TOP > 連載コラム > 日本トライアスロン物語 > Vol.23:雷神の巻 第3章その1:“トライアスロン・ブーム”到来

Vol.23:雷神の巻 第3章その1:“トライアスロン・ブーム”到来

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第3章その1

“トライアスロン・ブーム”到来

【この記事の要点】

ジェリ-・モスが脱水症状となりゴール目前で何度も倒れ、四つん這いになりながらようやくフィニッシュ、力尽き倒れてしまう劇的なシーンがアメリカABCテレビで放映され、改めてトライアスロンの魅力を世界の人々を知らしめたのである。このジュリーのゴールシーンをきっかけに、トライアスロン・ブームの旋風が全世界を駆け巡ったのだった。

「ジュリー、元気を出せ! ゴールまで、あと百メートルだ」

「起き上がって、ジュリー」

「ジュリー、頑張れ。もう少し!!」

「その調子! 一歩一歩、進むのよ」

 ゴールゲートまで、あと400mの地点までやってきたアメリカの女子トライアスリート・ジュリー・モス(当時22歳)は突然、力尽き、バタッとコース上に倒れ伏した。だが、アイアンマン・ハワイの競技規則で、彼女を助けることは誰もできない。フィニッシュ・ゲート周辺に群がる多くの観衆も、そしてコース誘導するボランティア達も、ただただジュリーのフラフラと何度も倒れ、また起き上がりながらゴールへ向かう姿を見守るばかりだった。そして、ようやくゴールゲートへ近づいた時、ジュリーはもう立ち上がることはできず、両手を路面に着き、這いつくばったままフィニッシュ・ラインを越え、その場に倒れ伏したのである。

 このドラマチックなゴールシーンは1982年2月にハワイ島コナ市で開催された第5回アイアンマン・ハワイ大会で起きたことである。ハワイの鉄人レースは、それまでもニュースポーツという話題性とレースの過酷さ故に世界のアスリート達の間で大きな反響を呼んでいたが、ジェリ-・モスが脱水症状となりゴール目前で何度も倒れ、四つん這いになりながらようやくフィニッシュ、力尽き倒れてしまう劇的なシーンがアメリカABCテレビで放映され、改めてトライアスロンの魅力を世界の人々を知らしめたのである。日本から堤 貞一郎(故人)ら8名の勇者が、はるばる参戦した第4回アイアンマン大会の翌年、このジュリーのゴールシーンをきっかけに、トライアスロン・ブームの旋風が全世界を駆け巡ったのだった。

四つん這いになってゴールを目指すジュリー・モス(ランナーズ刊『Athletic Book』1984年1月号より)

四つん這いになってゴールを目指すジュリー・モス(ランナーズ刊『Athletic Book』1984年1月号より)

 これまで見てきたように水泳・自転車・マラソンの3種目を連続して行うトライアスロン競技は1978年2月に第1回大会がハワイ州オアフ島で行われ、その規模が年々拡大され、ついに1982年10月には「世界トライアスロン選手権」の称号を得て国際的な広がりを見せるに至った。このトライアスロンの急激な成長と拡大の波紋はアメリカをはじめ欧州各国にもその輪を広げ、ついに日本へも及んだ。
 その波紋が“風神の巻”で書き記した皆生トライアスロン大会である。鳥取県米子市の皆生温泉という日本海を臨んだ温泉街を舞台に、日本人が初めて参加した第4回ハワイ大会と同じ年の81年8月、第1回皆生トライアスロン大会が開催されたのである。以後、日本においてもトライアスロン大会が順次、開催され、85年の全日本宮古島トライアスロン大会やびわ湖アイアンマン大会、天草国際トライアスロン大会の開催へと結び付いていったのである。

 すなわち、皆生大会が開幕した81年から湘南トライアスロン大会、小松トライアスロン大会、久留米トライアスロン大会といった各大会を経て宮古島、びわ湖、玄海、天草へと波動していった1980年代前半の物語が、これから始まる“雷神の巻”の中味である。

 一方、この5年間は、まさしく天空に雷鳴が轟くかのような激動の5年間でもあった。それはトライアスロン大会が次々と誕生していく中で、トライアスロンのクラブチーム、競技団体や大会主催団体、エージェント、スポンサーなど関係者が全国各地、各セクトで生まれ、互いにしのぎ合い、トライアスロンの普及を図っていった時期でもあったからだ。

 クラブチームで言えば、第1回皆生トライアスロン大会が終了した81年9月に、我が国で最初の熊本CTC(熊本クレージー・トライアスロン・クラブ=永谷安子ゼネラル・マネジャー)が約20名の会員によって設立されたのを皮切りに、JTRC(ジャパン・レーシング・トライアスロン・クラブ=矢後潔省会長)、ATC(オールジャパン・トライアスロン・クラブ=市川祥宏理事長)といった全国的なクラブ組織が次々と誕生していった。

 また団体・機関で言えば、83年10月に日本で初めてのトライアスロン競技団体「皆生トライアスロン協会」が発足したのを始め、翌84年11月には後のアマチュアによる全国規模のトライアスロン競技団体「日本トライアスロン協会」(JTA=Japan Triathlon Association)の前身となる「複合耐久種目全国連絡協議会」(清水仲治代表幹事)が、翌85年春には長嶋茂雄を会長に据えた「日本トライアスロン連盟」(JTF=Japan Triathlon Federation)が発足し、トライアスロン大会の開催並びにトライアスロンの普及啓発に乗り出したのである。

