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Vol.4:風神の巻 序章4:ファインダーに一筋の光が注し込んだ

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

序章4

ファインダーに一筋の光が注し込んだ

【この記事の要点】

午前7時55分、橋本が覗き込むファインダーに一筋の光が注し込んだ。その瞬間、選手たちがいっせいに海へ飛び込んだ。高層ホテルの合間から太陽光が注し込んだ時がスタートの合図であった。

第3回大会のスイム・スタート(写真提供;㈱ランナーズ)

第3回大会のスイム・スタート(写真提供;㈱ランナーズ)

「どこです。スタート地点は? あっちですか? それとも、こっち? スタートはどこです。教えてください」

 橋本は公園に集まった大会関係者とおぼしき人々に聞いて回った。103名の選手達がいっせいに海の中へ飛び込む瞬間を撮りたかったからだ。また、それを見守る大勢の観衆をカメラに納めたかった。
 アラモアナ公園前のビーチは選手と観衆でごったがえしていた。2日前まで吹き荒れた暴風雨の余波がまだ残っていて、珊瑚礁の内側なのに海は白い波を立てている。その波間に一艘のボートが左右に揺れていた。見ると、ボートには大会の模様を撮影しようと、米国ABC放送のカメラマンが一人、乗っている。

「頼むから乗せてくれ」

橋本は懇願した。

「じゃあ、このボードを持ってくれ。手伝ってくれれば乗せるよ」

ボートに乗ったカメラマンは白色ボードを橋本に手渡した。そのボードは映像撮影の際、画像が自然の色合いになるようホワイトバランスを調整するためのものだ。
 
「いいとも。手伝うよ」

こうして橋本はボートに乗り込み、小さなボートのうえで体を揺すられながら第3回アイアンマン大会の劇的なスタートの瞬間を待ったのだ。

  午前7時55分、橋本が覗き込むファインダーに一筋の光が注し込んだ。その瞬間、選手たちがいっせいに海へ飛び込んだ。高層ホテルの合間から太陽光が注し込んだ時がスタートの合図であった。

リハビリテーション担当の看護婦として働きながらアイアンマンレースに挑戦したロビン・ベック

リハビリテーション担当の看護婦として働きながらアイアンマンレースに挑戦したロビン・ベック

 1980年1月の第3回アイアンマン大会には108名の選手がエントリー(出場は103名)、うち女性は2名を数えた。完走者は94名だった。 この大会では、のちに「トライアスロンの王者」と呼ばれるデイブ・スコットが登場、10時間を切る9時間24分33秒という驚異的なコースレコードで優勝した。
スコットは当時26歳、カリフォルニア州デヴィス出身の元スイムコーチである。 また翌年の第4回大会を制したオリンピック自転車競技選手のジョン・ハワードは、バイクパートでスコットに肉薄したものの3位に、前回優勝のトム・ウォーレンは4位、初代アイアンマンのゴードン・ハラーは6位に終った。女性の優勝者(男女総合では12位)はロビン・ベックで、総合タイムは11時間21分24秒だった。 また、この大会をABC放送は”最大のチャレンジ”と題し「ワイドワールド・オブ・スポーツ」という番組で全米向けにテレビ放映した。それが国内外に大きな反響を呼び起こし、アイアンマン大会の名を一層、高めることになったのである。

第3回大会の取材を終え帰国した橋本は、その年の『ランナーズ』誌4月号に観戦レポートをしたためたが、その末尾で次のように述べている。

「努力と忍耐の積み重ね以外のなにものでもない、こうした競技に挑戦する人々が増えていることは、人間の、自分への挑戦に限界がないことの証しにほかならない」と。

 ちなみに、日本に初めてトライアスロンをもたらしたジャーナリスト橋本の写真は、80年4月号『ランナーズ』誌のほか、同年2月の週刊誌『週刊文春』に掲載された。それを見た東京の堀川稔之や熊本の永谷誠一らは、翌年2月の第4回大会への出場を決意したのであった。

第3回大会リザルト

第3回大会リザルト

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させるため、若干の脚色をほどこしています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

<トライアスロン談義>これならば自分にもできる!!  【堀川稔之】

 私がハワイのアイアンマン大会の存在を知ったのは、1979年のことである。第2回大会の模様が写真掲載されていた米国『ランナーズ』誌を見た。そして思った。
 「これならば自分にもできる」
 水泳の4Kmはわけはない。青春時代はスイマーとして国体に出場(昭和26年広島・呉市)、準決勝で敗れたものの、当時100mを1分03秒で泳いでいた。フルマラソンも前年に3時間27分の記録を出している。約180kmの自転車も、経験はないけれど、練習すればできないわけがない。

しかし、その年はいつもの通りランニングに励む日々を送っていた。そして1年後の1980年2月、『週間文春』のグラビアページに第3回大会の模様が掲載されるのを見て、私の心は決まった。
「じゃあ、やってみるか」

そうして翌1981年2月の第4回大会に出場し、完走したわけだが、思った通りそんなに大変ではなかった。その後も皆生大会に参加するなど何度かトライアスロン大会に出場したが、所詮トライアスロンも私のスポーツ人生の一道標にしか過ぎない。

その後はもっぱらスキーを楽しみ、50歳の時には日本人として初めてスウェーデンで行われている伝統的なクロスカントリースキー大会(90km)に出場し、完走を果たした。また、この経験をもとに「札幌スキーマラソン」を朝日新聞に提案したが、幸い今日まで活況を呈している。

いまは山スキーを楽しんでいるし、毎年9月に開催される3日間で450kmを走破するサイクリングツアー「ツール・ド・能登」にも参加している。こうして私のスポーツ人生は、トライアスロンと同じようにマルチだ。
  もちろん仕事にも精を出す。人生は、しっかり働いて、大いに楽しむことだ。        

堀川稔之氏近影(東京にて03年5月撮影)

堀川稔之氏近影(東京にて03年5月撮影)

【堀川稔之 プロフィール】

昭和9年1月、東京都出身。東信地所㈱取締役社長。47歳の時、日本人トライアスリートとして初めてハワイ・アイアンマン大会(第4回)に出場し、出場368人中、総合238位、タイム15時間27分22秒で完走する。

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