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Vol.31:雷神の巻 第3章その9:アイアンマンと同じ参加選手は15名で始まった

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その9

アイアンマンと同じ参加選手は15名で始まった

【この記事の要点】

皆生、湘南、小松に次いで、日本で4番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之(当時54歳)が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月3日(水曜日)のことである。

 

皆生、湘南、小松に次いで、日本で4番目に開催されたのが久留米トライアスロン大会である。福岡県久留米市で自転車のプロ・ショップを営む「イワイスポーツサイクル」のオーナー、岩井一之(当時54歳)が発案し、一般市民のための手作りトライアスロン大会を開いた。1982年11月3日(水曜日)のことである。

 岩井が営む自転車店は、先代の岩井良雄が大正8年に開業したもので、自分の代になると競輪選手の経験を踏まえ、自転車をスポーツ競技やサイクリングなど遊びの道具として普及させようと、我が国でも早い時期からトラックレーサーやロードレーサーの製作、販売を手掛け始めた。このため「イワイスポーツサイクル」に集まる者は、九州勢の競輪選手やアマチュア・サイクリスト、それにサイクリング好きのマニアなど、いずれも自転車大好き人間ばかり。だから「イワイスポーツサイクル」を拠点に”久留米サイクリング・クラブ”と自転車競技志向の”イワイ・レーシング・クラブ”がつくられていた。

岩井一之氏(04年2月撮影)

岩井一之氏(04年2月撮影)

 この2つのクラブチームの主宰者である岩井が先導し、第1回の久留米トライアスロン大会が開かれたのである。その発端となったのは、前年の1981年8月に日本で初めて行われた皆生トライアスロン大会を見物してきた地元アスリートが撮ってきた写真であった。岩井は、

「ロードレーサーを使った面白そうな競技じゃないか。そう言えば、サイクリング好きの片岡君が来年、トライアスロンに挑戦するという話だし、彼の壮行会を兼ねて自分らもやってみよう」

 当時、”久留米サイクリング・クラブ”に入会し、センチュリー・ラン(160Kmサイクリング)などで活躍していた片岡宏介(当時24歳)が、83年の皆生トライアスロンとアイアンマン・ハワイへの出場を計画していた。そこで「一度レースを経験するのも役に立つだろう」と、岩井は考えたのである。そして大会の日取りを11月3日に決めた。この日は祭日の「文化の日」で大概、お天気に恵まれることと、実は岩井が若き選手時代、第3回福岡県国体・自転車競技の1,500m速度競争で優勝した記念の日でもあったからだ。

 競技距離はスイムが25mプールを25往復する1,250m、バイクが60Km、ランが12Km。当時はスイム、バイク、ランとは言わず、岩井達は市内の西日本スポーツガーデンで水泳を、続いて筑後川サイクリング・ロードを原鶴まで往復する自転車、最後に神代橋~鎮西橋~大城橋を巡るマラソンと称した。参加費は1名1,000円である。
 参加選手は全部で15名。ハワイ・トライアスロンの第1回大会と同じである。”久留米サイクリング・クラブ”のメンバーをはじめとする地元アスリート達が中心だったが、他に佐賀県から来た中学生の城野崇弘(当時13歳)もエントリーした。片岡はゼッケン7番、水泳は3コースで泳ぐことになった。

第1回大会の開催要項と申込書(資料提供;岩井公一氏)

第1回大会の開催要項と申込書(資料提供;岩井公一氏)

 そして秋晴れの下、九州で初めて開催されたトライアスロン大会の幕が切って落とされた。最初の種目、プールでの水泳は、5コースで泳いだ竹下禮二(当時35歳)が22分45秒59でトップ、次いで2コースで泳いだ中学生の城野が2位でフィニッシュした。しかし自転車に入ると、水泳を4番手で上がった片岡が前を走る3名の選手達を次々と抜いて1位でゴール、マラソンもその勢いのまま押し切り、堂々の優勝を飾ったのである。
 片岡の総合タイムは3時間6分23秒、2位には水泳3位、自転車2位と堅実な走りをして総合3時間24分04秒の塚本耕治(当時33歳)、3位に竹下、4位は水泳を最下位の15位で上がった大学生の沢井孝之(当時22歳)、そして5位に城野が総合3時間55分11秒と健闘した。完走者は14名、タイヤのパンクでリタイアしたのが1名、女性として唯一、出場した堤 恭子(当時33歳)は12位だった。

第1回大会の競技結果(資料提;岩井公一氏)

第1回大会の競技結果(資料提;岩井公一氏)

 こうして九州の一都市で産声を挙げたトライアスロン大会は無事、閉幕した。そして翌年も同じ日に、同じ場所で開かれ、市民クラブのローカルな大会は年々、参加選手が増え、ピーク時には302名もの選手を集めたのである。その立て役者となったのが、岩井の長男で大学生時代に国体の自転車競技で活躍した「イワイスポーツサイクル」の3代目である岩井公一である。中学生時代は校内マラソン大会で連続優勝した経験を生かし、片岡に誘われ自らもトライアスリートとなった。82年5月に片岡らと結成した”スーパーマン・クラブ・イワイ”と呼ぶクラブを舞台に、トライアスロンの啓蒙、普及活動に関わり、今日に至っている。

「イワイスポーツサイクル」の3代目・岩井公一氏(02年4月撮影)

「イワイスポーツサイクル」の3代目・岩井公一氏(02年4月撮影)

