TOP > 連載コラム > 日本トライアスロン物語 > Vol.13:風神の巻 第1章その8(座談会)後編:アイアンマン・ハワイと日本のアスリートたち

Vol.13:風神の巻 第1章その8(座談会)後編:アイアンマン・ハワイと日本のアスリートたち

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第1章その8(座談会)後編

アイアンマン・ハワイと日本のアスリートたち

【この記事の要点】

僕がその年の2月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか?

【出席者】
ゲスト  堀 直之&堀 陽子 トライアスロン・スペシャリスト

青木忠茂 フォト・ジャーナリスト
市川祥宏 スポーツ・コーディネータ
北村文俊 (社)東京都トライアスロン連合会長
鈴木 進 トライアスリート

司 会  桜井 晋 『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹

 
                    肥満児だってアイアンマンになれる!
<桜井>
 では、か弱きトライアスリートでありながら、思いがけずハワイを完走してしまったという青木さんのお話をお聞きしたいと思います。

aoki<青木>
 船橋の青木です。僕がハワイ大会に出場したのは1985年の大会ですが、後にも先にも出場はその大会1回だけです。出場選手約1,000人のうち日本人は100名ほどでした。桜井さんがおっしゃるように、私はか弱きトライアスリートだったのですが、幸いにもその頃のハワイ大会は申し込めば誰でも出場できたし、選手としてエントリーすることができました。

<堀陽子>
 本当に!!

<桜井>
 いえ、85年はそうではありません。前年の84年までは予選がなくエントリーすれば書類審査だけで出場することができました。しかし、85年は日本のびわ湖でアイアンマンが開催されることとなり、同大会で年代別3位に入らないと出場することができなかった筈です。

<青木>
 実はそうなのです。でも、僕がその年の2月にエントリーを決めた段階では、誰でも行けるものと思い込んでいました。しかし、びわ湖大会に出場して権利を取る必要があると判ったのは、その後のことです。でも当時、僕は相当のデブでした。現在の体重は60Kgですが、当時は85Kgもあったのです。完璧な肥満児でした。しかも自転車は子供の頃に乗っただけだし、ランニングもやっていない。そんな僕が、なぜハワイを目指したか?

<桜井>
 肥満児がよくもまあ決意しましたね。

<青木>
 そうでしょう。実は84年6月頃に雑誌でハワイ大会の写真を見たのです。ランナーズ社の『アスリートブック』だったかも知れない。その雑誌には「アイアンマン」という言葉が記されていました。「鉄人」というと、どこか錆臭いけれど、「アイアンマン」は響きがいいですね。だから僕は「アイアンマン」になりたい! そう思ったのです。それで千葉県柏市のシクロウネへロードレーサーを見物に出掛けたら、そこで憧れのアイアンマン、髭の市川さんにお会いしました。「へえ、これがアイアンマンか。顎鬚なんか生やしちゃって」などと思いつつ、羨望と感動で身も心も震える思いでした。

<桜井>
 市川さんも、こんな肥満児が本気で出場するのかどうか、疑ったのではないですか?

<市川>
 本当に、希少価値的存在ですね。でも、私もトライアスリートの仲間が一人でも欲しかったから誘いました。とにかくトライアスロンをやる人間なんて、当時は周囲を見回してみても誰一人いない時代です。まあ、デブでもいいか! という気持です。

<青木>
 その時、市川さんからJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)の名刺を貰いました。今でもその名刺を持っていますよ。でも僕の職業はカメラマンですから、サラリーマンと違って土日は休みが取れません。そんなこともあってクラブに入って皆さんと一緒に行動を共にすることができないし、自分なりに一匹狼でいたかった気持もありました。でも、その後、市川さんから電話で何回もお誘いいただき、また85年に入ってATC(オールジャパン・トライアスロン・クラブ)を創立するという話も出てきて、それで皆さんの仲間入りをさせていただいたというわけです。

