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Vol.7:風神の巻 第1章その3:肥後もっこすのアイアンマン珍道中

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第1章その3

肥後もっこすのアイアンマン珍道中

【この記事の要点】

ハワイ島についた熊本の2人は、コナ市のホテルに入った。そしてホテルへ着くと早速、輪行袋から自転車を取り出し、組み立て始めたのである。永谷は大会用につくったスポルティフにスタンド、ライト、フロントバックなどを備え付けた。スタンドを付けたのはバイクの途中で休憩することを考えていた。また暗くなれば、ライトで道を照らさなければならない。

 「第4回ハワイ・アイアンマン大会」、正式には「4th ANNUAL INTERNATIONAL TRIATHLON on the BIG ISLAND OF HAWAII」と呼ぶ。この第4回大会は、日本人にとって記念すべき大会だった。なぜならば、日本人が初めてトライアスロンに挑戦し、わが国トライアスロンの歴史の1ページを書き綴ったからである。

 日本人としてこの大会に出場したアスリートは8名である。うち6名は堀川稔之をはじめとする東京ならびに東京近郊に在住する20歳から40歳台の男性アスリート達であり、あとの2人は九州・熊本に在住する永谷誠一と堤 貞一郎である。当時、永谷は54歳、堤は57歳と、いずれも50歳の大台に乗っていた。

 そんな2人を、永谷の両親とカントリー・ミュージック歌手である弟チャーリーは熊本空港まで見送った。母親は目にうっすらと涙を溜め、今生の別れを思わせるかのような風情だった。確かにハワイ観光旅行とは違う。初めて足を踏み入れるハワイ島で、スイム1.2マイル(3.84Km)、バイク112マイル(179.2Km)、ラン26.2マイル(42.195Km)という未知の距離を泳ぎ、こぎ、走るのだ。それ相応の覚悟は持たざるを得ない。その意味で日本人8人にとってハワイ・アイアンマン大会は未知への挑戦であり、あまりにも冒険的なイベントであった。

 ハワイ島についた熊本の2人は、コナ市のホテルに入った。そしてホテルへ着くと早速、輪行袋から自転車を取り出し、組み立て始めたのである。永谷は大会用につくったスポルティフにスタンド、ライト、フロントバックなどを備え付けた。スタンドを付けたのはバイクの途中で休憩することを考えていた。また暗くなれば、ライトで道を照らさなければならない。そして何よりも長時間のサイクリングとなるので食糧が不足しないよう、永谷はおにぎりやお煎餅やアンパンや蜜柑やレモンなど飲食物がたっぷりと入るフロントバックを用意した。エイドステーションで飲食物が供給されることを、永谷はまったく知らなかったからである。

 かたや堤はというと、自転車の組み立てに四苦八苦。永谷と同じスポルティフに、フラットバーのハンドルを取り付けた。その1台の自転車を組みあげるまで汗ダクダクになりながら、なんと5時間もの時間を要した。自転車の組み立てに馴れていないせいもあったが、何事も自分が納得するまで作り込む彼の性格がそうさせた。事実、外科手術用の道具も手製のものを使っているという念の入れようである。

 だから大会用のバイク・ヘルメットは工事用のドリルで穴を空け、風通しの良いようにした。ラン用の運動靴も踵の部分と指先の部分を切り抜いて、やはり風通しの良い細工をほどこした。ウェアはというと、バイク用は白地のTシャツにピンク色で斜めラインを描いた自家製、ランシャツはアメリカ製のメッシュタイプのものを、着丈が長いので裾を2つに折り込んで縫い、小物入れ用として2つのポケットを作った。白いランニング・キャップには造花を添え、眼鏡は手製のゴムバンドを取り付けた。さらにスイムでは、浮き易いようにスイムキャップとスイムパンツの中に詰め込む包装資材用の発砲スチロールを持参してきた。

 そのスイムだが、実は、堤はろくに泳げなかった。トライアスロンへの出場を思い立つ以前はカナヅチ同然と言っても過言でない。それで永谷と同じプールに通い練習に励んだわけだが、大会参加の今日に至るまでスイムはすべてバックストローク(背泳)で押し通してきた。堤にとってバックが一番浮き易く、息継ぎも楽だったからである。とはいえバックでは進む方向が見えない。そこで堤はスイム競技用に、日本から手鏡を持参した。泳ぎながら、その手鏡で進行方向を確認しようというのである。手鏡は紐で吊り下げ、スイムパンツの間に差し込むつもりである。

 レース用の自転車やグッズを用意し終えると永谷と堤は、コナの街へ買い物に出掛けた。滞在中の食糧の買い出しに行ったのだ。2人は広大なスペースのスーパーマーケットの店内を歩きながら食料品を物色しているうちに、同じ日本人の老夫婦に出会った。そこで永谷は、

 

偉大なパートナー奥様とツーショットの永谷誠一氏(03年9月、熊本市内の居酒屋「さくら」にて撮影)

偉大なパートナー奥様とツーショットの永谷誠一氏 (03年9月、熊本市内の居酒屋「さくら」にて撮影)

