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Vol.8:風神の巻 第1章その4:日本のトライアスロンの原点はここから始まる

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第1章その4

日本のトライアスロンの原点はここから始まる

【この記事の要点】

それにしてもカイルア・ピアのゴール地点は、観衆たちの凄まじい口笛と歓声、それにハワイアン・バンドの音楽とダンサーたちのフラダンスが加わる賑やかさに包まれていた。

 「このヘトヘトとなる競技は、アリー通りのカイルア桟橋で、2月14日土曜日の、だいたい午前7時に始まる。銃声と同時に参加者はコナの海へ飛び込み、沖合に停泊する大きな船(ボート)の転向ポイントを目指して1.2マイルを泳ぐ。そして選手はボートの周りをぐるりと回って、早々にカイルア桟橋に姿を現わす。それからバイクウェアに着替え、クイーン・カアフマヌ道路の黒色の火山岩層地帯を通ってハウイへと北に112マイルのバイクレースを始める。ハウイで選手は体重を量るが、これは安全措置として、選手が危険なレベルまで体重が減っていないかどうかを調べるためだ。それから選手はクイーン・カアフマヌ道路を経由してカイルア・コナへと引き返すのだが、このときハプナ・ビーチパークで2回目の計量をするために止まる。そしてケアウホウ湾のコナ・サーフホテルでバイクを終え、そこで26.2マイルのマラソンを始める前に3回目の計量を行う。マラソンはコナ・サーフホテルから始まり、ケアホール空港へと北に向かう。そして、カイルアへ戻る最後の道程を進み、カイルア桟橋でレースをフィニッシュする」 (訳;島田青児)

 この文章は、日本人が初めて出場、参加した第4回ハワイ・アイアンマン大会のパンフレットに記されたレース案内である。その第4回大会はパンフレットの案内通り1981年2月14日の土曜日(日本時間15日未明)、米国ハワイ州ハワイ島カイルア・コナで開催された。

 この年からロケーションをオアフ島からハワイ島に移して行われ、以来、今日までアイアンマン・ハワイはハワイ島で開催されている。ロケーションを変更した理由は、オアフ島の交通渋滞が激しくなり大会開催が困難になってきたことと、オアフ島より比較的、海が穏やかなためだ。

 参加選手は、永谷誠一、堀川稔之ら日本人8名を含めアメリカ、カナダ、ニュージーランド、オランダの5カ国から合計368名(うち女性24名)を数えた。年齢は14歳から73歳まで、なかには全盲や小児麻痺で片足が不自由な障害者も参加した。

第4回大会スイム&ランコース図

第4回大会スイム&ランコース図

 大会当日の天候は晴れ。スイム・スタート地点はカイルア・ピアと呼ぶ、かつて牛の積出港だった突堤のあるビーチから、海岸線を左手に見ながら外洋へ南へと泳ぎ出し、中間点を折り返す2.4マイル(3.84km)である。朝6時、まだほの暗い砂浜には、選手をはじめ選手の家族や応援・観戦者、レース・ディレクターのバレリイ・シルクをはじめとする大会役員、それにランナーズ誌のカメラマン橋本治朗、毎日新聞記者の須田泰明、同カメラマンの草刈郁夫など日本のジャーナリストたちも集まり、今かとばかりスタートを待ち構えていた。

 スタートの予定時刻は午前7時。椰子の木が立ち並ぶ堤防側の東の空が明るんでくると、鮮やかなオレンジ色のスイムキャップをかぶった368名の精鋭たちが、ゾロゾロと海の中へ移動を開始した。彼らは沖合に浮かぶオレンジ色のマストが2本立ち並ぶボートを目指して泳ぐのだ。しかし、定刻の7時を過ぎてもスタートの合図がない。5分経っても、10分経っても…だ。

「ピュー、ピュー」

ついに選手たちが口笛を鳴らし始めた。そんな中、午前7時15分、

「ズドーン」

という号砲がビーチ周辺に響き渡り、スイムのスタートが切られたのだった

 レースは、51分後にカリフォルニア州出身のハンセン・ビルが先頭でスイムをフィニッシュ、また前回の大会では3位、自転車ロード競技で6回も全米チャンピオンに輝き、モントリオール大会までオリンピック選手として3回の出場経験を持つジョン・ハワードは、昨年の自身のスイムタイムをおよそ40分も短縮させる1時間11分12秒でフィニッシュ、得意のバイク112マイル(179.2km)へと旅立った。

第4回大会バイクコース図

第4回大会バイクコース図

 バイクコースは、スイムゴール地点のカイルア・ピアからコナの町中を通り過ぎ10Kmほど行くと、4,170mのマウナ・ロア山に連なるカラオ・ホノコアフから流れ出した溶岩が道の両側に広がる国道19号線を、折り返し点のハウイまで約80kmをひた走る。コースには太陽を遮る樹木は見当たらず、気温は35度以上にものぼる灼熱地獄の世界、しかも折り返しまでの40Kmはアップダウンが繰り返し続いた。

 ハワードはハウイの折り返しでトップに立ち、そのままバイク・フィニッシュ地点のケアウホウ湾のコナ・サーフホテルまで、2位以下に約11分の差をつける5時間03分29秒のタイムで走り切った。

