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Vol.22:風神の巻 第2章その9:トライアスロンは冒険だった

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その9

トライアスロンは冒険だった

【この記事の要点】

この年の10月30日、皆生トライアスロン協会が発足した。トライアスロンをお祭りイベントとしてだけでなく、競技スポーツとして定着させると共に、大会運営をしっかりとした組織の下で展開していこうという狙いだった。

 

皆生温泉旅館組合が60周年記念事業として1981年に開催した日本で初めてのトライアスロン大会は、実は1回限りのイベントとして企画されたものだが、その翌年も、またその翌年以降も開催され、今日現在、わが国で最も長いトライアスロンの歴史を刻む大会として存続している。

「選手達の強い要望もありましたが、第1回大会が終わってボランティアや役員スタッフなど大会に携わった者も心温まるもを感じていました。だから、これ切りでなく、来年も開催しようということになったのです」

 第1回大会が終えて、福本安穂や片桐 隆、石尾寿朗らKT実行委員会の面々は思いを同じくしたのだ。

第1回から第5回の大会パンフレット

第1回から第5回の大会パンフレット

 そして第2回大会はスイム3Km、バイク103.6Km、ラン40Kmと、3種目の距離がそれぞれ延長され、1982年7月に開催された。参加選手も100名と2倍に膨れ上がり、なんと熊本のワサモン集団は総勢20名余りがトラックとバス2台で皆生温泉へ乗り込んだという。また「トライアスロン」の名を聞き付けたアスリート達が冒険心に燃えて全国各地から集まった。後述の『トライアスロン談義』に登場する脇田重男や市川祥宏もそれぞれ大阪、千葉から参加した。市川は当時のことを次のように振り返る。

「不安と恐怖心に苛まれながら、皆生大会へ出場しました。大学時代は陸上の中長距離ランナーとして鍛えてきましたので、陸の上のランやバイクは何とかこなすことはできるだろうと思っていましたが、何しろスイムが苦手ですから、スタート寸前まで、いや泳ぎながらも終始、不安が付き纏っていたのです。大袈裟ですが、死ぬ覚悟さえしたほどです。これは私だけでなく、同じ旅館に泊まり出会った脇田さんもそうですが、初めて参加した多くの人が抱いた気持だと思います。日本でトライアスロンが始まった1980年代前半は、アスリートにとってトライアスロンは冒険だったのです」

市川祥宏氏(06年7月、千葉・船橋にて撮影)

市川祥宏氏(06年7月、千葉・船橋にて撮影)

 この第2回大会の完走者は98名、トップに立ったのは第1回大会の優勝者である下津紀代志の体育教師であった熊本県出身の田上栄一(31歳)で、総合タイムは8時間35分26秒だった。2位には第1回大会にも出場した東京都出身の北村文俊(32歳)、3位に神奈川県出身の高山信行が入った。第1回大会優勝者の高石は欠場、下津は総合8位でフィニッシュした。また、女子は永谷誠一の娘である永谷美加(23歳)が優勝、以後、第4回大会まで連続優勝を続ける。

競技距離が延長され、3種目のトランジットも辛うじて繋がった第2回大会のコース図

競技距離が延長され、3種目のトランジットも辛うじて繋がった第2回大会のコース図

 翌83年の第3回皆生トライアスロン大会に出場した市川は、バイクで事故を起こしリタイアした。スピードの出し過ぎか? ガードレールに突っ込み、左股を切り裂き病院へ運ばれたのである。ところが市川の事故よりももっと悲惨な事故が、この第3回大会で発生した。この皆生大会の開催の立ち上げをバックアップし「トライアスロン界の父」と呼ばれた堤 貞一郎がスイム競技中に溺れるという、致命的な水難事故が発生したのだ。
 大会当日の天候は良好だったが、三保湾の海は大きくうねっていた。堤は、そのうねりに呑まれ溺れてしまったのだ。前年の第2回大会では、神戸大学の学生で水泳選手だった息子が3Kmのスイム・コースを一緒に泳いでサポート、約2時間半をかけ泳ぎ切ったのだが、今回は単独で挑戦し無念にも波の力に屈したのである。堤は自衛隊の飛行機で熊本の病院に運ばれたが、意識不明のままその後、約3年間眠り続け還らぬ人となった。

