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第37回「ゴッドハンドから学んだもの。その1」

「白石宏」氏
「ゴッドハンド」の異名をとるスポーツ・トレーナーだ。
日本において「スポーツ・トレーナー」という名称を日本に認知させ、職業化させた偉大なる先駆者である。そして私の尊敬すべきトレーナーでもある。
先日、白石宏トレーナー活動30周年記念パーティーが開催された。過去に、現在に治療を受けた芸能人、スポーツ選手、特殊技能の持ち主など多くの人たちが出席した。
ドーハ・アジア大会と重なってしまったために、参加できない現役選手、指導者も数多く居たが、それでもパーティーは大変な盛り上がりを見せた。
プロ選手、五輪メダリスト達それぞれと白石トレーナーとの出会い、治療、指導など、普段では聞けないような貴重な話を聞くことができ、私自身大変な勉強になった。

「ヒーロー工房」。この名前を知っているトライアスリートは、今となっては数少ないと思う。選手時代、私が所属したチームである。白石宏トレーナーとスポーツライター小林信也氏が主謀するチームであった。
「日本人の世界チャンピオンを育てよう。オリンピック金メダリストを作り上げよう。」という主旨のもとに多くのスポーツ選手と関わり、その活動を支え、目標を達成してきた。私は幸いにもその一員として迎え入れられ4年に渡り行動を共にしてきた。
結果的に私は世界の頂点に到達することはできなかった。
なぜ、世界一になれなかったか、今ならその理由は明確に判る。以前のコラムで書いてある。最大の理由は、コーチや指導者の苦々しいアドバイスを素直に受け入れることができなかったからだ。練習量では誰にも負けないぐらい実践した。しかしながらそれに伴う精神的な成長がなされていなかったのだ。

確かに、その時代にはトライアスロンのトレーニング方法など確立されていない。自分以上にトライアスロンを知る人間など国内には存在しないと自負していた。練習方法は試行錯誤の時代であった。指導者、コーチといってもトライアスロンの経験などゼロだった。
だが「ホンモノを見分ける目」「頂点に立つための必要条件」をコーチ、指導者は知っていた。
残念ながら、その時の私はその能力を有効に使うことができなかったのだ。
種目は違えど「世界」を知るスタッフ達からの冷静で、的確で、耳に痛いアドバイスを受け入れ、トレーニングに生かすことができなかった。もちろん、その当時は自分にはそんな自覚はなかったが。
指導者となって、改めてあの時の自分を思い浮かべると、今まさに日本男子が世界で勝てない状況と非常に類似していることが判る。

現在のトライアスロン男子エリート選手は私など及ばないほどの才能に溢れた選手がたくさん存在する。世界を目指すチャンスを手にした選手達には、私のような回り道などせず、まっすぐと「世界一」に向かって突き進んで欲しいと思う。一日も早い精神的な成長を望む。

「世界で頂点に立つ選手」「近づけた選手」「届かなかった選手」の違い。世界レベルの選手と日本レベルの選手との違い。どれもみな強い選手ではあるが、その間にある違いを感じることができるようになったのは、ヒーロー工房時代の貴重な体験があるからだ。

言葉ではないものを多く教えてもらってきた。

34これが白石トレーナーだ。
飽くなき向上心をもち今も進化し続ける神の手を持つトレーナーだ。
この優しげな表情が選手の身体と心を治療する。

34_2「トライアスロン・チームTARZAN」の元メンバー+中西選手。現在のJTU山倉紀子理事もここがスタート地点だった。白石トレーナーの指導の下、素人からハワイ・アイアンマン完走までトレーニングを積んだ

中山俊行プロフィール

中山俊行(なかやま としゆき)
1962年生まれ
日本にトライアスロンが初めて紹介された18歳のときトライアスロンを始める。
日本人プロ第1号として、引退までの間、長年に渡りトップ選手として活躍。
引退後も全日本ナショナルチーム監督、チームNTT監督を歴任するなど、日本の
トライアスロン界をその黎明期からリードし続けてきた「ミスタート ライアス
ロン」。

【主な戦績など】
第1回、第2回 宮古島トライアスロン優勝
第1回、第2回 天草国際トライアスロン優勝

1989年から8年連続ITU世界選手権日本代表
アイアンマン世界選手権(ハワイ・コナ)最高順位17位(日本歴代2位)
初代・全日本ナショナルチーム監督
元・チームNTT監督
元・明治大学体育会自転車部監督

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