 最後のランは、コナ・サーフホテルを出発しコナに戻る26.2マイル(42.195km)。ランも炎天の下、過酷な戦いが繰り広げられ、レース半ばでハワードは第2回大会のチャンピオン、トム・ウォーレンに追い詰められたが、懸命な頑張りで逃げ切ることに成功した。ハワードがフィニッシュしたのは夕方の5時近く、早や空が暮れ始めようとしていた。

「水だ! 水をくれ」

ハワードはゴール地点を越えると、叫びながら水飲み場に直接、走り込み、グイグイ水を飲んだ。そして彼に駆け寄った報道陣に対し、

「途中、何度か止めようかと思った。だが、自分にとってオリンピックで金メダルを獲るよりも、このレースで勝った意味は大きい。しかし、もうダメだ!」

 そう言いながら、その場にへたり込むばかりの疲労困ぱい振りである。テキサス州出身、33歳の会社員であるハワードのランタイムは3時間23分48秒、総合タイムは9時間38分29秒だった。

 残念ながらカリフォルニア州出身、37歳になるウォーレンはハワードに遅れること約25分の10時間04分38秒、第2位でフィニッシュすると、そのままバッタリ倒れ込み、担架で医務室へと運び込まれた。3位には、同じくカリフォルニア州出身で後にデイブ・スコットと雌雄を競うことになるスコット・ティンリーが10時間12分47秒で入った。ちなみに前回の第3回大会を優勝したスコットは足膝の故障のため欠場している。
 
 一方、女性はアリゾナ州出身の22歳の大学生リンダ・スウェニィがトータル12時間00分32秒のタイムで優勝した。スイムは女子2番手の1時間02分07秒でフィニッシュ、次いで6時間53分28秒でバイクを終了した時点でも2位を維持、マラソンでトップに立って4時間04分57秒で走り終えた。スウェニィは、高校生時代は水泳の選手、大学に入ってからマラソンを始め、最高タイム2時間58分の記録を持つサブスリー・ランナーである。

 それにしてもカイルア・ピアのゴール地点は、観衆たちの凄まじい口笛と歓声、それにハワイアン・バンドの音楽とダンサーたちのフラダンスが加わる賑やかさに包まれていた。割れんばかりの拍手に迎えられ、椰子の葉で作られたゴールテープを切ったスウェニィは、報道陣の質問に対し、

「それほど苦しいレースではなかったわ」

と言って、待ち構えていた恋人と熱い抱擁を交わした。 

【次号予告】「第4回ハワイ・アイアンマン大会」に出場、完走した日本人8名の奮闘の模様をお伝えします。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>僕が帰るところ~それがハワイのアイアンマン・ゴール  【高石ともや】

高石ともや氏近影~京都の自宅にて(03年8月撮影)

高石ともや氏近影~京都の自宅にて(03年8月撮影)

 僕がハワイ・アイアンマン大会に出場したのは、1982年2月のことである。永谷さんら日本人8人が初めて出場した翌年のことだった。しかし、このときスイムとバイクを終えた後、ランに入って咳が止まらず、無念にもリタイアした。

 それから3年後、第9回大会に出場し、完走した。そのときだった。僕はスゴイものを見てしまった。それは最終ランナーを迎えるゴールの光景だった。ゴールゲートを取り囲む大勢の観衆が、声を張り上げ、口笛を吹き、拍手を打ち鳴らし、最終走者を迎えた。
「よく帰ってきた。おまえは偉い。素晴らしい」

 最終ランナーは、競技でいえば敗者である。しかし、声援はトップの選手のフィニッシュよりも上回った。まるで英雄を迎えるかのように、大歓声がコナの町の夜空を支配していた。とても言葉では言い表わすことができない、感動的なシーン。大会のその場にいるだけで、みんなが幸せになれた。

 次々とゴールする選手たちを、みんな待っていて、迎えてくれるスポーツ。それがトライアスロンなのだ。だから勝者にならなくてもよい。敗者でも褒め称えられる。自分なりに精一杯の力を尽くし、完走さえすればよいのだ。その意味で、トライアスロンは、3回、変身を繰り返しながら”ゴールするスポーツ”とも言えるだろう。

 自分を待っている人がいるから、最後まで走り切れる。自分を迎えてくれるみんながいると思うから、ゴールを目指して頑張れる。僕を迎えてくれるところ、僕が帰るところ、それがハワイ・アイアンマン大会のゴールである。

<高石ともや氏プロフィール>
1941年12月、北海道雨竜町にて出生。1966年フォークシンガーとして独立、「受験生ブルース」がヒットする。1970年アメリカへ1人旅し、帰国後、ジョギングを始める。1975年福井県名田庄村村民運動会マラソンで優勝。1977年第4回ホノルルマラソン大会に出場、3時間10分02秒で初マラソンを完走。1981年第1回皆生トライアスロン大会に出場、1位でフィニッシュ。1982年ハワイ・アイアンマン大会に初出場したが、ランでリタイア。1985年ハワイ・アイアンマン大会に再挑戦し11時間31分29秒、総合288位でフィニッシュ。その後、ハワイ島3日間510Kmのウルトラ・トライアスロンやシドニー~メルボルン間1,018Kmのウルトラ・マラソンなどに出場、完走する。今年10月、18年振りにハワイ・アイアンマン大会へ出場、完走する。

 

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