<桜井> 
 では、85年当時はハワイに向けて一生懸命トレーニングに励んでいたのですね。

<青木>
 もちろんです。その年に行われた第1回宮古島大会の頃は泳げなかったため出場しませんでしたが、6月のびわ湖大会に向けて練習を積み重ねました。というのも、後になって市川さんから「ハワイ大会に出場するには、びわ湖大会に出て権利を取る必要がある」と言われたからです。「なーんだ。無条件で出られるわけではないんだ」と内心がっかりしましたが、何しろアイアンマンになりたい一心です。出たくないけれど、びわ湖大会にエントリーしました。それで大会の1~2週間前に、ようやく4Kmほど泳げるようになったのです。結果は2時間30分のタイムリミット寸前の2時間27分30秒、ブービーで完泳しました。

<市川>
 バックストロークではなかったの。

<青木>
 れっき! としたクロールですよ。

<鈴木>
 それにしても、当時のタイムリミットは結構、緩かったね。

<青木>
 ハワイ大会の制限時間は2時間15分でした。ハワイでは2時間7分で泳ぎました。

<桜井>
 まあ犬掻きであろうとなんだろうと、肥満児がそこまでできたのだから、たいしたものです。でも、よくハワイの出場権が取れましたね。

<青木>
 そこはレースディレクターの市川さんから推挙していただいたからでしょうね。目に見えない神のお召ぼしが働いたということでしょう。当時は、その程度、緩やかだったのです。とにかくハワイ大会に出場することが決まった時、市川さんは「ハワイの海は宇宙遊泳。泳ぎが苦手でも大丈夫ですよ」なんて無責任なことを言ってました。なんのことはない。びわ湖大会では台風が接近して、スイム以外はほとんど雨の中だったし、ハワイ大会はハリケーンがやってきて海は大荒れでした。

<北村>
 びわ湖大会は水温もかなり低かったですね。

<青木>
 18℃という発表でしたが、実際はもっと低かったと思います。大会側も開催直前になって水温が低いからウェットスーツの着用義務を通達してきて、それで慌ててチョッキのようなウェットスーツを調達しました。当時、清水仲治先生は釣り具屋さんから釣り用のジャケットを着て泳いでいました。釣り用ですよ。

<北村>
 イエローとライトブルーのツートンカラーのウェットスーツでしたね。山下光富君も着ていましたが、それを山下君はデイブ・スコットにあげちゃったようです。

<桜井>
 ….郵便局員の山下君ですね。あの頃は中山俊行君をはじめ山本光宏君、飯島健二郎君などが一緒になって、
大井埠頭でバイクの練習をしていましたね。ATCの練習会でしたが、みんな若くて元気でした。その当時、彼らが所属していたATCの会長だった清水先生を知っていますか?

<堀直之>
 お名前を聞いた覚えはあります。

<青木>
 「あま色の髪の乙女」を作った元ヴィレッジシンガーズの清水さんのお父さんですよ。清水先生が亡くなられて、年末にみんなで弔問に行きましたね。

<桜井>
 お通夜の晩でした。木枯らしが吹いて寒かったですね。先生は、私が何かと当時の「日本トライアスロン協会」の批判をするので嫌っているようでしたが、亡くなってしまうと淋しい限りです。淋しいといえば、今日はMSPO主宰者の清本 直さんが欠席です。仕事が立て込んでいて時間が取れないとのことでした。それで彼からメールで「私自身はハワイの出場経験がありません。1991年にびわ湖のアイアンマンでクオリファイを獲得したのですが、その当時は、ハワイはいつでも行けるなどと思っていて、あえてエントリーしなかったのです。今になって取り返しのつかない事態になってしまい残念でなりません」とのことです。

<鈴木>
 会えると思っていたのに残念だな。

<桜井>
 清本さんはトライアスロンをビジネスにしていますが、トライアスリートとして汗と涙を流してきただけにトライアスロンに対する理解が深いですね。今のスポーツ計測のビジネスがもっともっと発展していって欲しいものです。

<北村>
 トライアスロン大会の会場では、いつも一生懸命、仕事していますね。

<青木>
 ハワイへ行きたかったら、鈴木さんみたいにお金を積んで、特別枠で出場すればよかったのに…。

<鈴木>
 とんでもない。私はちゃんとびわ湖大会で権利を取って行ったのです。本当です。嘘は言いません。

<桜井>
 青木さんのように、コネを使って行く手もありましたね。では最後に、鈴木さんのアイアンマン道中記をお聞かせください。

 

