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Vol.12:風神の巻 第1章その8(座談会)前編:アイアンマン・ハワイと日本のアスリートたち

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第1章その8(座談会)前編

アイアンマン・ハワイと日本のアスリートたち

【この記事の要点】

今回は、アイアンマン・ハワイの話の絞めくくりとして、過去にハワイ大会に出場、完走したトライアスリートである当編集委員会のメンバーにお集まりいただくとともに、トライアスロンのプロフェッショナルとして世界を股にかけ活躍されておられる堀 直之、堀陽子ご夫妻をゲストに迎え、アイアンマン大会出場の思い出やその意義などについて自由に語っていただきました。

 トライアスロンの発祥やハワイ島を舞台として日本人8名が参加した第4回アイアンマン大会の話を綴った『日本トライアスロン物語』風神の巻 序章並びに第1章が前回で終わりました。 しかし、これですべてが語り尽くせた訳ではありませんし、1980年前後に世界各地で生まれ始めたトライアスロン大会の話も沢山あります。でも、この物語は、あくまで日本のトライアスリートたちの話を主軸に据えておりますので、取りあえず海外のトライアスロンの話は一端、終えて、これから日本国内のトライアスロン大会やトライアスリートたちの物語を書き綴っていきたいと思います。 そこで今回は、アイアンマン・ハワイの話の絞めくくりとして、過去にハワイ大会に出場、完走したトライアスリートである当編集委員会のメンバーにお集まりいただくとともに、トライアスロンのプロフェッショナルとして世界を股にかけ活躍されておられる堀 直之、堀陽子ご夫妻をゲストに迎え、アイアンマン大会出場の思い出やその意義などについて自由に語っていただきました。

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【出席者】

 ゲスト  堀 直之&堀 陽子 トライアスロン・スペシャリスト

 青木忠茂 フォト・ジャーナリスト
 市川祥宏 スポーツ・コーディネータ
 北村文俊 (社)東京都トライアスロン連合会長
 鈴木 進 トライアスリート

 司 会  桜井 晋 『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹

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            本当は抜きたくないけれど

<桜井>
 すでにお酒も大分回って舌の滑り具合が良くなってきたところで、そろそろハワイ・アイアンマン大会にまつわるお話を始めたいと思います。ところで今回は、4日前に長崎の五島列島で行われたアイアンマン・ジャパン大会において見事、女子部門で総合優勝を飾られた堀陽子さんと、その夫の堀直之さんがゲストとして出席していただきました。ニュージーランドからの遠征、お疲れさまです。そして長崎大会での女子総合優勝、おめでとうございます。ご夫婦で長崎大会に出場されたそうですが、まず初めに陽子さんから感想をお聞かせください。 dscf2213

<堀陽子>
 皆さまのお陰で優勝することができました。有り難うございます。優勝の感激は今までに味わったことがない、特別なものでした。ですから私もゴールした瞬間、思わず「やったぁー!!」と叫んでしまいました。夢にまで見ていたアイアンマン初タイトルを手中に収め、その喜びと、苦しかったラン勝負から解放されたからか、思わず口から出てしまったのです。強敵オーストラリアのマリッサ選手と一緒に苦しんだからこそ、自分も限界に近いところまで頑張れたのだと思います。自分がここまで思い切り目標に挑戦できるのも、日頃からサポートしてくださっている皆さまのお陰です。心から感謝申し上げるとともに、今後ともさらに上を目指し努力していきたいと思います。

<桜井>
 ところで、直之さんは意を決して長崎に出たと聞きましたが、成績はどうだったのですか?

<堀直之>
 いま一息の結果だったと思いますが、自分なりに良く戦えたかなと思っています。

<桜井>
 一時、直之さんは成績の方も芳しくなかったようですが、今回の成績を見る限り大分、復活してきた感じですね。

<堀直之>
 はい、これからも果敢にチャレンジしていきたいですね。陽子に負けないように…。

<鈴木>
 どっちが速いの?

