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Vol.27:雷神の巻 第3章その5:トライアスロン・クラブの誕生①

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その5

トライアスロン・クラブの誕生①

【この記事の要点】

そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。 その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」 そう決断したのである。

 

我が国トライアスロンの黎明期とも言える1980年代前半は、中山俊行をはじめとしたエリート選手の活躍の一方、トライアスロンを生涯スポーツ、或いは市民スポーツとして、その普及、発展に携わっていったアスリート達の活躍も見逃せない。

 その最先端を切っていたのは、言うまでもなく81年2月にハワイ島コナ市で行われた第4回アイアンマン・ハワイ大会に日本人として初めて参加した永谷誠一や堤 貞一郎ら熊本県のアスリート達である。彼ら肥後もっこす達はハワイ大会を経て、同じその年の8月に第1回皆生トライアスロン大会に参加した後、翌9月に我が国で最初のトライアスロン・クラブ「熊本CTC=熊本クレイジー・トライアスロン・クラブ」を設立した。皆生大会の打ち上げを兼ね、堤が幹事長、永谷が会計担当だったランニング同好会「熊本走ろう会」のメンバーを中心に、熊本市をはじめとする地域の仲間達に呼びかけたのである。
 熊本市内の蕎麦店「山本屋」に会したメンバーは、第2回皆生トライアスロン大会に出場した田上栄一や下津紀代志ら約20名。もっぱらクラブの名称について議論し合った。その結果、決まったのが「熊本クレイジー」だったのだ。クラブ設立の趣旨について永谷は、次のように話す。

「遊び心を第一にやろうちゅうことたい。そっじゃあ、クラブ名も堅苦しくならんよう、クレイジーと名付けたばい。まあ、気楽にトライアスロンを楽しもうということたい」

 だからクラブ組織も出来るだけ平易な組織にしようと、堤も永谷も役職に就かなかった。しかし、クラブ事務所を永谷が経営していたランナーズ・ショップ「山想」に置いた関係上、ゼネラル・マネジャーには永谷の妻・永谷安子が就任、クラブ運営の事務方としてクレージーな連中の世話役となったのである。その他の役職として、会計役を“勘定奉行”、ランニング担当を“韋駄天奉行”と呼ぶなど、ややおふざけを交えながら発足したのである。その後、会員はトライアスロンの普及、拡大と共に増え、最終的に八代、天草、人吉など熊本県全域に広がって、およそ200名ほどの大所帯になっていった。永谷夫妻を中心にトライアスロンの普及、トライアスリートの育成を献身的に図っていった成果である。

かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏(04年9月撮影)

かつて「熊本CTC」の事務所だったショップの前に立つ永谷誠一氏(04年9月撮影)

  このように「熊本CTC」は、我が国トライアスリートの先駆者が、まさしく先駆的に取り組んだクラブだが、その後、トライアスロンへの挑戦を試みるクラブ組織は全国的な規模で、次々と誕生していった。「熊本CTC」が誕生した翌年の82年には、茨城県で「筑波学園都市トライアスロン・クラブ」、岡山県で「岡山アイアンマン・トライアスロン・クラブ」、福岡県で「スーパーマン・クラブ・イワイ」が発足、練習会や情報交流をはじめとしたクラブ活動を開始したのである。

 なかでも、福岡県久留米市に本拠を置く「スーパーマン・クラブ・イワイ=SUPERMAN CLUB IWAI」は、その名の通り地元のサイクル・ショップの店長でありサイクリストの岩井公一が、同じ「久留米サイクリング・クラブ」のメンバーである片岡宏介らと結成したトライアスロン・クラブである。そして、1982年5月にクラブを立ち上げた久留米のアスリート達は、その年の11月に『久留米トライアスロン大会』を開催したのである。クラブ独自の手作りで開いた、日本で初めてのトライアスロン大会であった。(大会の模様は、後日、紹介します)

久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏(02年4月撮影)

久留米市内のサイクル・ショップと岩井公一氏(02年4月撮影)

 その後、1983年に入って静岡県のアスリートである矢後潔省が「静岡トライアスロン・クラブ」を設立し、さらに同クラブを全国的に拡大、発展させようと創ったのがJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)である。まさしく全国的規模でのトライアスロン・クラブとして、当時から1980年代にわたって活躍したトライアスリートの多くが、なんらかの形でJTRCと繋がりを持つことになる。
 そのJTRCの活動の要として日々、トライアスロンの普及、拡大に奔走したのが、会長の矢後だった。矢後は静岡県駿東郡小山町の出身で、幼い頃から運動能力に長けたスポーツマンとして育ったが、29歳の時、トライアスロンを知り、トライアスロンの世界に入った。当時のエリート選手だった中山俊行や梅沢智久よりも一世代上の矢後だったが、ランのほかスイムも得意とし、82年10月のアイアンマン・ハワイでは日本人第1位となっている。 その年の皆生トライアスロン、そしてアイアンマン・ハワイを経験して、矢後は心の中で、

「俺もトライアスロン・クラブをつくって、この素晴らしいスポーツを日本でも普及させよう」

 そう決断したのである。

83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手(『Athletic Book』84年1月ランナーズ刊より)

83年アイアンマン・ハワイで疾走する矢後選手(『Athletic Book』84年1月ランナーズ刊より)

《次回予告》
トライアスロン・クラブの誕生②として、JTRCの活動を紹介すると共に、当時、中部圏のトップ・トライアスリートとして活躍した横井信之選手のトライアスロン・ライフを紹介します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>人生最大の感動を味わった 【矢後 潔省】

