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Vol.26:雷神の巻 第3章その4:若きエリートの登場②

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その4

若きエリートの登場②

【この記事の要点】

「もう少しやれば、新たな世界が広がる」83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。

「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」

 1982年9月、トライアスロン初デビューの湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝し、そう確信した中山俊行は、その後もトライアスロン競技の練習に打ち込んでいった。そして翌83年7月、待望の皆生トライアスロン大会に出場したが、その4箇月前にピスト競技の練習中、鎖骨骨折の怪我を負って満足な練習ができず、残念ながら総合4位に留まった。

 この時、出会ったのが中山と同じく20歳、日本大学の学生だった梅沢智久である。梅沢は競泳出身だけあって皆生大会3Kmのスイムでは愛知県出身の横井信之に続きダントツのタイムであがり、続くバイクでもスプリット・タイム第1位と他の選手を寄せ付けず総合優勝を飾った。これに対し中山はランで迫ったものの、終始、梅沢にリードされ後塵を拝する結果となった。

第3回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手(全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋)

第3回皆生トライアスロン大会で優勝を飾った梅沢選手(全日本トライアスロン皆生大会15周年記念誌『FRONTIER』より抜粋)

 
 この時代、それは日本でトライアスロン競技が始まったばかりの1980年前半だが、トライアスリートの大半がマラソン経験の豊富なラン出身者が多かった。初代アイアンマンの永谷誠一やそれに続く高石ともやのごとく、特に中高年のトライアスリート達の多くがランニングを得意とし、スイミングやサイクリングは不得手もしくは初めて経験するという初心者達だった。

 大雑把な数値だが、当時のトライアスリートが得意とする種目はランが5割、スイムが3割、バイクが1割、3種目とも全く初めてが1割という割合ではなかったか? 例えば、この時期、熊本では田上栄一、鳥取の村上好美と小坂雅彦、四国の渡辺克巳、関西では高石ともや、脇田重男、服部健一、静岡では矢後潔省(きよみ)、関東では北村文俊、高山信行、市川祥宏、猪川三一生(みちお)などトライアスリート達が活躍したが、そのほとんどがランナー出身者だった。なかでも、中山よりも一世代上の矢後はランのほかスイムも得意とし、82年10月のアイアンマン・ハワイでは日本人第1位となっている。

中山選手が日本人2位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同8位でフィニッシュした(『Athletic Book』84年1月ランナーズ刊より)

中山選手が日本人2位となった83年のアイアンマンで、矢後選手は同8位でフィニッシュした(『Athletic Book』84年1月ランナーズ刊より)

 これに対し次代を担う中山や梅沢といった若い選手達は、水泳や自転車の競技からトライアスロンの世界に入ってきているのが特徴的である。しかも有酸素系の持久的運動能力に優れ、練習熱心で、トライアスロンの3種目の競技を次々とマスターしていった。それら若きエリート達は都市圏で生活し、共に切磋琢磨する機会に恵まれたことも競技者としての成長を促したと言えるだろう。

 その当時、中山や梅沢のほかに活躍していたエリート・トライアスリートとしては、愛知の横井のほか、東京では飯島健二郎、前田芳久、山本光宏、山下光富といった名があげられる。このように80年代前半は20歳前半を中心としたアスリート達が台頭もしくは次の次代を担うためスタンバイしていたのである。

左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手

左から梅沢選手、横井選手、右端後ろ向きが中山選手

 その代表選手として活躍し、我が国トライアスロン界を背負ったのが中山だったことは、彼のその後の戦績が如実に物語っている。中山は83年の第3回皆生大会で梅沢に屈したが、その年10月の第7回アイアンマン・ハワイでは総合59位(日本人2位)となり、ハワイ在住の日本人、村岡康正と共に日本人として100位以内に入った。

 そして翌84年の第4回皆生大会では見事、優勝、同じく10月の第8回アイアンマン・ハワイでは総合17位、日本人としては第1位となり、名実ともに日本人トライアスリートの第一人者となったのである。続いて同年11月にハワイで行われたカウアイ・トライアスロン大会では18位となり300ドルの賞金を獲得、プロ・トライアスリートとしての発端が開かれた。

 中山はその後も次々とタイトルを獲得、85年にはニュージーランド第1回ダブルブラウン・アイアンマンで6位、4月の第1回宮古島トライアスロン大会優勝、ロサアンジェルス・タフェスト・トライアスロン大会8位、USTS(United States Triathlon Series)LA大会57位、同シカゴ大会29位、10月の第1回天草大会優勝と、国内では敵無しの活躍を見せた。

「もう少しやれば、新たな世界が広がる」

 83年のハワイ大会出場でトライアスロンへの挑戦を終える筈だった中山だが、学生生活を終えた後、内定していた就職をあえてキャンセルし、トライアスロンのプロフェッショナルの道を選んだのである。

85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達(写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手=写真提供;中山俊行氏)

85年アイアンマン・ハワイで記念写真を撮る日本のトップ・トライアスリート達(写真前列左端から中山選手、城本徳満選手、梅沢選手、山本選手、後列左端が横井選手=写真提供;中山俊行氏)

 《次回予告》1980年前半にトライアスリートの先駆者として活躍した矢後潔省氏のトライアスロン・ライフを紹介します。

 