<堀陽子>
 昔は直之さんだったけれど、今は私の方が15分くらい先にフィニッシュしています。スイムはどうしても直行さんより遅れをとりますが、いつもバイクの途中で抜いてしまうのです。「いるいる」などと思いながら、追い抜いていくのです。本当は抜きたくないけれど…。

<青木>
 でも、夫婦でトライアスロンを楽しんでいるって、素晴らしいよね。

<市川>  
 羨ましいですね。今後とも日本を代表するトライアスリートとして頑張って欲しいね。

 

                      日本でもアイアンマンをやらないか

<桜井>
 では、話を編集委員のメンバーに戻して、はじめにトライアスリートの草創期からクラブリーダーを務めトライアスロンの普及、発展に取り組まれてきた市川さんに、ハワイ大会参加の経緯と当時の思い出話をお聞かせください。 dscf2243

<市川>
 私がトライアスロン大会に参加したのは、1982年7月に行われた皆生トライアスロン大会です。このとき皆生温泉の宿で一緒になった大阪の脇田重男さんと、その年の10月に行われるハワイ大会へ行こうと約束しました。でもハワイ大会までわずか2ヵ月余りの日数しかないうえ、皆生大会を完走し終えて私も脇田さんもすっかりへばってしまい、ハワイへ行く気がすっかり失せてしまったのです。それで翌年の83年大会に期した訳ですが、残念ながらその年の皆生大会で、バイクでこけて怪我をしてしまい、またもや出場を見送ることになってしまいました。したがってハワイへ行ったのは84年のことで、矢後潔省さんが設立したJTRC(ジャパン・トライアスロン・レーシング・クラブ)の選手兼ツアー・マネージャーとして参加したのです。

<堀陽子>  
 当時は誰でも出場できたそうですね。

<市川>
 本当に、その当時は葉書さえ出せば誰でも出場できました。今のように予選レースで出場権を獲得する必要もなく、しかも制限時間は83年に17時間に短縮されたものの、比較的ゆるやかでしたから参加しやすかったですね。

<青木>
 それで私も85年の大会に出場できたのです。83年にはリタイアしたものの女優の丘みつ子なども参加したりして、その頃から日本でもトライアスロン・ブームに火がつきましたね。

<鈴木> 
 確か女子マラソンの松田千枝さんも出場、完走していたよね。

<桜井> 
 それは北村さんが出場された82年の大会でした。日本人女性として初めてアイアンマン・レースを完走した訳です。それで、どうでしたか? 市川さんは完走されたのですね。

<市川>
 ええ、なんとかかんとかゴールしました。それにしても、アイアンマンの大会運営はさすがだなと感心しました。日本で皆生大会しか経験していない私にとって、ハワイ大会の参加はスポーツ・イベントの運営、開催という観点から大変、勉強になりました。

<北村>
 ハワイ大会の素晴らしさは、大会運営に献身的に関わるボランティアがいるからだと思います。エイドステーションのボランティアも本当に積極的に自ら動くというか、良く活動しています。見習うべき点ですね。

<桜井> 
 その当時から市川さんはスポーツ・コーディネータとして活動を始められたようですね。

<市川>
 結果的にそうなったのですが、実は84年のアイアンマン・ツアーには日本テレビのスタッフのほかに、後に琵琶湖大会をアレンジすることになった電通の西郷さん(故人)も参加されました。それで私たち一行は、現地でハワイ大会のレース・ディレクターを務めるバレリイ・シルクとも会いました。その時、シルクから「日本でもアイアンマン大会をやらないか」と話を持ち掛けられたのです。

<桜井>
 なぜ西郷さんが関わってきたのですか?  dscf22531

<市川> 
 彼は、かつて英国のウィンブルドン・テニスの日本における放映権を掌握していましたが、その後は電通の文化事業部に所属しテニスとは無関係になってしまいました。そんな折、トライスロンに興味を持ちシルクに近づき、ついにアイアンマンの日本開催の権利を買い取ったのです。だから日本でアイアンマンを開催しない訳にいかなくなった。それで私たちは日本へ戻り、約3ヵ月間をかけて琵琶湖大会のコースづくりを行いました。実は琵琶湖のほかに千葉県の館山市も開催候補地としてあがっていて、シルクが来日し矢後さんと3人で南房総へ赴きアイアンマン・レースのディレクションを行ったこともあります。結果的には実現しませんでしたが…。

