TOP > 連載コラム > 日本トライアスロン物語 > Vol.18:風神の巻 第2章その5:沢山の協力者のお陰で用意万端、整った!

Vol.18:風神の巻 第2章その5:沢山の協力者のお陰で用意万端、整った!

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その5

沢山の協力者のお陰で用意万端、整った

【この記事の要点】

平身低頭、ただただ平謝り、お願いするよりほかになかった。そうしたKT委員会メンバ-の気持が通じたのか?大会当日の朝、皆生温泉海岸の沖合に巡視艇が一艘、停泊していたのである。朝の4時、海岸にやってきた福本や石尾は、巡視艇を見て胸の詰まる思いがした。

 警察の対応は最後まで頑なだったが、一方で大会開催に向け当初から親身に協力してくれる人々、団体、機関は数多くにのぼった。なかでも大会開催に前向きに取り組み、協力を惜しまなかったのは放送局や新聞社などマスコミである。
 競技委員長の福本安穗とは米子市ロータリークラブで懇意な関係にあったこともあって、NHK米子支局の佐々木局長は福本の協力要請にすぐさま応えてくれた。3月の段階で佐々木は、参加規定や競技規則が盛られた第4回ハワイ・トライアスロン大会のパンフレットのコピー並びに大会の模様を放映したビデオテープを取り寄せ、福本に提供したのである。さらに、大会当日のレース実況はもとより、開催に至る準備段階でもヘリコプターを動員するなど度重なる取材を通じてテレビ放映し、米子市をはじめ鳥取県など地域社会に皆生トライアスロンの名を知らしめてくれた。
 一方、新聞社も日本で初めてトライアスロン大会が開かれるというので、熱心な取材活動と皆生大会の宣伝を展開した。KT委員会が初めて大会開催を報道発表したのは7月21日だったが、その4日後の25日には朝日新聞が全国版で大々的に記事掲載した。それで皆生トライアスロン大会のことが一挙に全国的規模で知られるようになったのだ。NHKと同じく開催準備期間中に何度も現地取材を行い、7月には大阪本社の運動部記者が皆生温泉へ乗り込みコースを視察した。

主催者による大会開催メッセージ(第1回大会パンフレットより)

主催者による大会開催メッセージ(第1回大会パンフレットより)

 開催準備が進むにつれ、次に大きな課題となったのはレース・シミュレーションに対応したボランティア体制を、どう築くかであった。そのためにも関係団体・機関への協力要請が不可欠である。7月に入って福本らKT委員会のメンバーは、まずスイム・スタート地点にほど近い西部健康増進センターを訪問した。ホールや医療設備、シャワーやトイレが完備している現在の鳥取県営米子屋内プールの施設を競技本部として使用させてもらうためである。
 次にエイドステーション要員を確保するため、ロータリークラブのメンバーである米子北高等学校の校長に協力を要請した。同校の生徒をボランティア要員として派遣してもらうためだ。もちろん、校長は快く引き受けてくれた。これで各旅館から派遣された社員スタッフを含め、およそ200名ほどのボランティアを確保することができたのである。そして大会には選手はもちろんのことボランティアを加え、傷害保険をかける契約を東京海上火災保険と結んだ。数あるスポーツの中でイベント参加者全員に対し障害保険をかけた事例は初めてではないか? と福本は回顧する。

 また、水難やバイク競技中の落車事故など救急対策に備えるため、皆生温泉内にある山陰労災病院に協力をお願いし、大会当日に専門の医師を派遣してもらうことになった。
 では、バイクコースの安全をどう確保すればよいか? そこでKT委員会が当初から当てにしていたのが米子市に駐屯していた陸上自衛隊の部隊である。4月の訪問・挨拶に次いで、7月16日に改めて協力要請に伺った時は、

「行動計画はすべて年度始めに作っていますからね。途中から、しかも準備期間もなく部隊を動かすことはできません」

と難色を示されたが、その後25日にKT委員会は自衛隊広報部へ書類を提出するとともに、特に大山山麓のバイクコースにおける無線車の配備を再度、お願いしたのである。その結果、無線車のガソリン代の負担と隊員たちへ弁当を支給することで、ほぼ協力を得られることになった。

