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Vol.54:火神の巻 第6章 その7:中山がチャンピオンに輝く

日本トライアスロン物語

※この物語は歴史的事実を踏まえながらも、ストーリー性を加味させる為、若干の脚色を施しています。しかし、事実を歪曲したり、虚偽を記すことはありません。また、個人名はすべて敬称を省略しています。

第6章その7

中山がチャンピオンに輝く

【この記事の要点】

中山俊行選手はラスト500m当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった!」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。


スイム・スタート風景

 曇天の下、朝9時30分、長嶋JTF会長のスタートの合図で、総勢335名の選手が茂木根海水浴場の海へ次々と飛び込んでいった。総競技距離51.5Kmのうち、最初のスイム1.5Kmのスタートである。アイアンマン・レースのような長い競技距離ではないので、さすがに招待選手を始めとするエリート達は最初からスピードをあげて泳ぎ出す。
 この頃のスイム競技レベルは、日本選手と比べ欧米やオセアニアの選手達が圧倒的に強く、その例にもれなく外国招待選手4名がスタート当初から先頭集団を形成、そのままゴールインした。これに対し日本人選手は大分、遅れてスイムをフィニッシュ、中山を始めチーム・エトナのメンバーも出遅れた。また、一般参加選手として出場した宮塚や鈴木夫妻も強い潮の流れと戦い、やっと思いで苦手なスイムを終了させたのである。


日本人選手達を大きく離してスイムを上がるモリーナ選手

 中山は出遅れた分、得意のバイクで先頭集団を追ったが、トップを走るモリーナとの差がなかなか詰められず、内心、焦ってもいた。ただ一方で殊更、根拠があった訳ではないが「ランで抜ける」と信じ、ひたすらペダルを回したのである。同じく宮塚も前を走る選手達を次々と追い抜いて行ったが、中間点へ向かう途中でトップ選手達が続々と折り返してくるのを見て、「さすがに招待選手は速いな」などと感心した。矢張り彼にとって、スイムの出遅れは致命的であった。


バイクの途中では雨も降り出し、雷も鳴った

 また、中高校生の頃からサイクリング好き、大人になってからは市民サイクル・ロードレースではトップクラスの鈴木 進も、スイムの遅れを取り戻そうと懸命にペダルを漕いだ。そして途中、雨が降り雷の音を聞きながら、

「今やっているのは自転車レースではなく、スイムを終えた後のトライアスロンのバイクだ。泳いだ次に自転車を漕ぐ。これがトライアスロンなのだ」

 競技中、そんな想いを噛み締めながら、初めて体験するトライアスロンに気持は燃えた。一方、妻の鈴木令子はスイムもバイクも夫に遅れたが、得意のランで挽回しようと、諦めることなく先を見詰めてバイクを終了した。

 ランに入っても外国選手達のリードは揺るがない。何がなんでも勝たねばならない中山はラン中間付近のキリシタン会館のアップダウンをこなしながら、ひたすら先頭を追った。そしてラスト500m当たりで、ついにモリーナを抜き去った時、胸の中で「やった!」と感嘆の声をあげると同時に、高木社長との約束やチーム・エトナのリーダーとして責任を果たしたことに正直、安堵した。また世界のアイアンマン・レースだけでなく、51.5Kmのショート・タイプのトライアスロンでも、彼は日本のナンバーワンであることを見事に証明したのである。


中山俊行選手は日本の第一人者として、何とか面目を保ち優勝した

 中山の優勝タイムは2時間8分27秒、2位のモリーナとは9秒差だった。3位にはカールソン、4位に山本、5位に梅澤、6位に横井の順となり、ほぼ実力通りの結果となった。山本はスイムで遅れたがバイクとランで上位に迫り、飯島は力及ばず11位に甘んじた。

 次いで7位には宮塚が入った。フル・マラソンで2時間32分のタイムを持つ彼はランでも次々と選手を追い抜き、2時間17分12秒でフィニッシュした。その年に始めたばかりのトライアスロンだが、宮塚は上位に食い込めたことに、

「やっとこ泳いだスイムでも、俺がここまでやれたのだから、本気でトライアスロンをやっているアスリートはまだ数少ないのだろう。ならば、もっと練習して上位を狙うことも出来そうだ」

 そんな感想を抱いた。ゴール後、しばらくして宮塚はトーマスに呼ばれた。

「あなたはトライアスロンの才能がある。大変、素晴らしい。これからも頑張ってください」

と、トーマスは褒め称えた。この時、関係者達は宮塚をチーム・エトナのメンバーに加えることも考慮したかも知れないが、本人はトライアスロンを続けるにしても、来年は就職し社会人となったうえで、可能ならば企業の所属する実業団選手としてアスリート生活を送りたいと希望していた。


