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Vol.30:雷神の巻 第3章その8:腕時計をアンパンに引き換えた

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その8

腕時計をアンパンに引き換えた

【この記事の要点】

「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」 山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。

 
市の活性化、発展を願う地元・若者達の熱意と努力が実り、皆生・湘南大会に次いで我が国3つ目のトライアスロン大会が、1982年10月17日の第3日曜日に産声を上げた。その名も「第1回小松トライアスロン大会」と呼ぶ。スイム競技の代わりに登山を採り入れたバイク~登山~バイク~ランのトライ(3つの)アスロン(競技)である。当初は北陸本線の小松駅と粟津駅の中間地に新たにオープンした木場潟(きばがた)公園内の湖でスイム競技も検討されたが、結局、標高604mの動山(ゆるぎやま)の山登りとなった。
 コースは、まず木場町の木場潟公園をバイクでスタート、5Kmほど先の森林組合(東山町)まで集団でサイクリングを行う。それというのも、当初、大会開催に難色を示した警察の指示により、バイク競技は交通量が少ない地域で行わざるを得なかった為だ。それで森林組合から選手5名ずつが時差スタートを開始、途中、風光明媚な荒又峡を通り抜け、大杉谷川の水を塞き止めた赤瀬ダムの「自由の広場」まで18Km走って一端、バイクは終了。そして、いよいよ登山10Kmへと入っていく。

住民から大声援を受けるバイクコース(第2回大会より、写真提供;小松トライアスロン実行委員会、以下同じ)

住民から大声援を受けるバイクコース(第2回大会より、写真提供;小松トライアスロン実行委員会、以下同じ)

 登山は、大会実行委員会(本田 悟実行委員長)メンバーの活動拠点になっていた「大杉青年の家」がある動山を頂上まで登り詰めた後、選手達は急坂を降りて再び「自由の広場」へ戻る。さらにバイクに跨り、森林組合前を通過して隣町の連代寺町まで22Km走って終了、いよいよ最後のラン7.5Kmをこなし、木場潟公園へ戻ってフィニッシュするのである。
 この変わり種のトライアスロン大会に集まった選手の総数は99人。内訳は石川県内の選手が79人、県外の選手が20人(うち外国人1人)という比較的、地元色の濃い大会となった。しかも選手の中には、バイクはロードレーサーではなく、なんと! ママチャリで出場する者もかなりいた。何しろトライアスロンは日本で始まったばかり、当時はサイクリスト以外、ロードレーサーに乗るアスリートは極めて少ない時代である。因みに参加費は1人500円。今日と比べると、実に安いエントリー・フィーだった。

開会セレモニーで選手宣誓も行われた(第1回大会)

開会セレモニーで選手宣誓も行われた(第1回大会)

 
 レースのメイン・イベントとも言うべき登山は、選手達もさすがに息絶え絶え、もがき苦しんだ。特に動山頂上から水呑み場がある「弘法水」まで一気に下る下山道は厳しい下り坂が続く。

「ウォアー」、「ヤアー」、「キャアー」

 

開会セレモニーで選手宣誓も行われた(第1回大会)

上りも下りもロープを伝わっての厳しい山道が続く(第1回大会)

 山中に様々な絶叫が響き渡る。そしてロープを伝わり下山する急坂では、そのロープを握り締めた軍手が摩擦で破れてしまう程だった。さらに、登山を終えバイクからランへと至る道程にはエイドステーションは一切、無く、この為、腹を減らした選手は食料品店へ駆け込み、

「このアンパンを譲って下さい!! でも、お金を持っていないから、この腕時計を置いていきます」

という具合に、食糧を各自、自力で調達したのだ。

飲み物も地元住民からサポートされた(第1回大会)

飲み物も地元住民からサポートされた(第1回大会)

 こうして、登山を組み込んだ過酷な鉄人レースが終わった。完走者は97人、従ってリタイアした者は僅か2人だけである。優勝者は、男子が旧根上町に住む西田 芳で総合タイムは2時間24分18秒、女子は富山県滑川市の高瀬祐子で同3時間16分56秒。また完走者の中には、この第1回大会以来、今日まで26年間、出場記録を刻んでいる西山義和(当時25歳、旧白峰村)もいた。高校生時代からスキーのクロスカントリー選手として養った体力を生かし、総合6位に食い込んだのだ。入賞者達には、白山麓から採取してきた自然石のユニークな賞状が贈られた。

