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Vol.15:風神の巻 第2章その2:寝食を忘れ、本業をすっぽかす

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その2

寝食を忘れ、本業をすっぽかす

【この記事の要点】

寝食を忘れて…といっては大袈裟かもしれない。しかし、本業の旅館業をすっぽかすほど、大会開催に向け精力的に動き回った。8月20日の大会開催まで、あと5ヶ月しかない。それまでに考えられる手立てはできる限り打っておかねばならなかった。

第1回大会シンボルマーク

第1回大会シンボルマーク

 福本安穗をはじめとする皆生温泉旅館組合・開発委員会のメンバー10名は、大会開催に向けて立ち上がった。1981年3月22日、同組合青年部の面々が中心となり、「皆生トライアスロン準備委員会」(通称;KT委員会)を発足させたのである。
 主なメンバーは「白扇」の福本、「皆生御苑」の片桐 隆(食糧部長)、「東光園」の石尾寿朗(水泳部長)、「松風閣」の織田 学(自転車部長)、「菊水本館」の前田仁志(マラソン部長)、同組合事務長の松田芳彦、それと行政の立場から米子市観光課係長と広告代理店「株式会社 山陰事業者=現エス・アイ・シー」イベント担当の高木 均らが加わった。競技委員長には福本、副委員長に片桐が就任した。
 福本は早速、自分が所属する米子市のロータリークラブと青年会議所の会員仲間に対して協力要請のオルグ活動を始める。NHK米子支局、陸上自衛隊米子駐屯部隊、米子北高等学校、境海上保安部、鳥取県河川局などに所属している友人、知人に声をかけ、トライアスロン大会開催の説明と援助・支援のお願いに歩いたのである。

第1回大会エイドステーションのボランティアたち

第1回大会エイドステーションのボランティアたち

 例えば、福本と同じロータリークラブのメンバーであるNHK米子支局の佐々木支局長には、ハワイ・アイアンマン大会の競技規則や参加規定など、その年に永谷誠一や堤 貞一郎が出場した第4回ハワイ大会のパンフレットの英文コピーを取り寄せてもらい、翻訳作業を行った。さらにハワイ大会の模様を映像に納めた門外不出のビデオテープも借りることができた。また、米子北高等学校の校長にもお願いして、同校生徒をエイドステーション要員として参加、協力してもらう約束を取り付けた。
 このようにコネクションをフルに活用して、福本をはじめKT委員会のメンバーたちは米子市から境港市に至る弓ヶ浜半島一帯の関係団体・機関に対し、大会開催の説明と協力要請に飛び回った。寝食を忘れて…といっては大袈裟かもしれない。しかし、本業の旅館業をすっぽかすほど、大会開催に向け精力的に動き回った。8月20日の大会開催まで、あと5ヶ月しかない。それまでに考えられる手立てはできる限り打っておかねばならなかった。

「どだい無理な計画だ。でも、やるしかない」

大会メッセージ(福本安穂&堤貞一郎)

大会メッセージ(福本安穂&堤貞一郎)

 福本も片桐も同じ思いだった。また、トライアスロン経験者の話も聞いて、競技コースの設定や競技ルールなどを検討しなければならない。何しろ、日本で初めて行うイベントである。お手本がない。

「では、熊本へ行こう! 行って堤先生や永谷さんに詳しいお話をお聞きしよう」

 5月に入り福本と片桐の2人は、熊本の永谷、堤の2人に会いに行った。ハワイ・トライアスロン大会の様子や、実際に出場、参加した実体験に基づき、トライアスロンのやり方を教えてもらおうというのだ。競技委員長と副委員長の2人は、大阪経由で飛行機を乗り継ぎ、熊本へ飛んだ。

 

 【次号予告】皆生トライアスロン大会の開催準備とコース決定までの経緯を振り返ります。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>熊本人と皆生人の深い絆ができた  【片桐 隆】

 

片桐 隆氏近影(03年7月撮影、皆生グランドホテル天水にて)

片桐 隆氏近影(03年7月撮影、皆生グランドホテル天水にて)

 私は福本安穗さんと同じ京都市の出身で、皆生温泉に来たのは1974年でした。大阪に本社がある観光会社の役員だった私は、皆生温泉の旅館「皆生御苑」へ派遣されたのです。26歳の時でした。それから7年後の33歳の時に、皆生温泉旅館組合開発委員会のメンバーの一人として、わが国で初めてのトライアスロン大会に競技副委員長として携わることになったのです。
  いざ大会が8月に開催することが決まったのを受け、「トライアスロンを少しでも理解しよう。運営の方法も学ばなければ」という思いで、競技委員長の福本さんと2人で熊本へ行きました。その年の2月のハワイ大会に出場し完走された堤貞一郎先生と永谷誠一さんをお訪ねするためでした。忘れもしません。私の誕生日である5月8日のことです。
  しかし、私にはもう一つ、目的がありました。それは熊本に在住するカントリー・ミュージック歌手のチャーリー永谷の歌声を聴くことです。私はカントリーが大好きだったし、その上、チャーリー永谷のファンだったのです。熊本に行く目的はトライアスロンよりも、むしろカントリーの方が大きかったかもしれません。
  熊本では、永谷さんが経営されているアウトドア用品店「山想」にお寄りした後、永谷さんのご案内で堤先生のご自宅兼病院をお訪ねしました。そして私たちが皆生温泉でトライアスロン大会を開催する旨を申し述べたところ、永谷さんも堤先生も大変、喜ばれました。

「それはよかこつ! わしらも、なんとか日本でトライアスロンをやりたかったバッテン」

 お二人とも大喜び。堤先生は開業中にもかかわらず、患者さんが訪れないことを幸いに、トライアスロンの魅力を熱っぽく語られました。延々4時間ほど、私たちは何一つ質問することもできず、お二人の話をただただお聞きして、最後に皆生温泉へご招待する旨を申し上げたのです。実際にロケーションを視察して戴きコース設定をお願いしました。もちろんお二人は快くお引き受けくださりました。

 お話を聞き終わった頃は夕方になっていました。私たちはお二人に辞す旨のご挨拶を述べながら、

「実は、私がカントリー・ミュージックが大好きでして、これから熊本市内にあるチャーリー永谷のお店へ行こうと思うのですが、何処にあるかご存知ですか?」

と尋ねたのです。そうしたら、なんと! 永谷さんが、

「それは私の弟たい。よっし! ならばみんなで飲みにいこう」

ということになったのです。もちろん、その晩の私がチャーリー永谷の歌とバーボン・ウィスキーに酔いしれたのは申すまでもありません。この時、トライアスロンだけでなくカントリー・ミュージックを通じて熊本人と皆生人の深い絆ができたと思います。というわけで、熊本詣の私の目的は2つとも叶えることができました。

 翌6月20日、堤先生が皆生温泉に来られ、その晩は自転車部長を務める織田 学さんの旅館「松風閣」で「堤先生の話を聞く会」が催されました。そして翌日、私たちはクルマ3台を連ねてコースを下見しましたが、途中、堤先生は持参の自転車でバイクコースを実走されました。熱心に精力的にコースを回られたお姿が、今でも目に浮かびます。こうして日本で初めてのトライアスロン大会開催のお膳立てが出来上がっていったのです。

向かって右から片桐 隆、堤貞一郎、福本安穗(米子空港にて)

向かって右から片桐 隆、堤貞一郎、福本安穗(米子空港にて)

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