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Vol.25:雷神の巻 第3章その3:若きエリートの登場①

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その3

若きエリートの登場①

【この記事の要点】

中山は大会主催者の橋本 昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。

 
 優勝した北村文俊が「二度と出たくない」と思い、事実、二度と出場することがなかった“湘南トライアスロン大会”だが、翌年も同じ9月、同じ場所で開催された。この第2回大会に登場し優勝したのが若きエリート、後に我が国トライアスリートの第一人者となる“ミスター・アイアンマン”こと中山俊行である。この時、中山は若干19歳、明治大学の2年生だった。
 前年の1981年、卒業を間近に控えた高校3年生の春2月、永谷誠一ら8名の日本人がハワイ・トライアスロン大会を完走した新聞記事を見て、密かにトライアスロンへの挑戦を誓った。そして大学に入ると自転車部に所属し、ピスト競技やロードレース大会に参戦した。その一方、我流ながら一人切りで水泳とマラソンのトレーニングにも励んだ。
 そして1年半後に挑んだのが、1982年の第2回湘南ハーフだったのだ。中山にとって初のトライアスロン挑戦である。

「優勝する!」

第2回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手

第2回湘南ハーフ・トライアスロン大会で優勝のゴールテープを切る中山俊行選手

 特別の根拠があった訳ではないが、勝つ自信があった。「練習が趣味」と思えるほど、3種目のトレーニングに打ち込んできたのだから。

 湘南ハーフのロケーションは第1回大会と同じく江ノ島を基点とした茅ヶ崎周辺までの湘南海岸で、競技距離はスイム1.92Km、バイク89.6Km、ラン21.09Kmである。幸い雨は上がったものの海が荒れたため、スイムは近くの屋外プールを使って行われた。
 それにしても、驚くべきトライアスロン・スイムである。なんと! 15m×25mのプールを25周するのである。プールを1周すると80mになるから、25周すれば2,000mになるという計算だ。しかし、4つのコーナーごとにインコースを選べば、随分と距離短縮が図れる。だから、出場選手達の多くがインを突いたが、中山は丁寧にコーナーを角張って回った。その所為もあったのだろう。スイムのタイムは48分51秒、遅い方ではなかったが、決して速くもなかった。だが中山は、得意のバイクで挽回を図った。明大の自転車部で鍛えてきたのだ。

「負ける訳にはいかない!」

 そんな思いで砂だらけのサイクリング・ロードを疾走、前を行く選手達を次々と追い抜き、ランに入る時点で中山は総合2位に浮上した。あとは先を走る東京都出身の菅野 進を抜くだけだ。菅野との差は4分余り。

「抜ける筈だ」

 気持を固めて走った。我流のランだが、「自分は速く走れる」との自信を持っていた。当時の中山のランニングは、1周5Kmの皇居を19分ほどで走っているが、決して速いとは言えない。しかし、今もって思えば、中山はランに対し不思議なくらい自信があったと振り返る。実際、最後のランで菅野を抜き去り、堂々の総合優勝でゴールテープを切ったのである。ちなみにトータル・タイムは5時間59分13秒、総合2位の菅野に3分余の差をつけた。
 中山は大会主催者の橋本 昇会長から優勝者へ贈られる賞状と商品が授与された。受け取りながら、こう思った。

「もっと練習すれば、もっと自分は強くなる」

 中山は来年の皆生トライアスロン大会、そしてアイアンマン・ハワイへの挑戦に思いを馳せた。

《次回予告》
前回に引き続き1980年年代前半に活躍したエリート選手達の群像と、その代表格だった中山俊行選手の<トライアスロン談義②>を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>心に誓った孤独な挑戦① 【中山 俊行】

 「剣道」がスポーツだとするならば、私がスポーツと取り組み始めたのは小学2年生の時からです。しかし、スポーツを楽しむとか、スポーツで強くなるとかいった話のレベルではなく、幼い頃からの虚弱体質を少しでも改善しようと、親の勧めるまま町の剣道場に通い、そして中高校生時代には学校の剣道部に所属しました。兎に角、弱い剣道選手で、小学校からやっているというのに、初段を獲ったのは高校生の時でした。
 そんな訳で剣道の先生には、よく「自信を持ちなさい」などと言われ、実際、“自信”と書かれた二文字の色紙まで戴いたほどです。身体も弱ければ剣道も弱い、こと体力、運動では劣等生だったのです。そんな私がトライアスロンを目指そうとしたのは、高校3年生の時です。我らの大先輩である永谷誠一さん達が1981年のアイアンマン・ハワイを完走した新聞記事を見たのがきっかけです。