霊峰:大山を望むバイクコース

霊峰:大山を望むバイクコース

 さらにバイクコースとして一部、使用する一級河川・日野川の堤防には、鳥取県河川局の特別の計らいでコース案内板の設置許可をもらった。こうしてKT委員会のメンバーたちは夏場の熱い最中を、汗をかきながら関係諸団体・機関を訪問し、大会開催へと一歩一歩、準備を進めていったのである。
 とはいえ、KT委員会が協力要請をすっかり失念していた相手が一つあった。海上保安庁・境海上保安部である。肝心なスイムコースである海上の安全を監視してもらうためにも同保安部の協力は欠かすことができない。だが、大会開催の前日まで協力要請どころか挨拶することすら忘れていたのだ。大会前日の8月19日、全国から続々と選手が到着している頃、KT委員会のメンバーはラン折り返し地点がある境港市の同保安部を訪ねた。すると、

「今頃なんですか!」

 強い調子の応えが返ってきたのである。

「許可申請も出さずに、ほんとうに申し訳ありません。しかし、何とかご協力のほどをお願いいたします」

 平身低頭、ただただ平謝り、お願いするよりほかになかった。そうしたKT委員会メンバ-の気持が通じたのか?大会当日の朝、皆生温泉海岸の沖合に巡視艇が一艘、停泊していたのである。朝の4時、海岸にやってきた福本や石尾は、巡視艇を見て胸の詰まる思いがした。

大会前日、スタートの幟も立った

大会前日、スタートの幟も立った

 

【次号予告】第1回皆生トライアスロン大会のレースの模様や参加選手たちの思い出をお伝えします。
 

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。 

<トライアスロン談義>ワサモンの祭  【永谷 誠一】

 
 
「日本でもトライアスロン大会を開きたか、バッテン」

 1981年2月、堤貞一郎先生と第4回ハワイ・トライアスロン大会に出場、無事、完走し、日本へ帰る飛行機の中で私たち二人は、そんなことを語り合いました。でも、ハワイ並みのトライアスロン大会をやるようなロケーションやボランティア組織、それに関係諸機関の理解と協力という点を考えると、日本で開催するのはとても不可能なような気がしました。
 しかし、その年の5月、皆生温泉旅館組合青年部の福本さんと片桐さんの2人が熊本へ訪ねて来られ、

「皆生温泉で、日本で初めてのトライアスロン大会を開催したいのです。是非ともお知恵を貸してください」

と言うのです。これは願ったり叶ったり、皆生の人たちも私たちもトライアスロンをやりたい! の一心から意気投合、全面的に協力することになったのです。それで翌6月には、堤先生が大会コースの視察や競技ルールを吟味するため、皆生温泉へ赴きました。
 さて、そうなると私もじっとしてはいられません。堤先生が幹事長、私が会計を担当していたランニング・クラブ「熊本走ろう会」のメンバーや市営プールで出会ったアスリートたちにトライアスロン大会参加の話を持ち掛け、仲間づくりを始めたのです。すると、そこは流行にはすぐさま飛びつきたがり屋の熊本県人“ワサモン”ですから、我も我もとばかり最終的に9名の選手が集まりました。

 その名も、第1回大会で歌手の高石ともやさんと手をつなぎ1位でゴールした下津紀代志君(当時22歳)、総合22位の緒方 隆さん(同35歳)、23位の江口隆昭さん(同49歳)、スイムをダントツ1位であがった33位のアメリカ人・エドウィン・スタンプ君(同22歳)、37位の長廣健治さん(同38歳)、紅一点38位で完走した辻 由紀子さん(同31歳)、熊本放送のアナウンサーで43位でフィニッシュした岩本克雄さん(同37歳)、それに10位に入った私(同54歳)とリタイアした堤先生(同57歳)です。
 若い下津君は第2回大会の優勝者で体育教師の田上栄一さんから優秀なアスリートとして紹介され、スタンプ君は市民プールでの練習中に出会い、皆生トライアスロン大会への出場を勧誘したわけです。これら熊本勢の選手9名のほか、私たちのロードレーサーをつくってくれた「工士サイクル」の工士(くし)さんがメカニシャンとして参加、さらには「熊本走ろう会」の仲間や私の妻・安子など家族の者も加わり、最終的にワサモンの集団は20名余りに膨れあがりました。

 1981年8月18日(火曜日)、私たち一行は自転車を輪行袋に包み、熊本駅から国鉄の夜行列車に乗りました。そして翌19日朝、米子駅に着いてから自転車を組み立て、皆生温泉へと乗り込んだのです。

「さあ、いっちょ、遊びバイ」

 宿泊した「松風閣」の2階から望める海を見ながら、私は明日の大会でもハワイ大会と同じく、大いに楽しみ遊ぶ決意を新たにしたのです。

奥様・安子さんと共にくつろぐ永谷誠一氏(03年9月撮影)

奥様・安子さんと共にくつろぐ永谷誠一氏(03年9月撮影)

Copyright © 2015 Neo System Co., LTD. All Rights Reserved.