次回はもっと短い名称を希望する(笑)。
大会は、世界遺産にも指定された、日本三景「安芸の宮島」と言われる驚くべき場所で開催された。
地元関係者の数年に渡る努力の結晶である。
SWIMスタートは厳島神社の大鳥居の前。普段は遊泳禁止だから、参加者は「あの鳥居」の下を泳ぐという貴重な体験ができた。私もスタート前に鳥居の下でじっくり鳥居観察。
BIKEは最大斜度が12%を越えるような坂を含む70%以上が登りというコース。下りであっても厳しいコーナー、荒れた路面という、タイム差を付けることが可能なハードなコースが設定されていた。天気予報がずれて雨が降らなくて落車する選手がほとんどいなくて何よりだった。個人的には降ってくれた方が楽しかったかもしれない。
「技術」を発揮できる数少ない貴重なコースだ。
RUNに関しても、20kmのコースのうち平地はせいぜい1~2km程度。過去10年以内にトライアスロンを始めた選手であれば経験したことにないような厳しいコース設定となっていた。本当によく登って、よく下った。
感動したのは沿道での観客の多さ。1985年に開催された、第1回宮古島大会、第1回天草大会などを彷彿させるような大勢の観客が沿道に集まり「トライアスロン」という訳の判らないスポーツを応援してくれた。
地元の方々に感謝。
トライアスロンが日本で普及し始めた1980年代を思わせる「コース設定」「観客」「運営」であった。
来年の第2回大会が開催できることを心から望んでいる。
レースは地元広島出身の「福元哲郎」が優勝。女子は招待選手の「八代純子」が勝った。
一番私が感じたのは「このコースで福元選手に勝てる、エリートと呼ばれる男子選手が何人存在するだろうか?」ということ。前回のコラムでも書いたが、小手先の技術に走り、ドラフティングに甘んじBIKE走力を落とし、速さは身に付いたが強さを忘れてしまった選手達。
来年の北京オリンピック選考会に出場する前に、このコースで戦わせてみたいものだ。ここで生き残った選手であれば、多少の苦難など乗り切れるだろう。その上で、世界選手権、アジア選手権を戦い代表の座を勝ち取ってほしいと思う。
本当に「強くて速い選手」に我々全てのトライアスリートの代表となってほしい。
(写真1)左
藤原裕司(写真左、3位)に質問した。ロングで若手が育たないのはなぜだ?
即答「覚悟がない」。・・・感じることは一緒だった。
(写真2)右
前夜祭、表彰式の盛り上がり方も80年代のノリ。地元広島「マルキ鉄人会」の面々。
一番右の坂根選手は50歳代の部1位。
(写真3)左
カメラマン桧山氏の「広島風お好み焼きの食べ方講座」。トライアスロンに20年以上係わっているプロカメラマン。昔の「ワールド・トライアスロン広島大会」も過激なコースで撮影し甲斐があったが、今回もカメラマンとして充分に楽しめた、とのこと。
(写真4)右
ここ広島には私にとっての「虎の穴」がある。新宿の東京診療所と、ここ広島の本院には数え切れないほどの多くのアスリートが訪れる。怪我の治療と共に、心を癒し、そして死ぬほどの練習をした。
当時、トレーナー曰く「練習して死んでしまうとか言う選手がいるけど、本当に死んだ選手を見た事ないから大丈夫。まだできるよ!」・・・暖かい(?)励ましの言葉だ。
中山俊行プロフィール
中山俊行(なかやま としゆき)
1962年生まれ
日本にトライアスロンが初めて紹介された18歳のときトライアスロンを始める。
日本人プロ第1号として、引退までの間、長年に渡りトップ選手として活躍。
引退後も全日本ナショナルチーム監督、チームNTT監督を歴任するなど、日本の
トライアスロン界をその黎明期からリードし続けてきた「ミスタート ライアス
ロン」。
【主な戦績など】
第1回、第2回 宮古島トライアスロン優勝
第1回、第2回 天草国際トライアスロン優勝
1989年から8年連続ITU世界選手権日本代表
アイアンマン世界選手権(ハワイ・コナ)最高順位17位(日本歴代2位)
初代・全日本ナショナルチーム監督
元・チームNTT監督
元・明治大学体育会自転車部監督