剣道に励んでいた高校生時代(後列右から2人目)

剣道に励んでいた高校生時代(後列右から2人目)

 三面の中段に載っていた新聞記事には、堤 貞一郎先生が25時間余りを費やし完走した話が出ており、「これならば運動音痴の自分にもできる」と思ったのです。ランニングは決して速いとは言えないが、高校2年生の時には校内マラソン大会で10番だったし、自転車も同級生と一緒に房総半島一周のサイクリングを経験したり、水泳もスイミングスクールの夏期講習会などに参加した経験もあったので、トライアスロンをこなす下地は一応、ありました。

「よーし、きっといつかはトライアスロンに挑戦するぞ!」

 何かしら胸の中に、ムラムラと勇気が湧いてくる思いがしました。それまで取り組んできた剣道にはない、新鮮で自分の可能性を存分に試すことができるものに出会えた気がしたのです。私はトライアスロンへチャレンジすることを、自身の胸の中に刻み込みました。

 それで大学へ入学した時、早速、私は水泳部と競走(陸上競技)部の門を叩きました。

「何? トライアスロン? 我々のクラブは、水泳オンリー。毎日、徹底的に泳ぐのみだ」

「そんな3種目のスポーツを呑気にやっている暇はない。マラソンをやりたけりゃ、毎日、走るだけだ」

 水泳部も競走部も同じ体育会系で、兎に角、インカレを目指して日々トレーニングに明け暮れるクラブなのです。「毎日、クラブ活動に参加できない者はお断り」と言われ、門前払いを食いました。そこで、次に自転車部を訪問したところ、

「いいよ。土日の練習さえ参加できれば、あとは自由。好きなようにやれば」

とのこと。当時、自転車部は体育会ではなく、体同連という同好会形式のクラブだったので、参加義務も緩かったようです。もちろん、私は喜んで入部しました。そして5月、クラブ所有のロードレーサーを借りての初練習は、東京・杉並の明大前から甲州街道を西へ東京と神奈川の境にある大垂水峠までの往復約100Km。ところが、走り始めて間もなく、調布付近に差し掛かった頃、見事に落車、腕や脚に擦過傷を負う洗礼を受けました。

「それにしても自転車って、速いんだなあ」

 感心と驚きの初練習でした。剣道で負けると、つい惨めになる私ですが、自転車では一向に挫けることがありません。初練習は失敗したものの、以来、土日の週末は先輩達の言われるがまま目一杯、トレーニングに励む日々が続きました。私の競技種目は5万mポイント・レースと長距離ロードレースですが、競輪場を借りて早稲田・慶應大学との合同練習会にも参加、トラックでのスピード練習もやりました。

伊豆CSC(サイクル・スポーツ・センター)でロードレースに参戦した大学時代

伊豆CSC(サイクル・スポーツ・センター)でロードレースに参戦した大学時代

 実力面では先輩達とかなりの差がありましたが、弱いなりに頑張って走りました。インカレの自転車競技大会に出場しても特段の成果は得られませんでしたが、練習でもレースでも常に前向きに立ち向かいました。剣道では「弱いから負けてもよい」と思いますが、こと自転車では「弱くても勝ちたい」という気持でした。その剣道は大学1年の秋まで続け、ようやく二段を取って止めました。
 今思うと、「剣道は弱いからつまらない。だから嫌だ。嫌だからやりたくない。」という、剣道のこの“パッシブな連鎖”に対し、「トライアスロンは面白い。だから練習も好きだ。好きだから強くなる。」という“ポジティブな連鎖”へと、私の心や気持が完全に変化していたのです。

≪中山俊行氏プロフィール≫
1962年、神奈川県川崎市に生まれる。1981年に湘南トライアスロン大会で優勝、トライアスロン・デビューを果たして以来、我が国エリート・トライアスリートの先駆者として活躍、“ミスター・トライアスロン”の称号を持つ。プロ・トライアスリートが集まった「チームエトナ」主将、「NTTトライアスロン・チーム」監督、JTU(日本トライアスロン連合)監督などを務め、我が国トライアスロン界をリードしてきた。現在はスポーツ活動のほか、自家の運送業「三和運輸株式会社」代表取締役としてビジネスにも奔走している。

中山俊行氏近影(07年3月、川崎市の会社事務所に於いて)

中山俊行氏近影(07年3月、川崎市の会社事務所に於いて)

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