                    レースよりも珍道中が面白い!

suzuki<鈴木>
 私は地球の旅の岡村さんにお世話になり、89年から92年まで4年連続してハワイへ行かせてもらいました。

<桜井>
 89年とは、顔に似合わず晩生(おくて)ですね。

<鈴木>
 いやいや、顔に似合って謙虚でしょ。89年のハワイ大会でトライアスロンの王者デイブ・スコットがマーク・アレンに負けた、その年のびわ湖大会で権利を取りました。それにしても、北村さんや市川さんたちがアイアンマンのベースづくりをしてくれたお陰で、後進者ながら皆さんのいいところ取りをしてアイアンマンになれたのだと思っています。その頃はATCのクラブ活動も大変、活発で、漫画家の古川益三さんをはじめATC多摩支部の連中と一緒にハワイへ乗り込みました。みんなでコナベイホテルのコンドミニアムに寝泊りしたのですが、ゴキブリも出たりして大騒ぎのアイアンマン珍道中でした。

<市川>
 想像できるね。多摩支部の皆さんは元気が良かったから。

<鈴木>
 だからレースそのものより、大会周辺にまつわる話の方が面白いですよ。例えば、コナへ向かうためホノルルで飛行機を乗り替えるトランジット中に、「Ozaki」という名札を付けた男性が寄ってきて「おまえはアイアンマンか」と、たどたどしい日本語で尋ねてくるのです。「そうだ」と言ったら、大変、好意的に話しかけてきて、そのうち彼が当時、人気歌手だった尾崎紀代彦の叔父さんだということが判り、びっくり仰天した覚えがあります。彼はホノルル空港で働いており、奥さんは「ビョウシ」だと言いました。「そうですか。亡くなられたのですか」などと思っていたら、病死ではなくて美容師とのことでした。なんだかアイアンマン・レースよりも、そんなことが印象的な思い出として残っています。

<桜井>
 鈴木さんは昔から我々が関心を持たないことに感動する人でしたね。それよりもレースの思い出はないのですか?

<鈴木>
 …89年の大会は、11時間半ほどでフィニッシュしたのですが、当時のゴールゲート周辺は、次々とフィニッシュする選手たちを前方から照明ライトを当てていました。だからゴール周辺の観客やボランティアたちは選手の顔や姿が良く確認できるわけですが、選手はただ眩しいだけで周囲をよく見ることができません。ただただ光の世界に吸い込まれていく思いでした。それで「なるほど、欧米人は光をこのように使うのか」などと関心しました。アイアンマンの思い出と言えば、ミスター尾崎と照明ライトの2つです。

<青木>
 ゴールへ向かう山の上から晧晧と照明に照らし出されたフィニッシュ地点が見え、歓声も聞こえるのですが、自分もやがてあそこに辿り着くのかと思うと胸の熱くなるものを感じますね。

<堀陽子>
 91年に観戦ツアーに当選してハワイの大会を観に行ったのですが、フィニッシュする選手はみんな泣いていました。私も感激して、必ず出てフィニッシュしようという気持になりました。

<市川>
 陽子さんは、いつハワイに出場したの?

<堀陽子>
 95年からです。翌年の96年は休んだけれど、今年で9回目の出場となります。村上純子さんとは一度、一緒に走ったことがありますけれど、今年また一緒に参加します。

<北村>
 堀さんは、いつですか?

