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Vol.9:風神の巻 第1章その5:冒険と遊びの1日

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第1章その5

冒険と遊びの1日

【この記事の要点】

朝7時、いよいよカイルア桟橋からスイムをスタートすると思うと、永谷誠一(54歳)、堀川稔之(47歳)にも、いささかの緊張と興奮が襲ってきた。あれほど夢に見たアイアンマン大会のスタート台に今、立っている。そのために、たくさんの練習を積み重ねてきた。今さら後へは引けない。

 朝7時、いよいよカイルア桟橋からスイムをスタートすると思うと、永谷誠一(54歳)、堀川稔之(47歳)にも、いささかの緊張と興奮が襲ってきた。あれほど夢に見たアイアンマン大会のスタート台に今、立っている。そのために、たくさんの練習を積み重ねてきた。今さら後へは引けない。
 緊張に震えていたのは永谷や堀川だけではない。この第4回ハワイ・アイアンマン大会に参加した日本人最年長の堤 貞一郎(57歳)、かつて明治大学でウェイトリフティングの選手だった島田勇生(39歳)と小林 登(38歳)、東京・晴海のドゥ・スポーツプラザでトレーニング積み重ねた勝尾 弦(32歳)をはじめ村松鉄郎(28歳)と西沢 孝(28歳)の日本人全員が幾多の思いを胸に秘め、万感の思いでカイルア桟橋の浜辺でスタートの合図を待っていた。

<写真>ランナーズ1881年5月号より 提供;㈱ランナーズ、以下同

<写真>ランナーズ1881年5月号より 提供;㈱ランナーズ、以下同

 それにしても、トライアスロンは昔も今も変わらない。スタートするまで胸の動悸は高鳴る一方だが、いざスタートを切って海の中へ飛び込めば緊張は解け、いつの間にか魚の心となって泳いでいるのだ。海という大自然の真只中で波を掻き分け、水飛沫をあげて進んでいく。
 永谷も地元の室内プールでたくさん泳いできたとはいえ、海で泳ぐのは今回が初めてである。一抹の不安が胸を過ぎる。しかし、ザブンと海へ飛び込んでしまえば、不安も緊張もなくなるだろう。スタートの号砲が鳴ってからしばらくして、永谷は堤とともに最後尾から海へ入り、ゆっくり泳ぎ出した。かたや堀川は、

「だめだったら、やめればいい」

 そんな気持でスタートを待っていた。やるべき練習はやってきたのだ。運を天に任せる心境だった。とはいえ、スイムは得意の種目である。いささか自信がある。そのスイムを堀川は、およそ1時間33分でクリアした。拍手と声援が飛ぶ中、カイルア桟橋の浜辺に上がってきた堀川は、観衆に向かって軽く手を振り笑顔を見せた。そしてバイクへと移っていったのだが、このバイク・パートでアクシデントが発生した。

1時間33分でスイム・フィニッシュした堀川(同)

1時間33分でスイム・フィニッシュした堀川(同)

 ほぼ1年前に購入したチネリのロードレーサーだが、バイク・スタートから50Km余り走った地点でスポークが1本抜け落ち、おまけにリムが割れてしまったのだ。ハプナビーチのエイド・ステーションで止まり、ただちにメカ・サービス隊に連絡を取った。しかし、

「ゴーバック・トゥ・ザ・タウン!!」

 修理できないといわれ、コナに戻るよう繰り返し指示されたのだ。エイド・ステーションでそんなやり取りをしている間に、一緒に日本から連れ立ってきた島田と小林の2人が走り抜けていく。堀川の顔の形相が、だんだん険しくなっていった。エイド・ステーションに着いたのが10時45分頃。それから1時間余り経った12時頃、堀川は決心した。

「このまま走り出そう」

それから10分後、堀川は破損したホイールのまま走り出したのだ。でもポンプの具合が悪く、タイヤに空気が十分、入らない。しかもホイールは、左右にグラグラ振れて走りづらい。

