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Vol.34:雷神の巻 第4章その3:全国組織が産声をあげた

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第4章その3

全国組織が産声をあげた

【この記事の要点】

代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」

 

「準備委員会総会」が開かれた1984年6月から暫く経った後、それまでにアイアンマン・ハワイを始め国内外のトライアスロン大会に参加したトライアスリート達に一通の書状が届いた。それは白い封筒に入れられ、封筒の裏には「トライアスロン(複合種目)連絡会準備委員会代表幹事・佐々木秀幸」の名が記されていた。また書状には、「トライアスロンを普及、発展させる為に、全国のトライアスリートが参集する意見交換の場を設け、トライアスリートに関する情報収集や競技の安全対策などについて協議し、将来的に日本における中央団体の設立を目指す」との趣旨が述べられていた。
 そして、その年の11月23日(金曜日)、東京・神宮の秩父宮ラグビー場クラブルームにおいて「複合耐久種目全国連絡協議会」の総会が開かれたのである。佐々木の呼び掛けに当日、集まったのは約70名。トライアスリートとしてJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)会長の矢後潔省を始め、後にJTA(日本トライアスロン協会)の会長となる清水仲治、同じく初代理事長となる永田 峻、JTRCと共に日本を代表する熊本CTC(クレイジー・トライアスロン・クラブ)会長の永谷誠一らが顔を揃えた。

佐々木秀幸氏(08年5月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影)

佐々木秀幸氏(08年5月、東京都庁内・東京マラソン事務局にて撮影)

 総会では、初めに代表幹事の佐々木が挨拶に立ち、

 「トライアスロンを普及、発展させる為には、何よりも社会的認知を得る必要があります。それにはトライアスロンを愛するアマチュア選手達が中心となり、皆で力を合せ全国的な組織を創りあげなければなりません。その上で日本体育協会並びに日本オリンピック委員会へ加盟していくことが、日本のスポーツ界においてトライアスロンを認知して貰う唯一の道です。その前身であり将来の礎となるのが、この連絡協議会なのです」

 言わば協議会は全国的な組織を立ち上げる為の予備的な機関として設置するもので、この為、活動期間は発足から2年余とする時限立法的な組織として位置付け、その後、より広範な活動を展開する日本におけるアマチュア中央団体のJTAの設立を目指すこととした。従って協議会は、トライアスロンの普及と競技の安全対策を図ることを第一義に、その為の情報収集や研究活動に取り組むことに限定し、大会の開催や選手の派遣・選考は行わないことを規程に盛り込んだ。
 次いで総会では、役員人事について専門委員会から提起された議案を協議した結果、幹事として清水仲治、永谷誠一、矢後潔省、村田統司、岩根久夫、中見隆男、橋本治朗の7名を選任、さらにこの中から代表幹事に清水、事務局長に村田が就任することが決まった。代表幹事に任命された清水は、就任の挨拶で次のように抱負を述べた。

 「トライアスロンを愛好する我々アマチュア競技者が力を合せ、共にトライアスロンの普及・発展に取り組んでいきましょう。そして近い将来には、全国のトライアスロン愛好者が一丸となって全国組織の結成へと歩んでいきたいと思います」

「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第1号(表紙部分)

「複合耐久種目全国連絡協議会」の会報第1号(表紙部分)

 ところで、連絡協議会の名称を「トライアスロン」とせず「複合耐久種目」としたのは、当時、中学校の間で”3種競技”と呼ぶスポーツがあって、トライアスロンと混同することを避けたからだという。しかし、翌85年5月には「全国トライアスロン協議会」へと名称変更し、その活動の輪を文字通り全国へと広げていく。

 総会の議事がすべて終了した後、81年2月に8名の日本人と共に第4回アイアンマン・ハワイへと旅立ち、以来、トライアスロン競技の医科学研究を続けてきた東京医科大学・循環器内科助教授(当時)の岩根久夫が「トライアスロンの安全管理について」と題する講演を行った。講演の中で岩根は、

 「人間がトライアスロンという長時間に及ぶ過酷な競技に耐えられるのは、ベータ・エンドルフィンと呼ぶ脳の視床下部から分泌される血液中の麻薬様物質が運動中の痛みや苦しみを緩和させ、危機的状態の生体をコントロールしているからです。しかし、決して無理をせず、悲壮にならず、マイペースで続ければ、ベータ・エンドルフィンの分泌も活発になり、アイアンマン・レースを完走することが出来るでしょう」

と述べた。この血中ベータ・エンドルフィンの上昇について、岩根はトライアスロンやマラソン競技選手の血液を採取し、世界に先駆け見事に実証したのである。

今は亡き岩根久夫氏(アイアンマン・ハワイの大会会場にて、写真左)

今は亡き岩根久夫氏(アイアンマン・ ハワイの大会会場にて、写真左)

《次回予告》「複合耐久種目全国連絡協議会」によるアマチュアのトライアスロン組織作りの一方で、トライアスロン愛好者によるクラブ作りも全国的な広がりを見せていた。その動静と、1984年12月に旗揚げしたATC(全日本トライアスロン・クラブ)について紹介すると共に、JTAの初代理事長となった永田 峻氏の<トライアスロン談義>を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>大様で明るく陽気な人生でした 【桜井 晋】

 「先生、速いですね」
 「やあ、桜井さん。先に行かせてもらいました」
 「先生の方がスイムを先に上がったのですね」
 「いやいや、僕の方がきっと後だよ。おそらくトランジションで追い抜いたのだろう」
 「そうですか。それにしても速い。先生、頑張って下さい」

