しかし何よりも悲しかったことは日本選手が健闘しなかったことではない。トライアスロンの世界選手権でありながら、過去に海外で開催された世界選手権と比較して、余りにも寂しかったことだ。そして毎年開催されているワールドカップ蒲郡大会よりも寂しい大会となっていたことだ。
レースの内容は、日本選手が惨敗したとはいえ、各選手はそれぞれに健闘し、自分達のパフォーマンスを見せてくれた。確かに世界には及ばない結果ではあったが、勝負は時の運でもあるから、それを非難するつもりはない。男子エリートではP.ロバートソン(AUS)が感動的な復活劇を見せる。女子エリートでもE
.スノーシルとA.ラックスフォード(AUS)の2名がオーストラリアの新しい夜明けを告げるべく世界ランキング1位&2位の実力を遺憾なく発揮してワン・ツーフィニッシュという「世界一」を決めるに相応しい内容だった。
しかしながら会場の観客数は少なく、盛り上がりにも欠けた事実はトライアスロンの衰退すら感じさせるものだった
。「愛・地球博」と重なったことにより宿泊施設の獲得困難などに始まり、エリートとエイジグループとを完全分離してしまったことにより一般アスリートの興味を失ったこと。同日にわずか数十キロ離れた場所で伊良湖大会が開催されたことで中部地区トライアスリートの多くがそちらに参加して、観客数が激減したこと。原因は数多くある。
辛かったのはトライアスロンに係わる業務をしている人たちから「トライアスロンの世界選手権ってこんなものなの?」と言われて返す言葉が見つからなかったことだ。
現場で動く関係者は、世界選手権の開催決定後、一生懸命にこの大会の成功を願い働いてきてくれた。睡眠時間もロクに取れない状況でやっと開催にこぎつけたのだ。しかし、その結末は余りにも寂しい。
なぜ、この時期に世界選手権を開催したのか?なぜ、開催しなければならなかったのか?
伊良湖大会の同日に、選手層の薄い日本選手の中で有力選手がアテネ五輪の燃え尽きた状態から回復しない五輪翌年
に。衆議院選挙と同日になってしまったことは不運としか言いようがないが。
残念ながら、「トライアスロンをメジャーにする」というよりは「トライアスロンの衰退」を一般人に見せてしまう
結果となった。厳しい見方かもしれないが私はそう感じている。
今の日本という大きなレベルで考えた場合、政治と生活をしている一般市民との温度差は大きい。しかし、もっと小さなトライアスロンという世界の中でも、上層部と一般アスリートの温度差も大きいことが改めて確認されてしまった。
さて、ここからどうやって名誉を回復させるか。トライアスロンに係わる役員、関係者、選手、それぞれに大きな課題だ。
失敗することは仕方が無い。しかし、それを誤魔化そうとせず、失敗を失敗と認め、それを反省して次への教訓とする。練習で選手にはそう教えている。
トライアスロン界が今後どう進むか。復権を賭けて全員が戦って欲しい。
(写真)
蒲郡大会の一コマ
「スタート前の緊張の一瞬」
「活躍が期待された山本良介だったが」
中山俊行プロフィール
中山俊行(なかやま としゆき)
1962年生まれ
日本にトライアスロンが初めて紹介された18歳のときトライアスロンを始める。
日本人プロ第1号として、引退までの間、長年に渡りトップ選手として活躍。
引退後も全日本ナショナルチーム監督、チームNTT監督を歴任するなど、日本のトライアスロン界をその黎明期からリードし続けてきた「ミスタートライアスロン」。
【主な戦績など】
第1回、第2回 宮古島トライアスロン優勝
第1回、第2回 天草国際トライアスロン優勝
1989年から8年連続ITU世界選手権日本代表
アイアンマン世界選手権(ハワイ・コナ)最高順位17位(日本歴代2位)
初代・全日本ナショナルチーム監督
元・チームNTT監督
元・明治大学体育会自転車部監督