<青木>
 館山は若潮マラソンの舞台だったし、また84年にたった1回行った”ラフ・ウォーター・スイム”という遠泳大会が行われたことがあったからでしょう。その若潮マラソンは当時25kmのロードレースで、フルマラソンではなかったですね。その時、僕は「府中商工」と記されたランニングシャツを着た女性と終始併走状態で走ったことを覚えています。その女性こそ、鈴木さんの奥さんだと判ったのは、トライアスロンを始めてからのことです。それで「府中商工」というのは、府中市の商工会議所ではないことを知りました。

 

                      郵便局へ行って50万円を借りた

<桜井>
 そうでしたか。縁は異なものですね。さて、では次にトライアスリートの草分け的存在でもあります北村さんに、ハワイ大会に参加された思い出話を聞かせてください。  

<北村>
 80年12月に朝日新聞に掲載されたアイアンマンの記事を見て触発されたというか、自分もチャレンジしてみたいという気持になってトライアスロンの道へ踏み出すことになりました。その新聞記事には81年ハワイ大会に出場する日本人選手の話が掲載され、それを見た私は早速、そのうちの一人でリーダー格だった堀川稔之さんに会いに行きました。しかし2ヶ月後の81年2月が大会なので、時間的な余裕がないため翌年まで待つことにしたのです。ただ3種目のトレーニングは積んでいたので、行こうと思えば行けなくもなかったけれど、行くからにはそれなりの成果を得たかったからです。それで1年待って、82年のハワイ大会は2月と10月の2回、変則開催された訳ですが、私は2月の大会に参加しました。

<堀直之>
 なぜ、その年だけ2回も開催されたのですか?

<桜井>
 私が聞き及んだところは、80年の冬にニューヨークが大寒波に襲われたこともありまして、北米の人たちは2月の開催ではとても練習ができないので、主催者側に秋の開催を要請していたようです。ともあれ、永谷誠一さんや堀川さんが参加された81年はすでに2月開催が決まっていたし、82年から切り替えるにも時間が空き過ぎてしまうので、その年は2回も開催することになったのです。ついでながら81年大会の開催場所が、それまでのオアフ島からハワイ島に移ったのは、オアフ島の交通渋滞が激しくトライアスロンを開催するゆとりがなくなったとの話です。

<堀陽子>
 その結果、ハワイ大会は毎年、満月の土曜日に開催されるようになったのですね。

<市川> 
 コナ市は街灯が一つもないので暗い。それで月が出れば明るいから、夜でもレースができるでしょ。でも決して満月という訳ではなく、満月に一番近い土曜日に開催しています。

<北村> 
 それとハワイ島の10月は雨が少ない。ハワイの雨は日本のジメジメした雨季と違ってシャワーのように雨が降りますが、10月は雨の心配も少ないのでレースがしやすい訳です。

<桜井> 
 続けて北村さんのチャレンジを聞かせてください。  

<北村> 
 話を戻しますと、いざハワイ大会に向け私は立川のサイクル・レーシングクラブ「なるしま・フレンド」のメンバーとなり、毎日曜日にクラブランに参加しました。トレーニングをみっちりやれたのは良かったのですが、肝心のハワイの遠征費用をどう捻出するかが問題でした、当時の私は31歳と若く、だから給料も安かったからです。それで結局、郵便局へ行って50万円を借りました。

<鈴木> 
 えぇ、50万円もかかったの?  

<北村> 
 当時の円レートは240~250円とドル高だったからね。今の2倍以上の経費に相当しますよ。でも、幸い家族の理解も得られ、ランナーズ社の30名ほどのツアーメンバーとして、歌手の高石ともやさんや日本料理の板前の服部健一さんたちと一緒に日本を発ちました。

<市川>
 まだ借金ができるからいいな。その服部さんは今、九州の屋久島で民宿を営んでいて、そこを熊本の永谷さん達が合宿所に使っているそうです。

<北村>
 本当に! そうそう、私たちはコナ市で一番上等な「キングカメカメハ」というホテルに宿泊したのですが、そこでツア・コンダクターの上地さんがカセットコンロや鍋、それに食材を買い集めてきて、服部さんがホテルの部屋で日本料理を造ってくれました。それと私たちのランナーズのツアーは東芝ツーリストという旅行会社でしたが、その旅行会社のベテランのツア・コンダクターが何かと面倒を見てくれて、レース終了後にお汁粉をつくってくれましたよ。

