日本トライアスロン物語
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。
第3章その2
実にアバウトな大会だ!

「その辺りでいいよ」「実にアバウト大会だ!」北村は心の中で呟きながらも、懸命に泳いだ。折り返しのブイや標識なんて在りやしない。彼の目分量で、折り返しを指示している大雑把なコース設定である。北村は終始トップのまま58分37秒でスイムを終えた。雨が降りしきる中、北村は震えながらバイク・ジャージに着替えた。
雨が降っていた。早朝のせいもあるが、9月だというのに寒い。
「こんな気象とコースで、本当にハワイ大会並みのフル・レースが出来るのだろうか?」
まだ赤ん坊の長女を東京・世田谷の妻の実家に残し、妻と2人で駈け付けた北村文俊だが、雨が強くて、しばらくクルマの中から出る気になれなかった。北村だけではない。他の選手も、出場を躊躇しているようだった。
「でも、出場して、自分の納得できる戦績を修めたい」
北村は、3週間前に第1回の皆生トライアスロン大会に出場、総合5位で完走したばかり。トライアスリートとしての実績と誇りを、この大会でも再現したかった。
1981年9月12日。天候は雨のち曇、普通なら残暑が厳しい9月だというのに、スターとする午前9時の気温は19℃、最高気温が23℃という寒い土曜日だった。“湘南トライアスロン大会”と称するアイアンマン・ハワイをモデルに行われるトライアスロン・イベントが、湘南海岸の江ノ島を舞台に始まろうとしていた。
当時、一周5Kmの皇居をコースにランニング記録会を主宰していたグローバルマラソン協会が企画したトライアスロン大会であり、日本では皆生トライアスロン大会に次いで2番目に開かれたイベントである。総距離はハワイと同等、もしくはその半分(ハーフ)の2つのカテゴリーで行われる予定だったが、当日の悪天候のためフルにエントリーしていた北村と神奈川出身の宇井信雄の2人がハーフの部へ変更し、結局、選手全員が同じ距離で競うことになった。
集まった選手は、わずか8名。31歳になる北村をはじめレース・アドバイザー役を務めた清水仲治、宇井、岩沢淳和、吉村才夫といった地元・神奈川の若いスポーツマン達、それと埼玉県富士見市からやってきた辻谷政久・昌子・政江の辻谷ファミリー3名である。そのほか主催者であるグローバルマラソン協会の橋本 昇会長ら2名と、選手の応援に駆けつけた家族、友人が集まった。ちなみに参加賞は、ゴワゴワの手染めのTシャツと軍手・軍足、いずれも作業着屋で売っている粗末な物だ。その割に表彰の優勝盾はとても大きく立派な物が用意されていた。
コースは、スイムが鵜沼海岸にある「いこいの広場」から江ノ島西浜海水浴場辺りまで海岸沿いを2往復する1.92Km、バイクは同じく「いこいの広場」から海岸沿いに造られたアスファルトの道路を辻堂海浜公園~汐見台~茅ヶ崎ゴルフ場前まで5Kmを9往復する89.6Km、ランはバイクと同じコース上を汐見台まで3.5Kmを3往復する21.09Kmである。
「必ず背の立つ所で泳いでください」
役員の説明を受けた後、スタートの合図が鳴ると、北村は意を決し水温22℃の海へ飛び込んだ。スイムは最初から先頭だ。500mほど進んで折り返し点の橋桁近くで海岸の方を見やると、グローバル協会のもう一人の役員が声を発した。
「その辺りでいいよ」
「実にアバウト大会だ!」
北村は心の中で呟きながらも、懸命に泳いだ。
折り返しのブイや標識なんて在りやしない。彼の目分量で、折り返しを指示している大雑把なコース設定である。北村は終始トップのまま58分37秒でスイムを終えた。雨が降りしきる中、北村は震えながらバイク・ジャージに着替えた。
結局、北村は終始、先頭のまま、その後のバイクを3時間40分49秒、ランを1時間46分45秒で走破し、トータル6時間26分11秒でフィニッシュした。2位の宇井に約43分の差をつけるダントツの一番だった。しかし、いい加減でアバウトなコース設定と大会運営に、北村は身体より神経が擦り減り、すっかり疲れてしまった。
「もう二度と出たくない」
以後、湘南トライアスロン大会は5回(3回まで湘南海岸)行われ、その5回大会時に歴代優勝者が招待されたが、北村は出場を断わったと言う。
一方、家族3人で出場した辻谷ファミリーは、どうしただろうか?