 この年の10月30日、皆生トライアスロン協会が発足した。米子市観光協会と皆生温泉旅館組合の関係者たちが中心となってつくった日本で初めてのトライアスロン競技団体で、第3回大会が210名(うち女性7名)と多くの参加選手を集め全国的に皆生の名が知られるようになったのを機に、設立の運びとなったのである。トライアスロンをお祭りイベントとしてだけでなく、競技スポーツとして定着させると共に、大会運営をしっかりとした組織の下で展開していこうという狙いだった。

 それから7年後、皆生大会は参加選手の定員500名という規模で1990年7月に第10回記念大会が開催された。この第10回を記念して大会スポンサーである山陰信販が寄贈したのが「トライアスロン発祥銘板」である。その銘板には日本人として初めてトライアスロンにチャレンジした第1回大会の参加者53名の名が刻まれている。そして地元・米子市出身の彫刻家・石田 明が第5回記念大会の時に制作、完成させたブロンズ像(作品名;夏)と共に“日本トライアスロン発祥記念碑”として皆生温泉海水浴場の砂浜に設置された。

海水浴場の砂浜に立つブロンズ像

海水浴場の砂浜に立つブロンズ像

「日本トライアスロン発祥記念銘板」に刻まれた自分の名を指差す北村文俊氏(03年7月撮影)

「日本トライアスロン発祥記念銘板」に刻まれた自分の名を指差す北村文俊氏(03年7月撮影)

  それから10年後の2000年7月、大会20周年を記念して第1回大会に参加したメンバーの同窓会が大会前日に開かれた。永谷と高石ともやの呼び掛けでこの日、皆生温泉に集まったのは21名、うち5名が翌日の記念大会に出場したのである。その5名のうち、54歳で出場してから20年の歳月を経て74歳となった永谷だが、ランに入って左大腿筋が断裂、18Kmで制限時間オーバーとなりリタイアした。永谷がトライアスロンでリタイアしたのは、これが初めてだが、以後、トライアスロン大会には出場していない。

第20周年記念大会に参集した第1回大会の勇者20人の面々(前列左から渡辺克巳、大川俊夫、塩澤光久、萩原清光、永谷誠一、北村文俊、城 菊郎、宇山雄司、後列左から沓掛修一、飯田秀樹、緒方 隆、鎌田秀明、岩本克雄、辻 由紀子、高石ともや、村上好美、小西章平、榎本 隆、増田真一、圓岡操夫)

第20周年記念大会に参集した第1回大会の勇者20人の面々(前列左から渡辺克巳、大川俊夫、塩澤光久、萩原清光、永谷誠一、北村文俊、城 菊郎、宇山雄司、後列左から沓掛修一、飯田秀樹、緒方 隆、鎌田秀明、岩本克雄、辻 由紀子、高石ともや、村上好美、小西章平、榎本 隆、増田真一、圓岡操夫)

 わが国トライアスロンの栄光の歴史を刻む皆生トライアスロン大会。その大会讃歌として大会15周年記念に高石ともやが作詞・作曲し、自ら歌った皆生トライアスロンの歌「サマータイムドリーム」の一節を紹介し、皆生トライアスロン大会にまつわる物語を、これで一先ず終わる。

