TOP > 連載コラム > 日本トライアスロン物語 > Vol.21:風神の巻 第2章その8:トップの選手2人が手を繋ぎ合いゴールした

Vol.21:風神の巻 第2章その8:トップの選手2人が手を繋ぎ合いゴールした

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その8

トップの選手2人が手を繋ぎ合いゴール

【この記事の要点】

トップの2人が皆生温泉街に入ってきた。いよいよフィニッシュする。2人を迎え称える拍手が栄光のゴール・ラインに鳴り響いた。そのゴール・ラインを後に「フィニッシャーズ・ストリート」と呼び、今日に及んでいる。

 

“スピードは時として美しい しかし、耐える姿はなお美しい あなたの人生の1ページに「完走」の二文字を刻んでください”

 大会主催者が参加選手たちに贈ったメッセージである。そのメッセージにある通り、53名の選手達は「完走」の二文字を目指して、三保湾の海で泳ぎ、大山を巡る山道で自転車を漕ぎ、そして今、最後の種目のランに入った。

 ランは鳥取県西部健康増進センターから皆生温泉街を通り抜け、境港市の水産加工団地を折り返す36.5Kmのコースである。米子市から漁獲水揚げ量で国内を代表する境港市まで続く弓ヶ浜半島を往復する。国道の裏道の松林が続く一本道を走り、時には歩道橋を渡ったりするコースだ。

辛くても頑張って走る選手達

辛くても頑張って走る選手達

辛くても頑張って走る選手達

辛くても頑張って走る選手達

 それにしても暑い。朝から雲一つない炎天の下、選手達は余りの暑さに喘いだ。この日、最高気温は28.8℃にも達したという。選手達の体力の消耗を心配して、主催者側はコース途中で何度か体重計測を行った。ハワイ・アイアンマン大会の真似をしたのである。この体重計測のルールとは、水泳終了後、自転車・マラソンの競技中、体重を測定することによって、体重が極度に減少した選手に対し競技中止を命ずるというもの。しかし、体重計測で失格になった選手は誰一人いなかった。

ランの途中で体重測定

ランの途中で体重測定

 0616そしてスイム・スタートから6時間ほど経った午後1時頃、ゼッケン51番の下津紀代志(熊本県出身、22歳)と同58番の高石ともや(福井県出身、39歳)の2人が、互いにトップを譲らず併走を続けていた。しかし、ゴールが近づく頃、高石は言った。

「お互い、ここまで頑張ったのだ。最後は一緒にゴールしよう」

 その高石の提案に下津も深く頷いた。

トップの2人が皆生温泉街に入ってきた。いよいよフィニッシュする。2人を迎え称える拍手が栄光のゴール・ラインに鳴り響いた。そのゴール・ラインを後に「フィニッシャーズ・ストリート」と呼び、今日に及んでいる。

 下津と高石は共に手を取り合い、その手を空に突き上げてゴールテープを切ったのである。総合タイムは6時間27分33秒。ちなみに2人の3種目のタイム・スプリットはスイムが高石49分24秒、下津52分54秒、バイクが下津2時間34分25秒、高石2時間45分10秒、ランが下津2時間45分33秒、高石2時間48分33秒だった。(トランジション・タイムは除く)第3位にはゼッケン5番で鳥取市出身の森本謙一(32歳)がトップと約23分差の6時間50分27秒で入った。また、出場者2人を数えた女子選手のうち、ゼッケン28番の辻 由紀子(熊本県出身、31歳)は10時間22分47秒、総合38位でフィニッシュした。ちなみに、計測はすべて手動のストッポッチで行われたという。

高石選手(写真左)と下津選手(写真右)が共に手を繋ぎ合いフィニッシュした

高石選手(写真左)と下津選手(写真右)が共に手を繋ぎ合いフィニッシュした

 鳥取県西部健康増進センターがあるゴール地点に灯かりが点された。すでにフィニッシュした選手達は旅館の風呂に入り夕食を済ませる者もいたが、一方でまだゴールを目指し走っている者もいた。結局、最終走者は参加選手中の最高年齢者、広島県呉市から参加した66歳の小田 治(ゼッケン8番)で、総合タイムは13時間15分00秒、夜8時過ぎのフィニッシュだった。出場選手53名中、完走者は49名、残り4名はスイムで1名、バイクで3名がリタイアしたのである。

07031
 
 その夜、選手達と大会役員・ボランティアとの交流を深める完走パーティが開かれた。そして、すべての大会行事が終了し自宅に戻った競技委員長の福本安穂は、日記に次のように記した。

 「みんなの力の結集により私のアイデアが実をむすんだ。涙がこぼれそうに嬉しい。来年も来て貰える様にがんばろう」

完走パーティでは高石ともやのギターの音色と歌が会場に響き渡った

完走パーティでは高石ともやのギターの音色と歌が会場に響き渡った

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>故郷に錦を飾ることができた  【小原 工】

 私がトライアスロンと初めて出会ったのは、中学2年生の時でした。暑い夏の晩、父親のクルマに乗って米子市内の夜道を走っていた時、助手席に座っていた私の目に黄色く光るペンライトを片手に持ちながら走っている人達の姿が映ったのです。

