日本トライアスロン物語
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。
第2章その7
53名の英雄が泳ぎ出した
眩しい太陽の陽射しを避けるかのように、浜辺に集まった選手や役員スタッフが額に手を翳し三保湾の海に視線を注ぐ。選手たちは、まるで太陽の子のように黒々と日焼けした身体を露わに、二本の足ですっくと浜辺に立ち、スタートの合図を待っていた。
日本海に臨む美保湾の海は凪いでいた。その三保湾を包むかのように、日野川が流れる皆生温泉から日本三大漁港のうちのひとつ境港まで、ゆるやかな弓形の曲線を描いた弓ヶ浜(夜見ヶ)半島が延びている。
第1回皆生トライアスロン大会は、美保湾の最も奥まった皆生温泉の海岸に造られた海浜公園前の浜辺から、トライアスロンの最初の種目・スイムがスタートする。竹棹を両側に立てたスタートラインの旗が、朝の風に靡いている。天候は朝から快晴、空は晴れ渡っていた。
「今日も熱くなるぞ」
誰かが叫ぶように言い放った。眩しい太陽の陽射しを避けるかのように、浜辺に集まった選手や役員スタッフが額に手を翳し三保湾の海に視線を注ぐ。選手たちは、まるで太陽の子のように黒々と日焼けした身体を露わに、二本の足ですっくと浜辺に立ち、スタートの合図を待っていた。
「ピーッ」
午前7時きっかり、大会役員がホイッスルを鳴らした。
ザブ、ザブッ、ザブ、ザブッ、ザブ、ザブッ………。
波飛沫をあげながら、選手たちが海に入っていく。スイム2.5Kmの競技がスタートしたのだ。そして、この瞬間、わが国におけるトライアスロン・スポーツのドラマが始まったのである。53名の選手達は次々と海の中へ入り、自動車のチューブをブイ代わりに設置したコースを泳ぎ出していった。
浜辺に残ったのは大会役員スタッフと選手の家族や友人など大会関係者がほとんどで、一般の観戦者はごくごく少ない。KT実行委員会のPR不足もあってか、この第1回大会は地元には今ひとつ浸透しなかったようだ。
しばらくして…とでも言えばよいか、スタートして選手達の姿が見えなくなってから束の間、浜辺で観戦している人々がアッと驚くばかり、早くもスイム2.5Kmを泳ぎ切り浜辺に向かってくる選手が見えた。
「エエッ、まさか! もうゴールするの?」
浜辺の観戦者たちは口々に驚きの声をあげた。スイムをトップであがったのは熊本の「ワサモン集団」のうちの一人、ターザンのニックネームを持つエドウィン・スタンプ(ゼッケン34番)である。
スタンプはアメリカ出身の22歳、熊本市内でYMCAの英語教師をしている。タイムは32分32秒。浜辺で選手たちのゴールを迎える役員スタッフ達は、スタンプの余りの速さに舌を巻いた。だがスタンプは、バイクのスタート地点までクルマで搬送されるため、後続の選手がゴールしてくるのを待たなければならない。
それもこれも地元・米子警察署の強い意向で山陰地方の大動脈・国道9号線を横断することが許可されなかったため、スイム・ゴールから8Kmほど離れた淀江町西尾原まで、選手達をクルマで搬送しなければならなかったのである。まさに苦肉の策として設置されたバイク・スタート地点であった。
クルマは旅館の送迎バスや乗用車など合計10台、スイムをフィニッシュした選手が4名揃ってからピストン輸送でスイム・ゴールとバイク・スタート地点を往復した。しかし、クルマのスピードも搬送コースもマチマチ、中には気を利かした運転手が抜け道を使って先に出たクルマを追い抜かすこともあった。
バイク・スタート地点の淀江町西尾原は、すでに大山の麓。ここから折り返し地点の中山町樋口まで厳しいアップダウンの道程が待っている。でも当時のバイク・コースは未舗装個所が数多く、選手たちはあちこちでパンク事故に遭遇した。しかし、「大会を通じ様々なトラブルが生じたものの、選手たちに決定的なダメージを与える事故は一つもなかった」と競技副委員長の片桐 隆は当時を振り返る。