伝えておくれ、勇者の伝説
山よ大山
オー、サマータイムドリーム
過ぎゆく夏の稲妻のように
走りゆく君
オー、サマータイムドリーム
 
《次回予告》
9回にわたって連載した皆生トライアスロン大会の物語は今回で終了し、次回から湘南ハーフトライアスロン、小松トライアスロン、久留米トライアスロン、玄海トライアスロンの各大会の話を綴っていきます。その後、JTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)やATC(オールジャパン・トライアスロン・クラブ)など全国各地で誕生したトライアスロン・クラブ、さらには日本トライアスロン協会や日本トライアスロン連盟の創立の動きなどを紹介した後、宮古島トライアスロン大会、琵琶湖アイアンマン大会の物語を記していく予定です。このため当編集委員会では今後、これら各大会の開催や組織化に関わる関係者の取材を展開していきますので、ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>皆生で生まれ、皆生で育てられた  【脇田 重男】

「えらかったねえ」

 約10時間をかけてようやく完走した私は風呂に浸かりながら、同じ湯に入っていた男性に語り掛けました。男性とは初対面でしたが、たまたま同じ時間にフィニッシュして、旅館の風呂で出会ったのです。すると、立派な顎鬚を蓄えた男性は大きく頷きながら、

「ほんとうに、きつかったね」

「初めてでっか? トライアスロンは」

「ええ、初めてなので恐ろしかったけど、何とか完走しました」span>

「僕も初めて。ほんま、しんどかった」

 私が湯船の中で話し掛けた相手は、千葉県出身の市川祥宏さんであり、その市川さんも私とは1分差もないほぼ同タイムの総合18位でゴールしたことを知りました。

 そう、私がトライアスロンに初めて挑戦したのは、1982年に開催された2回目の皆生大会でした。私が35歳の時です。前年の8月に朝日新聞で第1回大会の記事を見て、

「よおし! 俺もやったるわい」

 体内の血が逆流したかのような思いでした。3種目をこなす自信はありませんでしたが、子供の頃から体育は得意だったし、高校生の時は陸上競技部に所属してもっぱら長距離走をやっていましたので、何とかできるだろうという気持でした。早速、その年の9月からランニングを開始、スイミングも自己流の平泳ぎを止めてクロールの練習を積み、ほぼ1箇月でマスターしました。また、それまで吸っていた煙草も1週間後に止め、年末にはロードレーサーも購入、第2回皆生大会への出場体制を整えていったのです。
 そして、いよいよ皆生へ向かう時は、自分の骨を拾ってもらう積もりで実兄にクルマで同行してもらいました。その決死の覚悟で挑戦した結果は、総合16位、タイムは10時間4分15秒でした。

 それからというもの私はトライアスロンの魅力に憑かれ、2002年までの21年間、55歳の歳まで皆生大会に出場しました。トライアスロンに関して言えば、まさに私は皆生で生まれ育てられたようなものです。その間、大会主催者の方々には沢山、お世話になり、また数多くのトライアスリートと出会いトライアスロンの素晴らしさを分かち合ってきたのです。市川さんとも出会い、同じ経験、同じ思いを持てたことを、今でも喜んでいます。
 ところで、私の皆生大会への出場が最後となったのは02年の第22回大会でした。スイムの中間点に差し掛かった頃、同じ参加選手から喧嘩を吹っかけられたのです。その不快な思いが競技中、付きまとい、バイク競技が終了した時点でリタイアを決めました。その後、今日まで皆生大会はもちろん、他のトライアスロン大会にも出場していません。

 やはり出場するからには自分の力を目一杯出し切りたい。しかし、最早トレーニングを積むこと自体が辛いし、あるいは辛くてもそれを克服する情熱を失いかけています。いまや皆生を完走することさえ容易でないというのが実状です。でも、トライアスロンを続けてきたからこそ、その経験が私の人生を豊かにし、かつ深められてきたと思います。
 だから、これからもトライアスリートとしての生活を続ける積もりですが、レースでは順位やタイムへのこだわりを捨てて、生涯スポーツとしてトライアスロンを自分なりに楽しんでいこうと思っています。そしていつの日かきっと、皆生に戻ります。

脇田重男氏(03年4月、大阪にて撮影)

脇田重男氏(03年4月、大阪にて撮影)

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