「お父さん、あれは何?」

 私は父親に聞きました。

「トライアスロンだよ。水泳と自転車をやって、今、最後のマラソンを走っているのだ」

「えぇっ、こんなに遅くまで…」

 私は驚きを隠せませんでした。それと同時に、なんて凄いスポーツなのだろう! と思いました。この中学生の時、私が抱いたトライアスロンの印象が、その後の私のスポーツ人生に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもありません。

 しかし私のスポーツ人生は、青少年時代においてはトライアスロンではありませんでした。それは競泳と水球です。中学生の時は400mと1,500m自由形の選手として活動しました。また、大学時代は水泳部に所属し、水球に夢中になりました。実は、その水泳部の1年後輩に吉村 純君がおりまして、彼はトライアスロンの同好会をつくり自らトライアスロンに挑戦していました。同じ後輩の佐久間規全君は、私より水泳が遅かったにもかかわらず仙台国際トライアスロン大会ではスイムをトップであがってきたのです。

 さらに大学の先輩として八尾彰一さん(現チーム・テイケイ監督)が、日本のトップ・トライアスリートとして活躍するなど、私の大学時代は周囲にトライアスロンに関わる人達がいたため、嫌がうえにも私はトライアスロンに強い関心を持たざるを得ませんでした。それで大学3年生の夏休みに帰省した際、皆生トライアスロン大会を改めて自分の目で見、確かめることにしたのです。そして、改めて関心と強い興味を覚えました。

「なんて! 凄い競技だろう。自分も挑戦してみたい。でも出来るだろうか?」

 特にバイクの速さには驚きました。山を下るスピードは優に時速60Kmを越えていたと思われます。トップの選手達がはるか向こうの坂の頂上(いただき)にいたかと思うと、見るみる間に近づき、私の目の前を風のように通り過ぎ、また反対の坂の頂上に向かって身体を左右に揺らしながら登っていくのでした。トライアスロンを目の当たりに見た私は、この時、感動と共にトライアスロンにチャレンジしていく決意を固めたのです。

 私がトライアスロンに初めて出場したのは23歳の時、皆生トライアスロン第10回記念大会でした。その当時、陸上競技と水泳をやっていた弟の充(当時19歳)と共に出場しました。私も弟に負けずランニングが得意だったし、もちろん水泳は誰にも負けないくらいの自信を持っていましたので、総合で10位以内はいけるだろうと思っていました。しかし、蓋を開けてみると、実に私が甘かったことに気付かされました。事実、スイムはトップであがり、バイクも中盤までトップを維持し続けましたが、後から弟が追い付いてきたのです。弟は私に、

「兄貴、一緒に行こう!」

 そう言って私を励ましてくれましたが、すでに疲労困憊していた私はその後もズルズル落ち込んでいって、結局、バイクは6番目にゴール。ランでは暑苦しさで目の前が真っ白になる始末、途中10Kmほど歩き、総合50位でようやくゴールしたのです。ちなみに、この10回記念大会の総合の部・優勝者は磯野公男さん、2位が細田恵誠さん、そして3位が弟でした。

 この初めてトライアスロンに挑戦し失敗した貴重な体験が、私をトライアスロンにのめり込ませてくれたのです。

「何年かかるか判らないけれど、きっといつの日か、故郷で優勝しよう」

 それから私は仕事をしながら、トライアスロンの練習に打ち込んでいきました。その私の願いは、早い機会に叶えることができました。翌年の第11回大会は、谷 新吾さんに優勝を譲ったものの総合2位となり、翌年の第12回大会では優勝、2位の弟と共に兄弟でワンツー・フィニッシュすることができたのです。

 その後、私はトータル距離51.5Kmのショート・ディスタンス・トライアスロンに専念し、ワールドカップや世界選手権などの大会を経てシドニー・オリンピックに出場を果たし、日本人として最高位の成績を収めることができました。そしてまたショート・トライアスロンと離れ、再びロング・トライアスロンの皆生大会に復帰、一昨年の第24回大会と昨年の第25回記念大会を連続して優勝しました。

 思えばオリンピックという、当初、考えてもみない世界に入った私ですが、その私がトライアスロン発祥の地に育ち、故郷の大会で多くのことを学ばせて戴き、その結果、世界のトライアスロンの舞台で活躍できたということは、本当に意義深いことだと思っています。それもこれも皆生トライアスロン大会があったからであり、同時に皆生の多くの人々が私の背中を後押ししてくれたお陰だと感謝しています。

第24回大会で優勝インタビューを受ける小原選手(04年7月撮影)

第24回大会で優勝インタビューを受ける小原選手(04年7月撮影)

Copyright © 2015 Neo System Co., LTD. All Rights Reserved.