「無茶は承知の上だった。だけど、やってみたい。夫も娘も一緒だし…頑張らなくては」
そんな思いで出場を決意した辻谷昌子だが、兎に角、トライアスロンの練習を始めたのが1カ月前、バイクの練習は大会1週間前に夫と共に自宅から鎌倉まで走っただけ。だから、本当に完走できるかどうか心許なかった。選手として出場する夫と娘、それに私設エイドステーションで待っていてくれる3人の子供たちが唯一の頼りだ。
それにしても、バイクとランのコースはママチャリ用に設計された遊歩道兼サイクリング・ロードで、そこに風で運ばれてきた砂が所々、深く積もっていて、実に走りにくい。選手達は滑るまいと何度も及び腰になり、あるいはバイクから降りて歩く場面もあった。また幾つもの河川橋を渡るのだが、その度に道は直角のクランク状になっているため、選手達はコーナーを曲がる際にスリップ、転倒した。
しかし、昌子は頑張った。寒さに震えながらも、バイク約90Kmを休むことなく走破した。たいして練習もしなかったのに我ながら「良く乗れた」と思った。でもバイクから降りた時、自分の体重が支え切れないかのように、両脚がぐにゃりと曲がってしゃがみ込んだ。
大会では、給水も食べ物類は選手自身が用意しなければならなかったので、辻谷一家は専用のエイドステーションを設置した。その私設エイドで待っている子供達の応援をバックに、辻谷ファミリーの3人はスイムもバイクも無事にこなし、ほぼ同じ時間でランへと入っていった。
ランは夫よりも速い。フル・マラソンの最高タイムは4時間3分、グローバル協会が行う1周5Kmの皇居周回では、1㎞5分イーブンの25分で走る。雨はバイクの途中で止んだが、コース上の砂は雨に濡れて、ランニング・シューズの底も滑りやすい。しかし、昌子は挫けることなく、娘も夫も置き去りにし2時間38分31秒のタイムで快走した。トータル・タイムは8時間47分32秒で総合6位、辻谷ファミリーではトップでフィニッシュした。次いで、昌子に遅れること25分余りのトータル9時間13分10秒で政江が、最後に政久が同9時間14分33秒でフィニッシュし、家族全員が完走したのである。
こうして参加選手全員が無事、終了し、表彰式が行われた。そして、フル・トライアスロンの部の優勝者に贈られる大きな盾は、1位の北村ではなく辻谷ファミリーに贈られた。昌子は完走した喜びに浸った。彼女はこれまで、夫と共に数多くのトライアスロン大会に出場してきたが、その中で“湘南トライアスロン大会”は「苦しかったけれど、最も思い出に残る大会」として、今なお胸に刻んでいる。
会報にはトライアスロンのことを“ジョイント・スポーツ”と記し、同スポーツの「魅力、すばらしさを確信・実証しました」と述べている。
《次回予告》1980年年代前半に活躍したエリート選手達の群像と、その代表格だった中山俊行選手の<トライアスロン談義>を掲載します。
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。
<トライアスロン談義>昔のトライアスロンは良かった! 楽しかった!! 【辻谷 政久】
私と妻・昌子、それに次男・明久と次女・政江の家族4人がトライアスロンを始めたのは1980年前半のことでした。ファミリー・トライアスリートということで、大変、珍しがられ注目されましたが、私達家族にとっては特別、意識することなく、ごくごく自然に始めたことでした。それと言うのも、どうやら私達家族の血統は持久力があるようでして、言わばロングタイプ・ピープルのようです。実際、私も距離が長くなればなるほど頑張れるというか、まさしくトライアスロン向き人間なのです。
実際、トライアスロンのバイクで私はいつも他の選手に抜かれてばかりいましたが、バイク194Kmという国内最長距離大会の日本海オロロンライン・トライアスロン大会では、逆に150Kmから先は私が他の選手を抜き出したほどです。距離が長くなれば強みを発揮する。それが私であり、私の家族のようです。
そんな私達がトライアスロンに初めて挑戦したのが、1981年9月に神奈川・湘南海岸で開かれた「湘南トライアスロン大会」でした。出場したのは私と妻と娘の3人。その当時、私達夫婦はマラソンに取り組んでいまして、民間のマラソン大会主催者である「グローバル・マラソン協会」の会員メンバーになっていました。その協会の会報誌で湘南海岸でのトライアスロン大会の開催を知り、親子で出場を決意したのです。私が48歳、妻が42歳の時でした。
とは言っても、私も妻も自信があった訳ではありません。トライアスロンの3種目の競技は何とか出来ましたが、マラソン以外はほとんどトレーニングしていませんでしたし、スイムも戦争の訓練で行ったノシ専門、妻は平泳ぎですが、もとより水泳は苦手だし下手でした。その年の8月に行われた皆生トライアスロン大会へ出場を見合わせたのも、そんな自分達の未熟さを知っていたからで、それで湘南大会ではフルではなく、ハーフの部門にエントリーしたのです。
結果は、3人とも何とか完走、トライアスロン・デビューを果たしました。しかし、私は出場選手8名のうち8番のびりけつ、妻にも娘にも負けました。でも、それ以来、私達家族はトライアスロンが好きになって、北海道から沖縄まで、それこそ全国津々浦々、数え切れないほどトライアスロン大会に出場していきました。とは言え、大会では記録を狙うよりも“ゆっくりトライアスロンを楽しむ”ことが、私達のモットーです。
だからバイクやランでは、必ずと言ってよいほどエイドステーションに立ち寄ります。だって、素通りしてしまうのは悪いではないですか! 走りながらボランティアが差し出す飲み物や食べ物を、単に受け取るだけでは物足りないですね。やっぱりエイドステーションでは自転車から降りて、ゆっくり飲んだり食べたり、そしてボランティアの方々と和気あいあいお話をしてこそ、心の交流が生まれてくるのだと思います。
そんな楽しいトライアスロンを、私達は沢山、堪能してきましたし、フル・マラソンとは異なる感動の大きさをトライアスロンで味わいました。だから、昔のトライアスロンは良かった! 楽しかった!!
<<辻谷政久氏プロフィール>>
1933年、東京・浅草で生まれる。1959年、辻谷工業を設立し、以後、砲丸をはじめ陸上用スポーツ器具やレジャー用品などの設計・製造、レンタル事業を展開、現在に至る。特に同社製の砲丸が、シドニー・アトランタの両オリンピック大会において外国人選手が金・銀・銅を独占、世界に「辻谷の砲丸」の名を轟かせた。日本ファッション協会ものつくり大賞、厚生労働大臣賞・現代の名工として表彰されると共に、全国高校生ものつくりコンテスト大会審査委員を務める。