 そして、これらクラブや競技団体に関与したアスリートや電通などエージェント、フジテレビ・日本テレビ・NHKなどマスコミが、85年に一斉開花したトライアスロン・ブームの火付け役となる。そのキーワードとなった人物が、前述の清水仲治(故人)、矢後潔省、市川祥宏、そして中山俊行選手をはじめとする男子エリート選手を集めた「チーム・エトナ」監督の猪川三一生、JTFによる51.5Kmレースの運営に携わった大塚眞一郎、JTA事務局長を務めた㈱ランナーズ社長の橋本治朗、トライアスロン・ドクターの名で呼ばれた東京医科大学教授の岩根久夫(故人)、後に「日本トライアスロン連合」(JTU=Japan Triathlon Union)設立の誘導役として活動した「トライアスロンを発展する会」代表代行の佐々木秀幸(当時、日本陸上競技連盟理事)らである。

 この“雷神の巻”では、彼らキーマンの動静をも含め、我が国トライアスロンの普及、拡大へとスパイラルに展開していった激動の1980年代前半の物語を述べることにする。 

《次回予告》1981年9月に行われた第1回湘南トライアスロン大会の模様を記します。

 

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>トライアスロン・ブームを支えたバブル経済  【桜井 晋】

 アメリカ西海岸で発祥し、常夏のハワイで形作られたトライアスロンが、1980年代に入って世界的なレベルで普及し、特に欧米・オセアニア諸国では“ブーム”的な様相を見せるまでに至った。それはトライアスロンが包含する野生味を帯びたチャレンジングなアウトドア・スポーツが、それまでにない新鮮さを持って世界のアスリート達の心を揺り動かしたからである。

 そして、世界へと急激に広まったトライアスロン・ブームは、ほぼ5年遅れで日本へも上陸した。その第一歩を記したのは、永谷誠一や堀川稔之ら8名が81年に日本人として初めてハワイ大会へ出場、完走した輝かしい挑戦であり、次いで日本海に面した山陰地方の小都市で実現した皆生トライアスロン大会であったことは、誰もが知るところである。

 だが日本国内において本格的な普及の端緒となったのは、85年に相次ぎ開催された宮古島大会、びわ湖大会、天草大会であった。しかも、これら85年のトライアスロン・イベントのお膳立ては、実は80年代前半にエージェントやマスコミが地方自治体をも巻き込み、水面下で着々と取り組まれていたのである。

 例えば、宮古島大会開催の発端となったのはJAL(日本航空)の宮古島直行便の就航計画や、NHK(日本放送協会)が放送衛星を利用したBS実験など外的な誘導要因も重なったが、実は宮古島では“ウェルネス・アイランド構想”と名付く『宮古圏域長期振興ビジョン』に基づいた島興しのための盛り沢山の開発プロジェクトを実現させる大きな働き掛けがあったからであり、トライアスロン大会の開催もそのうちのワン・プロジェクトだったのだ。と同時に、島内各地域間での人的・営利的対立関係を解消するために、島内一周を巡るトライアスロン大会の開催が望まれていたのである。

 こうした各大会にまつわる水面下の誘導要因、そして大会主催者やトライアスロンをイベント・ビジネスに仕立て上げていく関係者達の活躍振りは、この“雷神の巻”で語られていくだろう。さらに85年以降はトライアスロン大会の開催が次々と企画、実行に移され、トライアスロンはブーム的な現象さえ見せたが、1980年代の10年間を通じ爆発的に拡大していったトライアスロンを根底から支えていたのが、日本が世界の経済の頂点に立ち社会的繁栄をもたらした日本経済そのものであったことを忘れてはならない。

 1970年代前半に勃発したアメリカ・ニクソン政権下での“ドルショック”さらには“オイルショック”を克服した日本経済は、1980年初頭には自動車生産台数で世界一となり、次いで「戦後政治の総決算」を標榜した中曽根政権下において、84年にはおよそ9割の国民が自身の生活程度について「中流意識」を抱くに至った。この経済の奢り、まさしく金融バブルという幻想経済の下で、日本人の多くが好景気に躍らされていたのである。

 このため、80年代に吹き荒れたトライアスロン・ブームの旋風下で、多くのトライアスロン関係者やアスリート達は豊かな経済力を背景に、トライアスロンという3種目の運動競技を堪能することができたし、トライアスロン大会への参加を夢見て国内のみならず世界へと旅立っていったのである。そのトライアスロン・ブームの陰にこそ、当時のトライアスロン界が抱えざるを得なかった問題が次々と山積みされていった。

 それら問題は、1990年代に入ってバブル崩壊という日本経済の破局化の過程で露見され、JTAなど組織の脆弱性と破綻、それ故の人材育成の欠如、大会の企画・運営のマンネリ化、その結果としての《トライアスロン文化》の不毛に及んだ。こうした問題と関係者の行動軌跡は、1980年代後半を物語る“火神の巻”で記す。

 

《桜井 晋プロフィール》
スポーツ・ジャーナリスト。MSPO誌『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹。「トライアスロンを発展させる会」世話人。トライアスロン関係の著書として『波と光と風のある夏』、『新トライアスロン入門』、『必勝これがトライアスロンや』などがある。

 

第3回宮古島トライアスロン大会(1987年4月)を完走した筆者(写真右から2人目)とトライアスリートの仲間達

第3回宮古島トライアスロン大会(1987年4月)を完走した筆者(写真右から2人目)とトライアスリートの仲間達

Copyright © 2015 Neo System Co., LTD. All Rights Reserved.