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Vol.5:風神の巻 第1章その1:日本人の挑戦が始まった

 

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第1章その1

日本人の挑戦が始まった

【この記事の要点】

その1年前の時、堀川は、「これならば自分にもできる」と確信した。そして今、目前にある2月21日号『週間文春』のグラビアページを飾っている第3回大会の模様を見て、挑戦を決意したのである。1980年2月、堀川が47歳の時だった。

<写真>週間文春

<写真>週間文春

「じゃあ、やってみるか」

堀川稔之は心の中でつぶやいた。誰に言うという訳でもなかった。昨年見た米国『ランナーズ』誌に掲載されていた第2回ノーチラス・アイアンマン大会の写真が、ずーっと脳裏に焼きついていて離れなかった。この1年間、心の奥底で「いずれは挑戦してみよう」と思い続けていたのだ。その1年前の時、堀川は、

これならば自分にもできる」

と確信した。そして今、目前にある2月21日号『週間文春』のグラビアページを飾っている第3回大会の模様を見て、挑戦を決意したのである。1980年2月、堀川が47歳の時だった。そこで堀川は、橋本治朗に連絡をとった。

「橋本さんのお話をぜひ聞かせて欲しい」

 第3回アイアンマン大会の模様を写真に収め、『週間文春』と『ランナーズ』にそれぞれ写真を掲載した橋本に、大会への参加条件や手続き、競技ルールや装備品、それに大会の雰囲気など、現地の情報をできるだけ仔細に聞きたかった。
橋本は快く引き受け、江東区豊洲の「ドゥ・スポーツ」へやってきた。そこで堀川は、一緒にトレーニングを積みハワイ大会に出場した西沢 孝ら仲間とともに、橋本の話に耳を傾けたのである。

 橋本の話を胸にしまい、堀川はアイアンマン挑戦のためのトレーニングを開始した。
水泳選手として馴らした若い頃から、そして今は市民マラソン・ランナーとして日々、トレーニングに励んでいたので、
「やってやれないことはない」と思っていた。問題はバイクだが、これも「やればできる」という自信があった。そこで早速、ロードレーサーを購入した。”チネリ”というイタリア製の、細身のフレームパイプが魅力のロードレーサーだ。当時のサイクリストが憧れていたレーサーである。価格35万円の新品を購入した。

tri2hiraki2 その”チネリ”をクルマに積んで、東京・杉並の自宅から山梨県の西湖という、静かな湖の周辺にある峠道をのぼった。いわゆるヒルクライム・トレーニングである。ほとばしる汗を何度も何度も拭いながら、息も荒々しくあえぎながらのぼっていった。あまりにもきついのぼりなので、その峠を堀川は「地獄峠」と命名した。それでものぼってまたおりて、2回のぼった。この練習を毎月、4回やった。また信州・蓼科高原にある別荘を基点に、行程12.3kmの麦草峠までのヒルクライムも行った。

スイミングは月平均で2万mを泳いだ。会社の勤務が終わると「ドゥ・スポーツ」のプールへ通う。一回当たりの練習量は3kmである。水泳はお手のものだから、この程度のトレーニングは堀川にとって訳はなかった。

ランニングは毎月、約280Kmをメドに走った。1回当たりに走る距離は、だいたい15Kmである。これも通勤ランを含め会社勤務の前後にやった。これらバイク、スイム、ランの3種目を3ヶ月間、「そつなくこなすことができれば、ハワイ・アイアンマン大会で完走できる」と堀川は読んだのだ。

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>アイアンマンへの道~がむしゃらに距離をこなした日々  【北村文俊】

 早くも20年余りの歳月が経った。1980年11月頃だったろうか。朝日新聞紙上で、翌年2月にハワイ島で行われる”鉄人レース”を目指して堀川さんたち6名がトレーニング励んでいる、という記事を見つけた。同じ水泳・ランニングでも、スピードより距離を得意とする自分にぴったりだ。ぜひ出場したい! と思い、朝日新聞社に連絡先を問い合わせ、すぐさま堀川さんたちに会いに行った。
お話を伺った結果、大会まであまりに準備期間が短すぎるので81年の出場はあきらめ、次回の82年大会を目指すことにした。完走だけなら何とかなるだろうが、行くからには少しでもよい成績を出したいと考えたからである。それから1年間に行ったことは、ハワイのためのトレーニングと、81年から始まった第1回皆生トライアスロン大会への参加であった。

 当時の私はというと、水泳は大学院時代から毎日のようにやっており、初島~熱海間の団体競泳大会も何度か出場していた。趣味として自転車にも乗っていて、ロードレーサーも所有していた。自転車通勤もしていたが、ロードレースには出場しておらず、したがってシュープレート付きのバイクシューズなどは持っていなかった。マラソンは青梅大会など市民レベルのレースなどに参加しており、記録は忘れたが並のランナー程度だったように思う。
ともあれハワイ・アイアンマンを目指すには、まずは最も経験の少ない自転車の強化をと考えた。当時住んでいた昭島市から近い立川市の「なるしまフレンド」という市民サイクル・レーシング・クラブに入会し、早速バイクシューズを買った。日曜祝日は通常クラブランの日で、数10~200km程度走り、近場でレースなどのイベントがあるときは参加、出場するという、ほとんど自転車三昧のアスリート生活を送った。

 ランニングは出勤前や昼休みに走っていたが、たまたま堀川さんが通勤ランで中央区京橋の会社から皇居周回を経て杉並の自宅まで走って帰るのに遭遇して、こんな方法もあるのだ! と刺激を受けた。以来、週1~2回は、三鷹までの片道20km弱の通勤ランを始めた。
水泳は職場近くの市営プールで、これまた昼休みに1.5~2km程度泳いだ。ということで、天気さえ悪くなければ毎日、朝昼晩、トライアスロンのうち2種目をこなすトレーニング生活が続いた。さらにウェイトトレーニングも加えて、筋力の強化も図った。

 そして、大会2週間前に申し込み、急きょ出場することになった「皆生トライアスロン大会」は、よい刺激になった。とりわけ暑さ対策と、給水の重要性を身に沁みて感じた。とにかく、がむしゃらに距離をこなすことばかりを考えていた。今考えれば、もっと合理的なトレーニングをすれば、記録も伸びたのではと思う。でも、その年11月の河口湖マラソン大会で、自己最高の3時間12分台を出した。

 こうして私は、82年2月の第5回ハワイ・アイアンマンにチャレンジする準備を整えたのである。それにしても、私も若かった。当時、あれだけの練習量がこなせたのだから。それもひとえにハワイという大きな目標があったからである。

北村氏近影(03年7月、東京にて撮影)

北村氏近影(03年7月、東京にて撮影)

 

【北村文俊 プロフィール】

1950年東京生まれ。
小中高と体育は大の苦手だった。ただ持久力はあったようで、大学時代の1969年の夏休みに、中古をオーバーホールしたボロ自転車で”福岡⇒東京”を9日間で走破する。大学院時代に水泳を開始。仲間に引っ張られてマラソンも始める。さらに、趣味で自転車いじりも本格化するなどスポーツの楽しさに目覚め、水泳指導員の資格も取った。卒業後も仲間との関係、スポーツとの付き合いは続き今日に至る。
『日本トライアスロン物語』編集委員会委員。

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