女子トップでゴール・テープを切るマクドネル選手

 一方、女子はマクドネルがトップで2時間23分47秒、2位がビタイ、3位が福岡の柿本小百合、そして4位にランが得意の鈴木令子が2時間55分16秒でトライアスロンのデビュー戦を飾った。夫の鈴木 進のフィニッシュ・タイム2時間42分56秒より遅れること、わずか約12分だった。二人共、トライアスロンの本命はロング・ディスタンスだが、兎にも角にも腕試しで初出場したショートでまずまずの成績をあげることが出来た。

「短かったけれど、手応えはあった。これからもトライアスロンを続けていこう。そしてハワイのアイアンマンを目指そう」

 鈴木 進は、しっかりと気持を固め、トライアスロン人生をスタートさせたのである。

 さて、この大会のゴール関門はスイム・スタートから5時間後の14時30分である。今から考えると随分と余裕のある関門だが、当時は我が国でトライアスロンが始まって間もない時期だけにトライアスロンの経験者が少なく、それだけ競技時間も長く設けられたのだ。実際、325番目の最終走者となってゴール・テープを切った堀田 昭の総合タイムは4時間49分27秒であった。

 我が国で初めて行われ、今日のオリンピック種目の競技距離51.5Kmのトライアスロン大会は、天候にはいまひとつ恵まれなかったものの無事にその幕を閉じた。以後JTF は、JTS(ジャパン・トライアスロン・シリーズ)として競技運営を展開、翌86年には仙台(宮城県)、長良川(岐阜県)、そして天草の3大会を開催、多くのアスリート達にトライアスロンの入門ルートを拓いた。これに伴いチーム・エトナはその後もメンバーを増やしながら、88年1月の解散までの3年間、国内外の大会に出場参加し、エリート・トライアスリートとして活躍していく。
 こうして1985年は、南海の島興しで始まった4月の宮古島大会、6月のアイアンマン・レースのびわ湖大会、そして10月のショート・ディスタンスの天草大会と、それぞれタイプの異なるイベントが開催され、その後の我が国トライアスロン大会の典型モデルとして普及、発展の基盤を築いていった。81年に日本海を臨む鳥取県皆生温泉で発祥した日本のトライアスロンが、85年の3大会の開催で弾みを付けて、以後、普及、拡大の道を歩み始めてから今日まで30年の歳月が流れている。この間、51.5Kmのトライアスロンは2000年のシドニー・オリンピックで正式種目となった。

トライアスロン談義

座談会パート2

将来を賭けた挑戦だった

座談会出席者(発言順)
司会・進行 島田 文武(しまだ ふみたけ)
 猪川 三一生(いのかわ みちお)
 中山 俊行(なかやま としゆき)
 山本 光宏(やまもと みつひろ)
 山下 光富(やました みつとみ)
<座談会>2015年2月28日(土曜日)、横浜中華街「東園」にて


座談会の風景

島田 座談会パート1では皆さんが、未知の世界だったトライアスロンを目指した頃のお話と、大会や練習会を通じて寄り集い、また良きライバルとして共に切磋琢磨していく過程について、お話をお聞きしました。そして、この座談会パート2では、51.5Kmのトライアスロンを展開するUSTSの日本への導入と、その第一戦として85年10月のJTS天草大会に向け結成された「チーム・エトナ」について、その経緯や皆さんの想い出をお聞きしたいと思います。まず、チーム・エトナの構想を描き提案された猪川さんから、その経緯をお聞かせください。

猪川 パート1でお話があったように、私達はJTRCというトライアスロン・クラブのメンバーであり、それは年齢が違っていようが、或いは私のような社会人であろうと山本君のような学生であろうと分け隔てなく、1980年代に始まったトライアスロンというニュー・スポーツに取り組んでいこうという友達であり仲間でした。だから練習のことはもちろん、生活のことや仕事のことでもお互いに相談し、トライアスロンとどう向き合っていくか、そんなことを話し合いました。
 その点で私が特に心配というか、気掛かりだったのは当時、大学生だった中山君と山本君です。二人とも大学を卒業して就職するという、社会へ第一歩を踏み出そうとしている時期ですが、ではこれからトライアスロンとどのように取り組んでいけば良いか? USTSの選手のようにプロとして賞金を稼いで暮らしていくことも考えられるけど、まだ日本では難しい面もあります。そこで、日本を代表する優秀な選手達による「チーム・エトナ」結成を、トライアスロンに関心を持つ企業オーナーに提案したのです。当時、私は日本航空の社員だったので、会社を通じてトライアスロンに関わるビジネス・コンタクトが得られたことが、チーム編成の発想に繋がったのかも知れません。