 一方、永谷はというと、海の中で足がツルやら、止まってマッサージをするやら、ほうほうの体でやっとスイムを終えた。海から上がってきたところで気分も悪く、自分が何をしているのかわからない、ややパニック状態だった。それでも白いショートパンツを履き、バイクをスタートしたのだ。
でも、昨夜からほとんど寝ていない。バイクを走り出したまでは良いが、早くも10Kmほど走ったところで、あまりにも眠いので自転車を路上に置くと、10分余り寝てしまった。しかし、それからは気持もしっかり戻り、サイクリング気分で走っていくことができた。ハワイ島に降りそそぐ灼熱の太陽は選手達の素肌を焼け焦がすが、バイクで風に吹かれる心よさが、せめてもの慰みとなった。
5マイル(8Km)ごとに給水場があり、そこには相当数のボランティアたちがバナナや水を手渡ししてくれる。

 前回大会までは食事や給水、あるいは事故対策など一切をすべて自己責任で行うため、自身の応援部隊をつけることが義務づけられていたけれど、今大会からエイド・ステーションが設置され、食事や給水は主催者が用意してくれるのだ。 

永谷はビキニ姿のボランティアの写真を撮りながら走った。(写真提供;毎日新聞)

永谷はビキニ姿のボランティアの写真を撮りながら走った。(写真提供;毎日新聞)

 そんなことともつゆ知らず、日本から持参し、あるいは現地のスーパーマーケットで買い込んだ食糧や飲料を、永谷は自転車のフロントバックの中に詰め込んでいた。前面に日の丸を刺繍したバックの中には、夜中にホテルでつくった一口握り飯、行動食に最適だと思い持参した餅米が原料の朝鮮飴、それに稲荷寿司や納豆まで入れていたが、実はカメラもこっそり忍び込ませていた。

 何度目かのエイド・ステーションに着いた時、そこへ毎日新聞の記者・須田泰明とカメラマン・草刈郁夫の2人に出会った。そこで永谷はすかさず2人にビキニ姿の3人娘と一緒に並んだ記念撮影を頼んだのである。

「お願いしまっす」

毎日新聞の2人は快く引き受けた。しかし、永谷が余りにも呑気で楽しそうなので、

「まだ競技中ですよ」

と忠告された。永谷は笑いながら、

「よかたい、よかたい」

 とにかく時間制限のない旅である。思い切り遊びたい。それが今大会に託した永谷の思いだった。

 その後、堀川はアップダウンの厳しいバイク・コースをフラフラ走りながら、なんとかハウイを折り返し、帰路、ホイールが故障した地点のハプナビーチのエイド・ステーションでホイールを交換、夕方の午後6時、バイク・フィニッシュ地点のコナ・サーフホテルに到着した。メカトラブルのため、約180Kmのバイク・コースを走り切るのに9時間余を要した。
 しかし、10分後に堀川はラン・ウェアに着替えて出発、最後まで歩くことなく、コナに戻る42.195kmを走り切った。記録は15時間27分22秒、238位だった。

 永谷はバイクもランもエイド・ステーションに何度も立ち寄り、熊本県人会の人たちが差し入れてくれる伊勢エビ料理や味噌スープなどの食事を楽しみつつ、またマッサージも受けながら、夜中の午前2時半頃にフィニッシュした。記録は19時間46分30秒、295位であった。

疲れ切った永谷だが、心は充足していた(同)

疲れ切った永谷だが、心は充足していた(同)

【次号予告】堤 貞一郎の奮戦振りなど第4回ハワイ大会のフィナーレを記します。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>トライアスロンは敗者にこそ、惜しみない称賛が与えられる  【草刈 郁夫】

