会(JTA)の初代理事長に就任した。翌87年には副会長となったが、年末から海外勤務となり渡米、90年には帰国したが、トライアスロンに復帰することはなかった。

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