 1987年4月の第3回宮古島トライアスロン大会のバイクをスタートして、最初の東平安名崎を折り返し4Km余り走った緩く長い下り坂の途中で、私は清水仲治先生を抜きざま、声を掛けた。そして脚を休め暫く併走しながら、先生とお喋りをした。先生は3Kmのスイムを私より約14分遅れでフィニッシュしたものの、何のことはないトランジションに手間取っていた私をさっさと抜いて、バイクをスタートしていたのだ。
 その後、登り坂に掛かって私は先生と別れを告げて先を急ぎ、残り100Km余りのバイクをこなしランに入ったが、何と! 私が走り出してから4Km程ほどの地点でまたもや先を走る先生と出会ったのである。

 「やあ、また遭ったね。桜井さん、調子良さそうだね」

 先生は楽しそうに笑って、私を激励してくれた。私は内心、

 「また、ラン・トランジットで追い抜かれたようだ。調子が良いのは清水先生の方ではないか」

と思いながら、手を振りつつ、

 「済みません。先に行かせて貰います。先生も頑張ってください」

 こうして清水先生とは、まるで兎と亀の如く追いつ追われつ、宮古島の炎天下を走り回った。最終的に先生とは50分余り先にフィニッシュした私だが、年齢が25歳も違う、言わば親子に近い年齢差を考えれば、私は先生に負けていた。

1985年の「第1回宮古島トライアスロン大会」を力走する清水氏

1985年の「第1回宮古島トライアスロン大会」を力走する 清水氏

 「桜井さん、一緒に宮古島へ行きましょう」

 ATC(全日本トライアスロン・クラブ)が行う東京・品川区の大井埠頭での練習会で会う度、そんな言葉を掛けて私を盛んに誘ってくれた。そして、いつも先生は浅黒く日焼けした顔で口元と頬をやや膨らませながら、にこやかに話された。また、人の話に何度も何度も頷きながら、

 「ほほお、そりゃ凄いね。その自転車の乗り方を、教えて下さいよ。僕ももっと上手になりたい」

 こうして宮古島大会を始め他のトライアスロン大会に私を誘って戴き、苦しくも楽しい思いをさせてくれたのが、他ならぬ清水先生だったのである。

1985年の「第1回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの初期メンバーと記念撮影(前列左から3人目が清水氏)

1985年の「第1回びわ湖トライアスロン大会」で、ATCの 初期メンバーと記念撮影(前列左から3人目が清水氏)

 清水先生は当時、還暦を過ぎていたが、トライアスロンという新たなスポーツにチャレンジする意欲と向上心が漲っていた。そんな先生が連絡協議会の代表幹事を経て、やがてはJTAの副会長を経て会長となり組織の代表者となっていく過程で、私と個人的なアスリートとしてのお付き合いは遠ざかっていった。逆に社会組織的な観点から清水先生と私は、やがて対立的な関係に陥った。
 それと言うのも、私は先生が会長を務めるJTAの組織運営を批判していたからだ。その為か、人伝えでは「清水先生は私を嫌い避けている」とのことだった。でも、先生のお人柄やお心を慕っていた私は、人伝えを気にすることもなかった。むしろ、お人好しの先生が組織の中にあって上手く論(あげつら)われていることに、一種の憤りさえ感じていた。
 私がJTAを批判していたのは、組織のあり方、やり方が、余りにも稚拙で独善的だと思っていたからである。当時、JTAの幹部役員達は公の団体を運営するという意識が希薄に欠け、仲間意識ばかりが強く外部の意見を取り入れようとしない排他的な姿勢が目についた。実際、JTAは傲慢な組織運営を続けた挙げ句、JTA設立からほぼ4年後には財政的に行き詰まり自己破綻したのである。私はそうしたJTAという中途半端な組織活動の中核に、清水先生が孤立的に存在していることが悲しかったのだ。

 それからというもの、清水先生と私は一アスリートとして交わる機会はほとんど無かった。一度、パーティの席でお会いし、簡単な挨拶程度の言葉を交わした記憶はあるが、以後、お会いすることなく、先生は先立たれた。
 1996年1月23日、先生は74歳の生涯を閉じられた。前年6月に脳梗塞で長野駅のホームで倒れて以来、闘病生活を送られていたが、不整脈を発病するなどして、その命を閉じられたのである。トライアスロンに関して言えば、結局、先生は12年間の”トライアスロン人生”だった。

 先生が亡くなられて10年後の2008年6月、私は横浜市磯子の先生の御自宅を訪ね、先生の位牌と面会した。今なお御健在である奥様の清水 和(かず)夫人とお会いし、先生の思い出話をお聞きした。その中で奥様は先生のことを、次のように語られた。

 「大変まめな人で、海外旅行した後は、いつも写真を整理してアルバムに貼り付けていました。そのくせ、家の細かな用事はトンとしないで、自転車に乗ったり走ったりの毎日、トライアスロンのことでは一生懸命でした。まあ、大様な性格と言いますか、苦労をしない、好い人生だったのではないでしょうか」

1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏

1987年のアイアンマン・ハワイをフィニッシュする清水氏

【故清水仲治氏プロフィール】
1922年2月、神奈川県出身。日本体育大学卒業後、陸軍士官学校の教官を経て満州へ出征。戦時中の1944年に和(かず)夫人と結婚。戦後は神奈川県立商工高等学校の教員を28年間、勤める。1983年に定年退職し、神奈川歯科大学の体育講師となる。1961年にスポーツ用品等の販売会社「清水スポーツ」を創立する一方、「神奈川県走友会」会長を勤める等、地域スポーツの振興に尽力する。自らスキー、マラソン、サイクリング、野球等、スポーツ万能なアスリートだが、定年後はトライアスロンにのめり込む。「日本トライアスロン協議会」代表幹事、「日本トライアスロン協会」会長としてトライアスロンの普及、発展に貢献する。1995年、脳梗塞で倒れ、翌96年1月、享年74歳でスポーツ人生を終える。

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