<堀直之>
 98年の20周年記念大会に出場しました。総合300番前半ぐらい、10時間40分ほどでフィニッシュしました。でも、ニュージーランドに住むようになってから仕事に追われ、練習もしないし、落ち目になってしまいましたけれど…。

<北村>
 アイアンマン・ハワイでよく耳にするのですが、観戦者やボランティアたちが選手を応援する際「You are Great」と言います。日本では「頑張れ」としか言わないけれど、「ユーアー・グレイト」と言って選手を褒め称えます。いい言葉だなと思います。なんと言ってもボランティアが素晴らしいですね。ハワイの大会はボランティアがあってこそ成り立っている大会の典型でしょう。

<青木>
 ボランティアが素晴らしいからか、アイアンマン・ハワイって、独特の雰囲気がありますね。日本では味わえないものを感じます。だからハワイへの旅はロマンかも知れない。

<桜井>
 アイアンマン・ハワイが世界の人々を魅了したのは、何といっても1982年のジェリ-・モスという女性選手が脱水症状になってゴールゲート目前で倒れ、這いずりながらゴールを目指した劇的なシーンでした。アメリカのABCテレビがその模様を放映し、それが引き金となりトライアスロン・ブームの旋風が世界的に巻き起こりましたね。

<市川>
 私たちもその映像を見ましたが、みな感動していました。そういえば、モスとアレンの夫妻は元気だろうか?

<堀陽子>
 とっくに別れてしまいましたよ。でもモスは03年のハワイ大会に出場していました。11時間ほどでフィニッシュしていましたが、昔と変わらない感じです。

<桜井>
 仲良さそうだったのに…。エリン・ベーカーとスコット・モリーナ夫妻は元気かな。

hori<堀直之>
 今年3月のニュージーランド・アイアンマンに来ていました。旦那のスコット・モリーナも復帰したようで、去年のハワイ大会に40歳代で出場していました。

<鈴木>
 スコット・モリーナといえば、仙石元則さんと共に第1回琵琶湖大会では珍事がありましたね。

<桜井>
 モリーナがランの途中で草むらにしゃがみこんで用を足していましたね。また、その一部始終をテレビカメラが撮っていたのには呆れました。同じく仙石さんのバイクのチェーンが切れてしまい、雨降る中で泣きながら、石でピンを押し込み治そうとしてる模様を、いつまでもカメラが撮っていましたね。

<市川>
 新品のチェーンだった聞きましたが、よくもまあ切れたものです。

<北村>
 石で叩いて治るわけがないのに…。初期の頃だけに皆、バイクの知識を持ち合せていなかったようですね。

<青木>
 よしんばチェーンが切れたとしても、いつまでも石で叩いているなんて、どう見てもテレビ局のやらせとしか思えませんね。それはともかく、テレビがアイアンマン・レースを初めて日本に紹介したのは84年のハワイ大会だったと思いますが、この時、中山俊行君らと共に日本のトップレベルにあった梅沢智宏君がバイクで2回パンクに見舞われ、泣いている様子が映されていたことを覚えています。

<市川>
 すでに梅沢君は、交通事故で死んでしまいました。惜しい選手でした。

<桜井>
 数多くのアイアンマンが生まれ育つ過程で、沢山の人生ドラマもありました。思い出は尽きません。またの機会に昔を振り返りながら、トライアスロンの素晴らしさを語っていきたいと思います。有難うございました。

 ※この座談会記事は04年5月27日に東京・中野の割烹居酒屋「鯉作」で行われたものを要約したものです。

【次号予告】次回からいよいよ日本を舞台としたトライアスロン物語が始まります。その「風神の巻 第2章」は皆生トライアスロン大会の発祥と同大会にまつわる人々の物語です。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>アイアンマンに魅せられた日本のトップ選手たち