島田 なかでも、大学卒業を来年に控えた中山さんは、前年の84年の段階で就職活動をしておりました。そして社会人として就業しながら、トップ・トライアスリートの道を模索していたと思いますが、まさに切羽詰まった選択が迫られていた訳ですね。

中山 84年の皆生大会で優勝し、その年の10月のアイアンマン・ハワイ大会で総合17位の成績を修めることができ、さてこれから日本のナンバーワンはもちろんのこと、一歩でも世界のトップに近付きたいという気持で一杯でした。でも、トライアスロンで食べていけるかというと、必ずしもイエスとは断言できません。矢張り企業へ就職して、なおかつトライアスロンと取り組んでいける生活環境が望ましいと考えていました。
 それで猪川さんの紹介もあって日本航空の就職試験を受けましたが、最終面接で落とされました。次いで自転車メーカーのブリヂストンへの就職活動を行い、就職試験に合格はしたものの勤務が優先でスポーツ選手活動を認めて戴くことができませんでした。仕方がないので就職を辞退し、バイトをしながらトライアスロンの練習をしていこうと思っていたところ、猪川さんのご提案もあって新会社エトナ・ライセンシング株式会社への就職と共にチーム・エトナのメンバーとして活動する機会を与えて戴いたのです。

島田 中山さんの実家は運送会社を経営されていましたが、親としては息子に後を継いで欲しかったのではないですか?

猪川 その通りです。しかし、中山君の意志は強かったですね。私も中山家に呼ばれ親御さんとお話しましたが、結局、トライアスロンで生きていくのだという中山君の決意に親御さんの気持も折れたようです。

山本 中山さんより一年遅れの私でしたが、いよいよ大学を卒業し社会人として巣立っていく85年の段階で、自分はトライアスロンとどう取り組んでいけば良いか? 思案しました。この時は中山さんに次ぐ成績をあげていたし、中山さんという私にとって道標のような先輩が存在したので、トライアスロンを続けたい気持で一杯でした。実家が商売を営んでいたこともあり、ゆくゆくはその後を継ぐつもりでしたが、あの時はまだ暫くの間、トライアスロンへの挑戦を続けていく気持に変りがありませんでした。
 そんな折り、大学の就職部から私と空手部の選手が呼び出されました。同じ4年生の空手部の選手は「空手で食べていく」などと話していましたが、同じように私も「トライアスロンが続けられる環境を探っています」などというような事を話しました。しかし、逆に「未だ就職先が決っていないとは何事だ」と怒鳴り付けられました。

猪川 中山君と同様、山本君のご両親ともお会いしましたが、理解というか、納得して戴くのは容易ではありませんでした。無理もないことだと思います。二人ともちゃんと大学を卒業したのに、これからどうなるか分からない未知のスポーツに打ち込んでいくなんて、親御さんが心配するのは至極、当然のことでした。それだけに私としてもチーム・エトナを編成し、二人がトライアスロンのスペシャリストとして選手生活を続けていけるような環境を整えてあげたいと考えたのです。今、思うと、それで良かったのかどうか? 判りませんが、難しい選択であったことは事実です。

中山 猪川さんのサポートがあったからこそ、トライアスロンへの道が拓けたと、感謝しています。思い通りの就職ができなかったこともありますが、就職に失敗したからトライアスロンを選んだのではなく、トライアスロンを選んで就職を後回しにしたとも言えます。私も山本君もトライアスロンに将来を賭けたのです。

山本 私か若かった分、猪川さんのサポートが頼りでした。そして中山さんがプロ選手として一歩、前へ出たからこそ、私も躊躇することなくトライアスロンへの道を踏み出すことができたのだと思います。また私と同じタイミングでチーム・エトナのメンバーとなった飯島健二郎さんも高校の教師を辞められプロへ転向されましたが、それを聞いて私も気持が高まる思いがしました。

島田 世界の頂点を目指すトライアスリートのプロフェッショナルとして、その道へ最初に踏み出した中山さん、次いで山本さんと飯島さんは各々、将来を賭けたチャレンジだったと思います。その点、山下さんは郵便局の職員として独立されており、生活に対する心配りという点では少なくて済みましたね。

