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Vol.28:雷神の巻 第3章その6:トライアスロン・クラブの誕生②

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その6

トライアスロン・クラブの誕生②

【この記事の要点】

「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。

 

1982年10月のアイアンマン・ハワイを日本人第1位で完走した矢後潔省(きよみ)は、同じ大会で日本人第3位となった愛知県出身の横井信之の存在を知った。その横井も、自分と同じく「トライアスロンを地域に広めていきたい」という共通の願いを持っていた。

「それぞれの地域クラブが統合した形で、全国的なトライアスロン・クラブを創りませんか」

 矢後はハワイから帰国した翌11月に、そんな話を横井に持ち掛けた。それで横井は矢後が住む静岡県駿東郡小山町へ、矢後も横井が住む愛知県岩倉市へ、それぞれ訪問し、クラブづくりについて協議したのである。そこで発想されたのが「JTRC=ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ」と呼ぶ、トライアスロンを目指す全国のアスリート達が参画するクラブ組織だった。矢後と横井の2人は、12月にクラブ名を決めて、それぞれの地域で仲間集めを開始した。

 まず矢後は、翌83年春に「静岡トライアスロン・クラブ」を設立、次いでランニング雑誌『ランナーズ』の誌上で「JTRC」への参加呼び掛けを行った。集まってきたのは関東、中部、近畿、四国のアスリート達で、主にハワイ大会や皆生大会に選手として出場したメンバーである。それら全国のアスリート達に、矢後は「JTRC」のロゴが入った帽子やTシャツを造り配った。
 全国のアスリート達との電話や郵便による情報交換、資料や用品の配送業務など、矢後は朝から夜中までクラブ活動に奔走した。当時、サラリーマンとして地元企業に勤めていた矢後だが、「JTRC」の運営業務のため何度となく勤務を休んだし、また毎月12万円ほどかかった郵便代も、すべて自分の給料から賄うくらい「JTRC」活動に投じたのだ。時間もお金も投げ打ち、それこそ1日24時間をフルタイムでトライアスロンの普及、拡大に専念したのである。

JTRCの仲間達(写真提供;矢後氏)

JTRCの仲間達(写真提供;矢後氏)

 その結果、「JTRC」の本部を矢後が住む静岡県駿東郡小山町に置いたのをはじめ、全国規模のクラブ組織らしく地域ごとに支部を設置、83年末には合計12支部に135名の会員が集結した。ちなみに、その時の12支部の名称・所在地・連絡先名は、次の通りである。

◎静岡支部=静岡県富士宮市、近藤 博
◎愛知支部=愛知県大府市、横井信之
◎神奈川支部=横浜市鶴見区、中山俊行
◎東京支部=東京都品川区、猪川三一生
◎千葉支部=千葉県市川市、市川祥宏
◎埼玉支部=埼玉県入間郡毛呂山町、奥崎 修
◎群馬支部=群馬県高崎市、諸山 司
◎大阪支部=大阪府八尾市、脇田重男
◎京都支部=京都府宇治市、北村浩士
◎奈良支部=奈良県奈良市、松井正夫
◎和歌山支部=和歌山県和歌山市、日野善生
◎愛媛支部=愛媛県松山市、浜岡隆文

 各支部の会員数は東京が32名、次いで静岡が30名で、この2つの支部が「JTRC」会員全体の半分近くを占めた。続いて神奈川18名、愛知13名、千葉12名、あとの7支部は一桁台の会員数である。本拠本元の静岡は別として、大都市を中心に順次、トライアスリート達が集まってきたのだ。

JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、後列左端が市川氏

JTRCの練習会。前列左端が矢後氏、 後列左端が市川氏

 また、その中心的な役割を担ったのが、支部長として連絡窓口となったアスリート達で、その中にはエリート選手として活躍する中山や横井、84年暮れに発足した我が国最大規模のトライアスロン・クラブ「ATC=オールジャパン・トライアスロン・クラブ」の中核的役割を担った市川、猪川の名前も連なっている。このうち猪川は85年になって“チーム・エトナ”の監督として中山、横井らを率いたほか、矢後や市川が立ち上げたびわ湖トライアスロン大会や宮古島トライアスロン大会のマーシャル・リーダーとして活躍する。
 こうした「JTRC」の組織化と活動について、副会長を務めた市川は当時のことを、次のように話す。

