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Vol.14:風神の巻 第2章その1:なに!! 殺人レースだと?

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第2章その1

なに!! 殺人レースだと?

【この記事の要点】

中山俊行選手はラスト500m当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった!」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。

 「先月、ハワイに行ったのですが、トライとかいう新しいスポーツが始まったそうです。なんでも一人の選手が水泳、自転車、マラソンの3種目を続けて行うスポーツだそうです。どうでしょう。私たちもやってみては…。日本ではまだ誰もやっていませんし」

「皆生温泉」案内

「皆生温泉」案内

 1981年3月、皆生温泉旅館組合の開発委員会の席上で、青年部の一人である福本安穗はこう切り出した。福本は2月に、彼が所属する鳥取県米子市のロータリークラブや青年会議所のメンバー8名と、オアフ島へゴルフ旅行に行った。そこで隣のハワイ島で開催されていたアイアンマン・ハワイ大会の様子を聞いたのだ。堤貞一郎や永谷誠一、堀川稔之ら8名がチャレンジした第4回大会の話である。福本は大会を観た訳ではないが、現地で話題になっていたことと、帰国後もNHKテレビで大会の一部模様が放映され、また週刊誌にも採り上げられるなどで、トライアスロンのことが印象に残っていた。

 ところで、この開発委員会は皆生温泉旅館組合の青年部のメンバーが中心となって構成されていた。組合員である旅館やホテルの商売や宣伝に結びつくアイデアを出し合おうというのである。会合場所となった「皆生グランドホテル」に集まったのは、旅館組合長であるホテル「清風荘」社長の岩佐甲子郎を中心に「皆生グランドホテル」社長の伊坂 博、「白扇」専務の福本安穗、「東光園」常務の石尾寿朗、「皆生御苑」専務の片桐 隆、「松風閣」社長の織田 学、「菊水本館」の前田仁志、「菊水別館」専務の柴野憲史、「ひさご家」の松本雄介、それに事務局長の松田義彦らである。
 20歳台後半から40歳台前半の、いわゆる旅館の若旦那衆の会合である。今年で皆生温泉開発60周年を迎えるに当たり、

「何か記念行事をやろうではないか」

という相談だった。前年の秋頃から話に出され、持ち越されてきた懸案事項である。 

<皆生温泉神社>

<皆生温泉神社>

 ところで「皆生=かいけ」とは、出雲の稲佐の浜から泡となって流れた魂が海岸に流れ着き、新しい身体と心が蘇生されて皆、生まれ変わったとの言い伝えから「皆生」と呼ぶようになった。その後1900年(明治33年)に地元の魚師たちが海中から泡立つ泉源(塩化物泉)を発見、その後1922年(大正11年)に有本松太郎らが皆生温泉土地株式会社を創立し、本格的な泉源の発掘が始まった。以来、旅館街が形成されてから60年の歳月を経て、山陰地方屈指の温泉街として発展してきたのである。
 海に向かって横約1キロ、縦約500メートルの地に旅館やホテル20軒余りが建ち並ぶ皆生温泉。すぐ目の前は日本海美保湾の海、美しい松林が林立する弓ヶ浜(夜見ヶ浜)半島、そして北方に聳える中国地方の最高峰(標高1,709m)の大山(だいせん)を眺める風光明媚な温泉街である。
 しかし、当時、旅館組合の面々が頭を抱える問題が生じていた。それは、この温泉街の一角に、トルコ風呂(今日ではソープランドと呼んでいる)が建ち並ぶ歓楽街が出現していたからである。この悪いイメージを、

「なんとしても払拭しなければならない」

 世の中の景気上昇に伴い観光客・宿泊客が増えるのは嬉しいことに違いなかったが、トルコ風呂まで繁盛しては困る。それで皆生温泉開発60周年を記念してイメージチェンジのイベントをやろうというのである。では、何をやるか? 具体案はなかった。でも、健康なイメージをアピールできるスポーツを開催しよう。それもできるなら日本で初めて行うイベントを開いて、もの珍しさ目新しさを対外的にアピールしよう。また、皆生ならではの海や山など美しい自然を生かしたイベントをやりたい。ちなみに、鳥取県下には温泉地が10個所あるが、そのうち海に面する温泉は唯一、皆生だけだったので、特に海をアピールしたイベントが考えられていた。

