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Vol.29:雷神の巻 第3章その7:変った事、面白いことをやろう

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その7

変った事、面白いことをやろう

【この記事の要点】

中山俊行選手はラスト500m当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった!」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。

 
石川県小松市の東南に「動山=ゆるぎやま」という標高604mの山がある。富士山、立山と並び称される日本三名山の一つ、白山(2、702m)の日本海側に広がる山麓の一峰である。手取川や梯(かけはし)川によって形成された豊穣な扇状地・加賀平野に住む人々は、古より動山を眺めつつ、その奥に聳え立つ霊峰・白山を仰ぎ見、暮らしてきたのだ。
 その動山は、彼らにとって憩い楽しむ場所でもあった。青空の下、真っ赤なキリシマツツジが花開く動山の山道をハイキングしながら、若者達は語り合った。そして山頂へと続く中腹に建つ小松市の教育施設「大杉青年の家」で、議論を交わした。彼らとは小松市に住む、将来の市の発展を願う若者達である。

「町に元気を取り戻したい。どうしたら町を活性化できるだろうか」

 当時20歳代の、市役所や青年会議所、消防団などから選ばれた若者16名による「小松能力開発研究会」の面々は思案した。研究会を立ち上げてから7年にもなるが、町を活性化する切り札は、なかなか見付からなかった。

 加賀平野の中央に位置し、人口約11万人を擁する小松市。その名の「小松」は、平安時代中期に花山法皇が稚松を植え「園の小松原」と呼ばれたことに起因する説や、小松内大臣だった平重盛が「小松殿」を建立し、後に「小松寺」と称した由来から名付けられたという説があるように、加賀における古い歴史と伝統がある。また、今日のような発展の基礎が築かれたのは江戸時代中期、加賀国の三大藩主だった前田利常が小松城を隠居処と定めた頃からで、以来、城下町として発展すると共に、陶磁器の九谷焼や小松綸子(りんし)と呼ぶ織物、畳表、石材などの伝統産業が生まれ育ってきた。
 しかし、近年の地方都市のおける農林漁業の衰退や高齢化の進行、それに伴い若者達は町から去り都会へ出て行き地域産業・経済の空洞化現象が顕在化し、小松市でも人口の減少と共に経済や文化活動の衰退で、町は活気を失いつつあった。このため全国各地の市町村は”町興し・村興し”の策を練っていた時期である。
 そんな折、研究会の講師として招かれた深江泰輔は、若者達にアドバイスをした。

「イベントを開催するのです。皆の力を合せて、何か事業を起こすのです」

 それを聞いて、研究会の会長役を務めていた本田 悟(当時30歳)は自得した。

「何か変わったこと、面白いことをやろう。それで町に人々を呼び戻そう」

本田 悟氏近影(07年9月、小松ドームにて撮影)

本田 悟氏近影(07年9月、小松ドームにて撮影)

 同じく、当時、市の職員として「大杉青年の家」に勤務していた寺田喜代嗣(同27歳)は思った。

「世界中の人々を呼び寄せるイベントを開催したらどうだ。そうすれば町も賑わう。町の人達も喜ぶ。小松市に活気が戻ってくる」

 

選手達を応援する寺田喜代嗣氏(07年9月、小松ドームにて撮影)

選手達を応援する寺田喜代嗣氏(07年9月、小松ドームにて撮影)

 思案の結果、提案されたのが世界中の食べ物を展示、紹介する”世界食べ物展”の開催だった。各国の大使を招いて、国際色豊かなイベントにしようというのだ。あるいは、地場産業の石材を白山の頂上へ運び上げる競技イベントも提案された。しかし、この2つの案は白紙となり、新たに浮上したのが”トライアスロン”だった。1982年6月のことである。

「トライアスロンをやれば、元気になれる!」

 82年といえば、「皆生トライアスロン大会」が日本で初めて開催された翌年に当たるが、彼らは皆生大会のことは全く知らなかった、しかし、ハワイ島で行われているアイアンマン・レースのことは、うすうす耳に入っていたようだ。とはいえ、ハワイのような大会が開ける訳もない。自分達の能力も限られているし、第一、トライアスロンの知識も十分ではなかった。