 20数枚の電送写真を日本に送り終えたのは、午前1時過ぎだった。日付はすでに2月15日に変わっている。昨日14日のハワイ・アイアンマン大会で撮ったフィルムは約30本。それを現像、焼き付け、乾燥させた後、東京本社へ写真電送したのだ。1枚の写真を焼き付けるのに3分~4分、電送するのに5分~10分かかる。
 だからジョン・ハワードとリンダ・スウェニィの男女それぞれ1位の選手がフィニッシュした姿を撮り終えた19時頃、急いでホテルへ引き返し、写真伝送の作業に取りかかった。
この第4回大会を2月16日付け夕刊に全4ページの特集記事として掲載することが決まっていたので、締め切りという制約上、少しでも早く写真を送らなければならなかった。しかも、今朝にはオアフ島へ移動して、ハワイアン・オープン・ゴルフの模様を取材する。日本の青木 功選手が優勝するかもしれない、との予測もあって、本社から取材命令が下っていたのである。  

アップダウンが激しく、照り返しで炎熱地獄化したバイク・コースを懸命にペダルを踏む選手達(写真提供;毎日新聞)  

アップダウンが激しく、照り返しで炎熱地獄化したバイク・コースを懸命にペダルを踏む選手達(写真提供;毎日新聞)  

 それで、ハワイ島からオアフ島へ飛び立つ一番機のチケットを確保するため、朝の5時過ぎにホテルを出た。すると遠方から人々の声援がかすかに響き、しらじらと東の空が明るむ彼方に人の走る姿が点描のように見えた。紛れもなく、昨日の朝7時過ぎにカイルア・ピアからスタートしたトライアスロンの選手である。

「まだ走っている!」

 感動的な光景だった。走っているというよりも、重い足と身体を引きずりながらゴールゲートへと向かっていた。早速、クルマをピアの方へ回してもらうと、なんとゴールゲートの付近では、大会の役員やボランティアが選手を迎えていたのだ。20時間余り運動をし続け、ぼろぼろの姿になってフィニッシュする選手を、私は何枚か写真に収めた。しかし、その写真は翌日、オアフ島から再び東京へ伝送したが、締め切りに間に合う筈もなかった。

「これがトライアスロンなのだ。撮るべき写真は勝者の姿ではなく、もっと別にあった」

 私は心の中で呟きながら、今回の撮影取材は失敗したと思った。いつものスポーツ競技の報道という視点で、勝者ばかりを真正面から取材してしまったのだ。

 記者(ライター)の須田泰明さんと一緒にクルマに乗り、2人で大会の全コースを回った。私たち2人は、この過酷とも言える3種目の競技を連続して行うトライアスロンを、日本に紹介するためにやってきた。トライアスロンというスポーツ・イベントを取材したという点で、確かに私は与えられた任務をまっとうした。しかし、トライアスロンというスポーツの本質に迫ることができなかったと思った。

 トライアスロンというスポーツは、勝者に光が当てられだけでなく、24時間も運動をし続け、ぼろぼろの姿となってフィニッシュする、いわば敗者にも惜しみない称賛が贈られる。いやむしろ、トライアスロンは敗者にこそ、勝者以上の賛美と栄光の光が当てられるといってもよい。
 第4回ハワイ・アイアンマン大会が開かれた1981年は、日本が高度経済成長の絶頂期でもあり、その後バブル経済へと傾斜していく時期であった。そんな日本の社会の中にあって「忍耐」とか「努力」などという言葉が、やたらダサク聞こえる時代でもあったが、トライアスロンはまさしく忍耐と努力で完走した者に惜しみない称賛が与えられるスポーツであった。

 その日、私はオアフ島へ渡ってハワイアン・オープンの模様を撮影取材した。そして仕事を終え、日本へ帰る飛行機に乗るまでのわずかな時間ではあったが、ワイキキビーチを散歩した。2晩徹夜した眠い眼をようやく見開きながら、長ズボンを履いて砂浜を歩いた。こうして日本からハワイ島へ、そしてオアフ島を巡る4泊5日の旅が終わった。

 私の撮影取材は失敗したが、人間として共感できるスポーツに出会ったことを、今もなお嬉しく思っている。

<プロフィール>1946年、東京に生まれる。東京写真短期大学卒業後、毎日新聞社写真部入社、報道カメラマンの道を一筋に歩む。写真部デスクを経て、現在は編集委員。第4回ハワイ大会の時は35歳だった。

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