日本のトライアスロンシーンを引っ張ってきた一つの大会が幕を閉じた。
20年目を迎えたこの大会は諸々の事情の中で終わりのときを迎えたのだ。
日本海オロロンライン・トライアスロン国際大会。
SWIM2km、BIKE200.8km、RUN41.8kmとバランスに偏りはあるものの国内最大規模の大会であった。
国内有数のロング大会、北海道最大の大会がまた一つ消え去った。
最後の大会ということで練習をしていないにも係わらずレースに参加することを決めた。
とにかく一度この大会に参加してみたかったことが最大の理由であるが、自分が選手指導をするに当り、「辛さ」「苦しさ」「壁」をどうやって乗り切らせるか自身の体を通して、再確認をし、勉強するためでもあった。
また、この大会のBIKEコースは1993年に私がツール・ド・北海道(優勝は今中大介)に参戦したときの最終ステージのコースの一部であったことも理由の一つだ。現役時代を思い返しながら走ってみたかった。
レース結果は述べるに値しない。完走するのが精一杯であった。
しかし学んだことは多い。再確認できたことは多い。
男子では日本最強のエイジグルーパーの一人・濱野隆弘が優勝。4年連続2位から最後に執念の勝利をもぎとった。ビジネスアスリートでありながらも土壇場で結果を残す精神的な強さをエリート選手は見習ってほしい。勝利への執念をみせてもらった。
「勝つべきときに勝つ」。これができる選手は多くない。
女子は村上純子が破竹の10連覇。男子を含めた総合でも4位に入る。プロ引退してなおこの強さ。BIKEで抜かれるときは追走する気持ちすら起こさせないスピードだった。
今泉奈緒美や塩野絵美には、是非現役時代の彼女を超えてほしいものだ。それこそがハワイ・アイアンマンでの表彰台に直結するからだ。
ロングに限らず大会は交通規制や、膨大なボランティアの確保、予算、準備など、開催するには困難が多い。それでも何とか持ちこたえて主催者や地元選手達の熱意によって支えられてきた。
しかし大会がなくなれば選手も減少する。
選手がいなくなれば競技は廃れる。
一般公道を使用できる道内の大会はなくなってしまうと聞く。
この問題は北海道だけの問題ではない。日本の中でトライアスロンがどこへ向かって進んでゆくのか。参加選手のマナーや大会主催者の姿勢が問題視される昨今、他人事とはいえないだろう。
少子化と共に参加者離れが囁かれるトライアスロン。選手が自分のことだけを考えていると大会自体が存続できなくなる可能性もあることを覚えておこう。
トライアスロンを楽しむために、今一度、我々が大会に参加する意義を考えてもらいたい。
(写真1)左
大会の朝にパンク発見。事前準備の悪さは、本番で、その本人に天誅が加わる。
助けてくれたのはご存知メイストームの大西店長。東京からわざわざ出張修理!
(写真2)右
男子優勝者の濱野隆弘。大会直前に風邪を引き体調不良の状態で参加。
しかしレース前には一切言い訳などすることなく参加。そして優勝。
(写真3)左
驚異の女子トライアスリート・村上純子。
ハワイ・アイアンマンにおいて女子エリートで表彰された経験を持つ唯一の日本人女子選手。自転車競技においては世界選手権ロード日本代表にもなった経験も持つ。
(写真4)右
オロロン大会の名物でもある風車。BIKEコースでもあり、RUNコースでもある。
この地が強風の地であることの証明。しかし今年は幸いなことに風が弱かった。
中山俊行プロフィール
中山俊行(なかやま としゆき)
1962年生まれ
日本にトライアスロンが初めて紹介された18歳のときトライアスロンを始める。
日本人プロ第1号として、引退までの間、長年に渡りトップ選手として活躍。
引退後も全日本ナショナルチーム監督、チームNTT監督を歴任するなど、日本のトライアスロン界をその黎明期からリードし続けてきた「ミスタートライアスロン」。
【主な戦績など】
第1回、第2回 宮古島トライアスロン優勝
第1回、第2回 天草国際トライアスロン優勝
1989年から8年連続ITU世界選手権日本代表
アイアンマン世界選手権(ハワイ・コナ)最高順位17位(日本歴代2位)
初代・全日本ナショナルチーム監督
元・チームNTT監督
元・明治大学体育会自転車部監督