《次回予告》次回から第4章として、全国的なトライアスロン組織やクラブ組織づくりの動向について紹介していきます。また<トライアスロン談義>では、複合耐久種目連絡協議会」を通じて組織化を図った元日本陸上競技連盟理事であり、日本トライアスロン連合の初代理事長の佐々木秀幸氏に当時の我が国トライアスロン界の状況を語ってもらいます。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>トライアスロン歴26年の染みが着いてしまった 【片岡 宏介】

 ただ何となく、自転車に乗りたかったのです。独身寮の先輩がロードレーサーを磨いている様子を見ながら、そう思いました。それで、

「自分も乗ってみたいです」

と言ったら、その先輩は早速、私を地元のサイクリング・クラブを主宰している「イワイスポーツサイクル」へ案内してくれました。早速、私はロードレーサーを買うと共に、ショップのオーナーである岩井一之さんが会長を務める”久留米サイクリング・クラブ”のメンバーとなり、九州一周のサイクリングや大会に参加していったのです。でも遊びがてら、楽しみがてら参加したまでのことで、スポーツとして取り組むとか、ましてやサイクル・ロードレースとして競技に挑んだ訳ではありません。それでも自転車に乗り始めて翌年の1980年、当時、全国各地で盛んに行われるようになったセンチュリー・ラン(鳥取市~岡山県牛窓町間160Km)ではトップでゴールインしました。
 そうした自転車の経験を積み重ねるうちに、その頃、始まったハワイのトライアスロンや皆生大会の話を耳にしました。

「長い距離は魅力だな。やってみようか」

と、思い始めたのです。それで全くの我流ながら、私は82年2月に行われるハワイ大会に出場するため、練習を始めました。水泳は「イワイスポーツサイクル」の裏手にあるスポーツ・クラブのプールへ通い、3Kmが泳げるよう毎回、1時間を泳ぎ続ける練習をしました。またマラソンは、勤務先の八女市まで往復20Kmの自転車を走った後に、久留米市の東方にある標高200mほどの高良山まで登って戻る練習を行いました。この高良山までのランニング・ロードは東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲った円谷幸吉選手が、幹部候補生学校時代にトレーニングに使っていたコースで、その往復のタイム記録は今なお破られていません。また自転車競技のスクラッチで当時、世界選手権を連覇していた中野浩一選手を始めとした競輪選手達も、高良山までのコースを練習コースとして走っていました。

第24回皆生トライアスロン大会(2003年7月)のランで北村文俊氏(写真左)と共に(03年7月撮影)

第24回皆生トライアスロン大会(2003年7月)のランで北村文俊氏(写真左)と共に(03年7月撮影)

 こうして82年のハワイを目指し我流のトレーニングを積み重ねていたのですが、”久留米サイクリング・クラブ”では、その年の7月に北海道で行われるオホーツク・サイクリング大会に参加することを決めたのです。九州出身の私はまだ見ぬ北海道へ行ってみたかったし、その上に通常、旅費として10万円がかかるところを半額の5万円ほどで行けるということでしたので、ハワイは見送り北海道の旅を選びました。しかし、

「一度はトライアスロンを体験してみたい」

という気持に変わりはありませんでした。ですから、皆生トライアスロン大会とハワイのアイアンマン大会は翌年の83年に出場することとし、引き続き我流のトライアスロン練習を積み重ねていたのです。その私が、来年のトライアスロンに挑戦する壮行会として岩井会長が提案し、開催したのが久留米トライアスロン大会だったのです。

 大会は、私にとっては距離が短かったし、内容的にも練習会のようなものでした。でも3種目とも一生懸命、頑張りました。水泳では立ち遅れたものの、バイクはトップでゴールし、そのままランも逃げ切って優勝しました。私のトライアスロン人生は、こうして始まったのですが、その時はトライアスロンを何時までも続けて行こう、などと思っていた訳ではありません。
 しかし、翌年の83年7月の皆生大会(総合タイム10時間8分29秒、総合24位)、10月のハワイ大会(同13時間31分12秒、同538位、日本人14位)、そして11月の第2回久留米大会(同2位)とチャレンジして、私はいつの間にかトライアスロンの虜(とりこ)になっていたのです。
 以後、皆生やハワイ大会への連続出場をはじめ、85年に初めて開催された宮古島やびわ湖、その後のオロロン、海外ではカナダ・アイアンマン、89年のウルトラマンなど、ロング・ディスタンスのトライアスロン大会に出場し、今日まで生涯現役のトライアスリートとして続けてきました。久留米トライアスロンに出場してから早26年、トライアスロン大会への出場は記憶が残る限り、およそ100回余りになります。
 それにしても、私一人だったらトライアスロンはとっくに止めていたでしょう。こうして私がトライアスロンを続けてこれたのも、サイクリングの仲間や、当初、お世話になった熊本の永谷誠一さんのお陰だと思っています。

「あートライアスロンは、もういいかな。今年で終わりにしよう」

と毎年、思いながら、出場申し込み書類に記入してしまい、私の身体にはトライアスロン歴26年の染みが着いてしまいました。

片岡宏介氏(05年6月、福岡市内の酒場で撮影)

片岡宏介氏(05年6月、福岡市内の酒場で撮影)

 
【片岡宏介氏プロフィール】

1958年生まれ。福岡県出身。中高校生時代はバスケットボールに興じていたが、特にスポーツマンだった訳ではない。社会人となり久留米市在住時代、サイクリングに親しむうちに、1982年に地元で行われた「久留米トライアスロン大会」に出場、優勝したのを機に、翌年には皆生トライアスロン大会、アイアンマン・ハワイを完走、トライアスロン人生を踏み出す。以来、今日まで現役選手として26年間に亙りトライアスロンと取り組み、国内外の主要100大会余りの出場記録をつくった。

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