山下 確かに、すでに社会人として暮らしていましたから、むしろ問題は公務員という条件下で、どのように練習の時間をつくるか? 大会遠征のための休暇を如何に確保できるか? で、それなりに結構、大変でした。もとより中山さんや山本さんには勝てないと思っていましたから、その分、気は楽ですが、社会人として働きながら自分なりに納得のいく成果を出したいという気持を持っていました。いずれにしても、当時はバブル経済の絶頂期でしたから、仕事もスポーツも結構、思い存分に取り組めましたので、その点は有難かったですね。


USTSシカゴ大会に居並ぶチーム・エトナの5名(左から山本、横井、中山、飯島、山下の各選手)

島田 山下さんと同じエトナのメンバーの横井信之さんも、社会人として独立していました。その横井さんを加えてチーム・エトナは当初5名の選手で発足した訳ですが、彼らをチーム・メンバーに選んだのは、どんな理由からですか?

猪川 85年の第1回宮古島大会の上位選手、1位中山、2位山本、3位飯島、4位山下という順で選びました。また、横井君はスイムのスペシャリストとして抜擢し,当初、この5名が、その年の8月にUSTSシカゴ大会へ遠征、帰国後にチーム・エトナの結成を記者発表したのです。

島田 そしてUSTSの日本版として85年10月の開催に漕ぎ着けた第1回天草大会では、山下さんを除いて4名のチーム・メンバーが参戦しましたが、皆さんそれぞれに活躍されたこともあり、JTSもエトナも一躍、脚光を浴びましたね。

猪川 それというのもJTFの会長として招請された野球の長嶋茂雄さんの力が大きかったと思います。トライアスロンはまだ始まったばかりで、多くの方々がこのニュー・スポーツを知らなかった訳ですが、長嶋さんは日本国中、誰もがその名を知っていただけに、自ずとトライアスロンの知名度も上がりました。また、長嶋さんはトライアスロンを知らなくても、スポーツのエッセンスを良く理解されていたから、上手にトライアスロンを説明、宣伝されていました。

中山 長嶋さんのお陰で、トライアスロンも私達、選手の知名度も上昇していきました。まさしくトライアスロン・ブームの切掛けを長嶋さんがつくったといっても過言ではありません。第1回天草大会で私が優勝のゴール・テープを切った時、長嶋さんから花束を戴いたことが、今でも印象に強く残っています。

猪川 JTF会長として長嶋さんが51.5Kmのショート・ディスタンスを日本でも普及させていく原動力となりました。また、選手を始め大会主催者や役員・ボランティアなど皆のパーツが良く揃って、トライアスロンがブームに終わらずに普及、発展していったと思います。それと何よりもハワイのアイアンマン・レースが、世界的なレベルでトライアスロンの成長に強いインパクトを与えてきたことが、大きな底流にありました。


座談会の風景

島田 1978年に始まったハワイ大会の模様は『日本トライアスロン物語』序章で5回にわたって書き記されていますが、そのニュー・スポーツが2000年にオーストラリアのシドニー市で正式なオリンピック種目として開催される運びとなりました。ハワイの第1回大会の参加選手はわずか12名でしたが、それから22年という短期間でワールド・スポーツにまで発展したトライアスロンを、今日現在、改め振り返り、また選手として自分自身を顧みた時、どのような感想をお持ちですか? 

山下 私がトライアスリートとして活動していた頃は、仕事との兼ね合いも考慮しながら時間の許す限り、やるべきことは総てやったと思います。それにしても、トライアスロンの将来展望がまだ拓けない時に、無我夢中で情熱を注いだことに、感慨深いものを覚えます。そして、トライアスロンが後にオリンピック種目になり、今では中山さんや山本さんほかエトナの仲間達がトライアスロンを先導する指導者となっていて、私としても誇らしい思いです。ちなみに現在の私は、ウルトラ・マラソンやバイクのヒルクライムを妻と共に楽しんでいます。トライアスロンを引退して随分と時間が経ちましたが、本日、こうして久し振りに皆さんとお会いして大変、嬉しいですね。

山本 パート1でお話したように、山下さんとはバイクの練習パートナーとして切磋琢磨するなど、トライアスロンの道を突っ走ってこられたのは皆さん、先輩方のお陰だと感謝しています。トライアスロンを始めてもう32年になりますが、この間、エトナを始め多くのトライアスリートの皆さんと知り合うことができ、この巡り合わせを有り難く思っています。トライアスロンが始まった80年代のワクワクした思い出が今、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡っていますが、今日、こうして皆さんと一緒にテープルを囲みながら、トライアスロン黎明期の事を振り返ることができ、有り難く思います。