 大会運営に当たった地元・青年達の総数は30名。エイドステーションも無ければ、完走Tシャツもない、ちょいと寂しいトライアスロン大会であったが、完走した選手達の顔は皆、爽やかだった。山本久夫選手と同じく第2回大会から連続出場している谷口 誠(当時20歳、大阪府和泉市)は、小松トライアスロンの魅力を次のように話す。

「地元の住民ボランティアと選手が一体となったホットな大会です。だから順位を争うのではなく、サイクリングも登山もマイペースで楽しんでいます」

 こうして小松トライアスロン大会は、今日まで26年余の歳月を刻んできたのである。

翌年の第2回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのTシャツは、今や谷口のみが保有している」(写真提供;谷口氏)

翌年の第2回大会には参加シャツも用意された。25年前のそのTシャツは、今や谷口のみが保有している」(写真提供;谷口氏)

谷口 誠氏(07年9月撮影)

谷口 誠氏(07年9月撮影)

 

《次回予告》1982年11月に福岡県久留米市において、地元サイクリング・クラブが手作りで開催した「第1回久留米トライアスロン大会」の模様と、優勝した片岡宏介氏の<トライアスロン談義>を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>竹の節の如く、精進の成果を残す 【山本 久夫】

 私がトライアスロンを始めたのは33歳の時、1983年の第3回皆生大会でした。それまでスポーツとは、中学生の時が野球、高校生の時がハンドボール、そして大学生時代がマラソンと、それぞれ携わり楽しんできました。マラソンは社会人になっても続け、フルで2時間30分前後で走っていましたが、完走し疲れ切った充足感と言うのでしょうか、或いは走り切った満足感と言うのでしょうか、そんな気持がいま一つ得られず、それでトライアスロンへの挑戦を思い立ったのです。
 初めて出場した皆生トライアスロン大会は総合8時間51分25秒で、若いエリート選手の梅沢君に続いて2番目にフィニッシュすることが出来ました。初トライアスロンとしては、まずまず納得出来る成績だったと思います。この準優勝の成績が知られたのでしょうか? 同じその年の9月に開催される第2回小松トライアスロン大会から参加申し込みの案内状が届きました。
 小松大会は水泳の代わりに登山という変わり種のトライアスロンでしたが、

「マラソンで鍛えた健脚を生かせれば、山登りもやれる」

と考え、出場することを決めました。結果は”優勝”。山登りの途中から先頭に立ち、4時間1分56秒のタイムでゴールインしました。以来、小松大会には毎年、参戦し、昨年まで連続25回、出場しております。実は、私の娘は83年の第2回大会に出場した年に生まれましたが、その娘の成長と共に連続記録を刻んできたことになります。

奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手(07年9月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影)

奥さん、娘さんと手を繋ぎフィニッシュする山本選手(07年9月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影)

 こうして四半世紀の年月を小松トライアスロンと共に歩んできた私ですが、それもこれも、

「今日よりも明日、明日よりも明後日」

という気持で、日々、トレーニングに精進してきた結果だと思っています。毎日、日課となっている朝の散歩、その後に行う1時間ほどのバイク・トレーニングなど、一日一日を大切にトレーニングに励んできた成果を残していこうと、毎年1回、小松大会に参戦してきたのです。
 竹が毎年、節を作って成長していくように、私も毎年、トレーニングの成果を自ら刻んできたのです。その節作りはこれからも先、私の”第二の故郷”とも言うべき小松の地で続いていくことでしょう。

山本久夫氏(07年9月撮影)

山本久夫氏(07年9月撮影)

 
【山本久夫氏プロフィール】

1949年生まれ。愛知県岡崎市出身。トライアスロン・デビューは33歳の時。第3回皆生トライアスロン大会に出場し総合2位となり、同じ年の第2回小松トライアスロン大会では優勝。以後、小松トライアスロン大会には毎年出場し、連続25回完走、うち優勝4回、準優勝2回の記録をつくる。現在は高等学校の体育教師を務め、定年後には鍼灸治療の医院を開院する予定。

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