3nin1

  
                    日本人にとっては、実に厳しい大会だ

                          【中山俊行】

nakayama1 ハワイ大会に初めて出場したのは私が20歳の時、1983年のことだった。以後、合計9回出場したが、もっとも良い成績を修めたのは初回の84年の17位で、あとは20位から30位を行ったり来たりだった。一番悪い時は120位まで落ちてしまったこともある。
ハワイ大会では日本人としてトップの位置で頑張っていたけれど、それにしても大会コースは日本人向きでない、非常に厳しいコースだと思っている。トップテンを目指すものの、その道は容易ではなく険しい道のりだと感じていたが、宮塚君はそれを克服し、2度もトップテンに入る偉業を成し遂げた。
その後も日本人が挑戦しているが、田村君も谷君もことごとくはね付けられてきている。そして今は新たに小原君が挑戦している。果たしてどういう結果が出るか、非常に楽しみだ。また村上純子さんが今年40歳になって再度、出場するが、そのチャレンジ精神には大いに敬服する。
ハワイ大会はコースも良いし、大会の中味も素晴らしい。極めてシンプルなこの難コースは、とてもチャレンジのしがいがある大会と言えるだろう。現役を引退した今でも出場したいと思っている。最近はドラフティングが横行して収拾がつかないなど問題も多々、発生しているようだが、アイアンマン・レースのチャンピオンシップ大会としてハワイ大会がこれから先も輝き続け、そして世界のトライアスリートたちを魅了し続ける素晴らしい大会として存続していって欲しいものだ。

 

                   力の限り戦い、成果をあげることが、すべて

                          【山本光宏】

yamamoto 僕は、中山さんが17位になった84年に、初めてハワイ大会に出場した。同じ東京の大井埠頭で練習していた飯島さんも一緒だった。その当時、トライアスロンといえば皆生大会しかなかった時代だったから、僕たちの視線は常に皆生とハワイに向いていた。だからハワイ大会は、僕たちトライアスリートの最終的な目標であり到達点として位置付けていた。
またその頃、僕たちはトライアスロンを新しい競技スポーツとして「日本に広めていこう」という熱い思いを抱き、日々、練習に励んでいた。中山さんと共に「自分たちが日本のトライアスロンの歴史をつくっていくのだ」という気持だった。その中山さんには「お前を、俺の練習パートナーとして認める。一緒にやろう」とハッパをかけられた。おかげで中山さんからバイクのテクニックを学んだし、意識の高さや精神面での集中力の重要性を学んだ。
その後、宮塚君という新鋭が登場してきた。僕も選手としてライバル意識を燃やした。そして1988年8月の玄海大会では、宮塚君に勝って優勝した。引き続き「これならばハワイで彼に勝てるだろう」と思えるハードな練習をこなし、ハワイに臨んだ。そして、その年のハワイ大会のレース前日に、ラン・コースをジョグしている宮塚君と擦れ違った。目線が合って、お互いの健闘を称えるようにニコッと笑ったことを今でも覚えている。同時に武者震いがした。結果的に彼には勝てなかったけれど、力を出し切っての総合17位という記録に満足している。
やはり僕の目標はハワイ大会で力の限り戦い、成果をあげることであったことは違いない。ハワイ大会を完走した、その達成感は、トライアスロンの醍醐味そのものである。

 

                    強い者が勝つ、まぐれのないステージだ

                          【宮塚英也】

miyatsuka 俺が憧れていたのは、アイアンマンよりも競技スポーツ性が高いショートタイプのトライアスロンで、アメリカが本場だったUSTSという51.5Kmのショート・トライアスロン・シリーズに挑戦しようというのが、トライアスロンの世界に入ったきっかけだった。
ハワイ大会に出場したのは1988年だったが、実は前年の87年びわ湖大会でハワイの権利を取っていた。でも、ほとんど興味が湧かなかったので、その年は行かなかった。それで、周りからは「なぜ行かない? なぜ行かない!」と、さんざん言われた。そして翌年の88年に同じくびわ湖で権利を取った時、「これでハワイへ行かなかったならば、周りは何をいうかわからない。よし! 行ってやろう」と決めたのだ。
ショート志向だった俺だが、たまたまロングの能力もあったからだろう。ラッキーにもハワイ初挑戦で9位に入った。24歳の時である。しかし、まぐれということもある。だからもう一度、トップテンに入れば皆が認めるだろうと思いチャレンジしてきた結果、6年後の94年大会で10位になった。この時の10位の方が、9位よりも嬉しかったのは言うまでもない。
それにしても、ハワイのアイアンマン・レースは強い者が勝つ、番狂わせがないというところがいい。当然のことだが、ハワイ大会はそのことを見事に演じてくれるステージだ。現役を引退した今、改めてアイアンマンの素晴らしさを感じている。

Copyright © 2015 Neo System Co., LTD. All Rights Reserved.