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Vol.19:風神の巻 第2章その6:“ブルキマン・レース”が始まった

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その6

“ブルキマン・レース”が始まった

【この記事の要点】

1981年8月20日、木曜日。山陰・鳥取県米子市の皆生温泉において、わが国では初めてのトライアスロン大会が開催された。その名も“KAIKE SPA TRIATHLON ‘81”である。地元の旅館組合の青年部を中心とした役員達が中心となり、ほぼ半年間の準備を経て、ようやく漕ぎ着けたトライアスロン・イベントだ。

 1981年8月20日、木曜日。山陰・鳥取県米子市の皆生温泉において、わが国では初めてのトライアスロン大会が開催された。その名も“KAIKE SPA TRIATHLON ’81”である。地元の旅館組合の青年部を中心とした役員達が中心となり、ほぼ半年間の準備を経て、ようやく漕ぎ着けたトライアスロン・イベントだ。その機動力となって開催準備に奔走したのが福本安穂副実行委員長兼競技委員長や片桐 隆競技副委員長などKT実行委員会の面々である。
 午前5時、KT実行委員会のメンバーが海岸に集まる。夜半は波が立ち海は荒れ気味だったが、明け方になると幸い波も静まり、今朝はうねりがわずかに残っているばかりだった。

「海上保安部の巡視艇も来てくれた。お天気も良さそうだし、これならできる。よしっ! やろう」

 岩佐甲子郎を実行委員長とするKT実行委員会は大会実施を確認し、役員スタッフはそれぞれ持ち場に着いた。

スイム・スタート地点には竹棹で作ったスタートラインの旗が風に靡いた

スイム・スタート地点には竹棹で作ったスタートラインの旗が風に靡いた

 大会ロケーションは、皆生温泉内にある鳥取県西部健康増進センター(現鳥取県営米子屋内プール)をスタート&ゴールとするスイム(水泳)2.5Km、バイク(自転車)63.2Km、ラン(マラソン)36.5Kmである。このトライアスロンの3種目の距離は当初、ハワイ大会の距離を参考にスイム3Km、バイク100Km、ラン40Kmが想定されていたが、スイムのスタート地点、バイクの発着点、ランの折り返し地点など、様々な制約要因から使用可能な道路が限られ、少しづつ短縮されたのだ。また、スイムの距離は大会前日まで3.2Kmの予定だったが、海岸のテトラポットによる護岸工事のため2.5Kmに変更された。
 大会にかかる総予算は約600万円。これを米子市の観光行政費、皆生温泉旅館組合費、選手参加費で賄った。もうこれ以上、お金がかけられないギリギリの予算である。だからコース案内用の看板も役員スタッフが手作りでこしらえた。当初、協賛スポンサーを募る話があり、エージェントである博報堂と交渉したものの、結局、スポンサーの名がつく冠大会は止めることにしたのである。しかし、大塚製薬からは発売して間もないポカリスエットが協賛された。

 ボランティア・スタッフは、旅館の規模に応じて従業員が派遣されたが、後からエイドステーション要員として米子北高等学校の生徒約120名、それに給水と通信を担う陸上自衛隊(米子駐屯部隊)も加わり総勢約300名余りに達した。ちなみに、高校生たちにはボランティア日当2,000円が配られたが、旅館組合の役員・従業員は、もちろん無償奉仕である。そのほか大会関係9市町村の町内会・婦人会などに所属する地域住民の人々もサポートに駆け着けた。
 また、日本で初めて行われるトライアスロンを取材しようと集まったマスコミは、NHK米子支局をはじめ57社に及んだ。その中で、毎日新聞がこの第1回大会を“ブルキマン・レース”と称した。

第1回大会のボランティアTシャツ

第1回大会のボランティアTシャツ

  参加申し込みがあった選手は当初、56名を数えたが、結局、出場者は53名となった。内訳は男子51名、女性2名。出場者の中には、その年の2月、日本人として初めてハワイ・トライアスロン大会に出場したゼッケン29番の堤 貞一郎(熊本県出身、57歳)、同33番の永谷誠一(熊本県出身、54歳)、同48番の堀川稔之(東京都出身)の3名が顔を揃えた。この冒険に挑む勇敢な女性2名は、ゼッケン3番の成宮芳子(神奈川県出身、50歳)と、堤が誘ったドクター仲間の辻 由紀子(ゼッケン28番、熊本県出身、31歳)である。出場選手のゼッケン・ナンバーは参加申し込み順で決められ、ゼッケン1番は地元・米子市在住で参加選手中、最小年齢者の小西章平(鳥取県出身、19歳)に与えられた。

勇敢な女性2名。成宮芳子さん(写真左)と辻 由紀子さん(写真右)。(皆生大会15周年記念誌より)

勇敢な女性2名。成宮芳子さん(写真左)と辻 由紀子さん(写真右)。 (皆生大会15周年記念誌より)

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

 <トライアスロン談義>自転車のパンクさえなければ優勝できた  【村上 好美】

  
  「ほーう、地元・米子市の皆生温泉でやるのか。よし! 挑戦してみよう」

 第1回皆生トライアスロン大会の開催を知ったのは、その年の5月頃、ラジオのニュース番組で知りました。その時、私は34歳。市民マラソン・ランナーとして大いに張り切っていた頃でしたので、3種目をこなす長距離のトライアスロンも十分こなせる自信がありました。27~28歳の時に2時間41分というフルマラソンの自己最高タイムを叩き出して以来、山陰・近畿地方のマラソン大会にことごとく出場、また100Kmマラソンや24時間駅伝にも参加するなど、もっぱら長距離レースで奮戦していたからです。
 それで陸上競技の仲間だった同じ米子市出身の大川俊夫君、宇山雄司君、小西章平君の3人と一緒に出場することにしたのです。3種目のランになれば誰にも負けないという思いでレースに臨んだのでしたが、結果は7時間47分45秒、同じ鳥取県出身の小坂雅彦さんと同着の総合13番目のゴールでした。
 それというのもバイクの折り返し手前でパンクの憂き目に遭い、大幅な時間ロスを被ったからです。バイクを曳いてトボトボ30分余り歩き、ようやく住民の方に助けられチューブラータイヤを交換することができたのです。残念無念の一言、今でもパンクさえなかったなら、優勝できたと思っています。トップとのタイム差が約40分だったことを考えると、私も優勝戦線に十分、加わることができた筈です。20年余り経った今日でも悔しい思いは残っています。

 それからというもの、私は皆生トライアスロン大会に13回目まで連続出場・完走しました。第2回大会から13回大会まで、地元選手ということもあって「ゼッケン1番」を戴き、その栄誉に応えようと必死で頑張りました。しかし、第8回大会ではバイクで飛ばし過ぎ、ランに入って500mほどで歩いてしまい、およそ9時間かけてゴールという大会史上、ランのワースト記録をつくってしまったようです。
 第14回大会では腰を痛めて欠場、それ以来、皆生大会には選手として参加してはいません。しかし、選手の時代に沢山のボランティアの方々からお世話になり、その有難さをしみじみ感じていますので、そのお礼の気持で、今はボランティアとしてお手伝いさせて戴いております。でも、いつかはきっと選手として出場し、時間内に完走したいと思っています。誰に勝とうというのではなく、参加選手の皆さんと共に、和やかに爽やかに走り切りたいと願っています。

ボランティア姿の村上好美氏(第23回大会の表彰パーティ会場に於いて)

ボランティア姿の村上好美氏(第23回大会の表彰パーティ会場に於いて)

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