「でも、やれるだけのことはやろう。一生懸命、頑張ってみよう」

 本田は自分自身に気合いを入れた。そして大会の開催経費を賄うため、皆の先頭を切って大会スポンサー集めに乗り出した。小松市内に本拠を置く機械や建築業などの企業群をはじめ、食品や土建、絹織物などの地場産業、医療機関や新聞社、さらには関西方面にまで足を運んで協賛金を募った。京都の企業から30万円の協賛金が得られた時には、

「やったぞぉ!!」

 本田は思わず皆の前で声をあげた。もう、必死だった。
 地域の祭りや行事スケジュールを勘案して決めた大会開催日まで3箇月余りしかなかったが、地元の若者達の熱意と努力でトライアスロン大会は予定通り、1982年10月17日、99名の選手を集めて行われたのである。大会名称を「第1回小松トライアスロン大会」とし、スイム競技の代わりに動山を巡る山登りを取り入れたバイク~登山~バイク~ランのトライ(3つの)アスロン(競技)となった。

 
《次回予告》
第1回小松トライアスロン大会のレース模様と、第2回大会以降25年間、トップ選手として連続出場してきた山本久夫氏の<トライアスロン談義>を掲載します。石川県小松市で1982年10月に開催された「小松トライアスロン大会」の模様を2回にわたって連載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>妻と二人三脚で歩んだ26年の歳月 【寺田 喜代嗣】

 早や26年も前のことになります。その時、私は27歳。小松市の職員として動山の「大杉青年の家」に勤めていた私は、市内在住の若者達で構成する「小松市能力開発研究会」のメンバーと共に”元気な町づくり”を目指し、全員参加型イベントの開催に向けた取り組みを検討していました。その結果、ようやく決ったのがトライアスロン大会でした。ハワイで行われているトライアスロンにヒントを得て、

「我々もやってみよう。皆で考え、皆で協力し合って、町を盛り上げよう」

ということになったのです。とはいえ、大会開催が正式決定したのは82年6月です。その年の10月の開催ということで、余り時間がありません。おまけにトライアスロンに関わる資料もないし、誰一人としてハワイ大会を見聞した者はおりません。大会開催を決めたのは好いけれど、どこからどのように手をつけようか? まさしく私達は、五里霧中でトライアスロン大会の開催に向かって活動を開始したのです。

 このため私は、仕事が終わると毎晩のように研究会のメンバーやスタッフ達と会合を重ね、自分の時間が持てない慌ただしい日々を送ることになりました。実は妻の恵(めぐみ)とは5月に結婚したばかりでしたが新婚生活もどこ吹く風、毎日、大会開催のための打ち合わせと準備に追いまくられていたのです。さすがに妻も呆れて、

「私は鉄人レースと結婚した??」

などと、内心ぼやいていたようです。
 しかし、妻の理解と協力も得て、予定通り10月の第3日曜日の17日にトライアスロン大会を開催することが出来ました。以来、妻は26年間、私と共に大会を支えるボランティア・スタッフとして参加しております。そして妻だけでなく市内50に及ぶボランティア団体の方々をはじめ、第1回大会の開催に当たって強い懸念を示された医師会や警察の方々にも、第2回大会以降は全面的な協力を戴くことができ、今日まで26年間の歴史を刻んできたのです。
 こうして長い年月を重ねてこれたのも、ひとえに多くの皆様のお陰ですが、それに加え実行委員会としては、大会運営を市民主導型とし自治体任せにしなかったこと、そのために自治体依存の高い大会でよく見られる財政難に陥るリスクが少なかったこと、さらには、この26年間に死亡事故が一度も発生しなかったことなどが、大きな要因としてあげられます。
そして何よりも、「参加する選手はもちろん、大会運営に当るボランティア、そして沿道で声援してくれる皆さんすべてが主人公」。そんな考え方で運営してきたのが良かったのかも知れません。大会終了後に出場した選手達が後片付けを手伝ってくださるように、小松トライアスロン大会はボランティアも選手も一体となった”ホットな大会”として、皆の気持が一つとなって続けてこられたからだ、と思います。

26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻(07年9月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影)

26年間、大会と共に歩んできた寺田夫妻(07年9月、2007KOMATSU全日本鉄人レースの大会会場にて撮影)

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