 
 私は、西に富士山、南に箱根山塊、そして北東にかけては西丹沢の山々に囲まれた静岡県の小山町で生まれ育ちました。そう、私は「足柄山の金太郎」で有名な山中を舞台に、55歳になった今日まで両親や妻、そして3人の子供と共に暮らし、スポーツや登山を楽しんできたのです。

 そのスポーツですが、私が最初に始めたのは小学2・3年生の頃からです。駿河小山の街中にある自宅から酒匂川の支流・須川沿いの道を、町の柔道場である「日の丸道場」まで往復4Kmほど、毎日のように走りました。中学生になってからは大桐山の麓に切り開かれたツツジの名勝「富士霊園」まで起伏の強い道程を往復約10Km、走っていました。

 それで、中学校のマラソン大会では常にトップクラスの成績を修め、さらに高校生になってからは駅伝大会で“花の4区”を走りました。また水泳も得意で、中高校生時代は出身校の成美小学校の50mプールで泳ぎ、いつでも10Kmくらいは泳げる力を養っていました。こうして私はランニングとスイミングを社会人になるまで続け、トライアスロン時代が幕開けする時代を待っていたと、今にして思います。

若きアスリート時代の矢後選手(写真左)

若きアスリート時代の矢後選手(写真左)

 そのトライアスロンという3種目の競技があるのを知ったのは、1981年12月に私がホノルル・マラソン大会に参加した時でした。その年に日本でも皆生トライアスロン大会が開催されていたのですが、実は皆生のことはまったく知らず、ハワイ島で行われたトライアスロン大会に注目していたのです。

「ハワイのトライアスロン、距離は長いけれど自転車さえこなせば完走できる」

 そんな予感が、私を翌年10月のハワイ大会出場へと誘ってくれたのです。ホノルル・マラソン大会から帰国した私は、早速、ロードレーサーを1台、購入しました。初めて乗るレーサーですが、幸い自転車部品メーカーの株式会社シマノ(旧島野工業)に勤める友人がいて、その友人からバイクの乗り方やメンテナンスの基礎を教えてもらったのです。
 練習はまず、沼津から富士宮、そして富士五湖周辺を巡る富士山周遊道路を一周する180Kmのサイクリングから開始、次いで御殿場から山中湖に至る篭坂峠(標高1,104m)のアップダウン・トレーニング、富士スバルラインを富士山5号目まで上るヒルクライム、沼津千本浜でのクルマのタイヤを引き摺ってのパワー・トレーニング、そして御殿場のフィットネス・ジムでのマシン・トレーニングなど、周囲のロード環境や施設をフルに活用したバイク練習に明け暮れました。ある時は富士山の須走をレーサーで下りましたが、前輪が舞い上がりながら急滑降した恐ろしさを忘れることができません。

 こうして私は従来のスイムとランに加えバイクの練習を積んで、その後、開催を知った82年7月の皆生トライアスロン大会に参加しました。初のトライアスロン、しかもたった独りでの参加。鳥取県米子市へ向かう東名高速道路を突っ走りながら、私の胸の中は不安で一杯でした。

「おお、なんて皆、強そうなのだろう」

 皆生温泉の大会会場に集まってきた選手達を見て、私はたじろぎました。なかでも観光バスで大挙、乗り着けた熊本の選手達の話し振りは自信に満ち溢れており、私は彼らの言動をただただ羨望の眼差しで眺めるばかりでした。

 その年の皆生トライアスロンは、前年の第1回大会よりも距離が延びスイム3Km、バイク103.6Km、ラン40Kmとなりましたが、レースは当初イメージしていたほど辛くなく、楽にフィニッシュできました。総合タイムは10時間42分、順位は100人中30位でした。初めてのトライアスロンだったのでレース序盤は慎重になり過ぎ、持てる体力をどのように使えばよいか? その配分が判らず仕舞で終わった気がします。しかし、

「これならば、ハワイもやれる」

 約2箇月後の10月9日に迫るアイアンマン・ハワイへ自信が着きました。

 ハワイの大会も皆生と同じく単独で参加、大会会場を探すことから始まり、片言の英語で受付けを済ませるなど、すべて自分一人で行動しました。カーボロード・パーティでも日本人と会うことができず、結局、現地滞在中の丸1週間、コテージで一人だけの自炊生活を続けたのです。
 レースは、スイムで肩を掴まれ水中に潜ったり、バイクでは血糖値が下がって眠くなるなど、いろいろな経験を味わいましたが、練習の甲斐もあって自分なりに納得できる成果をあげたと思います。記録は12時間7分28秒、総合217位、参加した11人の日本人の中ではトップでした。この時、スイムでダントツの日本人トップであがったのが横井信之さんで、後に彼とは全国組織のトライアスロン・クラブ“JTRC”を立ち上げたのです。
 それにしても、ハワイでフィニッシュしたその時の感動は、25年経った今もなお忘れることはありません。

「やったあ!」

 あの衝撃的な思いは、私の人生で最大の感動とも言えるものでした。
 
《矢後潔省氏プロフィール》
1952年、静岡県駿東郡小山町で生まれる。子供の頃からマラソンやスイミングに長け、社会人となり29歳の時、トライアスロンに挑戦することを決意、82年の皆生大会とハワイ大会に出場し、完走する。翌83年には「静岡トライアスロン・クラブ」を設立するとともに、トライアスロンを全国規模に広げようと有志と共にJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)を立ち上げ、会長に就任する。以後、トライアスリートとして活躍する一方、JTRCを舞台にトライアスロンの拡大、発展のため、献身的な普及活動を行う。トライアスロンから引退した今は、富士山登山を楽しんでいる。

矢後氏近影(07年4月、小山町の自宅前にて撮影)

矢後氏近影(07年4月、小山町の自宅前にて撮影)

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