<堀陽子>  美味しそう、いいなあ。 dscf21461

<北村>
 今考えれば、暢気で楽しい旅でした。レースもトランジションでのんびり着替えたり、食料を補給したり、「長丁場だし、慌ててもしょうがない」などとランナーズ社の説明会で堀川さんから話を聞いていたからです。それで、ランで四国の渡辺克巳さんに抜かれてしまい、日本人2位になってしまいました。総合タイムは11時間57分55秒で、渡辺さんとは1分22秒差でした。今流にトランジットを素早くやっていれば、日本人1位になって当時のお色気テレビ番組「11PM」にゲスト出演していた筈です。結局、出演したのは渡辺さんでした。

<青木>
 それにしても北村さんは先駆的なアスリートで、私たちは北村さんからトライアスロンのことをたくさん学びました。たとえば、今やアイアンマン・レースで主流になっているバイクボトルをサドル後方に取り付けるなど、北村さんは昔から実践的な工夫をされ、それを僕たちはいろいろ真似たりもしましたね。

<北村>
 主催者が用意してくれる訳ではないからね。長丁場のレースを完走するために、自分で考案しなければならなかったのです。

<桜井>
 先駆者は先駆者なりの工夫と努力が課せられていたということでしょう。さて一息入れて、続きは次号でお話しましょう。

 ※この座談会記事は04年5月27日に東京・中野の割烹居酒屋「鯉作」で行われたものを要約したものです。

  【次号予告】座談会後編とエリート選手として日本のトライアスロン界をリードしてきた中山俊行、山本光宏、宮塚英也の「トライアスロン談義」を掲載します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>アイアンマン・ハワイ最多出場の偉大な日本人  【仙石元則】

 cimg0196 アイアンマン・レースがハワイ島で開催されるようになって今年で26回目になります。そして私がハワイ大会に初出場したのは1986年、アイアンマン大会が始まってから9年目のことです。その年にアジア地域で初めて日本の滋賀県・琵琶湖周辺でアイアンマンが開催されることとなり、同大会で年代別3位に入ればハワイ大会へ出場することができるようになりました。
 その第1回びわ湖大会は、関西地方に台風の接近が予測された中でのスタ-トとなりましたが、スイムは波も風も無く比較的、楽に泳ぎ切ることができました。ところが水温は17~18度前後と大変低く、現在と違ってウェットス-ツなど使用していませんから、リタイアした選手がかなり出ました。そしてバイクに入った途中から雨風が強くなり、台風が本格的に近づきつつあるのを肌で感じ始めました。ランに移る頃には雨も強く降り出し、ほとんどの選手が土砂降りの中でのゴ-ルでした。

 それにしても、私のアイアンマン初戦は散々なレ-スで、20年過ぎた今でも忘れることができません。バイク・ライディングに関してはまったくの素人、メカもこれまた無知という私がスイムを終え180kmのバイクへとスタ-トした訳ですが、なんとスタ-ト20kmで大トラブルが発生、購入して2ヵ月しか経っていないバイクのチェ-ンが切れたのです。チェ-ンが切れるなどという事態は、知識として持ち合わせていません。チェ-ンは外れるもの程度しか頭に無く、「外れたら掛け直せばいい」くらいしか考えていなかったのです。
 切れたチェ-ンを見ながらこれをどのようにして直すのか、当時はチェ-ンカッタ-などという道具を知る由もありませんので、路肩で30分ほど呆然としているだけでした。そのうち観客が集まり出しましたが、「手伝ったら選手が失格になる」と教えられていたのか、観客たちもただ私の様子を眺めているだけでした。

 かれこれ1時間ほど経った頃です。ある人が「道端の草の中にマイナスドライバーが落ちているよ」と教えてくれたので、ドライバーと石で作業すること1時間、なんとかピンを入れ終え、再スタ-トをする時には沿道の人たちから拍手をいただきました。こうして記念すべき初のアイアンマンを13時間14分、総合153位の成績で完走しました。後に雨の降る中、泣き顔でドライバーと石でチェーンを叩いて修理している場面がテレビ放映され、なんとも言えない気持でした。 cimg0194
 85年はアイアンマン・ハワイへの出場権が取れたのですが、エントリー用紙の欄に「選ばれたらハワイ大会に出場しますか」という欄にチェックを入れておかなかったため、私より順位の下の人にハワイの出場権を獲得されてしまいました。こうして何がなんだかわからないうちに、私の第1回アイアンマン大会が終わったのです。