「矢後さんはトライアスロンに燃えていました。私も関東地域のトライアスリートの組織化に傾注しましたが、彼は私以上の情熱を持って取り組んでいました。そして後に私と猪川さんはATCを立ち上げましたが、トライアスロンに対する思いは皆、同じでした。この素晴らしいスポーツを日本中に広め、楽しんでいきたいと願っていたのです」

 そうした矢後のトライアスロンに賭ける情熱が功を奏してか、「JTRC」は最終的に全国36支部、会員総数およそ1,000名の巨大クラブに成長していったのである。矢後をはじめとする数多くのトライアスリート達の熱い想いが集結した結果である。

矢後氏近影(07年4月、小山町の自宅前にて撮影)

矢後氏近影(07年4月、小山町の自宅前にて撮影)

《次回予告》
石川県小松市で1982年10月に開催された「小松トライアスロン大会」の模様を2回にわたって連載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>トライアスロンに打ち込むため会社を辞めた 【横井 信之】

 私は子供の頃からスポーツ大好き人間で、スポーツと共に日々を送っていました。水泳は小学生の時から始め、中学生3年生の時は愛知県大会の200mクロールで優勝、中部地区ジュニア大会では6位になりました。また、通学では毎日5Kmほど自転車を使っていましたし、冬場はもっぱら駅伝選手として中長距離を走っていました。つまり中学生の頃から、私はトライアスロンの3種目を経験していた訳です。
 水泳は高校まで続けましたが、大学時代は同好会のアメフトで汗を流し、時にはランドナーにまたがって、九州一周のツーリングなどを楽しんでいました。そして大学を卒業し技術者として株式会社デンソー(旧日本電装)に入社しましたが、やはりサラリーマンになってからも会社の屋外プールで泳いだり、社員寮から会社までランニング出勤するなど、スポーツと共に生活していたのです。

 そんな私がトライアスロンに挑戦することになったのは、入社した翌年、81年2月の新聞記事を見たのがきっかけです。8名の日本人がハワイ島で開催されたトライアスロン大会に出場し、完走したという記事で、写真も沢山、掲載されていました。

「今まで自分が取り組んできたスポーツだし、水泳ならば外国の人達にも退けはとらない。やってみよう」

 周囲には誰一人としてトライアスロンをやる者はいませんでしたが、私は密かに決意し、自分一人で3種目のトレーニングを開始しました。スイムは会社が定時となる17時25分からすぐさま会社のプールで1時間ほど泳ぎ、再び職場に戻って仕事に就きました。そんな仕事のやり方が出来たのも、物分かりの良い上司の計らいでした。
 また、休日の土曜ないし日曜日は、早起きして知多半島を巡る約100Kmのバイク・トレーニングを行い、社員寮へ戻ってくると今度は刈谷市から名古屋市緑区の大高緑地公園まで往復10Kmのランニング、という具合に、量と質を兼ね備えたトレーニングを積んでいきました。ちなみにロードレーサーは後輩から譲り受けたもので、それをハワイ大会に持ち込みました。

若きアスリート時代の横井選手(写真提供;横井氏)

若きアスリート時代の横井選手      (写真提供;横井氏)