皆生温泉の砂浜に「有本松太郎」の銅像

皆生温泉の砂浜に「有本松太郎」の銅像

「何ですか、そのトライとかいうのは?」

「鉄人レースとか言って、人間の体力の限界に挑戦するスポーツです」

「なに!! 殺人レースだと?」

「いいえ、殺人ではなく、鉄人レースと言ってました。私もはっきりわかりません。とにかく現地で耳にしただけですから。でも、先月、開催された大会では日本人が8人出場したとのことです」

「どんなことをやるのですか?」

「海で泳いで、自転車を漕いで、マラソンの3種目を一人でやるようです。よく知りませんが…」

「それならば、皆生でもできそうだね」

「海で泳ぐのであれば、皆生にふさわしいイベントだ」

「それに新しいスポーツだし、話題性もある」

「健康的で明るいし、皆生のイメージを変えることができるかもしれない」

「面白そうだから、やってみよう」

「でも、いつやるの」

「水泳があるから、やっぱり夏でしょう」

「しかし、夏休みの繁忙期は難しいね。無理だよ」

「じゃあ、お盆明けかな。それでも、あと5ヵ月しかないけれど」

 福本の提案に反対する者はいなかった。開発委員会のメンバーは、トライアスロンが何であるか、ほとんど知らなかったが、全員、興味津々の様子だった。

「よし、やってみよう!」

 一堂は声を揃えた。
 その翌4月、岩佐を実行委員長、福本を実行副委員長兼競技委員長とする「皆生トライアスロン準備委員会」が発足したのである。

実行副委員長であり競技委員長を務めた福本安穗(1981年当時)

実行副委員長であり競技委員長を務めた福本安穗(1981年当時)

 

 【次号予告】トライアスロン大会を開催するまでの皆生温泉旅館組合の人々の奮闘振りと、熊本クレージートライアスロンクラブ勢の友好関係について綴ります。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>日本にトライアスロンを呼び込んだ男  【福本 安穗】

 
 出身地の京都から私が皆生温泉にやってきたのは29歳の時だった。来た先は「白扇」と呼ぶ和風の割烹旅館で、私は専務取締役として旅館の経営に携わるかたわら、皆生温泉旅館組合の会計理事並びに青年部の一員として活動していた。旅館組合の若手の一人として常に新しいことを提案しながら、皆と一緒に皆生温泉の広報宣伝と地元の発展に奔走していたのである。

 そして私が45歳の時だった。米子青年会議所理事長(元)の坂口允彦氏らと共にハワイへゴルフ旅行に行った際、トライアスロンというニュースポーツがあることを知った。しかし、その時はよもやトライアスロンを自分の街でやろうなどとは思いもよらなかった。

 でも、京都人は新しもの好き、恐いもの知らずである。京都生まれの私は旅館組合の会議で、大胆にもトライアスロンの開催を提案したのである。そして私の提案を、皆が受け入れてくれた。大変、嬉しかった。でも内心、大変、不安だった。なぜなら大会開催まで、あと5ヶ月しかなかったからだ。

「果たしてやれるだろうか。提案したまでは良いが、土台、無理な計画である。時間もそんなにない。第一、どうすればできるのか?」

 心の中に不安が襲っていた。その不安を振り解くように、私は大会開催に向けて行動を開始した。仕事を抛っぽり出し、挨拶と説明とお願いと報告に毎日、米子市の街中を駆けずり回った。私だけでない。旅館組合の青年部は額に汗して一生懸命、働いた。

 それにしても、今思うと、よく開催できた! と思う。沢山の協力者がいたからだ。地元・米子市のロータリークラブや青年会議所の友人、知人達が親身になって協力してくれたからである。娘には、後になって、

「お父さん、遊んでいるばかりと思っていたけれど、結構いいことしていたんだね」

と言われた時、心から嬉しかった。やって良かったと思っている。

 その時から皆生トライアスロン大会は今年で25年の歳月を経て、いまもなお評判の良い大会として発展してきている。皆生温泉旅館組合の皆さんをはじめ関係者の努力のお陰である。

福本安穗近影(2004年8月、大阪・梅田にて撮影)

福本安穗近影(2004年8月、大阪・梅田にて撮影)

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