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>心に誓った孤独な挑戦② 【中山 俊行】

 自転車は大学の自転車部で鍛えたのですが、ではトライアスロンのあとの2種目、スイムとランの練習はどうしたかといいますと、まず水泳ですが、当時の私は

「自分は普通に泳げる」

と思っていました。ところが、1983年秋のアイアンマン・ハワイに挑戦する直前、初めてスイミング・スクールへ通い出した時のことでした。スイミング・スクールのコーチが見ている前で試し泳ぎをしたところ、コーチは私に向かってこう言いました。

「君、それはクロールとは言わないんだよ。その泳ぎはクロールではないんだ」

「ガーン」

 コーチのその予期せぬ台詞を聞いた私は、頭の天辺に金槌を打たれたような思いがしました。でも、心の中では、

「だって7月の皆生で、遅いとは言え3Km泳いだんだ」

 そんな私の自尊心を真っ向から否定され、しばらく口も利けないほどのショックを覚えました。でも、水泳の専門家から見れば、私の泳ぎは稚拙だったのでしょう。実際、その時まで水泳の基本を学んだ訳ではないし、すべて我流で練習してきたのですから。つまり私のスイムは、最初からその程度だったという訳です。
 同じくランも“知らない者の恐いもの知らず”で、我流のランながら、

「自分は速く走れる」

と、過剰な自信を抱いていました。今にして思えば恥ずかしい限りですが、当時の私のランニングは皇居1周5Kmのコースを19分程度で走っていたに過ぎません。

 でも、当時の私は「練習をすればするほど強くなっていく」自分を感じていました。自分一人でコツコツと、時には厳しく、ある時は激しく、3種目のトレーニングを積み重ねていきました。

「趣味は、練習です」

 そう言っても臆することがないほど、トレーニングの日々が続きました。そうして83年7月、期待に胸膨らませ憧れの皆生トライアスロン大会へ乗り込んだのです。そこで出会ったのが私と同年で日本大学の学生だった梅沢智久君です。

「どこかで見掛けた顔だな?」

 それもその筈です。彼は日大の自転車部員で、私とは競技会で何度か顔を会わせていたのでした。梅沢君は競泳出身だっただけにスイムが飛び抜けて速かったけれど、バイクも一般の選手と異なり素晴らしいフォームで疾走していました。そして第3回皆生トライアスロン大会の優勝者となりました。
 私は残念ながら4位、総合タイムで梅沢君に14分余り遅れました。しかし、大会前の3月に立川競輪場のバンクで落車。右鎖骨を粉砕骨折して3ヶ月間、何もできない状態となり、皆生大会まであと1ヶ月と迫った6月上旬から練習を開始した状態でしたから、負けて止むなしの感がありました。それよりも次は10月のハワイへと夢を駆り立てていたのです。

83年ハワイ大会(写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手=写真提供;中山俊行氏、以下同)

83年ハワイ大会(写真中央が中山選手、右端は猪川三一生選手=写真提供;中山俊行氏、以下同)

 そのハワイのアイアンマン・レースでは、総合100位以内を狙っていました。なぜならば、それまでの大会で日本人が二桁の順位を獲ったことがなかったからです。レース結果は11時間00分57秒8で総合59位、今度は梅沢君に勝ちました。梅沢君は11時間17分42秒6でフィニッシュ、総合102位でした。しかし、もう一つの私の目標はハワイ在住の村岡康正さんによって砕かれました。村岡さんの総合タイムと着順は、私より約2分4秒早い10時間58分53秒2の総合57位だったのです。

「なぜ! どうして! あと2人を抜くことができなかったのか」

 残念無念、日本人1位になれなかったことが悔やまれます。私自身、ハワイ大会に一度出場したらトライアスロンを止めるつもりでした。しかし、

参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす

参加選手がついに1,000名を超えたハワイ大会会場で、優勝者のデイブ・スコット選手と握手を交わす

「もう少しトライアスロンを続ければ、違う世界が広がる」

 そんな気持がつのり、翌84年の第8回アイアンマン・ハワイに出場することにしたのです。しかし、これが私の最後のトライアスロンへの挑戦です。その時、私は大学4年生の21歳。来年は自転車と関係が深い会社に就職することが内定していました。だから大学時代に培ったすべての力を出し切り、

「日本人トップで、しかも総合10位以内を目指そう」

 結果は総合17位、トップテンに入ることはできませんでしたが、日本のトライアスリートとしてトップレベルの実力を証明することができました。ちなみに、この年は7月の皆生トライアスロン大会で総合優勝を飾り、11月にはハワイ・カウアイ島で行われたトライアスロンの賞金レースで上位入賞し、300ドルの賞金を獲得することができました。今にして思えば“プロ・トライアスリート”として歩み出す道筋が、この年につけられたと思います。

84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手

84年皆生トライアスロン大会で総合優勝のゴールテープを切る中山選手

 こうして私はトライアスロンを始めて3年、日本のトライアスリートとしていくつかの栄誉を勝ち取ることができました。とはいえ、最初から私がトライアスロンの才能があった訳ではありません。短い間にせよ一生懸命、練習に打ち込んできたからで、自分で言うのも気が引けますが、何よりも努力の積み重ねが功を奏したと言えるでしょう。それというのも、私にとって弱い剣道時代を経験してきたからこそ、強い自分を仕立てあげようという意欲を持ち続けることができたのだと思います。剣道をバネにして、自分の“弱さ”を“強さ”に替えてきたのです。

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