「あのーもし、コナには熊本県人会の方々がおいでると聞いたが、会長さんの福原さんはどちらにおられるか、ご存じなかでしょか」

 熊本県人会の福原会長は熊本県三加和村の出身である。そして県人会の人々は、コナ市では山稜でコーヒー栽培を営んでいる人たちが多いと聞いていた。

「それは私ですたい」

 なんと! 偶然にも尋ね人とばったり出くわしたのである。それで翌日、山の中腹にあるコーヒー園内の日本料理店「手島レストラン」において60名ほどの県人会メンバーが集まり、2人の激励・歓迎会が開かれたのである。招かれた2人は、練習を兼ね自転車で山腹にあるレストランまで走っていった。
ちなみに、堀川をはじめとする6名の東京組みと熊本の2名は、前日の晩に同じ宿泊しているホテルで会食し、相互に情報交換を行っている。

 こうして8名の日本人はコナの街に滞在し、「第4回ハワイ・アイアンマン大会」の日に備えた。しかし、大会前日、永谷も堤も一睡もしなかった。それというのも、明日のレースに備え堤のユニホーム作りが一晩中、続いていたからである。

「どぎゃんかな? こんなもんで、よかろうか」

堤は自ら作るレース用グッズを頭上にかざし、いちいち永谷に聞いてくる。スイムキャップは、空気の入った発砲スチロールを幾重にも縫い付けて作った。頭をなるだけ浮くように工夫したのである。そして「とんがり帽子」のように高くとんがったスイムキャップを自ら頭にかぶり、堤は首を左右上下に振ってみせた。
次にスイムパンツだが、膝上まであるバミューダパンツを持参し、これに同じく発砲スチロールを沢山、縫い付けた。出来あがって自ら履いたが、まるで腰部と尻に座布団を巻いているような格好である。そして、すべて出来あがったところで堤は、両手と両足を広げながらポーズをとり、

「写真を撮ってはいよ」

撮り終わると、堤はバイクウェアを身に着ける。そしてまた、ランニング姿になって永谷に写真を撮ってくれと言う。もう2人とも寝てはいられない。起床したは午前2時、3時には朝食を摂り、5時には選手の受付けを済ました。

「さあ、どぎゃんもこぎゃんも、しょうがなか。どうなっと、きょう1日、おもさん遊ぶばい」

 薄暗い朝の中で、永谷は大きく背伸びをした。

【次号予告】日本人8名が出場、完走を果たした「第4回ハワイ・アイアンマン大会」のレース内容をお伝えします。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>ロマンを追い求めている人~永谷誠一氏  【市川祥宏】

 私がトライアスロンを始めたのは、今から23年前にさかのぼる。1982年の第2回皆生トライアスロン大会に出場したのが最初だった。実はこのとき初めて、永谷さんとお会いしたのである。すでに永谷さんは堤先生とともに全国的に名が知られた、日本を代表するトライアスリートであり、私たちトライアスロンを目指す者にとって憧れの人であった。

 その憧れの人に一度で会ってみたい。ならば皆生大会に出場するしかない。鳥取県米子市まで足を運ぼう。私は、そう決意した。

 永谷さんは皆生大会のスイム・スタート会場にいた。私は遠くから彼の姿を眺めた。
「これからトライアスロンを大いに楽しみましょう。今日1日、みんなでゆっくり遊びましょう」
永谷さんは笑顔を満面に浮かべ、不安と恐怖に駆られる私たち選手に、そんなエールを投げかけていた。

 その永谷さんと実際に出会い、言葉を交わしたのはバイクをスタート後、間もなくことである。当時のバイクコースは、国道を横断するために橋下をくぐった後に土手の階段をバイクを担ぎあげたのだが、その時、私のインフレータがバイクから外れ、土手の下に転がり落ちてしまったのだ。そこで急いで戻ってインフレータを取り戻そうとした時、

「はい、どうぞ。がんばらなっせ」

 なんと、永谷さんと永谷さんの娘さんである美加さんの親子が、私のインフレータを拾いあげてくれたのだ。

「ありがとうございます」

市川祥宏氏近影~生まれ育った東京・浅草橋の酒場で、今年でオロロン・トライアスロン大会女子7連覇を達成した村上純子さんとツーショット(03年9月撮影)

市川祥宏氏近影~生まれ育った東京・浅草橋の酒場で、今年でオロロン・トライアスロン大会女子7連覇を達成した村上純子さんとツーショット(03年9月撮影)

 それが永谷さんに対して投げかけた私の初めての言葉であった。必死の様相で土手を下っていった私とは異なり、永谷さんは余裕の笑顔で私を励ましてくれた。

 その時の永谷さんの笑顔の表情は、20年余を過ぎた今でもはっきり覚えている。その日、フィニッシュ後にお礼の言葉を交わしてから、以来、今日に至るまで、私は永谷さんにトライアスロンの楽しみ方や人生の生き方、考え方など、さまざまなことを学び教えられた。その教えや言葉は私の身体の中に染み込み、折にふれ元気づけられてきた。

 そのように永谷さんは、人に元気を与える不思議な力を持った人であり、いつも青年のようにロマンを追い求めている人である。

 

<市川祥宏氏プロフィール>
1942年東京で出生。青少年時代は陸上競技選手として中長距離部門で活躍する。ハワイ・アイアンマン大会の模様を雑誌で見てトライアスロンへの挑戦を思い立ち、1982年の第2回皆生トライアスロン大会に出場する。84年、トライアスロン仲間と「全日本トライアスロンクラブ=ATC」を設立し、理事長に就任。以来、トライアスロンの指導者として、またスポーツ・コーディネータとしてトライアスロン大会の開催、運営に携わり、今日に至る。2001年には日本学生トライアスロン連合副理事長として「FIS世界学生トライアスロン選手権」の主導的役割を果たした。「トライアスロンを発展させる会」幹事ならびに『日本トライアスロン物語』編集委員。

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