そしてラン出発地点である皆生温泉内にある鳥取県西部健康増進センターのトランジション・エリアでは、バイク63.2Kmのコースをようやく走り切った選手たちがくつろいでいた。ほとんどの選手がラン・ウェアに着替えながらエイドステーションの飲食物を食べながら、飲みながら談笑している。このトランジション・エリアは、戦うスポーツ競技の場というよりも、楽しく和気あいあいとしたレクリエーションの場のような雰囲気が漂っていた。
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。
<トライアスロン談義>スポーツと縁遠い者が挑戦した 【飯田 秀樹】
2000年夏7月、第1回皆生トライアスロン大会の出場者達が集まる「日本初の鉄人同窓会」が、第20回大会の前日に行われました。永谷誠一さん、高石ともやさん両氏の呼び掛けに再び皆生温泉に集った鉄人は21名、その中で明日のレースに出場する者が5名おりました。そのうちの3人が私と、私の中高校生時代からの友人であり、共に第1回大会に出場、完走した鎌田秀明君と塩澤光久君です。
鎌田君とは中学生の時に、塩澤君とは高校生の時に知り合い、意気投合したのです。それもスポーツではなく音楽で、です。その後、私達3人は社会人となってからジャズ・バンドを結成するなど切っても切れない仲となり、今日までほぼ40年に及ぶ付き合いが続いています。また私達3人は、トライアスロンよりも実はテニス仲間としての絆が強いのです。
鎌田君は大学時代、東京工業大学の水泳部に所属するバリバリのスイマーだったし、塩澤君は高校時代は体操選手でした。それに対し私はスポーツマンというには余りにお粗末な「タダの普通の一般の人」に過ぎませんでした。つまり鎌田君や塩澤君から見れば、スポーツに関しては「最も縁遠い男」だったのです。
それでも私は鎌田君に誘われ、熱海~初島間の遠泳大会に参加していました。この遠泳大会は総距離12Kmを1チーム3名が同時にスタートし、いずれも4時間以内に泳ぎ切る(うち一人が脱落してもチームは失格)というレースです。もちろん3人の中で鎌田君が一番速かった訳ですが、塩澤君は船上の監督専門、私12Kmを完泳する喜びに魅せられ、毎年、参加していました。そんな私達「三馬鹿トリオ=チーム名アパッチ」は皆生トライアスロン大会の開催の報せを聞くと、前後の見境もなく挑戦する決心をしたのです。私が33歳の時でした。
鎌田君や塩澤君が参加するのは解らなくもありませんが、スポーツに最も縁遠い私は自信もない癖に、2人にすっかり騙され出場する羽目になったのです。何という冒険、何という無鉄砲! 面白半分、興味津々というのが本当の気持でした。
私達は8月18日、新調したバイクを輪行袋に詰めて、東京駅から特急寝台「出雲」に乗り込みました。そして翌19日の朝、米子駅に着くとバイクを組み立てザックを担ぎ、サイクリングで宿泊先の皆生温泉の旅館「松風閣」へ向かったのです。
当日のレース結果は、鎌田君が7時間58分43秒で総合17位、塩澤君が10時間44分18秒で同41位、そして私が9時間44分24秒で同35位でした。
「なんとしても完走しなければならない」
その一念で、何とか辿り着いたゴールでした。スポーツマンではない普通の人間の割には、我ながら良くできたと思っています。それ以来、人には「トライアスロンはおにぎりやバナナを食べながら遠足気分でやれる、年配や一般者向きのゆったりとした楽しいスポーツ」だと説いています。また「鉄人」というより、生き方の技術を学ぶという意味で「哲人」になれますと。
そして私は、大会終了後のその晩、開かれたパーティ会場で誓いを立てました。
「来年もやらなきゃ」
それで第2回大会以降も出場した訳ですが、完走したのは第1回と第2回大会の2回のみ。記念の20回大会は第1回、2回大会で使用し大切にしていた片倉のスポルティーフ(スポーツ快速車)のバイクを使い、18年振りの風景に懐かしさを感じながら参加しましたが、ランで膝が痛んで折り返しでタイムアウト、続く21回、22回大会はランで熱中症気味でリタイアという具合に、満足な結果を得ることができませんでした。
でもいつかきっと、皆生トライアスロンを完走したいという気持は抱き続けています。私もすでに57歳。私が出場する時には、シニアコースも設けて欲しいと願っています。