 翌86年は10時間28分のタイムでアイアンマンの権利を獲得、ハワイに初出場し、13時間00分の総合633位の成績で完走を果たしました。翌年からは3種目の練習のやり方やバイクの調整、修理などもできるようになり、トライアスロンに対する体力、技能が少しずつ向上して、成績もコンスタントにあげられ、ハワイ出場回数を順調に伸ばすことができました。  
 しかし、93年のハワイ大会は出場が危ぶまれる事態が起きました。アイアンマンの1ヵ月前に台湾の日月単で開催された第1回インターナショナル・サン・ムーン・レークトライアスロン大会にマイケル・トーリーズ選手らと招待され出場しましたが、レースが終わり帰国の途につく台北の町で中華料理を食べたのです。ところが、帰国した翌日から食中毒にかかってしまいました。まる1週間、寝たきりで何も食べられず、その1週間後にアイアンマン・ハワイを控えていて、一時は出場を諦めたほどです。それでもフラフラの状態で飛行機に乗り込み、なんとかハワイに到着、療養が効いたのか、到着後は食事もできるようになって、無事スタートすることができました。それでなんとかアイアンマンの連続出場が途切れないで済んだのです。
 97年には12回連続出場を達成しましたが、翌年の98年はびわ湖大会が中止となり、連続出場のピンチを迎えてしまいました。この年は日本人に対し120名の出場枠が与えられていましたが、それが抽選ということになってしまったのです。もちろん私も応募しましたが見事に外れ、連続は12回で途切れてしまったのです。ちなみに、びわ湖大会も連続13回出場し中止されましたが、13年連続出場者は私を含め8名しかおりません。

 55歳を過ぎてから体力の衰えとともに怪我と故障に見舞われ出し、痛みとの戦いで調整が巧くいかず苦しい期間が続きました。それでもアイアンマンを12年も続けていると、レ-スでも何処で休んで何処で頑張るか、身体が覚えてしまっているようで、99年はなんとか13回目の出場、完走を果たしました。2000年になり年齢も60歳を越し1年1年を身体と相談しながら勝負している訳ですが、故障の箇所も数多く医療費や身体のケア-代が嵩みます。挙げ句に医者からも見離され、「若いうちから身体を酷使しているのだから止めるか、休むか、我慢するか、自分で選択するしかない」と下駄を預けられる始末です。
 それでも、なんとか00年、02年と出場、15回出場を達成することができましたが、来年は65歳と区切りの良い年齢になりますので、16回目のアイアンマンにトライしようと思っています。現在アジアでは、アマプロを通じて私の15回出場が最高記録ですが、今年は日本人で14回目の選手が追従してきていますので、なんとか通算出場記録をキープしたいと思っています。
 振り返れば、この20年間でハワイ大会を含めアイアンマンレ-スを47回出場しました。日本人では今年51回目の出場を達成したトライアスリートがいるそうですので、来年中には追越したい気持です。

  【仙石元則のアスリート人生】
 1940年1月生まれ。55年・57年に全国高等学校駅伝大会東京代表として出場。69年第4回全日本リュージュ選手権大会優勝。72年第11回オリンピック札幌大会エキストラコーチ。82年第10回ホノルルマラソン大会出場。85年第1回アイアンマンびわ湖大会出場。86年第9回アイアンマン・ハワイ大会出場。92年第1回ワールドカップ・ゴールドコースト大会出場。93年第3回台湾サンムーンレイク国際大会出場。94年第3回タイ・プーケット国際大会出場。第10回アイアンマン・ニュージーランド大会出場。00年第1回アイアンマン・チェジュ大会出場。01年第2回アイアンマンマレーシア大会出場。02年第24回アイアンマン・ハワイ大会出場~86年より通算15回出場。第19回アイアンマン・ニュージーランド大会出場~連続10年出場。第2回アイアンマン・ドイツ大会出場。第31回ホノルルマラソン出場~82年より通算20回出場

<写真>東京・中野の酒場「炙屋」にて

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