 
 ハワイのアイアンマン大会に参加したのは1982年10月、私が24歳の時です。河野禎介さん達3~4人のメンバーで、大阪発のツアーに参加しました。レースは長丁場、相当に時間がかかると思っていましたが、我ながら案外、早く済んだという印象です。スイムの3.84Kmも1時間3分17秒と当初予想したよりも速く、陸へ上がった時には何がなんだか分らないほど興奮していました。総合タイムは13時間33分51で総合460位、日本人では3番目のフィニッシュでした。
 今思うに、このアイアンマン・レースを完走していなかったら、私はトライアスロンに取り組むことはなかったでしょう。しかし、最初のトライアスロンで、まずまずのタイムで完走した喜びと充足感が、その後の私の進路を変えたのです。ハワイから戻った翌83年、私はトライアスロンに打ち込むため、会社を辞めました。そして中京大学大学院修士課程で運動処方の勉学を始めるかたわら、トライアスロンのトレーニングに専念していきました。

 そんな決意をしてトライアスロンに取り組んだ私ですが、83年に初めて出場した皆生トライアスロン大会では、総合70位と不本意な成績でした。スイム3Kmは58分のトップでフィニッシュ、総合優勝した梅沢君よりも先に上り、バイクは途中までトップを守り続けたのですが、不運にも砂利道でパンクに見舞われ、苦手のランは7時間近くかけて歩いてしまうなど、惨めな結果に終わりました。
 しかし、翌84年のアイアンマン・ハワイでは日本人として一桁順位でフィニッシュしたこともあって、中山君や山本君など日本のエリート選手で構成する“チーム・エトナ”のメンバーに迎え入れる話が届きました。もちろん、私はトライアスロンに打ち込む覚悟でしたので、その要請を受け入れ、以後、85年10月の天草トライアスロン大会を皮切りに“チーム・エトナ”の一員として数々のトライアスロン大会に出場していったのです。

84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から2番目が中山選手、3番目が横井選手、右端が山本選手

84年アイアンマン・ハワイ大会会場にて、写真左から2番目が中山選手、3番目が横井選手、右端が山本選手

 その一方、名古屋市内のサイクルショップ「二光製作所」に集まっていたアスリート達と共に、中京大学のプールやキャンパスを使用してトライアスロンのトレーニングを行い、地域でのトライアスロンの普及活動にも力を入れました。エリート選手として、そしてまた地域の指導者としてトライアスロンの普及、発展に力を注いだ積もりですが、そんなトライアスリートとしての私の活動に終止符が打たれることになったのは、トライアスロンを始めてから10年後のことです。
 得意のスイム競技はトップレベルを維持していたものの、バイクでのドラフティング・ルールがなくなり、スイムでリードしていたアドバンテージ(優位性)がなくなってしまったからです。だからレースでは勝てなくなったし、それにレースがスピード化したため、あらかじめバイクシューズをペダルに着けておくなど、総じて競技手法が姑息になり、私には馴染まなくなりました。
 1992年9月、波崎で行われたアジア・トライアスロン大会を最後に、34歳になった私はトライアスロンから引退しました。寂しい気持も残りましたが、今では若い元気の好い時代にトライアスロンに打ち込み、85年以降、次々と開かれていった新規大会にすべて参戦し、汗と涙を流していった経験を楽しく、思い出深く感じております。

横井選手の初期の競技記録

横井選手の初期の競技記録

《横井信之氏プロフィール》
1958年、愛知県岩倉市で生まれ育つ。小・中学生時代より水泳並びに陸上選手として活躍すると共に、大学時代はアメリカン・フットボールやサイクル・ツーリングを楽しむ。1981年に永谷誠一ら8名の日本人がハワイ島で行われたトライアスロン大会に参戦した新聞記事を見て、アイアンマンへの挑戦を決意、翌82年のハワイ大会に出場し、矢後潔省、藤井真太郎に次いで日本人第3位でフィニッシュする。85年の天草トライアスロン大会には中山俊行らと共に“チーム・エトナ”のメンバーとして出場したのを始め、次々と開催される新規トライアスロン大会に参戦していった。34歳の時、トライアスロン選手を引退、現在は中部大学の体育講師として後進の指導に当たっている。
 

横井信之氏近影(07年9月、名古屋市内にて撮影)

横井信之氏近影(07年9月、名古屋市内にて撮影)

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