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Vol.16:風神の巻 第2章その3:お前たちの遊びに付き合ってはいられない!!

 

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その3

お前たちの遊びに付き合ってはいられない!!

【この記事の要点】

警察の権限である道路の使用許可をお願いにあがったものの、けんもほろろ、まったく相手にしてくれず、門前払いの格好となった。トライアスロン大会開催で最も重要な道路使用許可の可否について、早くも壁にぶち当たったのである。

第1回大会は「皆生温泉60周年記念事業」として行われた。

第1回大会は「皆生温泉60周年記念事業」として行われた。

 1981年4月22日、皆生温泉旅館組合理事会のメンバーであり青年部が中心となって構成された「皆生トライアスロン準備委員会=通称;KT委員会」が正式に発足した。主な構成メンバーは、実行委員長に旅館組合長の岩佐甲子郎、行政とマスコミ対応の担当窓口として旅館組合専務理事の間瀬庄作、事務局長には旅館組合事務長の松田芳彦、そのほか女子事務員2名である。また、競技委員長には福本安穗、副委員長に片桐 隆、水泳部長に石尾寿朗、自転車部長に織田 学、マラソン部長に前田仁志という布陣だった。
 ちなみに、間瀬は皆生温泉で旅館「浦島」を経営しながら、組合専務理事、米子市市議会議員(後に平成8年から4年間、市議会議長)という三足のわらじを見事にこなしていた。トライアスロンに関しても、行政・警察・漁協などの交渉ごとには市議会議員としての力を大いに発揮し、第1回大会を開催する大きな原動力となった。

大会メッセージ

大会メッセージ

 さて、大会開催に当たり彼らKT委員会のメンバーが最も苦心したのは大会ロケーションの設定、つまり3種目の競技コースをどうデザインするかであった。とにかくKT委員会の面々はトライアスロンの運営・管理については、まったくの素人である。日本では前例のないスポーツ・イベントを開催するわけだから、要領を得ることができないのも無理はない。ハワイ大会の見様見真似、それに熊本の永谷、堤の話を参考に手探り状態で準備を進めるよりほかになかったのだ。

 ところで、KT委員会が発足する以前の4月10日、福本や片桐ら皆生温泉旅館組合青年部の一行は、トライアスロン・コースを下見した。もとより彼らが頭で描いたコース・ロケーションは漠然としていたが、スイムは皆生温泉海岸において、バイクは松林が続く境港までの往復、ランは大山山麓を巡るコースを想定していたのである。でも実際に、どのようなコースをどのように辿ればよいか? その結果、3種目の競技距離がどうなるか? 思案に思案を重ねるばかりだった。

第1回大会コース案内図

第1回大会コース案内図

 何しろ開催まであと4ヵ月の期間しかない。競技コースを決めて、しかるべき関係諸機関の理解と協力を得なければならない。特に競技コースの道路使用許可については管轄の米子警察署の承諾を得ることが必須である。許可を貰わなければ大会開催に漕ぎ付けることができない。KT委員会発足5日後の4月27日、委員会一行は朝9時から挨拶回りに出掛けた。

 まず陸上自衛隊米子駐屯部隊の司令官を表敬訪問、次に米子警察署の署長並びに交通課長に会い開催趣旨を説明、最後に米子市役所の教育長、体育課長、観光課長の3人に面会し特段の協力を要請した。しかし、この段階は初めの一歩、単に挨拶しただけに過ぎず、実際のところ自衛隊、警察、役所がどこまで協力してくれるのか、計り知ることはできなかった。

「立案から大会開催まで、わずか5ヵ月間。日程的に土台、無理な計画なのだから…。皆が皆、イエスと言って協力してくれる訳ではない」

 福本をはじめKT委員会の面々は、誰しも不安を拭い去れないでいた。実際、その不安は後日、明らかになった。挨拶回りから丁度、1ヵ月後の5月27日、KT委員会一行が再度、米子警察署を訪問した時のことである。

「お前たちの遊びに付き合ってはいられない」

 警察の権限である道路の使用許可をお願いにあがったものの、けんもほろろ、まったく相手にしてくれず、門前払いの格好となった。トライアスロン大会開催で最も重要な道路使用許可の可否について、早くも壁にぶち当たったのである。

 

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>ずさんな大会だったが、心の通い合う大会が開けた  【石尾 寿朗】

 私が皆生トライアスロン大会に携わったのは、38歳の時でした。皆生温泉旅館組合開発委員会のメンバーの一人として、第1回大会は水泳部長を担当し、第2回大会が競技副委員長、堤先生が事故に遭われた第3回大会は競技委員長を務めました。
 その第1回大会の開催に当たっては、何もかも初めてだということもあって開催準備に四苦八苦、コース設定では地元警察の強い意向も働き何度も計画を変更するなど、容易ならざる思いを沢山、経験しました。そうして何とか、大会開催のお膳立てを整えましたが、今考えれば何もかもが稚拙と言うか、ずさんと言うか、

「よくも、あれでやれたものだ!」

と思っています。
 私は水泳部長でしたのでスイムコースの設定に当たりましたが、コースガイド用のブイは自動車タイヤのチューブを使って間に合わせました。またバイクはスタート地点が離れていましたので、スイム・ゴールした選手を数人単位で旅館のバスやトラックに乗せましたが、そのバスやトラックのスピードも選手を輸送するコースもクルマによってマチマチで、スイムを後からあがった選手がバイク・スタート地点へ先に着いてしまこともありました。
 一方、選手はといえば、ロードレーサーではなく泥除けの付いた自転車に乗った人もいたり、工事用のヘルメットを被って走っている人もいたり、本当にバラバラでした。ボランティア・スタッフは地元の高校生のほかは、急きょ駆り出された旅館の下足番や風呂場の人たち。誰もかも初めてのことなので見様見真似で運営に当たりましたが、今日のような痒いところに手が届くほど選手をサポートできた訳ではありません。
 そんなことで当時の毎日新聞は皆生大会のことを“アイアンマン・レース”ならぬ“ブルキマン・レース”と称しましたが、確かに言われてみればそうだったかも知れません。しかし、大会を終えて選手や私たち主催者はお互いに心が通い合えたというか、

「何かジーンと胸の暖まるものを感じていました」

 それで1回で終える積もりでしたが、選手たちの強い要望もあり、来年も続けて開催しようということになったのです。

第23回大会では実行委員長を務めた石尾氏(03年7月撮影)

第23回大会では実行委員長を務めた石尾氏(03年7月撮影)

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