中山 80年前半の日本は、言わば焼け野原的な情況だったと思いますが、そんな中、楽しさも苦しみも皆で共有しながらトライアスロンのフィールドを創りあげてきたと思います。その後、私は選手としてピークアウトし、96年には引退宣言をして、オリンピックへの挑戦を諦めました。引退後は初代の日本ナショナルチームの監督としてトライアスリートを育成、強化する指導者として携わり、その後、ナショナルコーチとして日本の選手がオリンピックで活躍できるよう後方支援してきました。今後とも自分がその一助になれば幸せです。今日、ここにおられる方々とは大変、長いお付き合いになりますが、そのほか強化チーム・リーダーの飯島さんを始め、一緒に汗を流した方々とこれからも力を合せ、トライアスロンで培った知恵と力を生かしていきたいと思います。

猪川 あっという間に30数年が経ってしまいましたが、今、ここにいる中山君や山本君を見ていると、矢張り意志のあるところに道は拓けたのだ、という思いを強くしています。私もハワイ大会の審判を20年間、続けてきたのを始め、日本ではびわ湖や宮古島大会のお手伝いをし、またかつて勤めていた日本航空との関わりからサッカーのワールドカップに随行するなどJOCの活動に参画した経験を踏まえ申し上げると、特に両君にはトライアスロンの指導者として、選手の気持が解るより良い競技づくりを心掛けていって欲しいと思います。サッカーが今日ここまで発展してきたのは、単に大会を開催するとか、選手が活躍するだけの、言わば表向きのプロモーションだけでなく、ゲームを取り巻く裏方の人々のことも考えて競技運営を図ってきたからです。その意味で、ここにいる皆さんが今まで以上に、日本のトライアスロンを引っ張っていって欲しいと心から願っています。

島田 猪川さんが言われるように、次世代のトライアスロン界を担っていくのは皆さん方です。その意味で、これからは現場の指導に留まらず、大会開催に伴う環境整備や競技運営などについてトライアスロンをどのようにデザインしていくか、またJTUの組織を含め日本のトライアスロン界をどうマネジメントしていくか、将来を見据え取り組んで戴きたいと思います。

 さて、本日は皆さんのトライアスロンに対する熱い想いを沢山、語って戴き、同じ草創期に携わった者同士、心温まる思いが致しました。ここに集まった皆さんはトライアスリートとして日本の第一線で活躍された方であり、なお今もトライアスロンの指導者として精力的に取り組んでおられますが、どうぞこれからもトライアスロンをより拡大、発展させるべく、更なる健闘と活躍をお祈りし、座談会を終えることにします。


座談会後に記念撮影。左から中山氏、中山氏の子息、山本氏、猪川氏、山下氏、島田氏

【出席者プロフィール】順不同

猪川 三一生 1955年北海道旭川市出身。会社員。
81年第1回皆生大会17位、83年アイアンマンハワイ日本人3位、85年第1回びわ湖大会47位。
「チーム・エトナ」監督、宮古島大会アドバイザー、びわ湖大会マーシャル・リーダー、アイアンマンハワイ大会マーシャル。
現在は妻と子供3人の父親として静岡県熱海市で暮らす。
趣味・スポーツはゴルフ、クラシック音楽、旅行。

 
 山下 光富 1958年香川県出身。郵便局員。
84年第4回皆生大会15位、85年第1回宮古島大会4位、87年第1回オロロンライン大会2位。
現在は妻と2人で千葉県松戸市に暮らす。
スポーツはバスケットボール、テニス。

 
 中山 俊行 1962年神奈川県出身。三和運輸㈱代表
84年第4回皆生大会優勝・アイアンマンハワイ大会17位、85年ニュージーランドアイアンマン大会6位・第1回宮古島大会・第1回天草大会優勝、86年第2回宮古島大会・第2回天草大会優勝、89~96年ITU世界選手権日本代表。
JTU強化チーム・次世代強化リーダー。
現在は妻子と共に横浜市で暮らす。
スポーツはトライアスロン、格闘伎。

 
 山本 光宏 1963年東京都出身。㈲J-BEAT代表。
85年~87年・95年アイアンマンハワイ大会で日本人トップ、88年第4回宮古島大会優勝。
JTU事業広報チーム・コーリーダー、TOTO陸上競技部コーチ。
現在は妻と子供2人と共に東京都多摩市で暮らす。
趣味は魚釣り、デザート作り。

