日本トライアスロン物語
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。
第1章その2
熊本の血が騒いだ

サイクリングならまだしも、バイク・トレーニングなんてまったくわからない。どうやって走るのか? ギアはどこにかければよいか? とにかく、「距離をこなせば、なんとかなるたい」そんな気持で永谷は練習に励んだ。夏から秋、そして冬へと季節は移り変わり、アイアンマン・レースに挑戦する前年の年が暮れていった。
日本人として初めてハワイ・アイアンマン大会に出場し完走したアスリートは8名である。そのうち6名は堀川稔之をはじめとする東京ならびに東京近郊に在住する20歳から40歳台の男性アスリート達であった。
では、あと2名はどこの誰か?
東京から遠く離れた九州・熊本の地に「山想」という山岳用品の販売などアウトドアショップを営む永谷誠一という男と、もう一人、永谷が営むショップからほど近い熊本市内に外科医を開業していた堤 貞一郎という2人の男がいた。当時、永谷は53歳、堤は56歳という、2人とも50歳を過ぎた中高年である。この2人は旧知の間柄ではない。地元のマラソン大会で知り合い、スポーツを通じ「遊び心」で意気投合した。
東京と熊本。この二つのかけ離れた地でありながら、実は堀川も永谷も、同じ1980年2月21日号の『週間文春』のグラビアページを見て、トライスロンへの挑戦を思い立ったのである。
「ムムッ、なんちゅうこつか。パンツまで脱いでしもて、なんばすっとか? おおごつばい」
永谷は週間誌のグラビアページを何度も何度もめくった。そして、めくりながら胸の高鳴りを抑えることができなかった。
「自分もやってみたか。できるかどうか、わからんばってん、出てみたかと」
アスリートの血が騒ぐとでもいうのだろうか。『週間文春』の記事を読み返すたびに、永谷は全身の血潮が熱くなるのを感じた。そして何度も戦慄するのを覚えた。
雄大な阿蘇をはじめ日本国中の山脈を踏破してきたアルピニストの永谷でもある。だから、体力には自信があった。熊本市内を流れる白川で、子供の頃から我流のクロールで泳ぎ遊んできている。トレーニングというほどではないが、自宅の菊池郡西合志町から熊本市内の「山想」まで片道10kmの道のりを、毎日のようにランドナー(旅行用サイクリング車)で通っている。マラソンは地元の熊本日々新聞社が主催する「熊日30kmロードレース」とか、別府~大分間の「別大マラソン」、そして「ホノルル・マラソン」に出場するなど、50歳を過ぎても、なお健脚ぶりを誇っていた。
「ホノルル・マラソン」でオアフ島へ旅行したこともあって、永谷にはアイアンマンレースが身近に感じたことも事実だ。そこで早速、㈱ランナーズの社長であり、『週間文春』のグラビア写真を撮った橋本治朗へ問い合わせた。
「わたしゃあ、ぜひとも出てみたかばってん、どぎゃんしたらよかと、教えてくだはりまっせ」
その永谷の願いは、橋本から堀川に伝えられる。そして80年の夏、堀川から郵便で「第4回ノーチラス・アイアンマン大会」のエントリーフォームが届いたのである。エントリーフォームは娘の美加に翻訳してもらった。
エントリーフォームの書き込みを終えた永谷は、来年2月の大会に向けトレーニングを開始する。その頃、「山想」からほど近い熊本市内に室内プールができたのを幸いに、スイミングはもっぱらそのプールに通った。
ランは毎朝、自宅から10Kmの行程を走った。当時は1km当たり4分ほどで走った。
そしてバイクは、近くの自転車店で大会出場用にスポルティフ(サイクリング用快速車)をつくった。それで熊本の名勝・標高666mの金峰山へのヒルクライムを、何度となくやったのだ。サイクリングならまだしも、バイク・トレーニングなんてまったくわからない。どうやって走るのか? ギアはどこにかければよいか? とにかく、
「距離をこなせば、なんとかなるたい」
そんな気持で永谷は練習に励んだ。夏から秋、そして冬へと季節は移り変わり、アイアンマン・レースに挑戦する前年の年が暮れていった。
【次号予告】日本人8名が出場、完走を果たした「第4回ハワイ・アイアンマン大会」の模様をお伝えします。
※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。
<トライアスロン談義>堤 貞一郎先生の想い出 【永谷誠一】
「なんや、妙な格好ば、しとらすな」
マラソン大会のスタートの号砲を待つ選手の群れの中に、一人の中高年がヨレヨレのスポーツウェアを着て、そのうえシワシワ、ダラダラのロングパンツをはいて立っていた。毎年、秋10月に行われる「河内マラソン大会」に出場した時のことだ。
スタートを待つ選手のほとんどが若者ばかり、それもみなランパンにランシャツの姿だというのに、一人、彼の異様な姿ばかりが目に留まった。今でも覚えているが、上はエンジ色のトレーナー、下はグリーンのパンツ。それも洗濯をし過ぎたあまりか、それとも使い古したせいか、ダラーとしてしまって、まったく締まりがない。
さて、その日のマラソン大会の距離は18Km。スタート後は多くの選手達に紛れ、彼の姿を見失ったが、私がゴールして帰りの送迎バスに乗り込もうとしていた矢先、異様な姿の彼がゴール地点である小学校のグランドに入ってきた。同じ中高年同士、私はゴールする彼に声援を投げかけた。しかし、その時は、別々のバスで熊本市内へ戻った。
それから2ヶ月後のことである。12月に行われる「甲佐マラソン大会」で、再び彼と出会ったのである。それにしても彼が身にまとう衣服はやはりシワシワ、ダラダラ、ヨレヨレ。それもウェアの色柄がカラフルなだけに、なんともみすぼらしく映る。しかし、彼は少しも周囲にはばかることなく、前回と変わらぬ風貌でスタートの号砲を待っていたのである。
「河内マラソン大会」の帰り際、軽く挨拶を交わしたよしみもあって、私は彼に近づき、
「マラソンはランパン、ランシャツがよかとですよ」と話しかけた。
「そぎゃんもんかな。ばってん、わしはこつでよか」
そういって彼は一向に気にしない。
今日は熊本市内から甲佐町まで24Kmのマラソンである。私は、ほぼ1キロ4分のペースで走り切った。そしてゴール後、やはり彼が気になった。とそのうち、ゴール地点に収容車が着き、そこから彼がニコニコしながら降りてきたのである。
「なあんだ。リタイアしたのか」と思ったが、実はそうでなく、コース途中で具合の悪くなった選手を介抱していたと言う。自分は医者なので、見過ごすわけにはいかなかった。それで結局、介抱がてら収容車に乗り込んできた、とのことである。
そんなわけで今回、彼と私は一緒の送迎バスで熊本市内まで戻った。バスの中で話し合い、それで彼が私の店から500mほどの処に住む外科医である堤 貞一郎先生であることを知った。
それからというものマラソンを通じた中高年同士の付き合いが深まり、ついに2人で「天草パールライン・マラソン大会」を企画し、大会開催を実現させたのである。今から30年前の1974年のことである。その時、私は47歳、堤先生は50歳である。
それから6年後の1980年、私は「第4回ハワイ・アイアンマン大会」への出場を心に決めたが、その時、堤先生にもエントリーフォームを見せたら、彼はこう言ったのである。
「おるも出て、してみたか」
こうして私たち2人はトライアスリートの道を歩み出したのである。