 
 島田 文武 1946年東京都出身。作家。
86年第1回JTS仙台大会・87年第3回宮古島大会・88年ワールドカップ・ゴールドコースト大会・90年第10回皆生大会(いずれも下位で完走)。
元JTU副理事長(競技本部長)、西伊豆トライアスロン実行委員長。
現在は妻と共に千葉県東金市で農業を営み暮らす。
趣味・スポーツは、野菜作り、サイクリング。

【エピローグ】

『日本トライアスロン物語』完結の御礼

 日本のトライアスロンの歴史をヒューマン・ドキュメンタリー・ドラマとして、出来る限り史実に基づいて解き明かしていこうという趣旨で書き始めた『日本トライアスロン物語』の連載が始まったのは2003年春でしたが、それから早くも12年の歳月が経ち、連載は54回を数え、そのボリュウムは単行本にして2冊分に相当すると思われます。
 この間に取材した人々は、<トライアスロン談義>で登場した諸氏を始め選手や大会役員・ボランティア、トライアスロンのクラブやチーム、組織等およそ100名余にのぼり、例えば日本人として初めてハワイのアイアンマン大会に参戦した熊本の永谷誠一氏とは正式取材だけで3回、インタビュ時間にして10時間以上、或いは日本のトライアスリート第一人者として活躍された中山俊行氏とは今回の座談会を含めインタビュ取材3回、同8時間以上にも及んでいます。
 そしてこの『日本トライアスロン物語』は、トライアスロンがハワイで発祥した序章(4回連載)の部分を除くと、日本人8名が1981年2月に参戦したハワイ大会から8510月の天草大会までの、わずか5年間の歴史を記しただけに過ぎませんが、実はこの期間こそ大会・組織・競技形態の全てを含め、我が国トライアスロンのエスキスが凝縮されていた黎明・興隆期の時代だったのです。今日ある日本のトライアスロンの姿は、この5年間に培われたものといって過言ではありません。
 この歴史のコアの部分を日本のトライアスロンの大きな流れとして書き記すことが出来、ここに完結し得たことに筆者としてささやかな喜びを感じております。そしてまた、この間に我が国トライアスリートや大会関係者を始めジャーナリストやJTU(日本トライアスロン連合)など組織や企業の多くの方々にご協力とご援助を戴いたことに、感謝の念と心からの御礼を申し上げたく存じます。
 当初は編集委員会メンバーが調査、研究を重ねつつ、交代で取材、執筆していく積りでしたが、結局、私こと桜井が単独で書き続けることになり、今日に及びました。しかし、この間、編集委員会メンバーの方々には様々な情報の提供やアドバイスを戴き、そのお陰で史実を歪めることなく歴史の奥深いディテールを感得したことは、この物語を執筆する上で大きな指針となりました。
 また取材に際しては、この連載記事の<トライアスロン談義>で採り上げた方々はもちろんのこと、それ以外のトライアスリートやボランティア、大会主催者、ジャーナリスト、JTUなど、あまねくトライアスロン関係者の皆様に貴重なお時間を割いて戴き、かつ有益なお話を賜りましたこと、何よりも有り難く、ここに慎んで御礼を申し上げます。これら沢山のインタビュー・ゲストの有意義な証言が得られなかったならば、日本の重要な史実が明るみにされることなく、そのまま埋もれてしまっていたかも知れません。
 そして何よりも、この永きに亘る連載記事を丁寧に編集制作され、記事掲載に惜しまぬ努力を傾注されたマルチスポーツ・マガジン誌『TRI―X』を主宰されるネオ・システム㈱代表取締役社長の清本 直氏、並びに代々の編集スタッフの皆様には甚大なるご協力とご理解を賜りましたこと、改め心から感謝の念を表する次第です。12年間に及ぶ清本氏の後援があったればこそ、私も勇気づけられ執筆活動を続けて参りました。
 しかしながら、私の勉強不足や時間的制約もあって、満足すべき取材、執筆がすべて出来た訳ではありません。よりもっと多くのトライアスリートやトライアスロン関係者のお話を採り上げたかったし、さらに突っ込んだ歴史の内奥に踏み込みたいとの気持も残されております。しかし、それは今後の課題として、ひとまずこれで一旦、筆を置くことと致します。長い間のご購読、誠に有り難う御座いました。

2015年5月

『日本トライアスロン物語』編集委員会主幹、スポーツ・ジャーナリスト  桜井 晋

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